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 2月 4日(水)
   大津事件(1)

  今回は1891年。
 大日本帝国憲法が発令された二年後。
 法治国家としてデビューしたての頃のお話です。

 列強が東アジアを植民地のターゲットとしていた例に漏れず、帝政ロシアも東アジアを虎視眈々と狙っていました。

 その準備の一つと言われていたのが「シベリア鉄道」
 今まで東アジアには船じゃないと来れなかったのが、ウラル山脈(ロシアとヨーロッパの境)からウラジオストク(日本海沿岸)まで、列車で大陸横断できるんだから、これは驚異

 日本をはじめ、東アジア各国にとって驚異なのは言うまでもないが、大英帝国のように海洋国(海に囲まれた国)にとっても、船の有利性が薄くなってしまうので、これまた驚異

 こんなこともあって、共通の驚異である帝政ロシアに対抗するため、日本と大英帝国は仲良くなっていくわけですが、これはまた、別のお話。

 このシベリア鉄道を作り始めようという時代が今回の舞台です。


 当時の日本にとって、一番驚異だったのが帝政ロシア
 一番近くに位置する列強で、国土も戦力も比べるのが嫌になるくらい大きな国です。

 幕末にはロシア艦が北海道付近の島々を襲って拉致&放火&略奪したという話もあるくらい、生活密着型の驚異なものですから、帝政ロシアに対する日本人の恐怖は根強く残っていました。

 とはいえ、怖がっていてもしょうがありません。
 出来るだけ仲良くなって、攻められないようにしよう。
 そう日本は考えました。

 ちょうどその頃、シベリア鉄道の起工式(作り始める時のセレモニー)に参加するため、帝政ロシアの皇太子ニコライはウラジオストクに向けて移動中。

 それなら、そこからちょいと足を延ばしてもらって、日本に招待しよう。
 そこで好感度アップされることが出来れば、帝政ロシアも日本に対して大人しくなるのでは?

 そんな訳で「遊びに来ない?」と誘ったところ、「いいよ」とのお言葉。
 こうして帝政ロシア皇太子ニコライの訪日が決まりました。


 帝政ロシアだって、どうせ行くなら自分が強いところを見せておいた方が、今後有利になると思ってますから、当然、交通手段は軍艦です。

 予定は長崎に入港、そこから鹿児島、京都、東京、仙台、盛岡、青森を訪れ、ウラジオストクへ向かう(帰る)というルート。

 入港した軍艦は3隻。
 その後神戸に4隻が入港し、7隻の軍艦が日本にやってきました。

 その軍艦のでかいことでかいこと。
 それらの軍艦を先導していた日本の軍艦に比べ、トン数でおよそ3〜5倍以上。

 シャレにならない大きさです。

 やっぱりロシアは怖い。日本国民はそう感じます。

 そうなると、いろいろな噂が飛び交い、やれ「日本に対する武力誇示だ」(それもある)だとか、「軍事偵察のためだ」(あるかもしれない)とか、いろいろ憶測が流れます。

 実際、当時の駐日ロシア公使が条約で軍艦が入港できる場所が決まっているにも関わらず「皇太子一行の軍艦は、どこの港にもフリーパスね。」と言い出し、日本がこれを断ると、「じゃ、大砲撃つよ?」脅される始末なので、そう感じるのも、もっともな話。

 結局、この要求を日本は飲むことになります。

つづく


 3月23日(火)
   大津事件(2)

 とはいえ、何より大事なのは両国の親睦。
 ニコライを国賓として最上級のおもてなしをするべく、準備を進めていきました。

 各地での盛大な歓迎ぶりはもちろん、京都では、いわゆる「大文字焼き」を披露。
 ニコライ皇太子の感触も上々です。

 ところが、ニコライ皇太子が京都から大津に出て、琵琶湖を周遊した帰りに事件が起こりました。

 なんと、警護にあたっていた警官が、突然サーベルを抜刀。
 ニコライ皇太子に斬りかかります。

 ニコライ皇太子、頭を切られて大出血です。

 その警官曰く「調子にのるなロシア」(原文:彼ノ心ヲ寒カラシメントセリ)との事。

 周りだって黙って見てません。

 ニコライ皇太子は人力車で移動していたのですが、その車夫(人力車を引っ張る人)がその警官に向かって猛烈なタックル。

 体勢を崩し落としたサーベルを別の車夫が拾って、その警官の背中を切りつける。

 ほかの警護ぽかーん。というパーティーアタックで撃破。
 その警官を逮捕しました。


 この事件の知らせは1時間後には明治天皇の元に届きました。
 早速、政府要人を集めて御前会議です。

 ロシアが怒って宣戦布告ということも予測されます。
 そうなっては正直勝てない。

 っつーか、勝てる勝てないという次元以前に、今来ている軍艦7隻だけでも主要都市を火の海に出来るだけの能力がある。

 負ければ、良くて属国、植民地にされることも十分考えられ、戦争までいかなくても、賠償として、千島列島あたりの領土を持ってかれるかもしれない。

 日本、ピンチ中のピンチです。

 とりあえず見舞いにいって謝ろう。
 明治天皇はそう決心しました。

 メンバーは明治天皇をはじめ、主要大臣。

 京都のホテルで手当を受けているニコライ皇太子に、大臣達がお見舞いと謝罪を求めても「面会謝絶です。」と突っぱねられ、明治天皇が「大丈夫?」と電報を何度か打ってもなしのつぶて。

 そうとう怒ってるのかも・・・

 この先、いったいどうなってしまうのでしょうか?

つづく


 4月30日(金)
   大津事件(3)

 結局、明治天皇がニコライ皇太子を見舞うことができたのは翌朝。

 「体調が戻ったら、予定通り東京をはじめ、その他の土地を見て回って下さい。」と明治天皇は頼みますが、ニコライ皇太子は「東京に行くかどうかは、本国(帝政ロシア)の父皇帝の指示に従います。」とのお返事。

 ここで、ニコライ皇太子が旅をやめて帰る。なんて話になれば、帝政ロシアとの国交はおろか「皇太子が安全な場所に来たから、はい戦争」という状態にもなりかねません。

 依然ピンチな状態が続きます。日本。

 ところが、お見舞いの後、ロシア皇帝から明治天皇に電報が届きます。
 「とりあえず、大事に至らなかったのは何より。いろいろ手間をかけた。」とのこと。

 とりあえず、今のところ、すぐ戦争という状態だけは避けられたっぽいです。

 また、国民の間でも、この事件は大きな話題となりました。

 明治天皇にならって、自分達国民も、お見舞いしなければ。とか
 学校は謹慎(言動を反省し、おこないをつつしむこと)のため休校する。とか
 神社、寺院、教会では、ニコライ皇太子が元気になるように祈祷したり。とか
 見舞いは無理なので電報を送る。などなど、色々な行動をする人が現れました。

 特に見舞電報は1万通を超えたそうです。

 中には「私が死んで詫びるから、ニコライ皇太子殿下は、そのまま滞在して下さい。」自殺する女性まで現れました。

 日本の誠意が通じたのか、ニコライ皇太子は予定通り東京に行きたいと言いだし、ロシア皇帝もそれを許したのですが、駐日ロシア大使が猛反発。

 ロシア皇后を巻き込んで、3日後には日本から離れることになってしまいました。

 それじゃぁ、せめて午餐(昼食会)を。と明治天皇が誘うも、駐日ロシア大使がやっぱり反対。
 それなら、と、逆にニコライ皇太子が明治天皇を「ロシア軍艦上での午餐」に招待します。

 今度は日本側が反対。
 「そりゃ、拉致るき満々だろ?」と周りは止めるのですが、明治天皇はその招待を受け入れます。


 結局、何事も無く午餐は終了。
 明治天皇が軍艦を離れた後、ロシア艦隊はウラジオストクに出航しました。

 また、この事件についての賠償も、日本の誠意ある態度にロシア皇帝も皇后も満足しているので、一切要求しないということになり、日本も一安心です。

 冗談抜きで「日本滅亡の危機」は(ひとまず)去りました。

 この一連の事件を「大津事件」といいます。

 また、余談ですが、この大津事件の際、犯人逮捕に協力した2人の車夫(タックル車夫とサーベル車夫)も、ロシアの軍艦にお呼ばれしています。

 明治天皇の招かれた軍艦とは別の軍艦なのですが、そこに法被(ハッピ)に股引(モモヒキ)という格好(車夫の格好)で参上。

 ふたりにニコライ皇太子みずから神聖アンナ勲章を渡したそうです。
 副賞は2500円+年金として1000円。
 現在の価値に直すと、八千倍位の価値でしょうか。

 その後日本政府からも勲8等白色桐葉章と年金36円が与えられ「帯勲車夫」と呼ばれるようになりました。

 さて、これで大津事件も一段落したかのように見えますが、重大な問題が残っています。
 ニコライ皇太子に危害を与え、日本を滅亡の危機におとしいれた警官を、どう処罰するか?という点です。

つづく


10月19日(火)
   大津事件(4)

 さて、帝政ロシアの皇太子をぶった切ってしまった警官の処分をどうするか?

 と、いっても日本は当時から「法治国家」ですから、当然、法に基づいて処分することになります。
 当たり前ですね。

 法治国家じゃないと世界に認められないってんで、わざわざ大日本帝国憲法まで作ったんですから。

 そんな訳で、当時の法律の中から「他国の皇太子をぶった切った場合こういう罰を与えますよ」という条項を探してみます。

 結論からすると、見つかりません。
 法律の不備と言ってしまえば、それまでですが、予想外の事だったんですね。

 ただし、日本の皇族に危害を加えた場合の罰則規定はありました。
 当時の刑法では「死刑」です。

 ところが、一般人相手に危害を加えた場合、最大でも「無期懲役」


 この警官にどちらの刑を与えるか?これが大きな問題として、クローズアップされました。

 ロシアからすれば、自国の皇太子を殺そうとしたのだから、これは死刑に大決定でしょう。
 日本からしたって、危うくロシアと戦争になるかもしれない状況に追い込んだ大罪人ですので、死刑にしたって飽き足らないくらいです。

 っていうか、死刑にしなけりゃ、ロシアが怒って攻めてくることだって十二分に考えられます。

 実際、ロシア公使に「日本の法律では、自国の皇族以外に危害を加えても、最高で無期懲役なんですよ。」と説明したところ、「ふーん、終身刑でもいいけど、その時は覚悟しておいてね。」と言われる始末。

 日本政府としては、ここはどうしても死刑にしたいところ。

 「法律で死刑に出来ないなら暗殺しては?」と言う大臣まで出る始末(後で、伊藤博文に「法治国家をなめんなよ」と怒られる。)


 当時の司法大臣は、当時の刑法116条「皇族に危害を加えたり、加えようとしたら死刑(意訳)」「皇族」という部分をロシア皇太子にも適用させれば、死刑にできる。

 だからもう、殺っちゃおうよ!と考えましたが、大審院(今でいう最高裁判所)の院長は、「そりゃ無理。どう考えても、そこの皇族は、自国の皇族のこと。」と、突っぱねます。

 そういわれても政府としても困っちゃいます。
 当時の総理大臣も大審院院長に「死刑にしないと困る。」と泣きつきます。

 しかし、院長は「そりゃ、俺だって彼奴(警官)は八つ裂きにしても飽き足らないが、日本は法治国家だ。法は守らなきゃならん。」と、取り合いません。

 院長だって、考えがあります。
 日本の目標である不平等条約の改正。

 これを実現するために、日本は、政府の都合によって、ころころ処罰が変わるような「野蛮な国」では無く、法律に基づいて処罰する「法治国家」にならなければならない。
 それに相手の対応によって法律を曲げていたら、各国になめられる。

 院長はそう考え、総理や司法大臣にその旨の意見書を提出しました。


 警官を死刑にしなければ、ロシアと戦争。
 かといって、法を曲げて死刑にすれば、「やっぱり日本は野蛮な国だ」と見られ不平等条約の改正は遠のく。

 もう、なんかいつものことのような感じもしますが、日本、大ピンチです。

 最終的に、判決は「無期懲役」
 日本は法治国家の道を選びました。

 ロシアの外務大臣に、その事を説明したところ、怒る怒る。
 そういわれても、日本の法律では、これが限界だから、その点を理解して欲しい。
 日本もそういって、押し通します。

 ロシア皇帝も「日本の法律だからしょうがないとは思うが、この結果は日本の利益になってないと思うよ?」と牽制してきます。

 結局、日露関係は微妙になってしまったものの、即戦争という状態だけは回避することができました。ラッキー。

 結果から言えば、大国帝政ロシア相手に「法律がこうだから」と対抗した日本は、世界中に「法治国家」であることをアピールできました。

 こうして、少しづつ困難を乗り越え、日本は近代国家の道を歩んでいくのでした。

つづく



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日本と戦争、ペリー来航、日本の目標、華夷秩序、領土
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列強 大英帝国、大英帝国 vs 清
朝鮮の近代化、朝鮮版明治維新、脱亜論−朝鮮密約編
脱亜論−北洋艦隊編編、メキシコとの国交
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