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12月11日(水) |
列強 大英帝国
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さて、19世紀後半の万国公法には、国のランクというものがありました。 トップは勿論、「大英帝国」こと、イギリス。 で、次の一等国というランクには「帝政ロシア」、「ドイツ」、「フランス」、「オーストリア」の4カ国が入ってます。 ここまでの5国を「世界の5大国」といいます。 そのまんまですね。 いわゆる「列強」です。 当時、アメリカは一等国ではなく、新興国という別枠のランクにいました。 一等国の次のランクは中等国。 ま、普通の国です。オランダ、スペイン、ポルトガルetc 明治時代の日本の目標である「世界に認められる」というのは、具体的には、ここまでのランクに入ることです。 「富国強兵」をがんばり、領土も確定させ、中国や朝鮮などの隣国と国交と通商を結び、アジアで初めての憲法をつくり、近代化の道をひたすら歩いてきた日本にチャンスが訪れます。 イギリスと新たに結ぶ事になった「日英通商航海条約」です。 イギリスとは、ペリーに開国させられたあと、関税自主権が無く、治外法権がある「日英修好通商条約」を結んでいたのですが、こんどの条約は治外法権がありません。 やったね。 関税のほうは自主権はまだ無いものの、関税率の引き上げに成功、日本の不平等条約改正への努力がようやく身を結びます。 しかも、お互い最恵国待遇です。 最恵国待遇というのは同じような条約を結んでいる国のなかで、その国を最も 有利な取扱いにしますよと、いうことです。 このように、列強のトップである「大英帝国」が日本を見直したという事もあり、このあと、日清戦争を経て、他国も同様の改正条約を結んでいくことになります。 さて、なぜ列強のトップでもある「大英帝国」が東アジア辺境の日本と、このような条約を結んだのでしょうか? 日本の努力を認めたから? それもあるかもしれませんが、もっと切実な理由があります。 ロシアです。 当時、対立していたロシアが東アジアに進出していくことをイギリスは心配していたのでした。 ロシアの東アジア進出に対する盾として日本を使おう。 そのために仲良くしておこう。 と、いうのがイギリスの考えです。 もちろん、日本だってロシアが東アジアに進出してくれば、次に狙われるのは日本ですので、イギリスに言われるまでもなくロシアに対抗しなきゃなりませんし、列強のトップであるイギリスと仲良くできるってのは、メリットが大きいです。 おまけに不平等条約から一歩前進とくれば、願ったりかなったりです日本。 やっと運が向いてきました。 この後、イギリスとは長いつきあいになりますが、それはまた別のお話・・・ |
12月17日(火) |
大英帝国 vs 清(前編)
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さて、なぜ大英帝国は対ロシアのために、日本を選んだのでしょうか? 朝鮮は当時、日本にすら無理矢理開国させられる程度の武力しか無かったため、と、いうことで、日本を優先したということは納得できますが、大国である清がロシアのすぐそばにあるではないですか。 ここで、その疑問を解決するため、ちょっと日本の歴史から外れて、大英帝国と清の関係について、お話しましょう。 時代は、グッとさかのぼって18世紀後半からお話。 イギリスと言えばティータイムってくらいですが、実はこの頃、大英帝国に飲茶の習慣が浸透してきました。 そのお茶を買っていた場所というのが、他でも無い清。 清からお茶を買い、変わりに銀を輸出するという形で貿易をしていました。 当時の清は貿易港を広州という地区だけに制限してましたが、大英帝国からすれば、もっとお茶を輸入したい。 そこで、輸出拡大をねらい外交使節を派遣します。 が、ここで一悶着あります。 と、いうのも、清は言うまでもなく「華夷秩序」のTOP。 大英帝国も当時、欧米のTOPですので、それぞれにプライドがあります。 それに清から見れば、大英帝国など中華から遠く離れた蛮族の地ですし、大英帝国から見れば、清は大きな国土を持つ大国ですが、所詮、有色人種の国。白人に遠く及ばない存在です。 平たくいえば、お互い蛮族呼ばわりしているわけです。 なので、交渉はこんな感じ。 大英帝国「制限貿易なんてすんな!」 清「あ?皇帝陛下に頼めば?三跪九叩頭するなら会わせてやるよ。」 大英帝国「そんな蛮族の風習なんて出来るか!」 清「じゃぁ駄目だね。」 ※三跪九叩頭 皇帝に会うときの作法。土下座×3を3セットする感じ。 当然、交渉決裂。 大英帝国から見れば、お茶は思うように手に入らないものの、銀はどんどん清に行っちゃうものの、面白くない状態です。 そこで、大英帝国は、ちょっと一工夫します。 先に植民地化していたインドを使ったのです。 つまり、大英帝国−(綿織物)→インド−(アヘン)→清−(お茶)→大英帝国という「三角貿易」をすることにしました。 19世紀前半のお話です。 アヘンというのは、鎮痛剤にも使われますが、依存性の高い「麻薬」の一種です。 みるみるうちに清は薬漬けになり、アヘンの輸入量が増大。 お茶だけでは代金が追いつかず、銀も大英帝国に流れていきます。 こりゃやばいってんで、清も「林則徐」という皇帝の特命全権大使の下、アヘンの取り締まりを始めますが、密輸は後を絶ちません。 大英帝国にも「アヘン持ってくんな」と言いますが、大英帝国も「貿易の邪魔するな」と言って、話は平行線。 そうなると、当然、殴り合い(武力抗争)へと発展して行きます。 小競り合いでは林則徐の下、一致団結した清の勝利でした。 こうなっちゃぁ、大英帝国だって黙っちゃいません。 喧嘩で負けたとなっては、他の国にもなめられます。 「自由貿易の実現」を大義名分にして、清と戦争しよう!と自国の議会に持ち込みます。 「アヘン売れないからって逆ギレは無いだろ?」という意見も当然あったのですが、結局、僅差で議会は開戦を決議。大英帝国は清に艦隊を派遣しました。 やる気、満々です。 とりあえず、今まで貿易の場となっていた広州湾を封鎖。 ところがそこは林則徐のガードが堅い。 そこで北上して別の場所を襲って力を見せつけた上で、お手紙を出します。 内容は、 「ごめんなさいと言え」 「お詫びに土地よこせ」 「アヘン取り締まりの時に没収した分のアヘン代金を払え」 と、いうもの。 びびった清は大英帝国の機嫌取りと権力闘争を兼ねて言われもしないのに林則徐を罷免。 広州湾のガードもとき、香港を大英帝国に渡すという仮条約を結びました。 この先、清はどうなってしまうのでしょうか? |
12月25日(水) |
大英帝国 vs 清(中編)
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さて、仮条約も結び、英清間も一段落した感じです。 大英帝国艦隊も、清を離れて行き、そろそろ安全かな?と思ったとき、皇帝の強気の虫がウズウズと・・・ 「やっぱり土地(香港)はやらん。清に害をなす、蛮族の国を懲らしめろ!」 超、強気です。 中国は、こういう中華思想から来る「懲らしめろ」系の戦争をよくします。 日中戦争もそうですし、近代ではベトナム戦争もそうです。 これを「懲罰戦争」といいます。 いくら、偉い偉いといっても実力がなければ何にもなりません。 しかも、林則徐が居なくなって、まとまりが無い上に、ノーガード状態。 結局、大英帝国が勝ち、清は大英帝国に「南京条約」を結ばされてしまいした。 この、大英帝国と清との一連の戦いを「アヘン戦争」といいます。 南京条約の中身は以下の通り ・今まで貿易していた広州港のほか4港を開港しなさい。 ・香港はいただきます。 ・公行の廃止(公行=商人の一種、外国人は彼等としか商売できなかった) ・賠償金よこせ。 さらにこの翌年、「虎門寨追加条約」が結ばれ ・治外法権 ・関税自主権の喪失 ・イギリスを最恵国待遇にすること さらに、お約束としてアメリカやフランスなどとも、似たような条約を結ばされてしまいます。 踏んだり蹴ったりです。清。 ところが、清は、あまりこのことを気にしません。 中国自体は、よく周辺国から攻め込まれますし、多少土地が減ったって、あの面積、たいした苦にもなりません。 皇帝の「徳」さえあれば、清は大丈夫です。 なんせ、世界で一番偉い国なんですから。 武力なんて「おまけ」みたいなものです。 と、思ってました。 そんな具合なものだから、蛮族との約束である「南京条約」だって守る気なんて、さらさらありません。 アヘン戦争後も思ったより清と貿易が伸びなかった大英帝国は、ここでまたブチギレです。 「もう一回殴ってやろうかしら?」と思っていた矢先に事件が起こりました。 イギリスの船である「アロー号」が清に海賊容疑で捕まり、中国人乗組員12人が逮捕されたのです。しかも、船長のいない時に。 その上、船に上がっていた国旗を引き下ろしました。 「イギリスの船じゃなかった」と言うための「証拠隠滅」です。 条約で約束した治外法権ってものを判っていません。清。 (判ってやってるのかもしれませんが) ちょうど、同じ頃、清の官憲がフランス人宣教師を殺害。 フランスも怒っています。 「じゃ、一緒にやっちゃおうよ!」と、大英帝国とフランスは手を組みます。 こうして、英仏連合軍 vs 清の戦争「アロー戦争」が始まりました。 大英帝国とタイマンですら勝てないのに、フランスまで敵にまわしたら勝てる訳ありません。 ましてや、当時、清の国内は「太平天国の乱」が起こっており、ぐだぐだの状態。 結局、降伏して「天津条約」を結ぶことになります。(「天津」は地名です) 天津条約の内容は以下の通り ・外国大使を北京に駐在させます。 ・貿易できる港をもっと増やせ。 ・キリスト教の布教を自由にさせろ。 ・賠償金払え。 清が「わかった、約束する。でも、1年待ってくれ」と言うので、英仏連合軍は一年後、改めて天津に来ました。 そこでまた事件が・・・ |
12月30日(月) |
大英帝国 vs 清(後編)
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ところが、英仏連合艦隊が天津へ行くための河の河口に障害物が・・・ これじゃ、通れないんで障害物を取り除いていると、大砲がズドーン。 清軍の攻撃です。 英仏連合軍は大被害を被って、一旦上海まで引きます。 さすがに頭にきました。マジギレです。 英仏連合軍は、大艦隊 with 約1万7千人の兵隊という大軍で逆襲して来ました。 身に染みて判っているはずですが、清は勝てる訳ありません。 結局、天津は英仏連合軍に占領されました。 こりゃヤバイと思った清は、大臣を天津に送って交渉を始めますが、清の信用まるで無し。 当然、交渉も決裂して英仏連合軍は北京まで占領。 すごい略奪&破壊っぷりを見せます。 もうどうしようも無くなった清はロシアに仲裁を求めて、英仏もこれを了承。 あらためて清は英仏と「北京条約」を結びます。 内容は「天津条約」の内容にプラスして ・天津も貿易に使えるようにしろ。 ・九龍半島の一部はイギリスがいただきます。 ・アヘン貿易も公認しなさい。 ロシアだって、タダでは仲裁なんてしてくれません。 清はロシアとも「北京条約」を結び、仲介料として沿海州がロシアものになりました。 やっぱり踏んだり蹴ったりです。清。 こうしてアロー戦争は一段落つきました。 アロー戦争の事を「第2次アヘン戦争」とも言います。 この二つの戦争で、大国だと思われていた清が、実は「すっげぇ弱い」事が世界にばれてしまいます。 ついでに、この14年後、日本の台湾出兵で、領地を治めるという意識も、条例や万国公法などの法に関する意識も知識も薄いこともばれてしまい、欧米は「清って、実は美味しい場所なのでは?」と思い始めます。 と、いうのは、当時の万国公法では、積極的に治めていない領地は「空き地」と同じ扱いです。 広大な空き地。その上、弱く、法の知識も乏しいなんてくれば、それはもう「植民地予定地」に大決定です。 この頃から、清の転落人生(?)が始まっていくのでした。 話は「列強 大英帝国」 まで戻りますが、このようなこともあり、大英帝国は「植民地予定地」の清より、アジアの新興勢力になりつつある日本を重視したのでした。 このあと、日本は大英帝国の予想以上の力を発揮するのですが、これはまた別のお話・・・ |
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