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10月 4日(金)
   日本と戦争

 さて、戦争の話でもしましょうか。

 私はこう見えても平和主義者で、大の戦争嫌いです。
 なんせ、「戦争が嫌いだから」という理由でガンダムすら見なかった男です。

 そんな私が、わざわざ戦争の話をしようとするのは理由があります。
 皆さんは日本が過去に戦争をしたことについて、どう思いますか?

 どうもこうも、「残虐非道の日本軍はアジアに侵略して悪いことばっかりした」くらいのイメージでしょう。

 さて、そのイメージは本当に正しいのでしょうか?
 今回からは当時の世界情勢とそれに対する戦争を含めた日本の対応を見ながら、戦争と日本について考えて行きたいと思います。


 さて、当の国民にとってはたまったものじゃありませんが、国にとって戦争というのは外交の手段の一つにすぎません。

 「話したって、わからない奴は、殴るしかないんだ。」という発想と同じで、「話す」=「交渉」、「殴る」=「戦争」ということです。

 つまり外交により利益を得ようとするには、「話す」ための交渉能力と「殴る」ための武力が必要ということですね。
 経済的圧迫をかけるというのも「殴り方の一つ」です。

 今は外交といえば「話す」ことが中心ですが、昔は「殴る」のが外交の手段としてポピュラーでした。

 正確には「武力を背景に交渉する。」
 たとえるなら、拳を突き出して「これで殴られたら痛そうだろ?」と説得する。と言う感じです。

 これを「威嚇外交」といいます。
 当然、交渉が成立しないと、容赦なくぶん殴ります。

 ま、ぶっちゃけ「弱肉強食の時代」で、弱い国だと強い国の一部にされたり、植民地にされたりするのが当たり前の世界だったということです。

 そんな生き馬の目を抜く時代でしたので、ある地域をいくら自分の国の領地と言い張っても、軍を置いたり行政府を置いたりして積極的に管理してないと、領地とは認められない時代でもありました。

 いわば、「隙を見せたらやられる」時代で、弱小国なら「隙がなくてもやられる」時代でした。

 実際、アジアやアフリカのほとんどの国が、ヨーロッパ諸国によって「文明ってもんを恵んでやる」とか「本当の宗教を教えてやる」とか「白人以外は人間じゃねぇ」とかいう理由で滅ぼされ植民地にされました。

 「植民地をガンガンつくって領土を拡大しよー」というのが流行ったんですね。当時。
 これを「帝国主義」と言います。

 この当時の植民地というのは、それはもう酷い。
 先住民を最初っから人間扱いしてないので、奴隷化、虐殺、強姦なんでもあり。

 作物や他の生産物もほとんど奪われ、というより奪われるために作らされ、変に知恵付けて逆らわれたら困るので、教育も制限。

 それどころか、内部抗争を煽って徹底的に植民地の抵抗する力をそぎます。

 ようは、当時のヨーロッパ勢は、植民地から永遠に搾取するために手段を選ばずがんばった。ということですね。(搾取=不当に安い賃金で働かせ、利益の大部分を ひとり占めにすること。)

 やられる先住民は、当然たまったもんじゃありません。
 当然人口は激減。かといって逆らっても武力の差は歴然。
 徹底的に打ちのめされてますので、精神的にも逆らおうなんて気が起こらない状態でした。

 そんな弱肉強食の時代の中、当時江戸時代末期の日本にも魔の手が伸びてきたのでした。

 つづく。 


10月 15日(火)
   ペリー来航

 1853年、日本にペリー提督率いる黒船がやってきました。

 「捕鯨やアジアとの貿易の際に日本の港を使わせてくれ」というのがその用件です。
 (当時アメリカは鯨油を取るために捕鯨をしていました。)

 当時、日本は鎖国中でしたので断ったのですが、「開国、これ常識」と、ペリーは取り合いません。
 ペリーはこの開国を迫る書状の他に、もう一つプレゼントを持ってきました。

 「白旗」です。

 ペリー曰く「開国断るなら、戦争になるよ。戦争になればアメリカが絶対勝つ。降伏するときにはこの白旗を揚げるといい、白旗は降伏の証だから。」

 武力の差は歴然。
 結局、日本はこの要求を飲むことになりました。
 当時、弱小国家であった日本では話し合いにすらならないのです。

 こうして日本は世界の表舞台に引きずり出され、日米和親条約を結び、4年後には日米修好通商条約を結ぶことになりました。

 話し合いにすらならい弱小国家相手の条約が平等な訳はなく、日米修好通商条約は外国人犯罪を自国で裁けない(治外法権)上に、自国の生産物を護るため輸入品に関税をかけることが自由にできない(関税自主権の欠如)という日本にとって辛い内容でした。


 しかも、日本が弱い所を世界に見せてしまったため、他国も一斉に日本を狙います。
 結局、オランダ・ロシア・イギリス・フランスとも同じような条約を結ぶことになってしまいました。

 踏んだり蹴ったりです。日本。

 しかし、日本だって黙ってません。
 世界の荒波を知り「このままじゃ駄目だ」ということを自覚しました。

 世界を相手にどうするか?という方法を巡って国内で争いはあったものの、結局、朝廷が中心となった新体制でがんばろうということになり、徳川幕府が政権を朝廷へ返すことになりました。

 これを「大政奉還」といいます。

 こうして「明治」という時代が始まりました。
 この旧体制である「幕府」から新体制である「明治政府」に移り変わるまでの政治・社会の大きな変動の事を「明治維新」といいます。

 つづく。 


10月24日(木)
   日本の目標

 さて、明治維新を成し遂げた日本の当面の目的は、先に結ばれた不平等条約の改正です。

 と、いうのも、外国人がアヘン(麻薬)を売っていたのを捕まえても、「薬用だから」
いう理由で無罪放免にされたり、イギリスの貨物船が沈没したときにイギリス人は全員救助したのに日本国民は見殺し。でも船長は無罪という事件(ノルマントン号事件)がおきたりと、外国人犯罪を自国で裁けない(治外法権)事は日本にとって重大な問題であると気付いたからでした。

 とりあえず強い国にならないと話も聞いて貰えないのは身にしみてわかってますので、経済的にも、軍事的にも強くなる事を第一の目標としました。

 これを「富国強兵」といいます。

 次に未開の野蛮人扱いされていては、いつまでたっても世界と対等な立場になれません。
 当時、国際的ルールとして「万国公法」というものがありました。
 現在でいう「国際法」です。

 これは国際秩序を護るため欧米で考え出されたものです。
 西洋的国際秩序ともいえるでしょう。

 その中で日本は半主の国(半未開国)とされていました。
 自主の国(文明国)と未開人の間です。

 ようは、一人前の国として認められていなかったんですね。
 逆にいえば、だからこそ不平等条約を結ばされたとも言えます。

 そこで近代国家としての形を整えることを第二の目標としました。
 憲法をはじめとした法律を整えたり、自国の領地をはっきりと定めたりと世界に認められるため、西洋の文化や制度などを取り入れ、様々な制度を見直し、改正しようということです。

 さて、万国公法という「西洋的国際秩序」があるのであれば、当然「東洋的国際秩序」があるはずです。

 それはいったいどんなものなのでしょうか?


 つづく。 


11月22日(金)
   華夷秩序

 近代まで東アジアには中国しか強い国といえるものがありませんでした。
 そこで中国を中心とした「華夷秩序」というものが発展しました。

 おおまかに説明すると、周辺国の長が中国に従い、貢ぎ物をすると、中国の皇帝からその国の支配者であることを認められます。

 皇帝は支配者として認めた証として、爵位や称号、金印などを与えます。

 証を受け取った長は、それを支配者の証拠として中国の国力や権威をバックに自国を治めます。
 また、当時先進国だった中国から文化等を輸入したりもできるという特典付きです。

 こういう仕組みのことを「冊封体制」といい、貢ぎ物の事を「朝貢」といいます。
 あわせて「朝貢冊封体制」ともいいます。

 これが華夷秩序東洋的国際秩序)です。

 このような体制だったため、「中国が世界で一番強く優れた国であり、周りにある国は中国から離れれば離れるほど野蛮な国だ。」という思想が生まれました。

 これを「中華思想」といいます。

 華夷秩序と中華思想が合わさった結果、中国は「俺がルールブックだ!」状態になっており、「万国公法」を護るという概念が不足しています。

 中国から見れば、遠く離れた野蛮な国同士のきまりである「万国公法」など、世界で一番偉い中国が護る必要は無い。ということですね。

 これは現在でも、さほど変わりありません。

 とはいえ、明治時代の世界情勢はアジアのほとんどが植民地として欧米諸国に蹂躙されている状態ですので、「華夷秩序」は中国や朝鮮(当時はまだ北朝鮮と韓国に分断されてなかった)などの少数の国にしか通用せず、世界秩序の主流は「万国公法」となっていました。

 日本が世界に出て行くには世界の「きまり」を知り、守らなくてはならない。
 明治政府はそう考え、万国公法を重要視しました。

 「郷には入れば郷に従え」と、いいますしね。

 元々、他国の文化や学問などを自国に取り入れ、自分流にアレンジするのは日本のお家芸ですので、西洋文化や法律、社会のしくみなどを貪欲に取り入れ、こうして日本は急速に発展していくのでした。

 つづく。 


11月26日(火)
   領土

 西洋式の軍隊形式をとりいれ、日本も近代的な軍隊を持つようになりました。
 明治政府も紡績業を中心に後押しして、産業も順調に育っています。
 「富国強兵」という目標に向かって、日本は順調に進んでいきました。

 次は近代国家としての形作りです。
 何よりも早急に決めなければならないのは領土。
 早く自分の土地だと言っておかないと、この時代では別の国に取られてしまいますし、法律などを適用させるにも、自分の土地がどこまでか判らないようじゃ困りますからね。

 領土というのは、現在でも「国家は主権と国民、それと領土がなければ認められない」というくらい大事なものです。

 当時、日本にとって問題だったのは、琉球(今の沖縄県)と樺太(サハリン)でした。
 当時、琉球は琉球王国という一つの国であると同時に半独立国として日本に属しており、同様に清(当時の中国)にも属していました。

 日本の領土であり、中国の領土でもあったわけです。

 一方、樺太の方はというと、日本の領土だかロシアの領土だかはっきりせず、日本人もロシア人もごっちゃに住んでいる雑居地でした。
 当然、たびたび紛争もおこっています。

 とりあえず、最低でもこの2つはなんとかしなきゃならない。
 明治政府はそう考えました。

 そんな時に事件は起こりました。
 琉球の島民数十人が海難事故のため、台湾に流れ着いたのでした。

 当時、台湾は先住民と中国から渡ってきた漢人(中国系民族の一つ)との間で、土地を巡って争いが絶えない状態でした。

 そして、流れ着いた琉球の島民達は、漢人に間違えられ先住民にほとんど殺されてしまいます。

 不幸な事件ですが、明治政府はこの事件に対して、清にこういいました。
 「うち(日本)の国民である琉球人が、あんた(清)の国民である台湾人に殺された。責任とって貰おう」
 これに大して清は「あんな僻地、うち(清)の管理外の未開地だ。知るかそんな事。」と、しらんぷり。

 お互いに凄いこと言ってます。
 日本は、琉球人は日本人=琉球は日本の領土だ。といってますし、清は台湾を管理していない土地=万国公法では領地として認められない=「空き地」だと言ってます。

 外国との交渉にもまれて、万国公法を勉強した日本は、そのことを判っていってますし、中華思想から万国公法を守るどころか学ぶ気も無い清はマジボケしています。

 日本は、自国民(琉球人)を殺した報復として、「空き地である」台湾に出兵。
 占領してしまいます。

 こうして台湾と琉球は日本の領土となりました。
 しかし、台湾についてはその後、清が「うちの国民(台湾人)が、あんたの所の国民(琉球人)を殺して悪かった。賠償金も払うし、台湾出兵も当然の行為だ。」と認め、日本もそれを承諾したため、改めて清の領土となりました。

 一方、樺太の方はというと、平和的にロシアと条約を結びました。
 「樺太・千島交換条約」です。

 簡単に言うと、樺太と千島列島(現在でいう北方領土を含むカムチャッカ半島
までの島々)をトレードしたんですね。

 ついでにこの次の年、小笠原諸島も日本の領土として組み入れ、日本の領土問題も、ようやく一段落ついたのでした。

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【過去の掲載文】
天皇の価値(1〜3)、国民を護るということ
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