ドストエーフスキイ全作品を読む会 読書会通信 No.95  発行:2006.3.30



第214回4月読書会のお知らせ

4月読書会は、下記の要領で講演会を開きます。大勢の皆様のご参加をお待ちしています。

ドストエーフスキイの会 ドストエーフスキイ全作品を読む会主催 亀山郁夫氏講演会

 月 日 : 2006年4月8日(土)
 時 間 : 午後1時30分〜4時45分
 場 所 : 東京芸術劇場中会議室(池袋西口徒歩3分).03-5391-2111
 演 題  : 「ドストエフスキーと《父殺し》の深層」
 会 費 : 1000円(学生500円)

◎ 終了後は、懇親会を開きます(亀山氏を囲んでドストエフスキー談議を)

 会 場 : ライオン(東京芸術劇場前徒歩1分)
 時 間 : 夕5時15分〜7時15分頃迄
 会 費 : 4300円


【講演者紹介】 亀山郁夫(かめやま・いくお)氏
1949年生まれ。東京外国語大学教授。専門、ロシア文学。20世紀ロシア文学。とりわけ全体主義時代のロシアにおける文学・表象文化全般をめぐって批評活動を行うとともに、最近ではドストエフスキー文学の新たな読解に挑戦している。現在、『カラマーゾフ兄弟』を翻訳中。近著:『大審問官スターリン』(小学館)、『終末と革命のロシア・ルネッサンス』(岩波書店)、『ロシア・アヴァンギャルド』(岩波書店)、『破滅のマヤコフスキー』(筑摩書房)、『あまりにロシア的な。』(青士社)、『磔のロシア――スターリンと芸術家たち』(岩波書店 第29回大仏次郎賞受賞)、『熱狂とユーフォリア――スターリン学のための序章』(平凡社)、『神になりたかった男』(みすず)訳書としては、プラトーノフ『土台穴』(図書刊行会)、ヘーントワ『驚くべきショスタコーヴィチ(筑摩書房)、グロイス『全体芸術様式スターリン』(現代思想新社)ほか。
◇読書会通信95‘06         2 




講演者著書紹介


亀山郁夫著『ドストエフスキー父殺しの文学』(上・下)

 本書(上・下)NHKブックスは、2004年(平成16年)に出版され話題を呼んだ。新聞各紙に書評が掲載された。今講演のテーマが「父殺し」ということで本書を紹介します。
 さる3月9日未明に、14歳の少年が父親憎しで放火したニュースがありました。父殺し、両親殺し。最近、こんなニュースをよく聞きます。「父殺し」は、古今東西、深刻な問題です。この永遠の父と子の問題を独自の見方で考察したのが本書です。が、お持ちでない方の為に、また手に入れられなかった方のために本書カバーにある宣伝文句や本書の「はじめ」や「おわりに」にある著者の言葉を抜粋掲載します。少しですが氏のドストエフスキー観を感じるとることができます。

「父―皇帝―神の殺害をめぐる、原罪の物語」
― 楽園を追放された人間たちの群れ ―
(上) 崩壊への道をひた走る帝政ロシア。貧困、凶悪犯罪、性の退廃、革命の夢と挫折。世界の変革を夢みる若いドストエフスキーに死刑判決が下る。八年のシベリア徒刑、賭博、恋愛の修羅場から『罪と罰』『白痴』が生まれた。青春時代の内面に刻まれた主人公たちの悲劇的な運命を通して、隠された「父殺し」の謎を焙り出す。

(帯) 斧の重さか、それとも「神」の囁きか?・・・罪の重さに正しく見あう罰の重さなど果たしてあるのか。流刑地でのラスコーリニコフの虚けた姿は、屋根裏部屋で彼がひたすら培った観念の巨大さを、その観念を一時共有したドストエフスキー自身がシベリアで経験した「回心」の道のりの長さを暗示するものなのです。震えようとしない心、訪れてこない悔い・・・死せるキリスト=ラスコーリニコフの絶望的な闘いはまさにここからはじまります。
                               (上巻・本文より)
― 神がなければすべては許される ―
(下) 神か、革命か、皇帝権力とテロリストの果てしない闘い・・・「終末」の様相を深めるロシアの大地に、国家の囚人として生きる晩年のドストエフスキー。生身のキリストと罪なき子どもに託されたロシアと世界の救済。しかし、真実はどこに?『悪霊』『未成年』『カラマーゾフの兄弟』に刻まれた「教唆」のモチーフを辿り、ドストエフスキー文学における最大の謎「父殺し」をついに読み解く。

(帯) 「私は蛇だ」――、その自覚こそが、18歳のフョードルを癲癇に落とし込み、57歳のドストエフスキーに『カラマーゾフの兄弟』の執筆へと向かわせた根本的な動機だったのです。私は、農奴を唆して、父を殺しました。いま、裁かれるべきは他ならぬこの私だ。堕落した父と、その死を願う自分との、この原罪における同一化を措いて、父「フョードル」の名づけは存在しないのです。                 (下巻・本文より)

はじめに(『ドストエフスキー父殺しの文学 上巻』から)

 皇帝権力とテロリストたちの死に物狂いの戦いがいまや頂点を迎えようとする1870年代のサンクトペテルブルグ――。名だたる文豪として輝かしい栄光に包まれた晩年のドストエフスキーが手帖に書きとめている。
「わが国は無制限の君主制だ、だから、おそらくどこよりも自由だ。(・・・)このような強力な皇帝の下で、われわれは自由でないわけがない。絶対に」
「だれもがニヒリストなのだ。ニヒリズムがわが国に現れたのは、われわれがみなニヒリストだからだ。われわれを脅かしたいのは、たんにその、新しい、独自の発現形態にすぎない(ひとり残らずみんなが、フョードル・カラマーゾフだ)
 なんという矛盾、なんというペシミズムに満ちた洞察だろうか。あるいはこれが、『悪霊』や『カラマーゾフの兄弟』を書きあげた作家の偽らざる心境だったのだろうか。当時、すでに皇帝権力のイデオローグ、精神的権威と公にみなされていたドストエフスキーが、みずからの建前と本音の間に横たわる矛盾に気づかなかったはずはおそらくない。そのことをなによりも雄弁に物語るエピソードを友人の一人が記録している。
 1880年2月20日、ドストエフスキーは風呂上りのように顔を上気させ、いつになく明るい様子で友人に告げている。「例の発作が終わったところでね」――
 ドストエフスキーとその友人の話題はまもなく、二週間前に起こった冬宮爆破事件へと及ぶ。革命組織「人民の意志」の支援を得た一人の大工がアレクサンドル二世の住む冬宮の地下にダイナマイトを仕掛け、爆破させた事件で、兵士10人、民間人1人が死亡し、計55名が負傷している。
 ドストエフスキーは友人にこう切り出している。・・・略・・・(この計画を事前に知ったら、警察に通報するか否か、と。友人は「しないでしょうね」と答えた。が、ドストエフスキーは次のように相槌を打ったとされる。)
「ぼくも行かないでしょうね。なぜでしょうか。恐ろしいことじゃないですか。これは犯罪ですよ。未然に警告できるかもしれないのですから」
 もしも、ドストエフスキーがこの時、彼にとって理想のイメージであるキリストを念頭に置き、キリストならどうふるまうか、どう行動するか、という、いわば究極の基準にしたがって答えたとするなら、キリストは皇帝殺しを容認するはずだ、という結論に作家自身が行き着いていたことを意味する。「恐ろしいことじゃないですか、これは犯罪ですよ」という言葉には、そのように答えた自分に対する武者震いのような何かが、あるいは長年にわたって彼を苦しめてきた原罪意識のようなものが仄見える。皇帝への忠誠を誓いながら、なおかつひそかにその死を望むドストエフスキー。どちらか果たして真実のドストエフスキーだったのか。

18歳で父親の死を経験したドストエフスキーは、農奴解放前夜の・・・不穏なうねりを背景に、社会変革の夢と深い原罪意識によって幾重にも引き裂かれねばならなかった。現実の父はすでにこの世にはいないにもかかわらず、父殺しの夢は、あたかも中断され、、実現を阻まれた欲望のようにくすぶり続け、やがて、現代でいう「テロリスト」の容疑で逮捕され、一度は死刑宣告まで受ける。その後、8年にわたるシベリア流刑を経て、作家として再スタートを切ろうとした彼が、警察権力や検閲を過剰に意識しなくてはならなかったのは当然だ。絶大な皇帝権力のもとで生きのびるには、おのれの「回心」を公にし、いっさいの政治的な急進主義と手を切り、ひたすら傍観者として生きなければならない。そこで経験された心理的ストレスははかり知れぬものがあって、彼はあたかもそのはけ口を求めるかのように、賭博と恋愛にみずからを投げ出すことになる。賭博と恋愛が、父殺しの代償行為であり、なおかつ原罪意識からの解放であったことは疑いもないが、他方において彼は、作家として、秘密めいた仄めかしや登場人物たちの声々に引き裂かれた内面を隠し、あるいはカーニバル的な気分のなかに父殺しのつかのまの喜びを見るのである。
 「精神的な見本と理想は、わたしにあってはキリストだけである」――「罪」の欲望と「罰」の恐怖のはざまでのたうちながら、ドストエフスキーは後年にいたり、そうした矛盾や二重性から自由である生身のキリストと、その姿に重ねあわされた罪のない子どもに救いを見る。晩年の彼が、栄光と孤独のなかで問いかけの対象としていたのは、一つの理想のイメージとしてのキリストだった。・・・・・・・国家の囚人たるドストエフスキー。われらが不信の子ドストエフスキー。・・・・・・・・・・ ・・・・・・。


おわりに(『ドストエフスキー父殺しの文学 下巻』から)

「われわれはみな、ドストエフスキーから生まれた」―――
 私たちの世代の多くは、ドストエフスキーの門を通ってロシア文学に入った。ドストエフスキーという鎖につながれ、ドストエフスキーという流刑地で独りよがりな自信を温めながら、私たち囚人はたがいに暗号のような言葉を交しあった。しかし、少なくとも私にとって流刑地での、文字通りドストエフスキー狂いの生活は、四年という歳月が限度だった。折から学園闘争の時代にあたり、ドストエフスキーとの出会いから得たものは計り知れず大きかったが、しかし、失ったものもけっして小さくはなかった。ドストエフスキーへの情熱はやがて呪いに変わり、流刑地をおさらばした私は、そこからできるだけ遠い土地を求めて、ロシア・アヴンギャルド芸術、さらにはスターリン時代の文化という新天地を探りあてることになった。
 しかし、これを人生のめぐり合わせというのだろう。22歳の年に封印したはずの情熱をふたたび蘇らせることになった。といっても、過去四半世紀近く、ドストエフスキーに対する注意を一年たりとも疎かにしたことはなかった。大学の教壇に立ってから毎年、「使嗾する神々」「父殺しの子どもたち」というタイトルで、繰りかえし『悪霊』と『カラマーゾフの兄弟』を講じてきたのだ。年を経るごとに論じる対象も少しずつ広がっていったが、取り上げたテーマは飽きもせずに「父殺し」と「使嗾」だった。そしていつかこのテーマで本を書きたいと願い、その時がいつかは来ると信じて、文献集めにも怠らずに励んできた。今一つ言えることは、かつてドストエフスキーが流刑地であったなら、今の私にはそれが迷宮に変じたということである。
 今回、改めてドストエフスキーの小説や伝記を読み直しながら気づいたことがひとつある。大テロルの時代に独裁者スターリンとの息づまる対話に生きた芸術家たちの営みを探るうち、私には、ある特異なものの見方が、要するに、何ごとも疑ってかかるくせがついてしまったらしい。「フーリェ主義者」として一度は死刑宣告を受け、恩赦に授かってシベリア流刑となったドストエフスキーにとって、皇帝、秘密警察、検閲を意識せずにものを書くことは不可能だった。しかし、これまでのドストエフスキー研究では、どうやらその部分が考慮されていないのではないか、と感じるようになった。そしてついに、流刑地シベリアからの手紙に書かれた「思想や信念は変わるものなのです」という有名な文句さえ、一度は疑ってみる必要がある。秘密警察によって読まれることを意識した「二枚舌」ではないかと、もっともされらの「二枚舌」は、権力に対する隠された抗議というより、むしろ権力との共生を図るための必死のサバイバルであったことは間違いのないことである。
 また、ドストエフスキーのいわゆる「ポリフォニー(多声性)」とは、煎じつめれば、みずからの「回心」を演じ、内心の揺れを押し隠すための装置として次第に形をなしていったのではないか。さらに、彼がヨーロッパの諸都市でルーレットに没頭するさまも、破滅的な自己陶酔と一義的に考えられない側面もある。あえて自分の無用性を演技することで、帝政権力から「蕩児」として受け入れられたいという願望――。
 これらが本書における私の基本的なドストエフスキー観である。

 私がドストエフスキーから離れるきっかけの一つは、卒業論文として提出した『悪霊』論の講評に指導教官の原卓也先生が書いてくださった一言である。私はドストエフスキーを読み、考えていたのではなく、ひたすらドストエフスキーに酔い、ドストエフスキーのなかに自分の片割れを発見しょうとしたにすぎない。・・・・それでも私はこれからもドストエフスキーを読み、ドストエフスキーについて語り続けていきたいと願っている。・・・・・・・・・・ 2004・7・7



ドストエーフスキイ情報


【最新ドストエフスキー情報】        提供者・佐藤徹夫

<逐次刊行物> *紀要類は未確認のため除く

01 小説家が読むドストエフスキー 第一回 『死の家の記録』/加賀乙彦
      「三田文学」第3期 83(79)(2004.11.1=2004・秋季号)
      p108−121
02 小説家が読むドストエフスキー 第二回 『罪と罰』/加賀乙彦
      「三田文学」第3期 84(80)(2005.2.1=2005・冬期号)
      p224−246
03 小説家が読むドストエフスキー 第三回 『白痴』/加賀乙彦
      「三田文学」第3期 84(81)(2005.5.1=2005・春季号)
      p178−201
04 <書架散策> ドストエフスキー著『罪と罰』 私の中のラスコーリニコフ/新藤兼
       人「しんぶん赤旗」 2005.6.5 p9
05 萩原朔太郎とドストエフスキー 朔太郎が読んだドストエフスキーの本/清水正
      「江古田文学」 25(1)=59(2005.7.25=2005・夏)
      p66−77
06 小説家が読むドストエフスキー 第四回 『悪霊』/加賀乙彦「三田文学」第3期 
      84(82)(2005.8.1=2005・夏季号)p120−140
07 <ぶっくまあく> 死の家の記録/藤崎貞信 「北海道新聞」 
      2005.8.31 夕刊 p11
08 小説家が読むドストエフスキー 最終回 『カラマーゾフの兄弟』/加賀乙彦
      「三田文学」第3期 84(83)(2005.11.1=2005・秋季号)
      p134−167
09 ・生きる力とヒントを与えてくれた本 ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』
      /鎌田實 p86−87
   ・人間の魂の奥深さ ドストエフスキー『悪霊』/木田元 p106−107
      「文藝春秋」 83(14)(2005.11.15=特別版・11月臨時増
      刊号)=「一冊の本が人生を変える」
10 ドストエフスキー [3]/山城むつみ「文學界」
      59(12)(2005.12.1) p246−273
11 <文芸時評> 犯罪と信仰 抑圧された破壊衝動 不安を供給する文学/島田雅彦
      *山城論文他を評論
      「朝日新聞」 2005.11.28 夕刊 p13
      *雑誌の発刊日とのズレにご注意

資料提供者・著者目録作品の紹介

『安曇野 ―松本克平追悼文集―』1998年2月28日刊 朝日書林

松本克平・著作目録について、佐藤徹夫氏は本書の《あとがき》で、このように述べている。
「この著作目録は、ご本人のスクラップ・ブックをもとに作成したものである。・・・・・スクラップ・ブックは20冊を越えていた。・・・」


<図書>

01 『高い城・文学エッセイ』 スタニスワフ・レム著、沼野充義ほか訳 国書刊行会 2
   004.12.27
    ・ドストエフスキーについて遠慮なく/井上暁子訳 p277−293
    ・ロリータ、あるいはスタヴローギンとベアトリーチェ/加藤有子訳 p321−
    360
02 『世界文学を読みほどく スタンダールからピンチョンまで』 池澤夏樹著 新潮社 

<新潮選書>
    2005.1.15
    ・第五回 ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』 p123−161
03 『批評の透き間』 秋山駿著 鳥影社 2005.1.27
    ・『暗夜行路』と『罪と罰』 p148−152
    ・フセインと『罪と罰』 p178−182
04 『ドストエフスキイと近代藝術』 山田幸平著 大阪芸術大学(発売:小池書院) 2
   005.2.25 414p
05 『歴史のなかのロシア文学』 久保英雄著 ミネルヴァ書房 2005.3.1
    ・コラム3 ラスコーリニコフとは、どういう人物か p64
    ・第四章 ニヒリスト群像 『悪霊』とネチャーエフ p65−92
    ・コラム4 『悪霊』は悪魔か? p93
06 『霊性の文学誌』 鎌田東二著 作品社 2005.3.20
    ・第九誌 ドストエフスキー 自由と聖性への「ふみ越え」 p133−146
07 『小林秀雄』 細谷博著 勉誠出版 <日本の作家100人 人と文学> 2005.
   3.31
    ・六 小説の問題 p81−98 ・七 思想と実生活 p99−114 ・十 ゴ
     ッホとドストエフスキー
     p157−168
    ・作品案内 「罪と罰」について I p202−205 「白痴」について I
    I p217−220
08 『都市と芸術の「ロシア」 ペテルブルク、モスクワ、オデッサ巡遊』 近藤昌夫ほ
    か著 水声社
     2005.4.10
    ・キリスト降臨都市 ドストエフスキー『分身』のペテルブルク/近藤昌夫 p2
     5−55
09 『作家と作品でつづる ロシア文学史』 卞宰洙著 新読書社 2005.6.2
    ・第7章 二人の世界的文豪 「世紀を病む文学」と「ロシア革命の鏡としての文
     学」 p146−164 (ドストエフスキイ、フョードル・ミハイロヴィチ 
     1821〜81 p146−155)
10 『悪霊』 神になりたかった男』 亀山郁夫著 みすず書房 <理想の教室> 
     2005.6.10 162p
11 『DVDで愉しむロシアの映画』 佐藤千登勢著 東洋書店 <ユーラシア・ブック
    レット No.78>2005.6.20
    ・罪と罰 レフ・クリジャーノフ監督(1970年)ソ連映画 p25−27
12 『大人のための世界の名著 必読書50』 木原武一著 海竜社2005.7.11
    ・「罪と罰」ドストエフスキー 若者の生き方を考えさせる p106−111

13 『世界文学あらすじ大事典 1 あ〜きょう』 横山茂雄、石堂藍監修 国書刊行会
     2005.7.23
    ・悪霊/椚原由記子 p44−48
    ・カラマーゾフの兄弟/松永直子 p543−546
14 あらすじと読みどころで味わう 世界の長編文学』 土田知則編 新曜社 2005.
     8.8
    ・カラマーゾフの兄弟/鴻野わか菜 p111−115
15 『ロシアとヨーロッパ ロシアにおける精神潮流の研究 III』 T・G・マサリ
     ック著 石川達夫・長與進訳 成文社 2005.8.27
    ・第3部
      まえがき p7−9
      第2編 神を巡る闘い ロシア問題の歴史哲学者としてのドストエフスキー
     p11−163
      第3編 巨人主義かヒューマニズムか プーシキンからゴーリキーへ p1
     65−415
16 『お墓参りは楽しい』 新井満著 朝日新聞社 2005.8.30
    ・ドストエフスキー 『罪と罰』を書いた世界的文豪は、サンクト・ペテルブルグ
     の修道院墓地に眠っていた p12−17
17 『北欧映画 完全ガイド』 小松弘監修 渡辺芳子責任編集 新宿書房 2005.
     9.20
    ・4 罪と罰 p071 (データ編 p285)
18 『ドストエフスキー・カフェ 現代ロシアの文学風景』 望月哲男著 東洋書店 (ユ
     ーラシア・ブックレット
     No.81> 2005.10.20 63p
19 『ドストエフスキーの青空 宮尾節子詩集』 宮尾節子著 文游社(発売:影書房)
     2005.10.31
    ・ドストエフスキーの青空 p88−92
20 『毒書案内 人生を狂わせる 読んではいけない本』 石井洋二郎著 飛鳥新社 2
     005.12.14
    ・自意識の病を分析する「ニート」の独白 フョードル・ドストエフスキー『地下
    室の手記』 p83−87
21 『小説家が読むドストエフスキー』 加賀乙彦著 集英社 <集英社新書・0325
     F> 2006.1.22  217p
22 『サンクト・ペテルブルグ よみがえった幻想都市』 小野文雄著 中央公論新社 <
     中公新書・1832>2006.2.25 
    ・陰影 ドストエフスキーのペテルブルグ p195−210

以上、提供は【ド翁文庫・佐藤徹夫】氏でした。ありがとうございました。




不思議な因縁
   昇 曙夢(のぼり・しょむ)1878〜1958

 昇曙夢といえば、明治中期から昭和初期にかけて活躍したロシア文学者・翻訳家である。1907年に発刊した『ロシア文学研究』は、わが国最初のロシア文学研究書として知られている。が、米川正夫訳をテキストにする読書会では、昇は米川以前の研究者ということで、ほとんど伝説・歴史的人物になっていて、身近には感じられなかった。
 ところが、この歴史的翻訳家の血縁者と知遇を得る機会を得た。先般、前号「読書会通信94」を印刷所に取りに行った。この印刷所は、これまで10年間世話になっていた千葉西のお店が閉店したため電話で新しく見つけたお店である。印鑑業の他印刷・コピーを手がけている。駅から15分近くかかるので、他に便のよいところがあればと思っていた。
「読書会通信94」を受け取って帰ろうとした時である。お店にいた老婦人から、いきなり「ドストエフスキーを研究しているのでしょうか」と聞かれた。「全作品を読み続けているのです」と答えた。すると老婦人は、ぱっと顔を明るくさせて「のぼりしょむを知っているでしょうか」と言われた。昇曙夢は、『虐げられし人々』の明治の訳者として知っていた。明治26年(1893)3月に、この作品の(上・下)訳を近代名著文庫6 新潮社から出版している。この頃、前後して内田魯庵も訳しているので、先駆者といえる。「私の母方の伯父なんです」老婦人は、うれしそうに言った。奄美大島出身で鎌倉の方にお住まいがあると話された。突然のことで驚いた。詳しい話は追い追いたずねるとして、検索でみる昇曙夢の人物像は、下記の通りです。印刷のお店は「愛幸堂」といいます。船橋駅南口徒歩15分、市役所前。
【昇 曙夢】1878.7.17(明治11)〜 1958.11.22(昭和33) ロシア文学者、奄美諸島返還尽力者鹿児島県奄美大島出身。本名・直隆。ロシア文学者の昇隆一は長男。
 1895(M28)鹿児島で高屋沖から正教教理を聞き受洗。翌年ニコティ正教神学校に入学、1903卒業と同時に同校講師、17(T6)陸軍士官学校教授、のち早大講師。新聞や雑誌に発表してきたロシア文学に関する評論・エッセーをまとめた『露西亜文学研究』(07)は、わが国でほとんど最初のまとまったロシア文学紹介の書となった。
 '28(S3)トルストイ生誕百年祭に招かれて訪ソ、帰国後、ソヴィエト文学。芸術紹介の一連のシリーズ書を出版。主な作品に処女翻訳集『白夜集』(08)に次いで、バリモント『夜の叫び』、ザイツェフ『静かな曙』などあり、当時最新鋭のロシア文学を収めた『六人集』(10)は爆発的人気をよび、当時の文学青年に大きな影響を与えた。その後もソログープ『奇の園』、クプリーン『決闘』、ソログープの戯曲『死の勝利』、アルソイバーシェフ『サーニン』など、今世紀初頭の作家を精力的に紹介、日本の作家に刺激を与える一方、『諸国現代の思潮』『露国及露国民』(18年)などでロシア社会と文学界の状況を伝えた。内田魯庵、二葉亭四迷についで本格的にロシア文学を紹介した功績は大きい。
 革命が起こると『露国革命と社会』で実情を報告、エレンブルグ『トラストD・E』、マヤコフスキー『ミステリア・ブッフ』など新しいソヴィエト文学を紹介した。第2次大戦後は、『ろしや更紗』『ろしや風土誌』などでロシア民族の風俗や習慣、民族的性格などを考察した。 '46ニコライ露語学院院長就任。大著『ロシア・ソヴィエト文学史』(57)で、芸術院賞、読売文学賞受賞。

<現代日本朝日人物事典><日本「キリスト教」総覧><五輪塔様より情報提供>

 奄美群島は戦後、沖縄と同じく、米軍の施政下におかれた。1953(S28)に日本復帰。 2003(H15)11月4日で50周年を迎える。その復帰運動はエジプトのナセル大統領をして『奄美の復帰運動を見習え』と言わしめたくらい、一滴の血も流さず、平和的に民族独立を成し遂げた。その復帰運動の指導者が昇曙夢である。
 なお2003(H15)10月4日には奄美群島日本復帰50周年記念として、百名近くが昇曙夢が眠る墓所に集まり、墓参会が催される。(お墓は、多磨霊園にあります)




『地下室の手記』2回目


 2月11日(土)の読書会の作品は、『地下室の手記』でした。この作品は、後半の長編に及ぼす影響の大きさから、を昨秋10月読書会に引き続きとりあげることにしました。
         
参加者は17名

 この日は、福井さんが所用の為、欠席されたので堤さんが司会進行を務められた。堤さんは、折り悪く風邪を引かれ、体調は最悪コンディションでした。が、いつもの聡明さでフリートークの読書会を丁寧にまとめられた。

 今回は、作品全体の印象について、全員から様々な感想、意見、疑問点が出された。発言は、希望者から順次、簡潔に行われた。発言内容は以下の通りです。

○「現代性がある。引きこもりの作品。当時のロシア=今の世の中では?」(K・Yさん)
○「パソコンのヴログに似ている。『貧しき人々』はメール交換。『地下室』は、ヴログ、つ まり掲示板、日記に近い、先見の明」(S・Yさん)
○「他者を意識しているが、自分のことしか考えない」(K・Yさん)
○「文学とは縁がないが、第二部を読んだとき、どちらが本物の彼か。二面性、根源は、他
  者と共存できない。自我を破れないで悶々としている。自分を相対化すると生きやす
  い。苦難の中からでてきた。」(S・Nさん)
Q・「答えがでていない。難しい」

司会・「相対化」についての意見を求める。

○ 「地下室は人類に対して、自分を相対化できていない。実生活ができているとは思えな
   い。社会的でない。反動生活。引きこもり現象」(K・Yさん)

司会・「引きこもりネット。意識をつきつめた作品」か。
   「意識だけで書いたら第一章になるのでは」「第一章に焦点を絞ってみます。」

◎ 地下室人は、現代のニート、引きこもり、閉じこもり人間か、話題が集中した。

司会・「第一章は、あなたにとって何か」

○ 「昭和28年頃に読みました。当時のイデオロギーは合理主義、理想主義的なものへの
   反発があった。当時20歳の私は、この作品にのめりこんで読んだ。現在ものめりこ
   んで読んでいる」(T・Tさん)

司会・「ロシア帝国の只中で書かれた」

○ 「若いときは読みが浅かった。3回目読んでいる」(Nさん)
○ 「好き嫌いを否定している。わが姿を見ている」(Tさん)
○ 「びっくりした。嫌いで、難しいが2度読んだ」「意欲だ!に共感」(N・Sさん)
○ 「十代の自分はこの政治の中に生きてて対決した」「ブログのようなものがあれば救われる」(Mさん)

Mさんが若い頃、実践した勇気の実験を興味深く聞いた。チェルヌイシェフスキーの作品を彷彿。
思想的背景に言及
 
 近く池田和彦氏訳の『ドストエフスキイ「地下室の手記」を読む』が出版されることから、池田さんが、当時のロシアの思想的背景について話す。

○ 1848年、功利主義、1864年マルクス主義の祖形(原型)を探すのは難しい。ラモーノオ
  イの『1人語り』。自己告白、実社会の批判。
○ 「その人の自意識を扱った。一見、自分を卑下している。自尊心の強い驚きのようなも
   のを感じた。」(O・Tさん)
○ 「読みづらかった。会話の中に事件がある。この時期、書きたいテーマがあって、手記
   になるしかなかった」(Aさん)
○ 「生きる生と、死ぬる生。後期の作品に現れてくる」(Nさん)

議論であがった言葉

「経済学について」「同情はいらない。ドストエフスキーは本質的な問題ではない」「大地から切り離されている」「ドストエフスキーの自我、あるべき父親から生まれた」「浅い、深い」




永井荷風とドストエフスキー


 永井荷風がドストエフスキーをどれほど読んでいたかどうかは知らない。両者を論じたものがあったかどうかも聞かない。が、永井の『?東綺譚』を読む限りどうしても士族出の遊女「お雪」に「リーザ」が重なってしまうのである。彷彿させるのはこんな個所である。
「・・・・・・・・お雪は毎夜路地へ入り込む数知れぬ男に応接する身でありながら、どういうわけで初めてわたくしとあつた日の事を忘れずにいるのか、それがわたくしにはあり得べからざる事のように考えられた。……お雪はいつとはなく、わたくしの力によって、境遇を一変させようという心を起こしている。懶婦(らんぷ)か悍婦になろうとしている。お雪の後半生をして懶婦たらしめず、悍婦たらしめず、真に幸福なる家庭の人たらしめるものは、失敗の経験にのみ富んでいるわたくしではなくして、前途になお多くの歳月を持っている人でなければならない、しかし今、これを説いてもお雪には決してわかろうはずはない。お雪はわたくしの二重人格の一面だけしか見ていない。わたくしはお雪のうかがい知らぬ他の一面を暴露して、その非を知らしめるのは容易である。それを承知しながら、わたくしがなお躊躇しているのは心に忍びないところがあったからだ。これはわたくしをかばうのではない。お雪が自らその誤解を悟った時、はなはだしく失望し、はなはだしく悲しみはしないかということをわたくしは恐れていたからである。・・・・・・・・・・・・・・。」



「ドストエーフスキイの会」情報


第173回例会・シンポジューム

テーマ : ドストエフスキー文学における子供

 2006年3月18日(土)午後6時〜9時、ドストエーフスキイの会は、千駄ヶ谷区民会館で例会を開いた。今回の例会は、4人の発言者によるシンポジュームの形でおこなわれた。25名の参加者があり盛会でした。二次会には18名の出席者。
 シンポジュームは、下記の要領で行われた。(「ニュースレターNo.74」から)
シンポジュームへの呼びかけ(抜粋)
 ・・・・人間の魂にとって、子供時代の思い出、追憶がいかに重要であるかを、ドストエフスキーは世を去る半年程前におこなったプーシキンについての演説でも、『エウゲニー・オネーギン』のタチャーナにふれて、こう語っています。
「絶望のなかにあっても、自分の生涯は滅びたという悩ましい意識の中にも、彼女にはなんといっても、魂の寄りかかる強固なゆるぎなきなにものかがある。それは彼女の少女時代の追憶である。彼女のつつましい清らかな生活の始まった、淋しい田舎にある故郷の思い出である <・・・> それは完全な土台であり、一種ゆるぎない、破壊しがたいなにものかである。そこには故郷、郷土の民衆、その聖物との接触がある」(『作家の日記』下、422頁)
 最晩年の作家の言葉で明確に浮かび上がるこのような人間観・人間理解こそ、ドストエフスキーの全創作を解き明かす鍵といえるかもしれません。すなわち、当時の農奴制地主社会の支配・被支配関係を背景として、ほとんどの主人公が家族や親子関係が正常に機能しない状況で、孤児同然の生活を送り、人間にとっての精神的土台ともいうべき幼少期の両親のもとでの温かい家庭の思い出、自然や民衆との接触といった「聖なるもの」を持つことなく育った人物達です(例えその境遇は具体的には描かれてなくても、理念的に故郷喪失者、根無し草の性格があたえられています)。したがって、ドストエフスキー文学における子供の問題とは、成人した大人の現在の行動を左右する問題であり、たびたび描かれる子供達の不幸はそのような問題を抱えた大人達によってもたらされる災難といえるでしょう。
 ユートピア幻想にもつながる幼年期の思い出は、人類の幼年期である黄金時代の夢にも、投影されます。人間の魂のリアリストであるドストエフスキーは、ユートピア幻想を持つ人間が、逆にいかに悲惨な現実にあるかを描きました。自虐、加虐の性向が幼年、少年少女時代の体験に深く根ざしていることを洞察していました。現在の日本でも頻発する児童虐待のニュースを聞くにつれ、ドストエフスキーが『作家の日記』などで論じている問題に連想が働くのも理由がないことではありません。
 このような私達にとってもアクチュアルな問題に対して、ドストエフスキーの視点はどのようなものであったかを意識の焦点に据えながら、作品を通して、みんなで議論してみようではありませんか。   (会代表・木下豊房)

シンポジューム

司 会: 木下豊房 氏
発言者:小林銀河氏 『作家の日記』における「子供」のテーマ
     熊谷のぶよし氏 『カラマーゾフの兄弟』における子どもの頃の宗教体験
     福井勝也氏 ドストエフスキーにおける「少女」という問題
      高橋誠一郎氏 子供から見た父親像―『貧しき人々』を中心に



第172回例会・傍聴記

木下豊房氏「武田泰淳とドストエフスキー」を聴いて  下原敏彦

 新年早々の例会だったが、本降りになった氷雨のためか出足は鈍かった。が、報告がはじまると、次第に席は埋まって盛会となった。報告者は、ドストエーフスキイの会発起人であり会代表者の木下豊房氏。論題は、日本の戦後派作家の1人、武田泰淳である。
 木下氏はこれまで日本の作家について著書『近代日本文学とドストエフスキー』(成文社)で二葉亭四迷、夏目漱石、萩原朔太郎、太宰治といった作家を取り上げている。が、戦後作家は、2003年、没後30周年を記念して『広場No.13』で椎名麟三をとりあげて以来である。 司会は目下、司馬遼太郎の歴史観で、多忙を極めている高橋誠一郎氏が駆けつけ務められた。
 報告に先立って高橋氏が、新聞コピーを紹介された。二日前の朝日新聞(1月12日付)に掲載された「武田泰淳の日記を読む」の記事である。昨年9月に長女の武田花さんが武田泰淳の資料2200点(原稿・草稿6400枚、日記239枚、従軍手帳3冊…)を日本近代文学館に寄贈された。その中の「従軍手帖」と「上海時代の日記」を文芸評論家・川西政明氏が読まれ評されたものである。「苦しみの根源あらわに」と題された文は、戦場での殺人を告白した『審判』が主体となっていた。報告は、この作品を根幹とするものだったので、偶然とはいえ折りよい発表となった。
 とはいえ武田泰淳は、ドストエフスキー読者には、馴染みのない作家である。その証拠に例会前「報告に備えてどんな作品を読んだらよいか」といった声が多く聞かれた。武田泰淳というと、『ひかりごけ』がよく知られている。難破船の遭難者たちが極限状況の中で人肉を食らう惨劇。映画にもなった暗く重い事件である。加えて学生時代、哲学を学び中国の文化や文学に造詣が深かったことから、一般的には重厚で観念的な作家のイメージが大きかった。
 しかし、筆者は、この作家に対してまったく違う印象を抱いていた。武田泰淳と聞くと壮大な自然とロマン。そんなものを感じてしまうのである。例えば、壇一雄に『夕陽と拳銃』の伊達麟之介の雄姿を思い浮かべるように、武田泰淳といえば、『森と湖の祭』である。映画で高倉健演じるアイヌの一匹狼風森一太郎が北海道阿寒の原野に消えていくラストシーン。あの感動的場面は、いまもはっきりまぶたに残っている。
 だが、木下氏が注目した武田泰淳は、そうした物語作家としての泰淳ではなかった。哲学でも中国古典でもなかった。氏が、武田泰淳をドストエフスキー作家として研究俎上にのせたのは、泰淳が戦場での体験を語った初期作品にあった。戦争という非日常のなかで(殺人も強姦も全てが許された場所で)「私」の無限なまでに広がる「創造的自我」の世界。氏は、そこにドストエフスキー作品の主人公たちの苦悩と葛藤を感じたようである。また、埴谷雄高の、「自分を含めて、椎名、武田の三人こそが、戦後文学の『ドストエフスキイ族』あるいは『派』(エコール)の代表との思い」や武田泰淳の作品に展開される殺人論が「ドストエフスキーの深い殺人論の延長線上」にあるとの指摘にも強く影響を受けたのではないかと推測する。
 報告は、武田泰淳の年譜と23項目からなる資料が配布され、項目順にすすめられた。項目では、初期作品『審判』『秘密』『蝮のすえ』『「愛」のかたち』や晩年の『富士』がとりあげられ踏み越え場面の葛藤や「創造的自我」が紹介された。他にドストエフスキー作品に言及した小林秀雄、バフチンの記述や伊藤整の日本人の人間関係分析などもあった。作品抜粋は、主にラスコーリニコフの踏み越えを彷彿させる文節が多かった。たとえば『審判』の「…ひきがねを引けば私はもとの私ではなくなるのです。」や「私はゼロになることに気づいた」などである。他に小林秀雄のエッセイや『カラマーゾフの兄弟』における「私」のふかさ、ひろさについてもあげられた。「『私』はたんに一個の独立人ではなくて、複雑な社会の中に置かれてある、また広大な自然の中へ投げ出されている、奇妙な生物である」などである。
 報告資料によると泰淳は、この崇高で深遠な「私」が、全登場人物であり、「全人類的なもの」だとしている。道端の小石から大宇宙まで同一原理で貫かれているという理念か。泰淳が「私」の殺人にこだわるのは、たとえそれが「個人的発砲」だったにせよ、殺人は、戦争、大量殺戮、そして人類「滅亡」へと拡大連鎖する――とのドストエフスキー的思惟を無意識に予見できたからに違いない。戦争体験が泰淳に、ラスコーリニコフの苦悩を体現させたといえる。
 新聞記事によれば、泰淳が戦争の苦しみから脱することができたのは、友人が殺人の事実をただしたことで「自分の苦しさを理解してくれた」と思ったからで、それによって「泰淳が生涯背負った罪と罰はその時、清められた」とある。木下氏は、著書『ドストエフスキー その対話的世界』で作家の対話的人間観を論じているが、苦しみぬいた泰淳はまさにその「言葉なき対話」に救われたといえる。泰淳は、友人の「顔を見たまま肯定も否定もしなかった」長い沈黙のあと、ただ一言「そうか」とつぶやいただけだという。
 報告は、泰淳の作品における踏み越え時の「私」を浮き彫りにするものだった。それによってドストエフスキー作品における「私」との関係性が照合的に提起されたといえる。また、言及はされなかったが「我−汝」の関係についても大いに想起されるものがあった。
 質疑応答では、様々な感想、意見、見方がだされた。戦後派の「派」(エコール)の意味について、作家の殺人観、ジェノサイド(大量殺戮)などなどである。議論が集中したのは、泰淳自身が、はたして『審判』で描かれたような殺人を犯したかどうかについてだった。「私」は、真に体験者だったのか。あるいは「想像的自我」の産物か。『従軍手帖』を読んだ川西氏は、「この記述は戦場での殺人を告白した小説『審判』の記述と重なる」としている。配布資料の年譜によれば、武田泰淳は昭和12年10月に召集されて中国に渡っている。七夕の盧溝橋事件を発端に今もって靖国問題で尾を引く長い戦争がはじまったのだ。真相はいまだ不明だが南京大虐殺があったとされる日本軍の南京攻略は12月13日からである。泰淳の部隊がどこにいたとしても、この時期、中国各地で激しい戦闘が起きていたのは事実である。はじめて戦争に接した、若き泰淳の心情はどんなものだったのか。ルポタージュ文学の傑作といわれる石川達三の『生きている兵隊』は当時の兵隊をよく観察している。石川は中央公論特派員として昭和12年12月25日に東京を発ち13年1月5日に戦渦生々しい南京に入った。「町のなかにゴロゴロ死体がころがっていて、死の町という言葉がピッタリでした。はじめて目撃した戦場はショックでした」と回想している。12年9月に内閣報道部が設置され言論統制がとられたなかでの取材は、創作ルポとするしかなかったが、「あるがままの戦争の姿を知らせ」ようとしたと初版自序に記してある。この作品は、冒頭から中国青年の首を斬って河に投げ込む。母親の死を嘆き悲しむ娘を、その泣き声がうるさいと殺す、などなど兵士たちの殺人行為が日常事として描かれている。まさに「人間はどんなことにでも慣れる。どんなこともできる」のである。
 泰淳が中国のK村で殺人を犯したかどうか。たとえ「従軍手帖」に記されていたとしても、今は神のみぞ知る。だが、「私」の殺人は、全中国、全アジアに広がり、そうして広島・長崎の都市を焦土と化した。映画「2001年、宇宙の旅」のはじまりは、アフリカの森を出た新しきヒトの殺人場面だった。あのあとヒトは、旧人たちを皆殺しにした。次にヒト同士殺し合いを始めた。そしてそれは、今現在もやむことがない。これは現実である。と、すればドストエフスキー族(今流ならチルドレン)たちの使命は見えてくる。彼らは、あの『おかしな男』となって、歩みはじめたのだ。埴谷も椎名もそれぞれの道を。泰淳は、踏み越える者への挑戦者として「私」を、つくりだした。人類救済への道は「創造的自我」にあると信じて・・・。
 ともあれ、この報告から武田泰淳のふかいドストエフスキー観を知った。同時に、氏の研究テーマ「対話的世界」と「サストラダーニエ(憐憫)」を感じることができた。あらためて、まずは武田泰淳の作品を読まねばと思った。
(「ニュースレター74」から)




連 載

日本近代文学の<終焉>とドストエフスキー(続編)  −「ドストエフスキー体験」をめぐる群像− 
                         
福井勝也                  

(第3回)−小林秀雄という問題(2)
  
 引き続き、『ドストエフスキーの生活』の問題をもう少し深めてみたい。前回の最後に『小林秀雄の論理−美と戦争』(人文書院)の森本敦生氏の文章を紹介したが、氏はこの時期の小林の変化の三段階について発言している。すなわち、まず『ドストエフスキーの生活』を「私小説論」の問題圏の中で構想されたものとして位置づける第一段階である。すなわち、昭和10年前後に「私小説論」で話題とされたのは、旧来の身辺雑記的な私小説だけではなく、そこには<新しい私小説>という問題系があり、<新しい私>が<新しい小説>を書かなければならないという問題意識があったのだと。そしてそのモデルケースないしはケーススタディとして、ドストエフスキーを採りあげようとしたのがこの時期の小林のスタンスであったと説明する。第二段階が、その後の日中戦争の開始を受けた昭和13年、14年あたりで『ドストエフスキーの生活』の序文、「歴史について」を付加して出版した時期ということだ。ここから「歴史」への傾斜が明らかになり、死児を思う母親の想像力というという問題系に移っていったのだと。それでもまだ母親という主体が想像力を働かせているところが残されていたとも指摘している。そして第三段階が、昭和16年の日米開戦を経過して昭和17年の「無常ということ」で、むしろ美というものは向こうから来る、それを虚心に受け止めるのが芸術家であって、こちらが積極的に想像力を働かせるという論点がなくなってしまった段階だと語っている。(文藝別冊「総特集小林秀雄」所収、美と戦争をめぐって−森本敦夫×細見和之対談、河出書房新社、2003)
  
前回から問題としているのは、この第一、第二段階ということになるが、注意すべき指摘は、小林の『ドストエフスキーの生活』を<新しい私小説>の試みと位置づけている点だろう。この時期、小林が従来型私小説への批判をおこなったのは確かなことだが、前回その末尾を引用したとおり、小林の「私小説」への思いはそれほど単純なものではなかった。「社会化した私」などという言い方も、むしろ<私小説の方法化>を促す意図として読み取るべきものかもしれない。そして実際にこの時期には、横光(『紋章』)や、太宰治(『道化の華』、『狂言の神』、『虚構の春』)だけでなく、永井荷風(『墨東奇譚』)のような小説家までが、ジイドの『贋金つくり』に影響された実験的小説を書いている。しかし見誤ってはいけないのは、それが従来の私小説的伝統(さらに、荷風などは江戸の戯作伝統をも含む)を社会的基盤として接ぎ木的な創作的実験がなされたということの限界線だ。もちろん、急にこの時期、フランス・リアリズムの前提となる近代的自我の確立やいわゆる「社会化」が一挙になされたはずもない。この点で、横光の「純粋小説論」の<第四人称>にしても、太宰の大胆な<語り手>の導入にしても、その方法意識の進展を十分に評価すべきだが、この時期の日本型私小説を20世紀的なポストモダン小説の先駆と勘違いしてはならないのと同様な事情から、この時期の文学状況を支える日本社会の限界性も認識しておく必要があるということだ。そのような観点から何故この時期、小林の批評対象がジードからドストエフスキーに移行したのかは考えてみる価値は十分にあることかもしれない。ここで、森本氏の指摘を再度引用してみる。

「彼(=小林)はロシアと日本の同質性(後進性)のみならず、その相違生(文学伝統の有無)も認識しており、ドストエフスキーがそのままのかたちで日本における<表現>の可能性を保証するものでないことも分かっていたはずで、しかもそうした作家の評伝を、日本において一般読者に向けた<表現>として『文學界』に連載したのである。」
 小林は、まず第一にフランス文学の専門家として、西欧の文学伝統の基礎にあるヨーロッパ的な社会伝統やその核心の近代的自我・自意識の問題を早くから認識し体験した先駆的知識人としてあった(「ランボー体験」等)。しかし第二に、その教養の内実としては、19世紀のロシア文学、とりわけドストエフスキーやトルストイの小説に深く親しんできた世代でもあった。その中身は、先行する白樺派とは違い、大正期から昭和初期の都市化・大衆社会化した社会現象を経験し、左翼イデオロギー(=マルクス主義)の思想体験(=「転向」を含む)を経た者としてあった。そしてこの時期、時代は世界大戦を迎える直前まで来ていて、明冶以降の近代化の矛盾が国内に充満しそのことが対外的な摩擦を招来する悪循環があきらかになっていた。この様な背景にあって、仏文を専門とした知的エリートである小林が、ロシア文学、とりわけドストエフスキーに見出したものは、日本と同じ資本主義的後進国という条件のなかに見出した19世紀ロシアの歴史情況であった。

 「ニコライ一世治下に於ける、この国の工業の急速な発達は、既に国内市場の発達を凌駕するに至っていた。農奴解放は、西欧ブルジュワ君主国憲法への羨望の声を越えて、農奴を解放しなければ、市場の拡張は不可能だという実際問題となって現れていた。事実、工場主等は、自由雇用労働者を必要とするところから、既に30年代には工場内の農奴労働者を解放し始めていたのだが、当時の微々たる工業資本主義は、地主と使用人との協力によってなったこの強い伝統的制度に到底歯が立たなかった。ニコライは当然最も簡明容易な道を選んだ。露骨な外交政策による、国外市場の占領である。」「ここにロシヤが19世紀を通じて苦しまねばならなかった独特の矛盾、即ちブルジョアジィの発達にとって、君主政体のみならず君主独裁すら必要とするという矛盾が胚胎した。」

 以上は、小林の『ドストエフスキーの生活』の一節である。当時の読者はこの文章に何を感じて何を読み込んだのだろう。おそらく、当時の絶対君主的天皇制下の日本資本主義の現状と将来的な危機感を、19世紀のロシアの歴史情況とアナロジカルなものとして重ねたのではなかったか。もう少し時代が下れば、発禁処分の対象にすらなりうる内容にも読めないか。勿論、ドストエフスキーが生きかつ描いた19世紀ロシアの工業資本の異常性は、ドストエフスキーのような「骨の髄からのインテリゲンチャ」と同時に半ば解放された農奴(=「民衆<ナロード>」という、互いに決して理解し合うことのできない二つの極を生み出す矛盾体で、昭和10年代の日本の歴史情況と同質ではありえないことは自明なわけだが・・・。そしてさらに、小林は、ドストエフスキーこそは、この二極的存在が生み出す「混乱」のうちに、ある徹底したやり方で「身を横たえる」ところから生起する本質的な表現者であることを喝破している。
 小林の「歴史」を問題とする視線のあり方は、一方で当時のマルクス主義的唯物史観の客観主義への反措定としてあったことは明らかだ。そしてそれは、死児を想起する母親の技術という、知的な記憶ではなく、思い出すというほとんど身体的な行為に力点を置くところのベンヤミン的なものを感じさせるものとしてあった。(文藝別冊「総特集小林秀雄」所収、美と戦争をめぐって−森本敦夫×細見和之対談の細見発言)しかし同時に、上記の引用文に見るように、並の歴史家以上の洞察力で19世紀ロシアの歴史情況の核心を客観的に抉り取る視線の鋭さも持っていた。それは返り血を浴びかねないものとして日本の当時の歴史情況をも切っていないか。小林は何故、このような視線の切り口を持つことができたのだろうか。この「歴史」への直感的な視線は、『ドストエフスキーの生活』においてドストエフスキーの肖像をデッサンする小林の視線と同質のものということができる。

ここで問題をもう一つ出しておこうと思う。それはこの時期から以後、戦後の昭和40年代近くまで書き続けられる「作品論」の前提として、言わば先行的に「作家論」としての『ドストエフスキーの生活』を小林が書いた意味をどう考えるべきかという問題である。すでに
二葉亭四迷の「浮雲」から説き起こし、日本近代文学へのドストエフスキーの影響の問題という大きな問いを考えつつ来たわけだが、ここですでに<小林秀雄>というアポリアに差しかかっている気がしている。小林は、ドストエフスキーという問題を、おそらくだれよりも深く理解することができた。それは、ドストエフスキーという存在に迫る方法をしっかりと認識していたからだ。その技術を心得ていたからだと言っても良いだろう。そしてそれが、今までにいくらでもあった、客観的な検証に堪えない伝記的事実の羅列とは異なる<ドストエフスキー>のデッサンを正確に描くことを可能にした。その技術こそ、死児を想起する母親の技術だと言ったらトートロジーか。「対話から歴史事実は甦る」「歴史とは、言葉の生の消息なのである。」とは、先に引用した新谷氏の言葉であるが、正しい比喩なのだろう。ここには、司馬遷のような中国の歴史家が「列伝」等で「歴史」を書き残す行為と同じ精神的な営為が実行されているようにイメージされる。
やや脱線を承知で付記したいことがある。先日、「会」の例会でシンポジウムが開かれた。テーマとされた問題はともかく、ドストエフスキーの作品解釈の方法論が問題となった。一つは、「作品論」に「作家論」を持ち込まないことを原則とする、作家の作品がすべてであって、作品を論じる時に「自然主義的な」作家論を作品解釈に持ち込んではいけないとするテキスト中心主義。もう一つは、作品解釈に(「自然主義的」か否かは別として)(ドストエフスキーという)作家の問題も包含して考えることを方法的に是認するテキストプラス作家主義。実は、この議論をしながら、僕の頭に小林の『ドストエフスキーの生活』という書物が浮かんできた。そしてまた、小林と正宗白鳥との間でトルストイ問題に端を発した「藝術と実生活」という論争も頭をよぎった。どうも、会場での議論は、前者が原則的に正しくて、作品解釈というレベルとは切り分けられた作家研究や歴史研究は良いというようなことであったが、どうもはっきりしなかった。いずれにしても、自然主義的な?作家論からする作品解釈(例えば、昔の国語の問題で、作者が何を言おうとしたか理解することが唯一の作品解釈だとする考え方、語り手や登場人物と作者との同一視を当然視する見方)を素朴に正しいとする人は、現代の文学に親しんでいる<読者>にはあまりいないはずで、殊更に議論する内容ではないだろう。問題は、テキスト中心主義といっても、作者、作家個人を他の登場人物と同等のファクターとして作品解釈に採り入れるかべきかどうかという問題ではないかと考えられる。具体的な実践例として説得力があれば否定すべきではないと思う。この点では、自分もテキストプラス作家主義派と言っても良いか。
そしてここからが、今回の小林秀雄論の『ドストエフスキーの生活』の問題に絡んだものとなる。確かに、小林は正宗白鳥との論争で、芸術家の実生活は常にその芸術行為の問題として考えられるべきで、その結果としての作品がすべてであるというような言い方をしている。そして、『ドストエフスキーの生活』も一応「作品」と切り離すところから出発している。この意味で、小林は一見、藝術派でテキスト論者の先駆者のように受け取れる。
しかし問題は、それ程単純でない。むしろ、今回問題とした『ドストエフスキーの生活』が小林にとって「私小説」的な作品だとする理解にも絡むが、小林の関心は「天才」作家としてのドストエフスキーの本質を一筆、一筆デッサンすることで、その肖像を画布に定着させることしか考えていない。そこには、小林が生きた日本の昭和(10年代)という時代が前提となっている。現代人、小林秀雄が、ドストエフスキーという19世紀のロシアを生きた「インテリゲンチャ」と真に対話的に切り結んだ痕跡が、『ドストエフスキーの生活』であったというだけでしかない。そこでは、小林は、ドストエフスキーをダシにすることなく、自分を、自分達の時代を語ることに成功している。それを導いたものの内実を次ぎに語ろうと思うが、スペースが尽きた。ここで少しだけ述べておけば、小林はものを考えるということの道筋を間違えなかったということに尽きる。それは作品を論じる時も、作家を論じる時もまっすぐにそこに切り込む技術を心得ていたということか。しかし、この言えば真剣勝負のような対峙の仕方が、小林秀雄のドストエフスキー理解の普遍性と同時に限界線をも明らかにしていないか。ここまでくると、そこに「作品論」と「作家論」の区別など大した問題ではないことがわかってくる。問題は、思考の技術そのものだ。




新旧刊紹介


『ドストエフスキイ「地下室の手記」を読む』 2006年4月10日発行 !!
リチャード.ピース(国際ドストエフスキイ学会副会長)著、池田和彦訳

ドストエフスキイの作品全体の鍵」となる小説を英国人の視点で精緻に読み解く

『自我と仮象 第U部』 2006年3月15日発行 !!
森 和朗著(ドストエーフスキイの会会員) 鳥影社 定価3000円
 小泉改革は仮象である!マスコミにあおられ、人々の自己投機が生み出す「仮象」。そのメカニズムを明らかにし、ニホン凋落の根源を衝く。
※ ちなみに『自我と仮象 第T部』は2004年11月19日に発行されている。

『ドストエフスキーを読みながら』 ―或る「おかしな人間」の手記― 2006年3月27日発行!!
下原敏彦著 鳥影社 定価1800円



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