ドストエーフスキイ全作品を読む会 読書会通信 No.81 発行:2003.10.2



10月読書会は、下記の要領で開催いたします。大勢の皆様のご参加をお待ちしています。

 月 日 : 2003年10月11日(土)
 時 間 : 午後6時00分〜9時00分
 場 所 : 東京芸術劇場小会議室7(池袋西口徒歩3分).03-5391-2111
 作 品  : 『初恋』(原作『小さい英雄』
 報告者 : フリートーク
 会 費 : 1000円(学生500円)
 ※ 主に米川正夫訳『ドストエーフスキイ全集』をテキストにしています。

 ◎ 終了後は、近くの居酒屋(西口)で二次会を開きます。
 会 場 : 養老の瀧(変更の場合も有り)
 時 間 : 9時00分〜11時00分頃迄
 会 費 : 2〜4千円





10月11日(土)読書会

『初恋』読書会について 「読書会通信」編集室

 10月読書会は、「全作品を読む会」第1回読書会から、約200回目の開催となります。そこで、(報告希望者を探すことができなかったこともありますが)今回は、200回の節目を記念してフリートークの形で行いたいと思います。
「そのときわたしは、もうちょっとで満11歳になろうという年ごろであった。」で、はじまる甘酸っぱい初恋の物語は、ドストエーフスキイ初期中短編作品群の終盤の作品です。それだけに、読後感は『弱い心』や『白夜』の印象と変わりありません。実際、アルカージィや『白夜』の主人公の体験を彷彿したりもします。
しかし、『初恋』は、それまでの他の作品と決定的に違うところがあります。この作品は、作家が国家反逆の罪で逮捕され「ペテロパヴロフスクの要塞に監禁されている間に書かれた」ものである。独房のなかで判決を待ちながら書かれたもの。最悪の境遇のなかで、未来もまったく見えないなかで生まれた作品。まずはその事実に驚かされます。
今回の読書会は、作品と作者の心理状況(独房生活)にも注目して作品感想が交換できればと、思っています。なお、報告希望の方がいらっしゃいましたら、お申し出てください。資料配布のある方は、ご用意くださるかお知らせください。                                    
下記の疑問について考えてきてくだされば幸いです。     
           
Q.なぜ、このような作品が書けたのか。
 
 ※中村健之助は、「臨死体験者」とみてこのように解釈しているが・・・。
「若いころから<仮死状態>に陥る病気を持っていたドストエフスキーは、ペテロ・パウロ要塞の独房でも、死に近づく体験をくりかえしていただろう。」
   主人公のこの体験は、「『白痴』の死刑場に引き継がれた」ともしている。
 
写真・ペテロ・パウロ要塞内のアレクセー半月堡。判決を待つ間、ドストエーフスキイはこの第7号房(後に9号房)に拘置されながら『初恋』を書いた。


ドキュメント『初恋』


『初恋』(『小さい英雄』『少年物語』『幼いヒーロー』)が書かれ、発表されるまでの経緯と関連事は以下の通りである。

【1849年】
4月23日:午前4時、第3部(秘密警察)に逮捕される。ペトラシェーフスキイ・サークル(逮捕者34名)。夜、ペトロ・パヴロフスク要塞アレクセーエフ半月堡に拘留される。
4月 末日:『ネートチカ・ネズヴァーノヴァ』第3部が作者名なしで『祖国の記録』(祖国雑報)への掲載が許可される。
4月 末日:ナポーコフ査問委員会の手によりペトラシェーフスキイ事件の審理開始。
5月   :『祖国の記録』(『祖国雑報』)に『ネートチカ・ネズヴァーノヴァ』が掲載される。作者名なしで。
5月 6日:兄ミハイル逮捕(7月に釈放)
6月   :交信、執筆が許可される。『初恋』着手か・・・。

[6月20日の書簡] → なつかしい弟アンドレイ・ミハイロヴィチ。ぼくは請願した結果、お前に2、3行の手紙を書くことを許されたので、取り急ぎ報告するが、幸い健康で、悩ましい気持ちではいるものの、けっして落胆などしていない。どんな状態にいても、それぞれ慰めがあるものだ。/お前は間違いで逮捕された後で、やがて放免された時、さぞうれしかったことだろうと思う。さようなら、どうか仕合わせでいておくれ。ぼくの仕合わせも祈ってほしい。兄フョードル・ドストエーフスキイ
※「それぞれ慰めがあるものだ」とは、『初恋』執筆のことか・・・?

[7月18日の書簡] → なつかしい兄さん、ぼくはお手紙を受け取ってたとえようもないほどうれしかったです。それが届いたのは7月11日でした。とうとうあなたも自由の身になりましたね。/なつかしい兄さん、あなたは落胆するなと書いておられますが、ぼくは落胆などしやしません。もちろん、退屈でもあり、情けなくもありますが、どうもしょうがありません。/ぼくも仕事を持っていて、時間を無駄にしてはおりません。中篇小説を三つと、長編を二つ着想しました。その中の一つは、いま書いていますが、あまりたくさん仕事をするのははばかられます。
※ 「その中の一つ」が、『初恋』か。
【1856年】
[12月21日の書簡] → かけがいのない善良無比なアレクサンドル・エゴーロヴィチ(A・E・ヴランゲリ)。/さて、我が友よ、ぼくはひとつ自分にとって重大な件を報告しようと思います。/・・・ぼくは謝肉祭までに結婚します。/そういうわけで、借金を返済して、将来の生活の資を得る唯一の望みは、ほかでもない、もし作品の発表が許可されたら、ということです。友よ、何も持たないぼくが、銀貨600ルーブルという大枚の借金をするからとて、驚いてはいけません。ぼくは銀貨1000ルーブル以上になる、発表するばかりになった作品を持っているのです。
【1857年】 
8月:『祖国雑誌』8月号に「M-i」の作者名で『初恋』が掲載される。
【1859年】
10月〜11月:作品集刊行のため『初恋』部分的に手を入れる。


『初恋』etc・・・

訳者・米川正夫解説(『ドストエーフスキイ全集5』より)

 『初恋』は、『白夜』と並んで、否それ以上に美しい私的な物語である。ツルゲーネフの『初恋』と並んで双璧をなすものであるが、ツルゲーネフは抒情を主としているのにたいして、これは心理が中枢となっている。ツルゲーネフの主人公はすでに思春期に達した少年であるが、これは僅か11歳の少年の、はるか年長の貴婦人に対するそこはかとなき無意識の思慕であるが、それを描写するドストエーフスキイの筆はツルゲーネフに劣らぬ美しさにみちている。
 さらにこの作品に現れるブロンドの悪戯夫人は、ワキ役の地位にまわっているが、後年ドストエーフスキイが完成した愛情とサディズム、憐憫と惨忍を一身に蔵した女性のプロトタイプとして興味ある。

中村健之助著『ドストエフスキー人物事典』より

 これは主人公の少年が美しい人妻に淡いあこがれを抱くのだが、貞淑に見えたその貴婦人には実は夫に隠した恋人がいた。大人の複雑な世間を垣間見た少年は、失望と驚きの体験を通して成長の一つの過程をくぐりぬけていくという単純なストーリーで、ペテルブルグの劣等者、病者のゆがんだ「奇妙な情熱」ばかり掘り起こしてきたドストエフスキーには珍しい、素直な短編である。モスクワ郊外の明るい田園風景を背景に描かれるこの小さな片恋の物語からは、獄中の作者の苦しみや不安は毛筋ほどもうかがわれない。

「痔と漸層的に進む神経衰弱/時おり喉を締めつけられるような気持ち/食欲はきわめて不振で、眠りも非常に少なく、しかもそれさえ病的な夢を見がちです。」(1849.7.18書簡)
 
 ペテロ・パウロ要塞監獄の独房に拘置されながらも、上記のあらすじの作品を書いていたドストエーフスキイ。その創作意欲はどこからきたのか。大いなる謎である。
 その点について中村健之助氏は『人物事典』で、『弱い心』の「ネワの幻」を例にだして次のように述べている。

/アルカージィの性格の一変は、作者ドストエフスキー自身の体感の急変の表現だろうと言ったが、『幼いヒーロー』の少年の体験も、作者の体験に根ざしているに違いない。現代の精神医学によれば「臨死体験者」は光明を感じるときがあるというが、若いころから「仮死状態」に陥る病気を持っていたドストエフスキーは、ペテロ・パウロ要塞でも、死に近づく体験をくりかえしていただろう。そうだとすれば、獄中で『幼いヒーロー』の少年と同じ光明との合体を体験していたとしても不思議ではない。/ドストエフスキーの体の芯には、生命の源あるいは「自然」から突き離され、暗く冷たい空虚な死の世界へ落ちてゆく絶望の感覚と、反対に、暖かく明るい「自然」に迎え入れられそれと合一する歓びの感覚という二つの力があって、その二つが競い合いを交替していたのであるにちがいない。

 アンリ・トロワイヤ著『ドストエフスキー伝』村上香住子訳

 その短編(『小英雄』)は、照れくさそうだが、どことなく肉感的で、メランコリックな抒情味にあふれていた。/判決の下りるのをじりじり待っている暗澹とした不安な時期に、こともあろうにこの独房生活者は少年の性のめざめを夢見ていたのだ。 

(木村訳『小英雄』(新潮全集収録)による。)  
    
 間もなくわたしはありふれた貧しい花束をつくった。これは部屋の中へ持ちこむのが、恥ずかしいようなものであった。しかし、それを集めて縛っているあいだ、わたしの心臓はどんなに浮き浮きと躍ったことか!野茨と野生のジャスミンはすぐにその場で集められた。わたしはこの近くに、熟した裸麦の畑があるのを知っていた。そこへ矢車草を取りに飛んで行った。わたしは矢車草のあいだに裸麦をまぜたが、いちばん黄金色の美しい、よく実の入った、長いのを選んだ。またすぐそこから遠くないところに、忘れな草の大群落を見つけたので、わたしの花束はもうだいぶ充実して来た。それからさきの原中で、青い釣鐘草と野生のカーネェションが見つかったし、黄色い睡蓮を取るためには、わざわざ河岸っぷちまでむ走って行った。いよいよ最後に、もう元のところに帰ろうとして、ちょつと森の中へ寄り道した。
 それは緑の色あざやかな蛙手の葉を幾枚か取って、花束のぐるりに添えるつもりであったが、三色群董の群生に行きあたった。しかも、運よくそこで得もいわれぬ菫の薫がしたのを頼りに、びっしり繁った水々しい草の中に潜んいる。まだ輝かしい露を一面につけた匂い菫を見つけた。これで、花束はできあがった。わたしは細長い草を紐に撚って花束を縛り、その中へそっと手紙を入れて、花で隠した。が、ちょっとでもこの花束に注意を向けてもらえたら、すぐに見つかるようにして置いた。
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(本文から)
 まるでモネ―の絵を見るような花咲く野の風景。しかし、この作品は、ペテロパヴロフスクの要塞に監禁されているあいだに書かれたものである。ドストエーフスキイをはじめ重犯とみなされている者たちは独房のある半月堡に入れられた。「半月堡は三角形をなしていて、二階建ての建物なので、外壁はネヴァ河の、暗い灰色に澱んだ水につかっていた。囚人たちが監視つきで散歩する小さな中庭がついていた。16の扉の並んだ長い回廊がつづいていて、円天井に足音が響き渡った。/房内は奥行6メートル、幅3メートルの広さでだいぶゆったりしている。藁の入ったベットと枕、小さなテーブル、腰掛、水差、窓に獣脂の灯明皿がのせてある。それだけだった。
 ぽつんとひとつある明り取り窓には、頑丈な鉄格子がはめられ、窓ガラスは脂で厚くぬりつぶされている。囚人たちの間では<目>と呼ばれている。扉についている小さなのぞき穴には、うす汚い布がかけられている。/石と空間のなかで、房内はひっそり静まりかえっている。/じめついた床の、しめったにおいが壁にしみこんでいる。仄暗い明かりが一層弱くなってきて、ゆらゆら揺れ、ふっと消えてしまう。すると四辺は闇の底に沈んでいき、死の世界がどこまでも広がる。」(『ドストエフスキー伝』から)少年時代のときめき、バラ色の夢のような物語は、こんな環境の中で書かれた。





『小英雄』を読んで


有容赦(堤 崇弘)

 いい意味でドストエフスキーらしい、しかしまた、らしからぬ作品である。
 「らしさ」が最も単純に現れているのは、初々しい主人公の心の動きの赤裸々な告白と「ブロンドの美女」の造形か。「手紙」に関するストーリー展開の部分も、『ネートチカ』の末部や、『未成年』を想起させ、ド氏の個性が出ている部分だろうが、自分としては、ここは、ちょっと「作りすぎ」という感じを受けるので得点は与えないで置く。(これは、女性の会員方にぜひ聞いてみたい。恋人(愛人?)との別れのショックで呆然とし、その当の本人からの手紙を落としてしまう、という女性は、男の一つの憧れだとは思う。でも、そんなことって現実にあるんでしょうか?)
 「らしくない」ところ。実は「らしさ」と表裏を成しているので、私の乏しい表現力では、言うのが難しい。なんというか、この作品には、ジェーヴシキン、ゴリャートキンから五大長編の膨大な人物群に至る、ほぼ一貫した特色である「病的な人物」、または「変人」が一人も出てこないのだ。物語を勝手に展開させてしまう起爆力を持った、観念的で異様な人物の造形が、ドスト文学の最大の特徴であるとするなら、ここに出てくる人物は、みな、そこまで行っていない。まるでライバル、トルストイの登場人物のように健全で常識的な人びとである。一見、エキセントリックに見える「ブロンドの美女」も、根底の部分に至極真っ当な感覚を持っていて、決して常人に理解できない異形の者ではない。あえて言うなら、主人公の11歳の少年。彼が、将来、アルカージイ型の変人や、『白夜』の主人公のような「夢想家」キャラの大人に成長していく「匂い」はある。しかしながら、幸いにというべきか、この時点では、彼もまた、そこまで到達してはいない。あくまでも、「少し感受性の強い、普通の少年」として、読者がすんなりと感情移入できる者として描かれている。主人公の「子供の特権」は、ぎりぎりのところで、ド小説の常連たる病的変人の登場を回避させる例外のメカニズムとして機能している。
 初期のド氏の他作品と比較して、もう一つ、際立っているのは、「悪ふざけ」の空気の希薄さである。ド氏が、獄中で、これが人生最後の作品になるかも知れないと思っていたかどうか、裁判経過について不勉強の私は知らない。この際立って完成度の高い、甘く切なく、しかし爽やかな短編に、何か従来とは違うものを籠めようと意識したのかどうか、わからない。だが、結果的には、そうなっていると言って良いだろう。花束から飛び出した手紙、愛する女性の涙と接吻、赤いマフラー。ここには、あまりにも正面切って表現された甘美なロマンチシズムがある。これは、明らかに「大人」に演じさせたら「耐えられない」(武富氏)ものになったに違いないものだ。ところが、演じ手が子供であることによって、即ち、主人公がいまいましく思っていた自身の「子供の特権」によって非常な成功へと反転させられている。結果的に、ド氏が描きたかったものを非難を受けずに描くための仕掛けが巧妙に設(しつら)えられている。
 「病的な人物の不在」と「一歩間違えば茶番になりかねないほどのロマンチシズムの冗談抜きでの堂々たる展開」。これまでのド氏の主要な作品と著しく異なる、この小説の二つの特色は、いずれも「子供の特権」によって裏打ちされたものである。彼は恐らく、そんなややこしいことを意図してやった訳ではなかろう。自分の中にいる「子供」、いじめられ、傷つきながらも、感じることをやめられない「子供」とその憧れを、そのまま形にしてみた、というあたりが、実態に近いのではないか、と思われる。だが、結果として、そこから生まれた造形が、後年、五大長編等の珠玉の名場面群へと成長する、ド文学における最も重要な要素の1つであったことは論を俟たない。ブロンド美女がフランス語で言った「これはとても真面目なことです。笑わないで」という言葉は、遠く『カラマーゾフの兄弟』のラストシーンのアリョーシャの演説に連なるものである。もちろん、この時点でのド氏に、そこまでわかるわけはない。そもそも、後の作品との関係で前の作品を論じるのはアンフェアだという見識もあるだろう。が、それでもなお、このあまりにも美しく愛らしい「小英雄」が、その後もドスト氏の中に生き続け、細胞分裂し、進化していった最後の結晶が、アリョーシャの愛した少年たちなのだろうという感想を持ってしまうことを、今、読後の興奮の中にいる私は、どうやら止めることができそうもないのである。(了) 





読書会プレイバック 



 最初に『初恋』がとりあげられたのは、1972年3月4日(土)午後6時から早稲田大学大隈会館で開かれた第10回読書会でした。そのときの感想を、昨年8月亡くなられた野田吉之助さんが「ドストエーフスキイの会 会報No.19」(1972年4月4日発行)で報告している。

第10回『初恋』(小さな英雄)

野田吉之助

 前回私たちは、『ネートチカ・ネズヴァーノヴァ』で、薄倖で多感な一少女への、ドストエーフスキイ一流の心理解剖を堪能した。今回の『初恋』は、ちょうど少女ネートチカに対応するように、満11歳の少年がその主人公である。
 『初恋』は『ネートチカ』と共に、ドストエーフスキイ28歳の作品といわれる。彼は何故にこれらの作品を書いたのであろうか。どんな内的動機が、28歳の彼をこのような幼い者の世界の描写にかりたてたのだろうか。これは、よくいわれる「ドストエーフスキイと子供」という観点から考察しうる課題と思われるが、私には、これを当時彼のかかわっていた外的事件と関連させ、ドストエーフスキイにおける政治と文学という領域で考えることに、より興味をひかれる。
 周知のように、『ネートチカ』は、例のペトラシェフスキイ事件への連坐によって中断されており、『初恋』は、その事件のため監禁されたペトロパヴロスク要塞のなかで執筆された。つまり、これら二作品は、政治的事件の渦中において書かれたものである。しかし、こられのうちに、当時彼をとらえていた政治的ラジカリズムの反映を見出すことは困難である。何故だろう。彼は自己の政治的信条をそのまま作品の中にもちこんだり、あるいは、現実における政治的敗北の代償を文学の世界に求める類の作家ではなかったからだ。彼が、現実にかかわっていた外的事件と無関係な作品を書いたということ自体のうちに彼における政治と文学の独自性が示されている。そしてこの独自性は、彼自身の現実へのかかわり方の独自性からきているように思える。現実という言葉に特殊な意義を賦与した彼はいわゆる『現実』からは、何一つ本質的な影響をこうむらなかった。これについては、「ドストエーフスキイの生涯の事件は、いかに悲劇的でも、依然としてうわべの事件です。云々」というジイドの見解に組したい。『初恋』は、満11歳の少年の単なる生活記録や心理描写ではない。ドストエーフスキイが、この作品で狙ったものは、あくまでも、満11歳の少年と、結婚5年の女性が相互に抱く情念の描写である。二人の既婚女性の性格は対照的で、一方は加虐的な情熱をもって、他方は悲劇的雰囲気をもって少年の恋情をいやが上にもかきたてる。満11歳の少年と結婚後5年の女性という組合せには、一種独特のエロティシズムがあり、私はこの情念の描写に狙いをつけたドストエーフスキイの創作意欲にうずくような同感を覚える。
 参加者の一人は、『初恋』の中の少年の純愛や自然描写の美しさを挙げて、この一篇が《論理以前に生を愛する彼》によって書かれたものであり、流刑後の諸作品にくらべて明るく楽しい作品であることを強調した。たしかにそのような分類も可能だと思う。しかし、私はドストエーフスキイを情念の作家として理解することにより彼を統一的にとらえたい。彼は人間の中に潜む情念をキャッチすることにおいて天才的だったのだと思う。彼にあっては、思想も意志も感情もすべて情念の展開として把握されていたのではないか。イワンの大審問官物語だって、世界と歴史に対するイワンの直覚から生じた情念の論理的展開とみることができる。ドストエーフスキイの文学は、『貧しき人々』から『カラマーゾフの兄弟』に至るまで情念の展開という核で一貫しており、その意味から彼を思想的作家と呼ぶよりも情念の作家と呼ぶ方がより適切ではないかと思う。
 彼にあっては、政治的ラジカリズムへの接近も、満11歳の少年と結婚後5年の女性との恋愛描写も、同じ情念の展開として等価であり、二つながら、まぎれもない現実であった。
 それ故にこそ、あの政治的事件の渦中にあって、『初恋』という作品を書き得たのだと思う。





「ドストエーフスキイ全作品を読む会」読書会の軌跡
 < 22回〜27回まで>


 「ドストエーフスキイ全作品を読む会」は1971年3月に発足。翌月4月10日(土)早稲田大学大隈会館で第1回読書会を開催。以後、毎月のペースで開かれてきた。その模様は、1971年3月19日発行の『会報No.14』から毎回紹介された。以下の記録は、その会報からのものである。『会報No.13』に「ドストエーフスキイ全作品を読む会へのおさそい」がはじめて掲載される(発起人は野田吉之助氏、佐々木美代子氏、岩浅武久氏)
 
1974年
 
 第21回読書会 : 作品『地下生活者の手記』1回目斉藤俊雄(No.29)
 第22回読書会 : 作品『地下生活者の手記』2回目斉藤俊雄(No.29)
 第23回読書会 : 作品『鰐』新谷敬三郎(No.30)
 第24回読書会 : 作品『土地主義宣言』田中幸治 (No.31)
 第25回読書会 : 作品『ペテルブルグの夢』詩と散文 新谷敬三郎(No.32) 
 第26回読書会 : 『読書会旅行 米川正夫別荘』伊東佐紀子(No.33)
 第27回読書会 : 『罪と罰』新谷敬三郎(No.34)


伊東佐紀子さんの『読書会旅行』から

 8月25日 朝食をとっていると、はげしい雨音、一瞬皆顔を見合わせたたが、元気に出発マイクロバスで草津温泉に出、北軽井沢に向けバスに乗る。雨の中をタクシーに分乗して米川正夫先生の北軽井沢別荘に向かう。車は別荘の点在するまがりくねった山道を分け入る。米川邸は、広大な敷地の木々の間に分厚いかやぶきの屋根を雨にぬらしていた。先生のお宅の前に立ち小さくなっていた私たちを、米川夫人、ご長男の哲夫氏、そしてお家の方全員が、さあどうぞお入りください。雨の中遠方からよくいらっしゃいました、と気さくに心よくむかえて下さった。ロングドレスの夫人の若やいだ上品さに目をうばわれる。落ち着いた広間に通され、お茶をビールをといってくださる夫人に心がなごむ。よく手入れされた苔の上を数歩行き、数年前に建てられたという別棟の米川先生の書庫に案内される。柔和に笑いかける米川先生のお写真、そしてドストエーフスキイの写真の大きなパネルがまず目に入った。
 何連もの書架におびただしい数の貴重な原書、翻訳書、研究書、雑誌等が並んでいる。窓辺にサモワールがおかれてあり、先生が外国からもちかえられた民族人形、小さなイコン等も陳列されている。先生が翻訳のとき手にされたにちがいない本にそっと手をふれてみる。
 「またいつでも、ゆっくりいらっして下さいね」夫人の声に送られ、米川宅の車で駅に送られていく道すじのぶなの林が雨まじりの風にゆらいでいた。

 30年前、ドストエーフスキイの会一行(15、6名)が、北軽井沢にある訳者米川正夫先生の別荘を訪れたときの様子が生き生きと描かれている。時は流れても会はつづいている。
しかし、筆者の伊東佐紀子さんは、既にいない。(7年前に早世されました)





8・9読書会報告 

台風10号の中で

8月の読書会(暑気払)は、9日(土)午前中に『ネートチカ・ネズヴァーノヴァ』の3回目を行った。午後からは、『広場12号』の合評会でした。
この日、台風10号の接近で朝から大荒れの天気。運の悪いことに読書会開催の10時前後は、東京直撃の時刻となり、出足は鈍く、8名の出席者でした。が、第1回報告の武富健治さん、第2回報告の福井勝也さんの追加報告のあと、熱い質疑応答などがあり、内容の濃い読書会となった。


8・9『広場12号』合評会

 午前の部の読書会に引き続いての『広場No.12』合評会は、台風10号首都通過で風雨強まる中にもかかわらず23名の参加者があり盛会でした。
 6名のコメンテーターの報告は、20分の持ち時間が僅かに感じられるほど充実した批評でした。質疑応答も活発で閉会宣言を食いこんでの論議となりました。コメンテーターの1人、佐々木美代子さんは実に30年近くぶりの出席ということでした。が、『場』や著作で親しんでいるだけに初対面の会員もすぐにうち溶けることができました。佐々木美代子さんは、読書会発起人の一人で、草創期の読書会に尽力くださいました。それだけに、当時と変わらぬ読書会風景に懐かしみながらも心強く思われたようでした。
 二次会には23名、三次会には20名の出席者。冷夏と台風、さんざんの悪天候に見舞われた今年の暑気払「読書会と合評会」でしたが、熱い議論の余韻がいつまでもつづく楽しい夏の夜となりました。ありがとうございました。読書会通信編集室。

コメンテーターの皆さん
○ 人見敏雄さん=福井勝也論「新谷敬三郎先生のオマージュとして」
○ 菅原純子さん=木下豊房論「椎名麟三とドストエフスキー」
○ 熊谷暢芳さん=高橋誠一郎論「司馬遼太郎のドストエフスキー観」
○ 佐々木美代子さん=中谷光宏論「ドストエフスキーとトーマス・マン」
○ 武富健治さん=桜井厚二論「犯罪文学とドストエフスキー」
○ 近藤靖宏さん=「ハムレットとラスコオリニコフ」などエッセイの分



合評会感想の紹介

 後日、インターネットの掲示板を覗いてみましたら、合評会の感想がありました。書かれた方はコメンテーターのお一人です。直截的で臨場感あふれる感想でしたので、紹介したいと思います。(推敲していただく予定でしたが、熱い思いで書いた、そのままの方がよいのではないか、といった筆者の声もあり、ハンドルネーム等もそのままにしました。)

ドストエフ好きーのページ http://www.coara.or.jp/~dost/1-9.htm
「伝言・雑記」板・過去の書き込み記事 03年08月11日03時25分 
 
一瞬、ひねくれ者が素直になる (永久戦犯)

 先日の読書会&合評会、参加の皆さん、お疲れ様でした。

 僕は午後からの参加でしたが、胡蝶社主人の掲示板で有容赦さんがすっぱ抜いたように、個人的には、ホントに僕のためにあるような合評会となりました。
 僕は午後からの参加だったのですが、有容赦さんが書かれたように、それぞれの発表がとても面白いものでした。僕の論文に就いてコメントするため、数十年ぶりに会に出席して下さった佐々木美代子さんは、目を患われているというのに、実に丁寧かつ好意的に僕の論文を読み込んだ上で、後進にとても親身で温かい励ましの言葉を向けて下さりました。
 いつものように池袋駅前の養老の瀧で行われた二次会の席では、アベサダさんが、佐々木さんが僕へ向けて下さった言葉を評して、埴谷雄から高橋和巳への精神のリレーのようで、とても感動した、と言ってくれました。
 三次会の後、新宿の居酒屋で催された、「スペシャルCogito−Night」では、ポストモダンかつオリエンタルな雰囲気の中、朝が来るまで、他の誰にも真似の出来ないCogitoさんならではの励ましの言葉を沢山頂きました。Cogitoさんの次回作は、『谷崎潤一郎と四柱推命』になりそうです。>もろちょんさん
 一日経って、桜庭がシュウバに一発KO負けを喫したのを見届けた後、ハセキョーが泣いていたのに感化されたためかどうか判りませんが、先日のドスト会のことを思い出したら、自分の中の、何かかたくななものが氷解したように、少し不思議な涙が出てました。
 一体、この不思議な涙は如何なる心理的メカニズムによって僕の万年ドライ・アイを潤すに至ったかを考えて、二つの文芸作品を思い出しました。
 その一つ目が、トーマス・マンの『「ファウストゥス博士」の成立』です。
「私の娘婿のボルジェーゼは口癖のように「ヴィタミンP」ということを言う。Pとは「賞讃(Praise)」のことであるが、確かに、この薬には強壮剤の作用があり、活力増進の効能があって、懐疑的な考え方になっているときにさえ少なくとも心を晴れやかにしてくれるのである。私たちは皆、傷手を負っているわけだが、賞讃というものは、そういう傷手をなおしてくれないとしても、苦痛を軽くしてくれる鎮痛剤なのだ」(マン『「ファウストゥス博士」の成立』)
 そして二つ目が、川端康成の『伊豆の踊子』です。
 この川端康成の出世作では、ご存知の通り、孤児根性でひねくれて、素直に人の好意を受け取れなくなっている一高生が、数日間の旅芸人たちとの交流により、「愛情にたいする感謝」ということを知って、ラストで涙を流します。この涙には、一種の浄化、或いは救済のようなものが象徴されているようにも思います。
 以前、こちらのHPで、ドストエフスキーと川端康成に就いて、という話題が出ていましたが、僕は『伊豆の踊子』こそ、川端に於けるドストエフスキー的なものが集約的に表現されているように思います。インテリで人とうまく付き合えない一高生の主人公は、何処か地下室人やラスコーリニコフを思わせ、その主人公のかたくなな心を和らげる踊子の姿は、何処か『地下室の手記』のリーザや『罪と罰』のソーニャを思わせます。さらに、ひねくれたインテリが底辺の虐げられた民衆との交流によって或る心的な変容を経験する、というモチーフのみならず、その虐げられた民衆が少女娼婦に象徴されている、というのもドストエフスキーと川端に共通する点です。又、『伊豆の踊子』の主人公は、一種のストーカー行為によって踊子と仲良くなるのですが、ドストエフスキーの『主婦』の主人公オルディノフも、ストーカー行為によってカーチャと親しくなります。
 インテリと大衆の隔絶という問題意識、少女趣味、ストーカー行為、そして「愛情にたいする感謝」の涙に象徴される芸術と生活の一瞬の和解......このように、『伊豆の踊子』にこそ、川端に於けるドストエフスキー的なものが集約的に表現されていると思うのです。
 ともあれ、先日は過分な褒め言葉や励ましの言葉を何人もの方に頂いて、人の好意をなかなかうまく受け取れない僕は、気恥ずかしいばかりで、そうした言葉を正直持て余して困っていたのですが、一日経ち、美少女の涙に触発され、一瞬、ひねくれ者が素直になって、愛情にたいする感謝を大切に受け取ることが出来る、プチ・ガラリヤのカナを体験したのでした。





2003年7月26日開催
第160回例会傍聴記(ドストエーフスキイの会ニュースレターより転載)

神なき悲惨/神なき幸福 ―熊谷暢芳氏「『永遠の夫』を読んで」を聞いて――

中谷光宏
                         
 「死がすべてを変えるのである。死が人間の運命に、なかんずく愛に重味と堅固さを与える。だから愛は、神々の世界では重大な結果を招くことのない遊びであるのに、人間にとっては、つねに深刻な、時として悲劇的な事件となる」(フラスリエール『愛の諸相――古代ギリシアの愛』)『オデュッセイア』の中で、ナウシカと出逢ったオデュッセウスが、「夫と妻とが心に和して、家をもつほど貴くすぐれたことはない」と語る有名な場面があります。古今東西を問わず、共同体理念を象徴する夫婦及び家族の在り方は、いつの世にも、文芸作品の衰えることなき人気主題として、その時代ごとの動揺と変容を映しながら、繰り返し繰り返し描かれてきました。男女間の愛が社会的に承認された一つの「ゴール」を必要とするという意識を大多数の人びとが持ち続ける限り、夫婦関係を巡る文芸作品はこれからも絶えることなく書かれ続けるでしょう。
 トロヤ戦争の原因となった絶世の美女ヘレネーとメネラオス、エレクトラ・コンプレックスという心理学用語の元ネタとなった不義の妻クリュタイムネストラとアガメムノーン、そして、幾多の誘惑と度重なる「人間業では支えきれないほどの艱難辛苦」を乗り越え、貞節を守り通したペネロペイアとオデュッセウス――この三者三様の夫婦関係を対比的に描くことで、『オデュッセイア』は、ひとり古代ギリシア人のための人生の書としてだけでなく、時を超える「エトスの叙事詩」として世界中の人びとに読み継がれることになったのでした。
 そして、『永遠の夫』に限らず、十九世紀ロシアの夫婦模様を「偶然の家族」と呼んで様々に描き、黄金時代との対比によって近代に於ける理想の共同体の可能性を探究し続けたドストエフスキーの小説は、作品群全体で一つの長大な現代の『オデュッセイア』として読むことが出来ると思います。
 『永遠の夫』では、ヘレネーとメネラオスの十九世紀ロシア版のような、ナターリヤ・ヴァシリーエヴナとトルソーツキイの奇妙な夫婦関係が描かれるのですが、ヴェリチャーニノフはさしずめ十九世紀ロシアのパリス王子ということが出来るでしょう。しかし、未だ神話的な雰囲気に包まれたホメロスの世界と違い、無神論の猖獗する十九世紀ロシアの不倫関係は、より索漠として、やりきれない醜悪な光景を展開していて、トルソーツキイの引用する「偉大なパトロクロスはなし、生けるは卑しきテルシテスのみ」という『イリアス』の言葉が、深い含意を帯びることになります。
 人物配置の初期設定は、『永遠の夫』と『ネートチカ・ネズワーノワ』はよく似ていて、リーザは、ネートチカと同じく「みなしご」と呼ばれ、又、ネートチカと同じように義父のトルソーツキイに虐待されます。さらに、リーザは、ネートチカと同じように、「自分は父親のほうがお母さんより好きだった、というのは、父親は以前、自分のことをうんと愛してくれたのに、お母さんのほうは以前、あまり愛してくれなかったから。でも、お母さんがいよいよ死ぬというときになって、みんなが部屋を出て、ふたりきりになったすきに、思いきりキスをして、泣いたし……いまでは、誰よりもお母さんが好きだ、誰よりも、世界じゅうの誰よりも好きだ、毎晩、誰よりもお母さんをなつかしく思っている」と語ります。
 しかし、母親の性格がまったく違い、『永遠の夫』は『ネートチカ』とは様相を異にする、より痛ましく救いのない「みなしご」物語となっていきます。
 甲斐性のない亭主と結婚したせいで、塵労に窶れ、ヒステリー気味になった女房という、ドストエフスキーの小説によく出てくる打ちのめされた女の典型であるネートチカの母親に較べ、リーザの母親であり、トルソーツキイの妻であり、ヴェリチャーニノフのかつての愛人だったナターリヤ・ヴァシリーエヴナは、ニニが四というような計算をまったく問題にしない、つまり近代的合理主義及びそこから導き出される常識的世界観に収まらない、或る意味善悪の彼岸に立って生きている、「自然の如き」独善的かつ謎めいた女性で、小説が始まった時点では既に死んでいる彼女の強力な存在感(或いは不在の存在感)が、小説全編に強力な異化作用を及ぼし、俗物ヴェリチャーニノフに「高級な悩み」を喚起し、他の登場人物たちを右往左往させます。この、ヴェリチャーニノフ自身にもよく理解出来ない「高級な悩み」の正体を丁寧に読み解いていくことで、やがて「他者の視点」によって他者が見えるようになるまでのヴェリチャーニノフの心理的過程と小説の構成を、熊谷さんの発表は見事に解き明かしていたように思います。
 そして、『ネートチカ』と『永遠の夫』の決定的な違いは、『ネートチカ』では、ネートチカの告白体にすることで、「みなしご」の内面がとても濃やかに、情感的に描かれていたのに対し、『永遠の夫』では、語り手はヴェリチャーニノフに密着し、俗物の内面を微に入り細に穿ち描く一方、リーザは実に粗末な描かれ方をして(この粗末な描かれ方は、語り手が密着しているヴェリチャーニノフのリーザに対する身勝手な接し方の反映でもあるでしょう)、「みなしご」の内面は全くといっていいほど書かれていないということです。このリーザの扱われ方に、熊谷さんは「義憤」を覚えるとすら言われていたのが印象的でした。そして、この「書かれない」ことによって、リーザは小説の核になっているのではないか、という発想が、熊谷さんの発表の要であったように思います。
 死せるナターリヤが異界から送ってきた使者のように、ヴェリチャニーノフの前に現れたリーザは、畢に理解不能の「他者」であるまま、ヴェリチャーニノフの意識をよぎり、再び母親のいる死者の国へと帰っていきます。リーザの墓参りをしたヴェリチャーニノフが、リーザによる救いの可能性の空想に甘く耽る条りは、全編醜悪な人間たちの営みが繰り返し描かれる『永遠の夫』の中で、殆ど唯一と言っていい、詩的な美しい場面で、「死者との対話」によって始まったヴェリチャーニノフの「高級な悩み」はここで頂点に達しているように思われます。そして、世俗的な「低級な悩み」からすれば、この時点でのヴェリチャーニノフは、最もだらしのない状態にある訳でもあります。この瞬間、ヴェリチャーニノフは生涯で初めて信仰の問題――神なき悲惨と神なき幸福の岐路――と向き合う直前まで行っていたのかも知れません。
 熊谷さんは、ニュースレター61に掲載された例会報告要旨に、次のように書かれています。

 「小説(『永遠の夫』)には、妻の愛人と夫の対立というパターンが描かれています。しかし、そう読むとき、この小説には瑕疵とも思える多くの引っかかりがあり、それが何時までも消えない違和感として残ります。その違和感はこの小説の書かれざる別の領域を示しています。
 といっても、その書かれていない面こそが作家の真に意図する表現内容であるということではありません。「謎解き」が目的ではありません。書かれている面と書かれていない面、この二つの領域の並置によって作品は成立しているからです。それより、むしろ小説作品に、あえて書かれず読者に謎と受け取られる要素を配置するということはいったいどういう意味があるのか、ということを問いたいと思います。つまり、読むものにとって分からない、という形式を取ってしか表現できないものがあるのかということです」
 「読むものにとって分からない、という形式を取ってしか表現できないものがあるのか」――この問題意識をモチーフにして、熊谷さんの発表は『永遠の夫』のみならず、小説という分野一般の可能性を、作者と読者双方の姿勢も含めて、改めて問うようなものだったように思います。
 そして、語らないことによって語る、という反語的表現で思い出すのが、江戸時代の国学者富士谷御杖の「倒語論」です。御杖の倒語論は、言葉の限界を徹底的に意識し、何かを語るということは何かを語らないことであり、この、何かを語ることによって語られないことまでも意識に入れた言葉の使い方こそが和歌の真髄である、というようなものです。たとえば、「行かずば(行かなければならない)」と歌われた時には、実はそれは「行きたくない」という真情をも表現している、という具合です。
 「御杖の言ふやうにして見ると、言語を以て何事をか言ふは、実は殺すのである。否定するのである。有は無であり、得は失なのだ。真に肯定せられたるものは、その言語以外にある。無が有であり、失が得なのだ。言語によつて、かく始めから生かされてある所思の表現せられる、これが言霊である。だから決定の合理性は直ちに反対の不合理性を予想し、合理性不合理性は更に直ちにその背景の全的生活である非合理性を予想するのであるが、非合理性は、御杖によれば、合理性に対してよりも寧ろ不合理性と密接の関係を持つてゐるのだ」(土田杏村「御杖の言霊論」)
 断定的に何かを肯定することは一方で他の何かを否定することであり、また翻って、何かを否定することは一方で何かを肯定することである、という言霊観。言語表現そのものに宿るプロとコントラの力学原理。そして、この、何かを肯定することによって否定されるもの、何かを否定することによって肯定されるもの、つまり言挙げされる言葉の陰に隠然する「補集合」の声を聴き取る発想こそが「倒語」であります。
 御杖は、和歌を成立させる詩的原理として「倒語」を発想しましたが、ドストエフスキーは、御杖に通じるような言語観を小説の構造そのものにまで適用しようとしたのではないでしょうか。倒語的小説作法とその可能性――熊谷さんの発表を聞きながら、こんなことを考えていました。
 そして、御杖は、「神」に就いて次のように語っています。

「すべて正面に口舌手足を用ふるは、その力限りあり。これを人といふなり。倒語してしかも其の正面の所思、口舌手足の用にまさるいさをの自ずからなる、これを神とはいふにて、神典一部専らそこを説きたまひしもの也」(『古事記燈』)
 最後になりますが、先日、或る酒席で知り合った女性と少し文学談義をする機会があったのですが、普段小説をあまり読まない彼女は太宰治の『人間失格』だけは何度も繰り返し読んだことがある、と言っていました。何故『人間失格』だけ繰り返し読んだのか訊いてみると、何が言いたいのかさっぱり判らないから悔しくて何度も読み返した、と言っていました。感傷的に自己と同一視して『人間失格』を読み耽る人は多いですが、理解も感情移入も出来なかったからこそ何度も読んだ、という彼女の話はとても面白く、僕はそういう彼女の話を聞きながら、熊谷さんの「『永遠の夫』を読んで」の発表のことを思い出していました。そういえば、『人間失格』の主人公、大庭葉蔵も、寝取られ亭主でした。





ドストエーフスキイ情報


本・染織家志村ふくみ著『ちょう、はたり』筑摩書房 2003年3月25日刊
  
 提供・船山博之さん                              

 P154「トルコやイランに行く時はドストエフスキーだった。前々年、サンクト・ペテルブルグに行き、ドストエフスキーの館の前を通ってから、若い時読んだ全集をもう一度読みたいと思って、小さな文庫本をそろえ、どこにでも持ち歩いた。その土地の人々、風土となぜか一体になるのだった。ドストエフスキーの小説の中の人物はどこにでもいて、街角やレストランの片隅に、はっと胸をつかれる人がいる。言葉が通じないないのも忘れて、語りかけたくなる。それほどドストエフスキーの人物描写は卓抜で、その細部の、例えば首すじの皺まで読者にきっちりと刻印する。それが単なる描写ではなくにじみでる愛情なので、こちらは会わない先からもうその人物に親愛をおぼえて、見知らぬ人にその面影をかさねてなつかしくなるのである。」
 P220「〆切の迫った原稿もあるというのに、ずっとドストエフスキーを読みふけっている。ここ二三年どうしたことか、とりつかれてしまった。私には大きすぎる対象だとはわかっている。世に何千万という人がドストエフスキーに熱中し、熟読し、書きしるしていることもよく分かっている。だからといってこの思いをとどめることができずにいる。日本の片隅で、年とった機織りの自分がこんなにドストエフスキーを熱愛しているなんて、一笑にふされるかもしれない。しかし、それでもいい。これからも何ども何ども読むだろう。一つの小説を三回も、四回も。今夜もラスコーリニコフ、マルメラードフに会いに行こう。」

P154の31用は、76才の時の執筆、P220の引用は、78才の執筆になります。

(「志村ふくみ『一色一生』ちくま文庫が好きでたまたま新刊を読んでいたら、上記のような箇所がありました。」船山)





広 場


 清水正著『志賀直哉とドストエフスキー』に寄せて

「読書会通信」編集室

 8月の或る日、清水正氏から電話があった。先日、氏から送っていただいた『つげ義春を読め』の書評を読売新聞の「本、よみうり堂 今週の赤丸」欄でみかけていたので、そのことを話そうとしたら、氏はいきなり「9月に『志賀直哉とドストエフスキー』を出すんです」と言った。「いま志賀直哉に夢中なんですよ」とも言った。
氏の著書出版は、いつも突然なので、それほど驚かなかった。が、志賀直哉ということで、ちょっと意外に思った。だが、心のどこかで当然の帰結のような気がしないでもなかった。とはいえ、それはあくまでも漠然とである。氏は、これまでドストエフスキーを主軸に宮沢賢治論、『佐藤洋二郎の文学』、数々のマンガ論・宮崎駿アニメ論を手がけてきた。それらの作品や作者は、何かしら関係性を感じて妙に納得してしまうところがあった。
しかし、こんどの志賀直哉は、さすがに「え?」と訝しむ他なかった。当然の帰結のようなものを感じたのは、ほとんど無意識下であって、現実的には思い浮かばなかった。志賀の名前は、まさに晴天の霹靂、そんなようなものであったのだ。
 にもかかわらず、電話口で志賀直哉の名を聞いた途端、瞬間的に「ああやっぱり」そんな気持ちがかすめたのも事実であった。もっとも、この時点、私自身、志賀直哉は遠い存在だった。昔、学校の教科書で読んだ記憶と、若い頃、薄い文庫本を買ったことぐらいか。いくつかの短編は面白かったが、自伝風作品は、何か面倒で読むに耐え難がたかった。作家自身についても、最後の純文学作家と云われる葛西善蔵が神様のように思っていて、郷里弘前に帰郷する度、志賀直哉が住む駅に何度も降りようとした。(降りて家の前まで行ったのか。いずれか失念してしまったが)その程度の知識であった。
受話器を置いた私は、しばらくのあいだ、ぼんやり思いをめぐらせた。出版されるという『志賀直哉とドストエフスキー』ではなく「志賀直哉と清水正」について考えた。
 清水正氏とはじめて会ったのは二十数年前だから、長い付き合いになる。氏は、最初自費出版した『ドストエフスキー体験』から今日まで、実に沢山の著書がある。その大抵は出版するたびに戴いているので、多少は、自分なりに理解しているつもりである。実生活の方も、会話や書いたものからなんとなく知り得ていた。そうした間柄ではある。ぜんたい氏は「物言わぬは腹ふくるる」型タイプの性格の人である。で、書かざること、言わざることはあまりないと思っている。が、そんな氏にも、しばしば腑に落ちないことがあった。(あくまでも私が感じたことだが・・・)
 腑に落ちないこと。それは二つの疑問であった。氏は、千葉県の我孫子市という町に住んでいる。先祖伝来かどうかは知らないが、その土地で生まれ、その土地で育ったらしい。その土地は一時期、汚れた沼があるという不有名を被っていた。が、30数年前、私が訪れた沼周辺は、田と雑木林、沼の岸辺には丈の高い水草の中で水鳥たちが騒がしく鳴くのどかな田園地帯であった。沼に面した小高い丘に団地ができ、友人が一人で住むことになったので、時々泊りに行ったが、春先の風景が特によかったように覚えている。その頃、まったく興味がなかったので考えもしなかったが、その土地のどこかに志賀直哉が住んで、沼周辺を散歩していたのだ。そんな思いはあった。だから清水正氏がその土地の住人と知ってから、いつかは、志賀直哉のことを話すのではないか、そんなふうに思っていた。
が、氏は一度もその名を口にしなかった。同じ土地に住んでいた作家――それも文豪と呼ばれる大作家ではある。関心がないとしても、なぜか。いつも幽かな疑問があった。もしかして、『和解』を実感することへの恐れかと揣摩したこともあったが、宮沢賢治やドストエフスキー論に挑戦していることから、志賀直哉だけを特別視しているとも思えなかった。やはり、たんに興味がないだけ、好の作家ではないだけかも。氏の性格から判断して、そんな
ふうに捉えるしかなかった。もう一つの疑問は、氏の父親のことである。氏から父親のことを聞いたことがいっぺんもない。なぜ、氏は父親のことを話さないのか。氏は母親のことは、よく話した。既に亡くなっている母親像は、文学好きのしっかりした女性、そんな人物像が浮かんでくる。しかし、父親に関してはまったく浮かんでこない。いくら母親っ子であっても、まったくというのは、どうにも不可解だ。もしかして幼い頃、亡くなっていて、まったく記憶にないのか、他に話しづらいタブーがあるのかも。父親のことはそう考えるほかなかった。
 「志賀直哉」と氏の父親「政吉」。まったく口にしなかった両者ではあったが、今にして思えば逆もまた真なり、ということか。両者の登場は、必然の帰結であったのだ。
 先に述べたように、私の志賀直哉の知識は、ほとんど無いに等しい。名前だけ知っている昔の大作家である。だから電話を受けたとき、私としては「ああ、そうですか。志賀直哉
ですか・・・読んでいないので」と、ただ頷くしかなかった。
 このとき私は、小説を読んでいた。第何回かの芥川賞を受賞した「ハリガネムシ」という作品であった。高校教師と風俗嬢との奇妙なおぞましい関係。自分の糞を握りつぶし、その感覚を楽しんだり、繰りかえしつづく暴力とセックス描写。実をいうと私は最近、あまり小説を読まない。似たような作品が多くて読むたびに失望するからである。才能ある書き手も多いのだろう。が、折角のその筆力を、無駄に消費しているように思えて仕方ないのだ。才能ある作家たちは、まるで才能ある科学者が、より殺傷能力の強い兵器を作るように、より便利な環境破戒著しい製品を開発するように、作品をよりエロ・グロ的に、よりサデスチックに書くことに専念している。今回の芥川賞作品は、確かに受賞作だけに筆力もある、テンポもいい。が、結局のところ書店の店頭でパラパラと立ち読みするだけの本に過ぎないような気がした。そんな作品をなぜ、自宅で読んでいたのか。
昨晩遅く、都下の東村山氏に住む友人から電話があった。「ひどい小説を読んでしまって、眠れない」という電話だった。クリスチャンの彼は、昔、神経を病んでいたこともあり、人一倍、物事には敏感な方だった。で、日頃過激なものは避けているが、文学好きなので話題の本は読まずにはいられないらしい。芥川賞作品は、一種国民行事的にもなっているので、是非、読まねばということになったようだ。それが火元になってしまった。友人は、ぼやく。毎日ニュースで人殺し、誘拐、レイプなどの事件を報じている。なのに、こんな作品を2003年上半期一番の小説と云われたのではたまらなんと責める。しかし、読んでない私には、返答のしようもなかった。友人の怒りは収まらない。一晩中でも、最近の小説について愚痴るつもりだ。仕方がないので私は、御印籠をだした。「それはきっと、作者も選んだ人たちも本当にドストエーフスキイ知らないからですよ」。友人は、納得したかどうかは知らないが、おやすみと言って電話を切った。で、翌日読むことになったのである。
 「志賀直哉、ぜひ再読してみてくださいよ」清水正氏に慫慂されて、私は図書館に向かった。そして、全集が置いてある書架の前に立った。ところが、どうしてか『志賀直哉』の全集がいくら探してもない。『三島由紀夫』『太宰治』『司馬遼太郎』『向田邦子』などなど有名作家の全集はずらり並んでいるのにである。係の女性にたずね、彼女と一緒に探した。それでもみつからない。志賀直哉といえば日本を代表する作家だ。「変ですねえ」と話していると、係の女性は、はたと気がついた。地下の書庫に眠っているかも知れないというのだ。その通り、地下の書庫で眠っていた。岩波書店1998年刊全17巻である。5巻借りた。印刷のにおいがした。長編の『暗夜行路』を読むには、骨の折れることだろうと危惧した。が、杞憂だった。『暗夜行路』『和解』『濁った頭』『或る男、其の姉の死』読み進めるごとに、これまでの文学作品が塵あくたのように吹き飛んでいった。私は、還暦目前のこの歳にして、はじめて川端康成が評した「志賀直哉は文学の源泉」の言葉を理解した。
 「人類全体の幸福に繋りのある仕事」「自分の生涯を打ちこんでやる仕事」時任謙作の真摯な決意。その熱き思いにドストエーフスキイとの接点をみた。
 志賀直哉再読をすすめてくれた清水正氏に改めてお礼を述べたい。 




8月9日暑気払午前の部・読書会参加者8名

8月9日午後の部『広場12号』合評会参加者23名




編集室便り

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