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8月29日(金) |
脱亜論−北洋艦隊編
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清はイライラしていました。 最近、日本は生意気だ。 人の土地(朝鮮)にちょっかい出したり、勝手に西洋化したりと、秩序というものを判っていない。 一度、ビシーッと思い知らせてやらんといかんな。 とはいえ、他の国も我が国にちょっかいを出してくる。 ここは一つ、軍隊を強くしなきゃならないだろう。 欧米の軍は、なかなか強い。 だが、あれは武器が強いのだ。 と、いうことは、欧米の武器を買えばいい。 清の優れた制度に欧米の強い武器。 うむ、これは強い。そうしよう。 こうして、清は軍艦を中心とした軍事技術を取り入れます。 特に「定遠」「鎮遠」いう軍艦はドイツ製で、後に「東洋一の堅艦」と言われるほどの一品。 船もでかけりゃ大砲もでかい。 他にも大小合わせて約50隻の軍艦をゲット。 清も大満足です。 これらの艦隊を「北洋艦隊」、このように清が欧米の軍事技術を取り入れたことを「洋務運動」といいます。 清の恐ろしさを日本に理解させるため、さっそく日本に見せびらかしに行きます。 名目は「親善訪問」ってことにでもしておいて、ご自慢の定遠、鎮遠を含んだ数隻の艦隊で日本にGO! 所変わって、こちらは日本。場所は横浜。 清の艦隊が「親善訪問」ということで、東京湾に入ってきました。 さすが清の北洋艦隊、船も大砲もでかい。 「大艦巨砲主義」ってやつか? 戦うとしたら、どうやって戦ったもんかなぁ・・・ 日本もさすがにビックリです。 北洋艦隊は呉にも来ました。 名目は「親善訪問」に加えて「ちょっと船の調子が悪いんで、港に入って修理させてくれないか?」とのこと。 勿論、修理は建前で、呉軍港の地形や軍の配備などを調査するのが目的です。 軍艦6隻で大砲向けられては断るわけにも行きません。 結局、入港を許可します。 この時、呉の守りについていたのが、かの有名な「東郷平八郎」 当時は呉鎮守府で参謀長を務めていました。 当然、清のご自慢の軍艦、定遠を観察しに行きます。 東郷さんもビックリしました。 その大きさではなく、「主砲に洗濯物が干してある」ことに。 しかも甲板では、煙草のポイ捨てまでしています。 日本人にとって、刀をはじめ武器というのは、己の命や大事な物を護るための大事な物。 軍艦だって、またしかり。 ましてや主砲なら、神聖な物といっても過言ではありません。 軍規の厳しい日本では考えられないことです。 「こんだけ、たるんでりゃ、勝てるかもしれんな。」 ちょっと自信を持ってしまった東郷さんでした。 清の行動、裏目に出てます。 北洋艦隊は、長崎にも入港します。 入港してから10日ほどたった、ある日。事件が起こりました。 5人の清国水兵が遊女屋(世界最古の女性サービス業)にやってきました。 が、あいにく空いている娼妓(女の子)がいないというので、空くまで待っていたところ、後から来た別の水兵が、ひょいと先に部屋に通されます。 ま、馴染みか予約かなんかだったんでしょう。 ところが、待たされていた清国水兵達はブチギレです。 怒るくらいならまだしも、手当たり次第に家具を投げ、乱暴を始めました。 「粋」じゃありません、大人げないです。(それ以前の問題だという話もある。) 遊女屋で大暴れなんかしたら、当然警察がやってきます。 警察が現場について、一応、その場は収まったかのように見えましたが、水兵達の怒りの矛先は警察官に・・・ 水兵、抜刀。警察官に斬りつけます。 当然、逮捕。 これで終わったかに見えた事件でしたが、2日後再燃。 清国水兵約450人が逆襲に来ました。 他国の兵隊が街を(警察を)襲う・・・って、それ侵略?って感じです。 結局、清国水兵は警察官と衝突。 死者10人、重軽傷70人以上という大乱闘に発展しました。 当然、日本は怒りました。 治外法権がある欧米とは違い、清と結んだ「日清修好条規」では、外国人犯罪を取り締まる権利があります。 乱暴した犯罪者を取り締まるという、あたりまえのことに大して、兵隊が街を襲うなんて・・・ これを機に日清関係は悪化。国交断絶のうわさが出るほどでした。 これらの事件を「長崎事件(又は長崎清国水兵事件)」といいます。 結局、北洋艦隊を使って日本をびびらせ、清に逆らわないようにしようとした、清の作戦は、裏目にでてしまいました。 北洋艦隊と戦う方法を考えさせる機会を与え、東郷平八郎に対清戦の自身を与え、日本の清への敵愾心を煽っただけでした。 清も日本も朝鮮も、なかなか思うとおりに物事が進まない様子です。 |
9月 5日(金) |
メキシコとの国交(前編)
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ここで一息ついて、今まで出来事を年表で整理してみましょう。 年号−出来事−タイトルの準になっています。
さて今回の話は 1888年頃。 日本がまだ、大英帝国に認められず、治外法権が有り、関税自主権が無い不平等条約の改正に、やっきになっていた頃のお話です。 当時はアメリカ・オランダ・ロシア・イギリス・フランスと不平等条約を、朝鮮とは逆不平等条約(日本が有利)を結んでおり、平等な条約というのは、清と結んでいる「日清修好条規」だけでした。 これは、ひじょーに良くない。 ノルマントン事件などで明らかになった、治外法権の問題もさることながら、関税自主権が無いということは、外国から安い物品がどんどん入ってくる。 一見、良いことのように思えますが、こうなると、安い外国製品に押されて自国の産業がガタガタになってしまう。 同じ製品なら、普通、安い方買うでしょ? すると、自国でその製品を売って生活をしている人が儲からない。 儲からないから止めちゃう。 そうなると、自国でその製品を作れなくなっちゃう。 製品でもそうなのに、食料までそうなっちゃったら、もっと大変。 輸入を止められちゃったら、自国で作れないんだから、食べるものが無くなっちゃう。 こういう状態にならないように、自国産と輸入品との価格差を調整して、自国の産業を守るため、関税というものがあります。 たとえば、輸入品の方が自国製品より20%安かったら、その値段分、関税をかけて同じ値段にしたりする訳ですね。 この関税を自国で自由に設定できる権利を「関税自主権」といいます。 この権利を手にするのは日本の大きな目標の一つですが、冒頭にも書いたとおり、清としかそういう条約を結べていない。 ここは一つ、アジア以外の国と平等条約を結んで、前例をつくっておこう。 そうすれば、「日本は、○○年から○○国をはじめ、こういう平等条約を結んでますので、貴国とも、その線で一つよろしく。」と、いえるのでは? そこまで行かなくても、不平等条約を結ばされる前に、こっちから平等条約を結ぶという手もある。 こう日本は考えました。 そこで白羽の矢が立ったのが「メキシコ」でした。 |
10月 2日(木) |
メキシコとの国交(中編)
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メキシコ自身も、東洋との貿易のため、中国か日本と条約を結ぶことを考えていました。 なにげに日本はメキシコと馴染みが古く、17世紀初頭には、伊達政宗の使節団がローマに向かう途中、メキシコにもしばらく滞在したりしています。 2年ほどの間だったのですが用事がすんで帰国の為、招集をかけたところ、大半の男性がメキシコ女性と結婚しており、子供までいる人も・・・という始末。 結局、帰国したのは、ほんのわずか。ほとんどが、そのままメキシコに残った。と、いう話もあるくらいです。 ラテンの女性、恐るべし。 1874年にも交流があります。 その年、金星が太陽面を通過するという天文現象がありました。 日食の金星版ですね。 もっとも、見かけの大きさでは、金星の方が遙かに小さいので、太陽の上を黒い点が通過する。くらいの現象です。 詳しい説明は省きますが、実は、この現象を世界各地で観測することにより、太陽と地球の距離が判るんです。 めったに起こる現象では無いため、各国の天文学者はこぞって、この金星観測を行いました。 日本にもアメリカ、フランス、そしてメキシコの金星観測隊がやってきました。 アメリカとフランスは日本と修好通商条約を結んでおり、国交もあったため、長崎と神戸に観測所を建て、そこで観測を行いました。 ところが、メキシコは条約はおろか、国交さえない国。 観測所を建てるどころか、どこで観測して良いかも判らないといった状態でした。 とはいえ、わざわざ遠方から学術研究の為に日本に来たメキシコ人。 その使命感は敬意に値します。 そこで日本は、観測に適しているという横浜に観測所を建てることを許可しました。 特例中の特例です。 当時、横浜は、外国人の居住すら認められていない場所だからでした。 |
10月10日(金) |
メキシコとの国交(後編)
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国交もないのに、こんな特例の便宜を図ってくれたことにはメキシコの観測隊も感動。 観測所を建てさせてもらう代わりといってはなんだけども、日本人実習生をこの観測に受け入れることを申し出ました。 メキシコの公用語であるスペイン語どころか、英語すら、ろくに話せない日本人実習生をです。 日本人もこれを快諾。 日本人実習生4人が観測に参加しました。 観測当日は、長崎と神戸は曇りだったにも関わらず、横浜は富士山も望める快晴で観測は大成功だったそうです。 その後、観測隊の一員であったフランシスコ・ディアスは「日本旅行記」という本を書きました。 その中には・・・ 「日本国民よ、日本を訪れる外国人との交流が日本の将来に影響ありとするなら、今後の祖国繁栄を願って、外国人の意見を大いに摂取するがよい。 われわれも絶大な協力を提供しよう。 われわれは日本民族が幸福になる価値が十分にあると信じている。 日本人は品位があり、紳士的で勤勉で、勇敢にしてかつ法に恭順な民族だからである。 私の祖国が将来日本と友好関係を結ぶことを、そしてまた将来日本と同じ位多くの友を得ることを祈念している」 そして、14年後。1888年。 日本とメキシコの間で「日墨修好通商条約」が結ばれました。 治外法権が無く、関税自主権がある平等条約で、アジアを除けば日本にとって初めての平等条約です。 1891年には日本・メキシコ両国公使を交換。 1897年にはメキシコへの日本人移民まで行ってます。 メキシコの駐日大使館は、現在、東京の一等地、永田町にあります。 こんな一等地に一戸建ての大使館を構えているのはメキシコだけです。 当時、この平等条約締結のお礼として1898年に明治政府がこの土地を提供したからでした。 メキシコに渡った日本人移民はその後、「日墨協働会社」という会社を設立しました。 1901年頃、日本政府から援助を受けない独立した会社です。 1910年のメキシコ革命で打撃を受け、解散するまで、その利益をメキシコの教育や、初の西和時点を作成するなどの功績を残しました。 その設立2年度の報告書には、会社の理想について、次のような記述があります。 「世間には、無学でも富を得て、珍味を食べて酒を飲み女性と戯れることに憧れる者がいるが、我々の理想はそんな卑しいものではない。 各人の利益は少なくとも、人々が安泰に暮らし、完全な児童教育をなし、100年後の日本民族発展を希望するという遠大なる理想を持ち続けなければならない」 100年後の私たちは、そんな理想を持っているでしょうか? |
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