ドストエーフスキイ全作品を読む会 読書会通信 No.98  発行:2006.10.3



第217回10月読書会のお知らせ

10月読書会は、下記の要領で開きます。大勢の皆様のご参加をお待ちしています。

月 日 : 2006年10月14日(土)
場 所 : 東京芸術劇場小1会議室(池袋西口徒歩3分).03-5391-2111
開 場 : 午後1時30分
時 間 : 午後2時00分 〜 4時50分
作 品  : 『罪と罰』 第3回
報告者  :  岡野 秀彦氏
会 費 : 1000円(学生500円)

◎ 終了後は、近くのお店で二次会を開きます。
会 場 : 予定として「日本橋亭」
時 間 : 夕5時10分〜7時10分頃迄
会 費 : 3〜4千円




10・14読書会『罪と罰』 第3回

 10月14日(土)の読書会・報告者は、岡野秀彦氏です。作品は6月、8月読書会につづいて『罪と罰』の3回目です。氏の専門は経済学。異なる視点からの解読が楽しみです。

報告要旨

『オイディプス王』と『罪と罰』

岡野秀彦

1. プロット分析

 オイディプスとラスコーリニコフは同質の人間である。両者とも頭が良く、気短かで誇り高い。ストーリーも、基本的には勧善懲悪の物語で同質のものである。ラスコーリニコフは老婆殺しの罪を犯した。それによって良心の責めを負い、やがて自ら罰を受けるにいたる。オイディプスは父を殺し、母と交わる罪を犯した。やがて自らの目を突くにいたる。
 が、『オイディプス王』と『罪と罰』の類似性は、ストーリーよりはむしろプロットにこそあるだろう。ストーリーとプロットは相互補完的な関係にある。『罪と罰』のストーリーを成立させる価値観はキリスト教であるが、プロットを成立させる価値観はむしろギリシア悲劇的なものにおもわれる。この世の中を不合理なものとみなす価値観である。
 ラスコーリニコフの老婆殺しは、「罪」でもあるが同時に「罰」でもある。そして、現在罰を受けている人間が、一体なんの罪によってこのような罰を受けるのかと模索するようなプロットに『罪と罰』はしあがっている。「罪→罰」でなく、「罰→罪」というプロットなのだ。『オイディプス王』と同じである。ついでに言えば、両作とも、いわゆる「三一致の法則(筋・時・場所の一致)」に従っている。
 ソポクレスはオイディプスを破滅させ『オイディプス王』を終えた。しかし、どこか割りきれないものも残る。一体、オイディプスに罪があるといえるのか? かれが父親を殺したのは、知らずにしたことであり、しかも正当防衛であった。だいたい、オイディプスが「父を殺す」という呪いを受けたのは、そもそも父親が罪を犯し「その子どもに殺される」という呪いを受けたことによるのだ。どう考えても、とばっちりではないか。かれが母親と交わったのも、知っていてそうしたわけではない。
 ソポクレスは、そういった割りきれなさに対するオイディプスの憤懣を『コロノスのオイディプス』において述べさせた。ソポクレスの遺作となったこの劇は、オイディプスの神への怒りが、やがて神との和解へと向う物語である。
 どうであろう。どこか似てはいまいか。われわれの良く知る、『罪と罰』のエピローグに。『オイディプス王』と『罪と罰』本編は、共に、エピローグを必要とするプロットなのである。

2. 歴史

 シェイクスピア以前を「演劇の時代」、以後を「小説の時代」とすることができる。「演劇の時代」を代表するジャンルとしては、ギリシア悲劇が最も適当であろう。そして『オイディプス王』は、最もギリシア悲劇的な作品とされている。
 「それは人間である」とスフィンクスの問いに答えたオイディプスは、哲人政治を理想とする古代ギリシア人の神話であった。最も人間について良く知る者が人間の王となる。古代ギリシアにおいて「知」は美徳であった。アリストテレスは『詩学』において、すぐれた人物が悲劇を担い、おとった人物が喜劇を担うと分析している。『オイディプス王』は、「知」において衆にすぐれた人物の悲劇であった。しかし人間は、ついに自己の運命を知り得ない。
 オイディプスを翻弄するアポロンの神殿に刻まれた言葉は、「汝自身を知れ」であった。
 強者がその強さによって滅びるのがギリシア悲劇の特質である。それに対し、近代小説世界において、強者は、その強さによって成功する。「小説の時代」の代表者としては、ロビンソン・クルーソーでもジャン・バルジャンでも良い。ドイツのビルドゥングス・ロマーンの一群でも良いし、アメリカのサクセス・ストーリー群でも良いだろう。成長し成功するのが近代小説の主人公なのである。
 これを言いかえれば、弱者がその弱さによって滅びるのが近代小説世界なのである。そういった、いわば近代小説のネガとして、ドストエフスキーの作品は近代小説に対し補完的に存在している。ポジ・ネガの関係にはあるが、『罪と罰』は基本的には近代小説である。自己のアイデンティティを追求し、いったんは破滅するがやがて救済されるラスコーリニコフは、キリスト教の価値観にもとづく近代小説の主人公なのだ。
 オイディプスとラスコーリニコフの違いは、前者が強者であるのに対し、後者が弱者であることだ。近代の強者は、くりかえすが、成功する。ナポレオンのように楽々と踏み越えてゆくのが近代の強者である。ラスコーリニコフは弱者である。『罪と罰』は、ストーリーの面に注目すれば、神と和解し救済される弱者の物語である。
 しかし神と和解できぬ弱者も『罪と罰』にはいるのである。たとえばカチェリーナ・イワーノヴナ。
 「え? 坊さん?……いらない……わたしたちにどうしてそんな余分なお金があるものかね?……わたしには罪障なんかありません……でなくたって、神さまは許してくださる……わたしがどんなに苦しんだか、神さまはちゃんとごぞんじでいらっしゃる……でも許してくださらなけりゃ、それもかまわない!……」(米川正夫訳)
 カチェリーナを滅ぼしたのは、かの女自身の弱さである。マルメラードフも同様である。そしてかれら弱者の居場所は、笑いのなかにしかない。笑いは全てを肯定する。笑いによってしか、弱者の滅びに尊厳が与えられることはないのである。『罪と罰』のプロットに注目すると、マルメラードフ家のひとびとによって、ラスコーリニコフが活性化されていることがわかる。弱者が救済されるのでなく、弱者が弱者のまま、元気づけられるという面もまた『罪と罰』にはあるのだ。
 文学史におけるこのような『罪と罰』の位置付けから導出される現代日本の「罪と罰」の代表例として、松尾スズキの『ファンキー! 宇宙は見える所までしかない』(1997)を紹介しようと考えている。この作品の主張は、このようなものである。「神様なんていない。人間の魂なんて存在しない。宇宙は見える所までしかない。そんな罪と罰のバランスの崩れた世の中で、ぼくたちの居場所は、ファンキーな笑いのなかにしかない。」

 最後に、人間は自分自身を知ることができない、という点についてクルト・ゲーデルの「不完全性定理」を検討し、人間は他者を必要とする、という点についてエマニュエル・レヴィナスの他者論を検討し、弱者と笑い、という点について坂口安吾のファルス論を検討し、三者の生誕百周年の祝いとしたい。




あの時代は、どう読んだか。1984、85、96年の読書会から。2サイクル目。

プレイバック『罪と罰』

 この作品をはじめて読書会でとりあげたのは1974年ですから、それから10年の歳月が流れています。時代も確実に変化しています。2サイクル目は足かけ三年三回に分けての読書会でした。三人の方の報告評が「会報」で発表されています。順番に紹介します。

★ No.86「ドストエーフスキイの会 会報」1984.11.30より
          
『罪と罰』(第一回) 高梨純夫

 「全作品を読む会」はいよいよ後期の大作の一つ、『罪と罰』をとりあげる事になった。なに分長編なので今回は第二編までとした。第二編までといっても、河出書房の愛蔵決定版でいうと二百頁近くある。この分量を報告・討論含めて正味一時間半ほどですまそうとすると、作品全体にかかわる大きな問題をとりあげることにならざるをえない。とくに今回は第一回なので、これから読み進んでいく上で前提となる点をとりあげた。
 報告者は二つの問題を提起した。一つは叙述スタイルについて。二つは犯罪論とラスコーリニコフの関係性である。第一について報告者はあらまし次のようにレポートした。
 作家はなぜ第三人称の叙述――「作者の物語、目にこそ見えね、いっさいを知っている人物で、一刻も主人公から目を放さぬ人としての物語」(『創作ノート』)でこの小説を書き進めたのか。ドストエフスキーは『貧しき人々』以来ほとんどの作品を一人称形式で書いている。このことは一人称形式がドストエフスキーにとって得意のものだったというだけでなく、この形式が彼が抱いていた問題を表現するのにもっとも適していたからであろう。ところが一人称叙述は『地下生活者の手記』で終わっている。そして作家はいくつかの試行の後、三人称へ転換した。はたして一人称から三人称への転換は何を意味するのか。作家の内部に何が起こったのか。一人称形式とは"私とはなんぞや"という問いを告白で表現したものである。三人称形式は同じ課題を追求するに際して主人公を描くだけでなく、彼を取りまく諸人物を主人公の分身として、あるいは反対の立場にある人物としてえがいてゆく。逆にいえば作家はこの形式において"私とはなんぞや"という問いを"私"にだけ語らせるのではなく、諸人物の口を通しても語らせる立場になったわけである。主人公を批判し、あるいは反対する人物をえがくことによって、作家は彼のかかえている問題を相対的に考察することが可能になったのだ。なぜこれが可能となったのか。報告者は「安価な幸福と高められた苦悩といっいどちらがいいだろう?」(『地下生活者・・・』)という思想が、『罪と罰』において「幸福は苦痛によってあがなわれる」という形で明確に作家の内部で深化した点に求めたいのだが、どんなもんであろうか。
 第二点は主人公と犯罪論のかかわりである。報告者は、この小説は抽象的理論と人間性との葛藤をえがいたものと想定して読みはじめた。この想定を検証するために、殺人を犯す直前の主人公の心理と理論の変化を丹念においかけてみようとした。そこで気づいたのは作家は犯行直前のラスコーリニコフの心の動きは実に綿密に描いているのに較べて、第二編までに出てくる犯罪論はほとんど断片的なものにすぎない(まとまった形で表現されるのは第三編のポリフィリーとの対決の場)。
 老婆殺しという行為に疑問を抱き、動揺し恐怖を感じ、嫌悪感をかくさない主人公の心理に対峙して、理論が殺人という実行行為にむけてますます先鋭化し、厳密につくりあげられ、ついに理論が心理の抑制をつきやぶって犯行におよぶ、というようにはえがかれていない。犯罪の理論は犯行前にも犯行後にもいささかの変化もない。このことは、犯行に至る間、ラスコーリニコフの肉体的、精神的緊張は、彼の犯罪論になんの影響も与えなかった。ということを意味するだろう。理論というものが人間の思考過程や思考方向を制約するするだけでなく、日常生活の一挙手、一投足までも規制する規定力があるとするならば、ラスコーリニコフの場合、こうした理論の機能を認めることはできない。一言でいえば、理論は彼にとって外在的にしかかかわっていなかったのである。
 そこからひるがえって、この小説の基本テーマを米川正夫氏が巻末解説で明らかにしているように「・・・ラスコーリニコフの物語は徹頭徹尾、抽象的理論の人間性に加えた暴虐とそれに対する人間性の復讐の歴史である」とよみとることができるのだろうか。(了)


No.87「ドストエーフスキイの会 会報」1985.2.21より
          
『罪と罰』(第二回) 奥野武久

 ドストエフスキーの小説はまあどれもそうだが『罪と罰』は僕ら読者には不幸な事に(ドストエフスキーには愉快な事かもしれないが)読み手であることを許さない。特に第2編〜第3編(主に犯行後のラスコーリニコフの心理描写とスヴィドリガイロフやソーニャとの対話が書かれている)は後の『カラマーゾフの兄弟』とは違って初めに老婆殺害があってその後の経過を追うというストーリー性が二重の時間と陰影を浮かび上がらせていて非常にわかりにくい。だから僕は偏執的に読んでみた。マルメラードフの言う、もうどこへも行けないという事、初めから殺人などなかったのに血まみれの老婆の死体がころがっている部屋、老婆殺しによってこれから始まる殺人、知っていることには気づいていないが皆が見たラスコリニコフの犯行、「またしてもこの間のあの恐ろしい感覚が死のように冷たく彼の胸を走り過ぎたのである。今はもう決してゆっくり話が出来るどころかどんな問題についても誰とも話をすることが出来ないのだ」目の前の母親が千里も手前から見える様な男の視線に老婆殺しの陰影をたずさえて母親と妹が訪ねてくるのはそんな時だ、「まあ、お前の部屋ったら、なんてひどい所だろうね、ロージャまるで棺のようじゃないか」
 友人ラズーミヒンのラスコリニコフの無罪を証明する為にトリックを見破ろうとする努力や、裏をかいて犯行をつかみそこねる検事ポリフィーリィの善意によってラスコリニコフの犯罪が暴かれていく様なそんな場とは、老婆殺しの、そしてスヴィドリガイロフの語る、永遠とは田舎の小ぼけな湯殿の隅に張っている蜘蛛の巣だという。卑小な日常が永遠の謎めいた光景である所。こういう怖さ、永遠というものをどこか遠くの高い所に置いているのにそれが日常の身近な物にしかすぎないとか、子供の頃見慣れない外界が自分とは関係のしに動いていてそれが自分を巻き込んでいく恐怖と期待、寝る時に部屋の中の物が妙に明確な輪郭を持って身近に感じられたり廻りの物音が多目的に響いたり(僕は子供の頃、「やだってなっちゃった」と呼んでいたが)というのとも少し違う。永遠というものが湯殿の隅に張っている蜘蛛の巣として目の前の光景として在りラスコリニコフが老婆殺害によって園中にいる事。けれどももっと恐ろしいのは、そういった光景、犯罪がそれ自体の破れによって全く違った意味を帯びてくる事。ラスコリニコフを人殺し呼ばわりした地の底からわき出た職人風の男(このラスコリニコフを手招きする男がスヴィドリガイロフにつながるくだりは非常に奇怪だが)が後にその無礼をあやまりに来たり、「今のラスコリニコフにはどうしても理解することの出来ない説明の仕様もないものが潜んでいるニコライの自白。」そしてラザロの復活を語るソーニャの存在。何もわかっていないソーニャ(ラスコリニコフにとって)がラスコリニコフの理解をはるかに超えた存在で二人が出逢うのが老婆殺しの、ラスコリニコフがネバ川の橋の上で見たパノラマやスヴィドリガイロフが語る永遠のイメージの場でそしてそれがラスコリニコフの犯行によって生じたならば、(スヴィドリガイロフはラスコリニコフの空想を卒業してしまったあちら側の否定的分身というだけでは割り切れない様な気がする。スヴィドリガイロフはラスコリニコフとソーニャを結び合わせる否定的媒介者かも知れない)そしてソーニャのリザヴェータの十字架による信仰とは何か、それはどこから生じたのだろうか、そしてラスコリニコフはいったい誰を殺したのか、老婆の巻きぞえのリザヴェータか、自分をか、それともソーニャの言う様に神ちゃまを殺してしまったのならば初めからなかった空間にソーニャによって顕れたラスコリニコフが知らずに自分といっしょに殺してしまった神とはどんな神なのか。
 人間の内面か外面かという問いが無意味に響く所、だが作者ドストエフスキーの目はおだやかだ、それはあの魯迅が過激な中にどこかやさしさを持っている様な、ドストエフスキーもそういうやさしさを持った男だ。(了)


No.93「ドストエーフスキイの会 会報」1986.1.24より
          
『罪と罰』(第三回)  田中幸治

 ラスコーリニコフが金貸しの老婆を殺してしまった後、ヷシーリェフス島に、親友ラズーミヒンを訪ねる。だが、、友の顔を見た瞬間、ああ俺にはもうなにも話すことはないのだと気がつき、話すことができない自分に気がつき、といった方がよいかもしれないが、ひき返す。ネヴ河の下流、フィンランド湾に近い、したがって荷役の船等が沢山川に浮かんでバシャの往来も激しいところ、ニコラェフスキイ橋。もう一つ手前、つまり上流の橋だと、対岸にはエルミタージュ美術館があり、そこは静かな美しいところである。聖イサク寺院は、両端のほぼ中央、ワ゛シーリェフスキイ島からみれば対岸にあり、そのドームの耀きは、どの地点からでも見える。
 ここでラスコーリニコフは馬車にひかれそうになって、それをみていた商家の女房と娘が「取っておくんなさいよ、お前さん、キリスト様のためにね」といって二十コペイカ銀貨を彼の手につかませる。ところが彼はこれを川に投げこんでしまうのだ。この瞬間、彼は、「断絶」したいという感触をもつ。
 『死の家』では話がこれと逆になっている。「私も自分が初めて金の施しを受けたことを覚えている。それは監獄へ入ってから間もなくのことであった。私は警護兵に伴われて、ただ一人朝の仕事から帰っていた。すると、母娘のものがやって来た。子供は十ばかりの女の子で、小さな天使のように可愛かった。私は彼等を前に一ど見たことがあった。母親は兵士の妻で、今は寡婦になっていた。亭主は若い兵隊で、裁判にかけられている間に、衛戌病院の囚人室で死んでしまった。その時、私も同じ病院で病床に就いていたのだ。女房と娘は最後の別れにやって来た。二人ともずいぶん泣いたものである。私の姿を見ると、女の子は顔を赤らめて、なにか母親に囁いた。母親は忽ち足を停めて、風呂敷包みの中から四分の一コペイカの銅銭を捜し出し、それを娘に渡した。女の子はいきなり私の跡を追って駆け出して来て、金を私の手に押しつけるようにしながらこう叫んだ。私はその銅貨を受け取った。女の子はさも満足げな様子で母親の傍らへ引き返した。この銅貨を私は長いこと蔵っておいた。」(『死の家の記録』第一部一、死の家)お金は「長いこと蔵っておかれる」のである。この両者の対比が決定的に重要であると私は考え、二十コペイカを握りしめ、ワ゛ーシーリェフスキイ島からこの現在のシュミット橋をわたって、三度歩き考えてきた。『死の家』には以上引用した叙述の前に次のようにある。
「最後にもう一つ、囚人を裕福にするというのではないけれども、年中絶えることのない、しかも功徳になる収入の道があった。それは施しの金である。わが上流社会は、商人とか町人とか、その他一般に民衆が、いわゆる『不仕合せな人たち』のためにどれだけ心を遣うかということに一向理解を持っていない。施しは殆ど絶えずあるけれど、大抵いつも黒パンか、白パンか、丸パンであって金でくれることは遥かに稀である。もしこういった施しがなかったら、多くの土地、土地に於ける囚人たち、特に既決囚よりもずっと厳格に取り扱われている未決囚は、ひどく苦しい羽目におかれたに違いない。施し物は宗教的な考えから、囚人たちの間に等分に分配される。もしみんなに行き渡るだけなかったら、丸パンなどは同じ量に切り分けられる。時によると、六等分されることさえあって、一人ひとりの囚人が、必ず自分の分け前を貰うことになっている。」
 この「不仕合せな人たち」=ニェシャースヌイェという考え方については、ドストエーフスキイが1873年の『作家の日記』二、昔の人々三、環境、で詳細にこの民衆の考え方の構造を展開し、そしてドストエーフスキイは、ここに於いて、ユングの普遍的無意識に相当する(パラレルである)見解を記している。この考えを十分に把握する=体得することが『罪と罰』理解に関して、欠くべからざる要件であると私は考える。(了)


1985年2月21日(木)開催の第81回例会

『罪と罰』における時間の構造 高橋誠一郎

【報告要旨】会報88号1985.4.25
 1881年にドストエフスキーがペテルブルグに没してから、すでに一世紀以上が過ぎた。十年一昔というときの尺度を借りれば、彼の死は十昔前の出来事であるといえよう。けれども思想的評価はわかれながらも、ドストエフスキーが過去の作家ではなく、むしろ現代に属する作家であるという認識は、多くの研究者の間で定着しているように思える。このことはドストエフスキーの人間観や世界観の新しさを物語るとともに、彼自身の時間観や彼の小説が持つ「時間」の構造の新しさをも証明しているのではないだろうか。
 ドストエフスキーの作品における「時間」の特異性については、すでに様々な指摘があるが、ここでは二つの側面から『罪と罰』が持つ時間の構造へと迫ってみたい。

・・・というここで、本論に入るわけですが、まことに申し訳ありませんが紙面の関係で省略します。内容を知りたい人は『場』W号の頁86、87をお読みください。ちなみに一、二の項目は以下のようになっています。三、のみ紹介。

一、長編構造としての時間構造
二、ラスコーリニコフの時間観

三、結び
 こうして多様な時間観を内在しつつも〈未来の重視〉によって犯行に踏み切ってしまったラスコーリニコフは本編の最後でソーニャ的な「時」に対する姿勢を選ぶに至る。
 そしてエピローグではこのようなラスコーリニコフの新しい時間観が描かれている。たとえばラスコーリニコフはシベリアの大河とその向こうに広がる草原を見ながら、時そのものが止まったような感覚に襲われるが、それはビエンヌ湖のほとりで自然と同化しながら「時間が魂にとって何の意味」もないと感じたルソーのことを想起させる。ラスコーリニコフもまた自然とのふれあいの中でこれまでの〈近代社会の時間意識〉を根本的にゆすぶられたのである。そして自首の前に、刑期をつとめたあとでは老いぼれて腑ぬけのようになると感じたラスコーリニコフは、その後ソーニャと共にすごす七年の刑期を七日のように感じたのであった。ドストエフスキーはラスコーリニコフの変化を通して近代の時間意識を痛烈に批判していると言えるだろう。




8・12読書会報告


『罪と罰』2回目読書会

 8月12日(土)に開かれた読書会は、会場満席の出席で大盛会でした。参加者24名。

自首をめぐってなど議論続出!!

 長野正さん報告は、ドストエフスキー文学との出会い、から『罪と罰』の作品にある謎など多岐にわたり、真摯な読みが感じられました。質疑では、リザヴェータ殺しに焦点が当てられ多くの考察、推論が議論されました。女性参加者も活発に意見されました。
 
『罪と罰』第二回目報告を終えて 

長野 正
 
 6月に『罪と罰』1回目の江原あき子さんの報告を聞いたあと、つぎは自分の出番なので、何を話すか具体的に考え始めました。そして、人前で話すのが大の苦手なわたしは前もって
骨組みを設定し、「ドストエフスキー文学との出会い」「『罪と罰』を読む」「ドストエフスキーとキリスト教」の3つの項目で臨むことにしました。
 ドストエフスキー文学との出会いとしては、中学時代に手塚治虫の漫画『罪と罰』やソビエト映画『カラマーゾフの兄弟』に触れて、自分が映像文化からドストエフスキーの世界に入ったことを話しました。それから、佐古純一郎先生のドストエフスキーの講座に1年間出席し、プロテスタントの文学集団「たねの会」主催のドストエフスキーの読書会に8年間出席したことで理解を深めることができました。一方でわたしの場合、トルストイへの愛着もあり、トルストイ研究家の北御門二郎氏に会いに熊本県球磨郡の水上村へ旅してみたり、氏が翻訳したトルストイの著作を読んだりする一面があって、「トルストイかドストエフスキーか」という逡巡はいまでも脳裏をかすめています。
 つぎに、自分がどのように『罪と罰』を読んだのか、資料を示しながら話しました。@場面、A季節(日時)、B内容、C登場人物、の4項目に即して、それをノートに記すと分析的に読むことができるとわたしは思っています。多くの「罪と罰」の梗概に、主人公のラスコーリニコフが高利貸しの老婆だけでなく、リザヴェータも殺害したことが心の負担になって自首につながっていったと書かれているが、私が読んだ範囲では、リザヴェータ殺しが主人公の良心の呵責につながって描かれていないと話しました。報告を終えたあと、司会者の福井さんが「リザヴェータ殺しはラスコーリニコフの心の負担になって、自首へとつながっているのでしょうか?」と設問したところ、出席者の人たちのさまざまな意見が出ましたが、リザヴェータ殺しは主人公の心の負担につながって自首に至ったという意見がほとんどでした。たしかにソーニャとのからみで、主人公はリザヴェータ殺しから陰に陽に心の重圧を
受けていた傾向はなくもないが、第2の殺人が自首への引き金になったと考えるには説得
力が弱いような気がします。ソーニャの説得やポリフィーリーの訊問などに比べると、わずかな要素でしかないと思います。
 じつは、わたし自身はカトリック教会に属するキリスト教徒です。「ドストエフスキーとキリスト教」という項目を話す以前に、この読書会にはクリスチャンの人がいるかもしれないが、キリスト教嫌いな人も少なくないことに配慮しました。わたしが資料で示した「キリスト教会の系統図」と「キリスト教用語と翻訳後の比較」は、そういう意味で妥当性があったと思いますが、金村繁さんから「ドストエフスキーとキリスト教について話すというから期待していたのに、浅い内容だったので期待倒れだった」と感想を聞かされたときは、自分の考え方が中途半端だったと反省させられました。ドストエフスキーを論じていく以上、キリスト教の理解度に配慮しすぎると話が進まないのかもしれません。しかし、わたし自身もアンチ・キリストだった過去があるので、キリスト教が嫌いな人のことも配慮したくなります。

提案・会の表記について
 
 最後に、この場をお借りして提案させていただきたいと思います。
 わたしのような新参者で浅学非才な人間が申し上げると、傲慢のそしりを受けられるかもしれませんが、当会の「ドストエーフスキイ」という表記は前世紀の古さが感じられるので、すでに人口に膾炙されている「ドストエフスキー」に改称したほうがいいと思います。わたしも、米川先生の偉業を偲ぶという趣旨があることは認識しております。一方でトルストイの場合はむかし、「トルストーイ」と表記されておりましたが、昨今はまったく見当たりません。まことに僭越ではございますが、「ドストエーフスキイ」から「ドストエフスキー」への改称をご提案したいと思います。

○ 上記のご提案の件ですが、会・代表の木下豊房氏にお話したところ、以前にも同様の提案があり、検討したとのことでした。その結果、「ドストエーフスキイ」は、団体の固有名詞・表記として考えることにしたとのことです。作家の名前として使う場合は、ドストエフスキーでも、ドストエフスキイでも、その人の自由でいいのではないか。このようにお聞きしました。読書会としましても「ドストエーフスキイ全作品を読む会」は、一つの固有名詞と考えております。もっとも、時代は流れています。いつの日か、新しい人たちが考えるときがくるかも知れません。ご提案ありがとうございました。(編集室)



読書会に参加して

山城むつみ氏の『罪と罰』論−ソーニャは不気味で怖しい女である−
          (『文學界』2005.12月号ドストエフスキー〔3〕)を紹介する
                                           
福井勝也

 前回の『罪と罰』の読書会に参加してこの小説の問題点について改めて思いを巡らせていた時、標記の批評文に出会った。読書会では、偶然にラスコーリニコフの老婆殺人の現場に居合わせて殺されたリザヴェータという女性の問題に焦点があたった。そして彼女と対関係にある重要人物のソーニャ、そしてこの二人の関係と主人公ラスコーリニコフとの三角関係に端を発した議論がしばらく続いた。印象に残った意見としては、この『罪と罰』という作品は、ドストエフスキーの信仰告白の書として読むべきだという結論的な意見。ソーニャという女性像が、リアルに感じられず女性読者として不満であり、リザヴェータも含めてその人間像がわかりにくいとの指摘。わかりにくさで言えば、ラスコーリニコフという主人公自身が結局は謎だという話も出た。「人を殺した」ということ(=「罪」)のラスコーリニコフ自身の徹底した不認識、それはラスコーリニコフが何故殺人に至り、その行為を最後にどう受け止めたのかという問題(=「罰」)が謎のままであるということ。そこには、最愛の母親(プリヘーリャ)妹(ドゥーニャ)という肉親への憎悪が介在しているのではないかとの議論も出た。

 山城むつみ氏は以前から注目していた批評家で、処女評論集『文学のプログラム』(1995)では小林秀雄のドストエフスキ-論を巻頭にしていた。最近は『文學界』で中身の濃いドストエフスキ-論を不定期に連載しており、このたびの『罪と罰』論はその第3回目の内容である。皆さんには、それ程古い雑誌ではないので実際にこの文章を通読されることを是非お奨めしたい。正直言って、私自身は『罪と罰』という小説の積年の問題がこの批評文でかなり解けたという実感がしている。しかしこの感覚は、前回の読書会へ参加して皆さんと議論したことの共時的な現象としてもたらされたとの実感が強い。
 ついでに、この批評はいくつかの前提となる思想・思考に基づくものであることを紹介しておく。文末に山城氏自身が参考文献としてあげているものを列挙しておく。デリダ『死を与える』/キルケゴ−ル『おそれとおののき』『死にいたる病』『愛のわざ』/ニ−チェ『反キリスト者』ほか、なおデリダの関連では高橋哲哉氏の著作『デリダ−脱構築』(講談社)の第5章-メシア的なものと責任の思考−も是非併読をお奨めしておく。



「ドストエーフスキイの会」情報

第176回例会・『広場』15号合評会開催  参加者20名
 2006年9月16日(土)午後6時〜9時00分 原宿・千駄ヶ谷区民会館で第177回例会において『広場』15号合評会が開かれた。小林銀河氏の司会で、5名の評者が『広場』15語掲載の論文評を報告した。参加者は20名。二次会は、13名が参加。居酒屋「さくら水産」。

司   会 : 小林銀河氏
越野論文 : 『悪霊』におけるコレラのイメージと権力の問題
 報告者 :  下原康子氏
近藤論文 :  ドストエフスキーの初期作品における『家主の妻』について
 報告者 :   池田和彦氏
木寺論文 :  悪魔とメフィストーフェレス、イワン・カラマーゾフとファウスト
 報告者 :   近藤靖宏氏
五島論文 :  ドストエフスキー作品における神、人間、自然の位置
 報告者 :   福井勝也氏
木下論文 :  武田泰淳とドストエフスキー    
 報告者 :   熊谷のぶよし氏




『江古田文学62』特集「チェーホフの現在」
   星雲社 2006年7月31日発行

  座談会 ドストエフスキー派から見たチェーホフ

  ・清水正(日芸教授) ・下原康子(全作品を読む会・ドスト会) 
  ・横尾和博(文芸評論家) ・下原敏彦(「読書会通信」編集室)
他に
   「医師チェーホフと患者チェーホフ」下原康子
   「ペシミズムの根拠 『六号室』を読んで」横尾和博
   「架空夜話 ある元娼婦の話」下原敏彦
 1890年6月26日、アムール河口の町に着いたチェーホフは、日本人娼婦と一夜を共にする。その夜、若き青年医師・新進作家は遊女と何を語ったのか。ドストエフスキーへの懐疑と憧れか、はたまた明治維新後の日本への憧憬か。ここに、サハリン行の謎が明かされる。
   ※資料・長瀬隆氏『日露領土紛争の根源』

☆ 山下聖美著『ニチゲー力』日本のサブ・カルチャーの発信地日大芸術学部とは何か
   三修社 定価1400+税


☆ 別冊國文学『ギャンブル』學燈社
   2006年10月20日発行 定価1575円
知のギャンブル

下原敏彦「ドストエフスキーとギャンブル」
 文豪を苦しめたルーレット賭博とは、何だったのか。突然の賭博熱の解凍とその謎。『カラマーゾフの兄弟』に秘められた文豪のメッセージとは。あの「ダヴィンチ・コード」はるかに凌ぐ人類救済の謎解きがここからはじまる。

他に読むギャンブルとして以下の作品も
沢木耕太郎「賽の踊り」        
阿佐田哲也「ラスヴェガス朝景」    
柴田練三郎「わが賭場行」       
青山二郎「上州の賭場」
坂口安吾「今日われ競輪す」
井伏鱒二「競馬」
 
☆ 和田芳英著『ロシア文学者昇曙夢&芥川龍之介論考』
            和泉書院 2001年11月25日発行 定価2500円

ロシア文学の巨星・昇曙夢。今、泉下から甦る!




連 載         

日本近代文学の<終焉>とドストエフスキー  (続編)
  −「ドストエフスキー体験」をめぐる群像− 

 (第6回)−小林秀雄という問題(5)

福井勝也                  

 
 小林秀雄の問題を続けるが、先日の例会(『広場』15号合評会)で、本連載のサブタイトルと関連した内容を含む五島和哉氏の論文を担当させていただいた。残念ながら当日の時間の制約等もあり不本意な部分を残したので、それを補うつもりで本連載において語っておきたいと思う。会場で出た小林の「私小説論」の問題についても、さらに述べておく。

 まず、五島氏の論文は「ドストフスキー作品における神、人間、自然の位置」というもので、これ自体は「カラマーゾフの兄弟」の作品等からていねいにドストフスキーの神観念等を抽出したもので解りやすい図(モデル)が付与されている。このような読み解きは、研究者の客観的な仕事として十分に評価できるものである。ただし、このモデルがある作品のある登場人物の神観念等を表現していても、それがドストフスキーその人自身のものであるとは勿論断定できない。氏もあらかじめこの点をタイトルで断っている。ここでは、「異界」とか「陥罪」それ以前、以後の「自然」、それを繋ぐ「地上における神の反映としてのキリスト」と言った言葉がキーワードだろう。このような中身として、「ドストエフスキーの神観念」を理解したとき、これがおそらくロシアという土壌から生み出されたもので、かつキリスト教文化圏の19世紀作家のものだということは理解される。しかし、逆にそれが勿論カトリックの正当教義のものでないのと同様に、おそらくロシア正教のそれでもないということだろう。結局は、それはドストエフスキー固有、独自のものであって、より正確には作家の分身である作中人物が特定のテキストのコンテクストなかで語ったもの、その集合的観念でしかないということになる。
ここで、以上のように言及することは五島論文をこの点でのみ論評するためではない。むしろ今回の連載との関連で問題としたいのは、氏が論文に先立つ例会の発表で時間を割き、元来論文でも本格的に論じようとしたたもう一つの課題との絡みである。残念ながらその点の論述が十分なされなかったが、その意図は論文でも次のように書かれている。
「本稿では、そんな (戦後文学者の高橋和巳・埴谷雄高についてこの直前で触れられているー筆者注) 戦後文学のドストエフスキー受容における不幸な<すれちがい>が起こった原因をあぶり出す、ひとつの問題提起として、ドストフスキー作品における神、人間、自然の位置関係について概観していきたい。」さらに発表の際に配布された資料、 「ドストフスキーの〈神〉と戦後日本文学―信仰する無神論者たち 埴谷雄高、高橋和巳、大江健三郎」 冒頭の問題提起の第一点に 「日本人作家らのドストエフスキー受容が<ドストエフスキー体験>と呼ばれ、個人的なものに限定されたのは何故か?」 との疑問が提示されている。五島氏が意図したことは、前段で明らかにした「ドストフスキーの神観念」を前提に、戦後日本文学の、ひいては近代日本文学のドストエフスキー受容の問題をあぶり出そうとしたわけであった。私自身も、五島氏に先立つその前回の例会で同趣旨の発表をしたのだったが、その意味ではタイムリーな連続性と、それも若い研究者が自分と同様の関心を持ってくれていることをうれしく思った次第だ。氏は発表にあたって、レジュメのエピグラフで萩原朔太郎のドストエフスキーを神と崇める言葉も引用し、先に挙げた数人の戦後文学者のドストエフスキー受容について論じてくれた。そして以下のようにこの資料を締めくくっている。

 「強固なキリスト教世界観によるキリスト教モデルを擁するドストエフスキー受容に際し、これらの文学者の至ったのは埴谷雄高、大江健三郎のような意識的な読み違え、あるいはまっとうに立ち向かおうとした高橋和巳のように、ドストエフスキーの神については沈黙せざるを得ない、という実情であった。これらの試みは、ドストエフスキーの神をまったく無視してきたこれまでの<ドストエフスキー体験>に比べれば、総合的な視野を持っていたと言えるだろうが、ドストエフスキーとのすれちがいであることには変わりなかったのではないだろうか?」(ゴシック及び下線は筆者―注)

 私の「広場」(14号)の論文とこの連載に共通の問題意識は、五島氏が結論的に語っていることと基本的に重なっている。氏の発表にも同じような言葉があった記憶しているが、簡単に言えば戦後日本文学を含めて、明治以降の近代日本文学の<ドストエフスキー受容>は「誤読」の連続であったと言うことだ。それを、「読み違え」「すれちがい」と言っても同じだ。しかし、ただそう言い放つだけでは余り意味のあることでもないだろう。ここで<ドストエフスキー体験>という言葉を含めて、やや抽象的な言い方になるのを覚悟しつつ、この問題を五島論文に則してもう少していねいに論じてみたいと思う。
 近代日本文学における<ドストエフスキー受容>が問題とされるとき、そしてさらに<ドストエフスキー体験>という言葉が絡んで来るとき、前提的な思考の整理がまず必要だろう。すなわち、文学受容としての読書体験は、近代小説が「黙読」というスタイルを強制するように、元来個々人の内心の問題でしかないということだ。その点では、五島氏の「日本人作家らのドストエフスキー受容が<ドストエフスキー体験>と呼ばれ、個人的なものに限定されたのは何故か?」という問いの後段は、近代読書体験の当然の帰結でしかないと言える。そのうえで、何故このような設問があえてなされたかというと<ドストエフスキー体験>という語彙が、そのようなむしろ個人的な前提から離脱して、すなわち個々人の内心から離れて集団的な精神的傾向を表現する特別な符牒(ターム)として意味を持ち得てきたからだろう。この言葉がそのようなニュアンスで意識的に語られ始めたのは、もちろんそれほど古い昔のことではない。せいぜい椎名麟三氏の著書名として同じ言葉が利用された頃(1967)からか、あるいは松本健一氏の『ドストエフスキーと日本人』という著書が刊行された時期(1975)辺りまででなかったか。ただ文学史的には、内田魯庵以降の翻訳を通じての読書体験は、今なお継続されて来ている。問題は、この言葉が、そのような個人レベルを離れた日本近代文学史の流れに何らかの特別な意味を付与され、時代の色を帯びた文学世代的語彙として語られてきたことなのだろう。この辺になると、おそらく昭和10年前後の「シェストフ論争」に端を発する昭和期の戦前・戦中を通じた<転向体験>との絡みで<ドストエフスキー体験>という言葉の出所が歴史的に浮かび上がって来るのではないか。そしてその意味での語彙は、学生運動が下火になった時期、70年代末頃までがその棲息期間であって、その後は死語となったということか。いずれにしても<ドストエフスキー体験>という語彙は、五島氏が指摘した「ドストエフスキーの神観念」をどの程度正確に読み得たかが問題ではなく、それ自体が異文化体験の一反応パタ−ンであって、受容する側の歴史・文化的な意識の問題としてあった。その意味で「誤読」「すれ違い」の歴史こそ、<ドストエフスキー受容>の真相で、<ドストエフスキー体験>という語彙もその受容の心的傾向を表象したものと考えるべきであろう。あとは、その事が個々の作家のなかにドストエフスキー文学の影響としてどう痕跡を残しているかについて微細に検証してゆく作業の問題なのではないか。そしてその結果、集合的に浮かび上がる日本近代文学史のなかのドストエフスキ−像というものを明らかにすることに意義があるはずだ。おそらく、そこに「大いなる誤読史」が刻まれていたにしても。

 そこで今回、その具体的対象として五島氏が問題にしたのが、埴谷、高橋、大江という「戦後文学派」の系譜であった。このなかには、もちろん椎名を含めてもよいはずだ。そして、五島論文の後の木下論文が対象とした武田泰淳も入ってくる。何故「戦後文学派」なのか?ここでドストエフスキーと「戦後文学派」を結ぶ文学史的な接点について改めて考えてみたい。狭義の「戦後文学派」とは、敗戦直後の混乱期に雑誌『近代文学』を創刊して活動を開始したグループで、主に戦前の共産主義運動からの転向体験を持つ者達が中心となった文学集団であった。後に埴谷は、その中でも自分を含む椎名と武田を特に「ドストエフスキー・エコール(族・派)」と自称したという。
 「戦後文学派」を他の文学エコール(族・派)と区別するメルクマールとは何か?それはおそらく敗戦という歴史的転換期に、明治維新以降失敗をしてきた日本「近代化」の実現について改めて明確な意識を持ったことではないか。それは端的には、「近代的な自我意識」への拘りであったと思う。それを、「主体」・「近代的自我」を持った人間像の文学的確立と言いかえてもよい。何故、これに拘ったのか?それは戦争を結局阻止し得なかった自分達知識人の責任を痛感したと同時に、日本人民のなかに確固とした「主体」・「近代的自我」が形成されなかったことが戦争惨禍の真の原因であったと反省したためだろう。戦後の文学運動こそ、このことの実現をめざすべきだと考えたに違いない。ここから、例えば近代文学派的な日本文学史の読み直しも行われる。まずは、二葉亭四迷の『浮雲』の主人公を日本文学に現れた「近代的自我」の葛藤に苦しむ意識的人格の嚆矢として、近代日本文学の出発点に位置づけ評価してゆく。また、「家」や「差別」などの封建遺制との軋轢への反抗に出発しながらも、結局は、そこから自閉的かつ狭隘な「私小説」を生んでしまった日本近代文学の主流派「自然主義文学」を当面批判すべき対象とした。なかでも、「近代的自我」の特殊日本的変形型を生んだ「私小説」の克服は「戦後文学派」の最大の課題であったと言える。
 実は、この「戦後文学派」が敗戦期に採った文学的ポジションは、戦後すぐに行われた小林秀雄を召還しての有名な文学会議で、例えば、平野謙・本多秋五と小林秀雄とのやりとりにそのすれ違いの様子がよく現れている。「戦後文学派」のメンバーは、かつて小林秀雄の「私小説論」に社会化した近代的自我の可能性を夢見た者達であった。敗戦後、再び小林を召還しその出発点に戻り、小林のその後の文学的軌跡を含めその功罪に詰め寄ろうとした。実は、ここで「戦後文学派」は小林を何重にも誤解していたことに気が付かなかった。確かに、小林は「私小説論」で、<社会化した私>について語った。しかしそこで語ろうとしたのは、西欧が歴史的に到達したジイド的な「近代的自我」の日本化の可能性ではなかった。その証拠に、彼がその後に書いたのは、ロシアの19世紀の作家である「ドストエフスキーの生活」という作品であった。この批評の意味については本連載ですでに語ってきたことだが、それは小林にとっての新しいスタイルでの「私小説」と言えるものであった。そこでは、徹底したかたちでドストエフスキーという19世紀のロシアの歴史を生きた作家像がデッサンされた。ここで試みられているのは、文学史的な意味での「私小説の否定」でも「近代的自我の肯定」でもない。昭和のこの時期に置かれた知識人の状況を、ドストエフスキーを鏡として、自画像的に顕在化させることであった。歴史と時代と切り結ぶ酷薄な観念・思想というものを背負った社会的人間像を提示することであった。ここでは、ドストエフスキーの単一な「近代的自我」ならぬ、その作品の創造に寄与する相対的な複数的自我のあり方も示唆されている。この点で、敗戦期の「戦後文学派」はむしろ観念的な「近代的自我」をドストエフスキー文学へ読み込もうとしていたのではなかったか。今回、木下氏が武田泰淳に見ようとしたバフチンの説くドストエフスキーの作家的自我の複数性の指摘は傾聴に値するものだが、おそらく武田のこの時期のそれはバフチン的な内容とは言えないものであったろう。むしろそれは究極的には仏教的なマンダラ的世界に基づく遍在的複数自己の反映であったと思われる。
 今まで語られてきたドストエフスキー作品に「近代的自我」を見る見方として、例えば「地下室の手記」は<近代的自意識>に苦しむ男の独白だとの読み方がある。これは必ずしも間違った説明ではないだろう。しかしその言い方には、確立すべき「近代的自我」を前提にしようとする観念的転倒が存在して来た。言い換えれば「近代的自我」なるものをドグマ化して有り難がる自然主義文学派以来の観念的欺瞞が「戦後文学派」にも浸透していた。小林は、その「私小説論」でジイド的な西欧的な近代自我意識が到達したその歴史性を語りながら、日本的な自我意識との彼我の差異を見極めていた。その視点が、小林にロシアの作家であるドストエフスキーに向かわせたのだろう。この時点で、小林のボードレールからランボーを経た作家的自意識の問題は、西洋的な「近代的自我」への拘りを脱していた。実は、敗戦期「戦後文学派」と小林との違いは、小林が脱したその次元に「戦後文学派」があいかわらず留まっていたことにあった。「戦後文学派」のドストエフスキー文学の「誤読」「すれ違い」の原因もそこにあった。そして、この問題はドストエフスキー文学解釈に構造主義的な文学論としてのバフチン理論が導入されてもすぐには変化しなかったのではないか。勿論、バフチンはドストエフスキー文学を「近代的自我」の絡みで語ることはなかったし、バフチンにとってのドストエフスキーの自我は常に創作上の問題として複数的に語られてきた。結局、「私小説」と裏腹に絡んだ「近代的自我」の確立の問題は、この日本近代化の特殊性が語られ、構造主義的哲学が西欧の近代的自我の虚偽性を明らかにするまで、ドストエフスキー文学の「誤読」として継続した。ここで、某引用をして今号を締めくくろうと思う。「かつて、私小説の根強い伝統を断ち切るべく、作者と作品を分離して考えることの必要性が多くの人々によって論じられたことがあった。しかし、もしも作者自身がひとつの虚構、ひとつの作品であるとすればどうか。作者と作品は、一度分離させられたうえで、ふたたび結合させられなければならない。」 この出典等は、次号に続く。


                                                 
掲 示 板

講演会

☆ 小森陽一による「村上春樹の文学」
   〜『海辺のカフカ』を読む〜

月 日 : 2006年10月29日(日)
時 間 : 15時〜17時
会 場 : ベルブ永山5Fホール最寄り駅・京王相模原線か小田急相模原線「永山駅」
                   新宿から電車で35分、徒歩3分
参加費 : 600円
懇親会 : 17時〜 先着順10月20日まで、090-3472-9861 福井
主 催 : 読書会 著莪(シャガ) 多摩市・永山公民館

 地道かつ果敢にテキスト精読を継続してきた「シャガ」だからこそ提供できる、21世紀の文学における言葉とは何か、人間の記憶とは何かについて改めて問い直す「村上春樹・ムラカミハルキをめぐる冒険的文学講演会」に是非皆さんご参集を!(F)

演 劇

☆ 俳優座「罪と罰」 昼1:30 夜6:30

2006年10月5日(木)〜15日(日) 新宿・紀伊国屋ホール 一般5250円、学生3675円
申し込み=俳優座03-3405-4743


☆  歌集『月のようなもの』
    まえだたみこ  ながら書房2006年2月20日発行 定価2400+税

生きることは悲しいものと思う時がある。その悲しさの根源を逃げることなく見据えて生きたい。時には虚構の世界と現実との境もおぼろとなりながら、生きることへの指針を短歌に模索し続けてきたと思っている。(あとがきより)
 俯せば 安堵のかたち ゆらゆらと 産み落したる 月のようなもの
      
 のったりと 春の眠気が やってくる 忘れたいこと 貯まったらしい

☆ 同人誌『小説図鑑』第16号 日曜文学館発行 2006年夏
  エッセイ・羽鳥善行「暗夜行路」
  志賀直哉の小説『暗夜行路』最終章、大山と『城の崎にて』への夫婦旅。
  エッセイ・羽鳥善行「椎間板ヘルニア」突然の腰痛に襲われた苦しみ。
  ○ちなみに羽鳥善行は、長野正さんのペンネームです。




編 集 室

○ 年6回発行の「読書会通信」は、皆様のご支援でつづいております。ご協力くださる方は下記の振込み先によろしくお願    いします。(一口千円です)
   郵便口座名・「読書会通信」    口座番号・00160-0-48024 

○ ドストエーフスキイ作品の感想、評論、自著の宣伝、映画、演劇評など、かまいません
  原稿をお送りください。

  「読書会通信」編集室:〒274-0825 船橋市前原西6-1-12-816 下原方