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11月27日(水)
   【コラム】歴史に学ぶということ

 琉球が日本のものだと清に認められたあと、日本は琉球に沖縄県を置いて、正式に日本領土としました。
 これを「琉球処分」といいます。

 先に琉球には半独立国である琉球王国があったと書きました。
 その琉球王国はどうなったのでしょうか?

 結果からいえば、警官・軍隊の武力を背景に首里城は開け渡され、約500年間続いた琉球王国は滅びました。

 さて、これは「侵略」なのでしょうか?
 答えはYESでありNOでもあります。

 当時の琉球と台湾問題については、日本にとっては、世界に認められる近代国家となるため、また今後海外との貿易をするにあたり、海路の確保という面でも重要な事でした。
 日本にとっては、しかたのない事であり、そうでなくても小国が大国に吸収されることは、当時、普通の事でした。

 ましてや、 日本から見れば、先に琉球国王を琉球藩王としてましたので、単に「廃藩置県」に伴う国内問題で、もちろん合法です。

 しかし、琉球王国からみれば侵略と感じたでしょう。
「自分たちだけで平和にやってるのに、なんでそっとしてくれないんだ。」と思ったことでしょう。
 そしてそれは、台湾の先住民も、欧米に植民地化された東アジア諸国も、ペリーに無理矢理開国させられた日本も思ったことなのです。

 当時の世界というのは万国公法という一定のルールがある中での「弱肉強食」だったのです。
 滅ぶか、滅ぼすかの世界だったといっても過言ではありません。

 器に盛られた料理に対して、「美味しそうだな」と思う人もいれば、「きれいな器だ」「どうやって作ったんだろう?」「いくらくらいするのかな?」と思う人もいるように、歴史観もまた、その立場、時代により様々なものであり、どれが正しい、どれが間違っているというものでも無いのです。

 最近、東京の世田谷区で「歩きたばこ禁止条例」が成立しました。
 今まで普通に行われていた「歩き煙草」が、「悪いこと」とされたということです。

 このように価値観や善悪というのは、その時代時代で、いとも簡単に変わるものです。

 さて、この条例に対して、「あんた、5年前に歩き煙草してたでしょ?罰金払いなさい」と言われたとします。
 罰金を払うべきでしょうか?

 そんな訳ありません。5年前は「悪い事じゃなかった」のですから。
 このような考え方を「罪刑法定主義」「法の不遡及禁止の原則」といい、法律の基本中の基本です。

 つまり、悪いことというのは法で決めておきなさい(罪刑法定主義)後から決めて「それは悪かった」とするのは駄目だ(法の不遡及禁止の原則)ということです。

 端的に言えば「今の感覚で過去を裁くな」ということですね。
 歴史もまた、そうしたものです。

 歴史というのは、過去を断罪するためのものでは無く、同じ過ちを繰り返さないためにあるのです。

 戦争は確かに誰だって嫌です。死にたくないし、殺したくもありません。
 できれば仲良くした方がいいにきまってます。

 だからといって、「戦争怖い」と怯えているだけでは、叩かれるのを恐れている動物と代わりありません。

 なぜ戦ったのか?、なぜ戦わなければならなかったのか?、なぜ戦ってしまったのか?ということを歴史から学び、「戦わなければいけない時」を知り、「戦っては行けない時」を理解し、「引くところと進むところを誤らない」というのが、戦争を知り、歴史に学ぶという事なのです。

 そうして先人たちが護った日本というものを受け継ぎ、そして後生に伝える。
 それが今に生きる私たちの義務であり、また、戦争の犠牲者に対する、一番の供養なのではないのでしょうか?


11月29日(金)
   大日本帝国憲法

 次の問題は法律です。
 やっぱり「法治国家」にならないと、世界は日本を近代国家とは認めてくれません。

 法治国家というのは、法律に基づいて政治を行う国の事です。
 今となっては当たり前のように聞こえますが、当時はそうでもなかったんです。

 何が悪いかはあらかじめ法律で決めておき、罰を与えるのなら法律に基づいて与える。
 こういう制度があってこそ、初めて秩序ある近代国家である。

 たとえば王様の一言で、罪が決まったり、罰が与えられたりしていては、野蛮だと言われてもしかたないだろう?ということですね。

 法治国家になるのに必要なのは当然「法律」
 そして法律の土台となる「憲法」が必要不可欠です。

 こうして日本は近代的な憲法とそれに基づく法体系をつくることにしました。

 さて、一番手っ取り早いのは、他国の憲法を見本とすること。

 当時、「最も先進国であるイギリスの憲法を見本にしよう。」「いや、いろんな国の良いとこ取りをしよう。」と色々な案が出ましたが、いまいちしっくりきません。

 それもそのはず、法律というのは、その国々の文化や歴史を土台にできあがるものであり、憲法もまた同様だからです。

 極端に言えば、海の無い国に「海水浴禁止」という法律はなじまないといった感じですね。

 では、当時、日本に適した法律とはどんなものだろう?
 今(明治)までの日本の政治というのは、天皇が一番偉いとされているものの権力は無く、政治は幕府がするという形が多かった。

 こういう形をうまく憲法で表現できないだろうか?
 似たような感じの憲法がないか探してみたところ、見つかりました。
 「プロシア(ドイツ)憲法」です。

 これをベースに「日本らしい憲法」を作ることにしました。
 こうしてできたのがアジア最初の近代的憲法「大日本帝国憲法」です。

 その中身というのはベースであったプロシア憲法がそうであったように、「立憲君主制」の憲法でした。

 立憲君主制というのは、簡単にいえば、天皇でも憲法に従わなくちゃだめですよ。という憲法です。

 大日本帝国憲法の場合はどうかというと、「日本では天皇が一番偉く、天皇が国を統治します。」と定めていました。

 じゃぁ、天皇が好き勝手に政治をやっていいのか?といえば、それは違います。
 っていうか、それじゃぁ憲法つくった意味がありません。

 日本のコンセプトは、「天皇は偉いけども権力が無い」です。
 以下に簡単に天皇の憲法の関係を雑記してみましょう。
 (「天皇の価値(3)」と重複してます。)

 大日本憲法下の天皇の仕事というのは議会や内閣から上がってきた法案等にOKを出すのがお仕事。

 たとえ天皇が気に入らない内容でもOK出さなきゃ駄目(大日本帝国憲法第6条)だし、議会の許可なしに勝手に法律つくるのも当然駄目(同憲法5条)

 OK出すときは国務大臣の補佐なくOKしちゃ駄目だし、そのOKした事柄については補佐した大臣が責任持ちなさいよ。(同憲法55条)

 天皇はその時に文句は言えるが、それによって法律を曲げることはできませんよ。(同憲法9条)

 天皇は緊急時には法律に変わる勅命をだせるけど、その勅命は次の議会にかけないかぎり、効力を失っちゃいますよ。(同憲法8条)

 つまり天皇は責任無い代わりに好きなように国を動かせないし、国を動かすのは内閣であり、議会ですよという内容です。(もちろん他にもいろいろある)

 こうして、天皇が一番偉いとされているものの権力は無く、政治は幕府がするという形に近いものができあがりました。
 これなら日本にも馴染むはず。

 もちろん、国民の権利や、二院制の議会、選挙の規定なども盛り込みました。
 翻訳して世界各国に通告したところ、評判も上々です。

 こうして、憲法も完成し、日本は近代国家への階段を少しずつですが確実に上っていったのでした。


12月 4日(水)
   朝鮮との国交

 さて、ここでちょっとだけ時間を戻します。

 ちょっとといっても20年以上戻るのですが、時は明治元年。
 明治政府のもと、日本がこれからがんばろうって時です。

 やっぱりお隣づきあいは、きちんとしないと。ってんで、日本は朝鮮に「これから新政府で世界にデビューします。よろしくね。」という挨拶と、国交と通商(交易や貿易のこと)を新たに結びませんか?というお手紙を持っていきました。

 が、朝鮮はこれを受け取り拒否。
 なんで?と聞くと、文面に天皇の「皇」という字が入っているから。

 当時の思想では「皇帝>王」というのが偉さの順番でした。
 皇帝というのは当然、(中国)の皇帝のことです。

 朝鮮を治めていたのは「国王」ですので。中国>朝鮮ということですね。
 これは中華思想上も華夷秩序上も朝鮮は納得していました。

 しかし、日本からすれば皇帝=天皇。
 これを認めてしまうと、中国=日本>朝鮮ということになってしまいます。

 蛮族 of 蛮族'sの日本が朝鮮より上とは何事だ!ってのが朝鮮の言い分です。(このあたりは中華圏の特徴(1)を参考にしてください。)

 現在、韓国のマスコミが天皇のことを「日王」というのも同じ理屈です。

 そんなこと言われたって、日本だって困ってしまいます。
 大陸への出入り口として、また国防上、朝鮮は大事な場所ですからね。

 結局、とりあえず朝鮮はほっておいて、先に清と「日清修好条規」を結びます。
 これは以前、日本がアメリカに結ばされたような不平等条約ではなく、お互い対等な立場での条約で、関税自主権があり、治外法権が無いというものでした。

 それだけではありません。
 お互いの領土を尊重し、ずっと安全にやっていこうぜ!という平和条約的な内容も入ってます。

 これで、清との関係はとりあえずOK。
 あとは朝鮮との国交をどうするか?という事に明治政府は頭を悩ませることになったのでした。


12月 6日(金)
   朝鮮開国

 「皇」の字入りのお手紙事件の他にも朝鮮には日本と国交を結ばない理由がありました。

 実は当時、朝鮮は「鎖国」をしていたのです。
 これは自主的というより、朝貢冊封体制上、親分である清に「勝手に人付き合いするな」と言われていたくらいのものでした。

 そんなある日、日本と清の間でいざこざがおきます(【領土】参照)
 この時の日本の強気な姿勢に驚いた清は朝鮮に「もうちっと日本と仲良くすれや」と命じたため、国交と通商の交渉は再開・・・
 するはずでした。

 ここで、またもや朝鮮側からクレーム。
 交渉のため赴任してきた外務少丞(当時の外務省職員)に対し「なんで日本は汽船で来て、しかも洋服着てるんじゃい!」と非難。

 もう、なにがなんだかという感じですが、要は、「日本が西洋化してるのは、華夷秩序を乱す行為だ!」と、言いたいらしいです。

 世界情勢はそれどころの話じゃないんですけどね。

 さすがに日本もブチギレです。
 「もう殴ろうよ!」という意見が続出しました。
 これを「征韓論」といいます。

 征韓論自体は昔からあるものですが、目的が国防だったり、領土だったり、今回みたいに懲らしめようというのが目的だったりと、色々種類があります。
 これらを総じて「征韓論」という言い方をしています。

 とはいえ、これから世界を舞台に欧米とやり合わなければならない時代でしたので、同じ東洋である、日本、清、朝鮮が一致団結して対抗してはどうだろうか?というような考えもかつてあり、とりあえず開国させることを優先することにしました。

 じゃ、どうやって開国しようか?
 もう、話し合いじゃ無理っぽいです。

 話し合いで駄目なら無理矢理開国させたらどうだ?
 ちょうど、日本には「無理矢理開国させられた実績」があります。

 アメリカを見習って、ペリーばりの作戦で行こう、ということになりました。
 武力を背景に開国させる。ということですね。

 とりあえず朝鮮の近所まで軍艦持っていって艦砲射撃演習したりして、日本の強さ(あくまで朝鮮と比較して)を見せつけました。

 あとは、測量やら「水ちょうだい」といって勝手に上陸やら「いやがらせ」まで律儀にペリーの真似をしました。
 正直それはどうか?と思いますが、これに朝鮮も反応。

 交渉の席に乗ってくると思いきや、いきなり要塞から大砲撃ってきました。
 結局日本も応戦。要塞を陥落、占領してしまいます。

 この事件は江華島で起こったので「江華島事件」と呼ばれています。
 まんまですね。
 このときの日本の軍艦の名前から「雲揚号事件」ともいいます。

 当時の戦争やそのたぐいの争いは、勝った方が賠償金や領地を貰えることになってましたので、日本は朝鮮が大砲を撃ってきた賠償として賠償金を要求できました。

 ここで日本は朝鮮に「賠償金チャラにするから開国しない?」と持ちかけます。
 ペリーを見習って、軍艦や汽船での圧力かけることも忘れません。

 結局、朝鮮もしぶしぶ承諾。
 国交と通商のための「日朝修好条規」が結ばれました。

 この修好条規のポイントは3点

 一つは、この時まで朝鮮は世界から清の領地の一部だと思われていましたし、実際そんな感じだったのですが、日本は世界で初めて朝鮮を「独立国」だと承認しました。

 二つ目は、アメリカが日本に結ばせたように、関税自主権が無く、治外法権があるという不平等条約であったこと。

 三つ目は、日本がかつてそうであったように、万国公法や国際関係にうとかった朝鮮は、この条規が当時「不平等条約だと理解していなかった」ことです。

 つまり、朝鮮はこの時、ペリーに開国させられた日本と同じ立場に立ったのでした。
 このあと、他の西洋諸国に同様の条約を結ばされるところまでそっくりです。
 (ちなみに、アメリカ、イギリス、ドイツ、ロシア、フランス)

 こうして、日本と朝鮮は(日本が一歩リードしてますが)同じような条件で世界という同じ舞台に立ちました。

 これから、どう発展するかは、それぞれのがんばり次第ですね。

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【過去の掲載文】
天皇の価値(1〜3)、国民を護るということ
日本と戦争、ペリー来航、日本の目標、華夷秩序、領土
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