ドストエーフスキイ全作品を読む会 読書会通信   No.72  発行:2002.4.4


次回(4月)読書会のお知らせ

4月読書会は下記の要領で開催いたします。皆様のご参加をお待ちしています。

 月 日 : 2002年4月13日(土)
 時 間 : 午後6時00分〜9時
 場 所 : 東京芸術劇場小会議室1(池袋西口徒歩3分).03-5391-2111
 報告者 : アンケート発表方式(「読書会通信」編集室作成)
 作 品 : 「ポルズンコフ」(河出書房『ドストエーフスキイ全集1』に収録)
 会 費 : 1000円(学生500円)

 ◎ 読書会終了後は二次会を予定しています。

 時 間 : 〜 11時頃迄
 会 費 : 2〜3千円



4月13日(土)読書会

『ポルズンコフ』あれこれ (編集室)

この小作品について、テキストの米川正夫訳『ドストエーフスキイ全集1』では、多くを解説していない。別巻『ドストエーフスキイ研究』では全く取り上げてもいない。しかし、短い紹介のなかで訳者は、このように述べている。

「ドストエーフスキイの作品には、自分の卑劣さと道化根性を意識しながら、なかば面当てのためと、なかば自虐の快感のために、その卑劣さと道化根性を故意に強調するタイプが、数多く現れてくる「ポルズンコフ」はその領域における最初のスケッチである。笑話的な骨格の上に組み立てられているけれども、デッサンの正確で緻密な点において、ドストエーフスキイの持味を完全に現わした成功作品である。」

○ この小作品は、ネクラーソフ及びパナーエフ編集の『絵入り文集』(1848年)に掲載されるために書かれた。以下は、依頼に触れたN・A・ネクラーソフのI・S・ツルゲーネフ宛の手紙 1847年4月25日

「我々は『現代人』の第10号あるいは11号の付録として、韻文と散文の、あまり長くないユーモラスな作品を集めた『絵入り文集』を出すことにしました・・・ところで、この文集に載せる予定で、ゴンチャローフとドストエフスキーに小品を依頼しました。」

※ ちなみにこの文集は、一度は検閲を通ったものの結局は、発行停止になってしまった。

この作品の依頼を受けた頃のドストエーフスキイの生活は、このようなものであった。

○兄ミハイルへの手紙1847年4月から

「ぼくの宿所は、マーラヤ・モルスカヤ街とヴォズネセンスキイ通りの角で、シーリの持家、ブレムメル方ドストエーフスキイです。

あなたはとてもほんとうにしないでしょうが、文壇生活を始めてからもう三年目ですが、ぼくはまるで毒気にあてられているようです。人間らしい生活を見ることはできず、正気に返る暇もないのです。研究は時がないために空しく過ぎていきます。ちゃんとした足場を作りたくてたまりません。みんながぼくに曖昧な名声をつくり上げてくれましたが、この地獄がどこまで続くのか見当がつきません。貧窮、急ぎの仕事――ああ、ゆっくり落ちつくことができたら!!(「急ぎの仕事」とは、依頼されたこの作品のことか?)

文面から想像できるのは、「ポルズンコフ」を書いたときの作家の状況は、まったく最悪の状態・環境だったようだ。

○作品について

登場人物 道化者=オショップ・ミハイロヴィチ・ポルズンコフ
     上 司=フェドセイ・ニコラーイチ
     夫 人=マリヤ・フォーミニシナ・ポルズンコフ
     娘 = マリヤ・フェドセエヴナ・ポルズンコフ(マーシェンカ)
     そのほか=おばあさん、ソフロン

○ 短編の構成 

道化の6年前の失敗談。(3月31日から4月1日〜7日ごろまでの出来事)

○あらすじ
 
この短編は、道化のポルズンコフが「地方官庁の官吏であったとき、上司の公金横領をかぎつけて、その上司をゆすり、さらにはその役人の娘と結婚するかというところまでこぎつけたのだが、エイプリル・フールにあそびのつもりで書いた辞表を、こんどはその上司に逆に利用されて、花婿の口も職も失った、という小噺。(中村健之介著『ドストエフスキー人物事典』)              
                     
1.「そうだ、密告だ!ということになったのです。」
2.「訴状」を「銀貨で1500ルーブル」で売る。
3. 娘とも結婚の話が・・・「おれは、結婚するんだよ。」浮かれる。
4. ふと、「明日は4月の1日だ」と気がつく。遊びに辞表を書く。
5. 上司一家に騙されて賄賂もまきあげられ、役所も辞める羽目に。
6.「わたしは一度フェドセイ・ニコラーイチに出会ったので、面と向かって卑怯者といってやろうとしました・・・・」


○4月1日について

何年か前、イギリスのネス湖の湖畔に一頭の奇妙な動物の死体があがった。もしや、ネッシーの子供では。そんなニュースが世界中に発信され、大騒ぎになった。が、すぐに鎮火した。動物の遺骸はアザラシだった。悪戯者の研究者たちが、4月1日ということで、アザラシの屍骸に細工して湖に流したらしい。後にネッシー騒ぎの元となった写真も4月1日用のものだったらしい。それがいつのまにかネッシーの写真ということに・・・。このように外国では、4月1日のウソは、堂々としたところがある。大の大人がウソ遊びで喜んでいる。しかし、日本では、間違っても、大真面目にウソを報じたりはしない。この日は、せいぜい子供たちが「4月バカ」とはやしたてているぐらいだ。そんなところから、この作品は、日本ではどうしても現実感がうすい。「今日は4月1日だから、ちょっとした冗談にかこつけて、おれの恨みは晴れていないぞ、一晩のうちに考えが変わったんだぞ、という振りがしたかったのです。」などと辞表など書く役人など、いないだろうし、小説のネタにもならないだろう。それが、このところのリークだ、密告合戦だ、辞表だ、辞職だ、の政界や官僚世界のニュースをみていたら、なにやらこの作品を彷彿した。ポルズンコフや上司は、どこか議員や官僚に似たところがある。春のせいか、そんな気がしてならない。

○そもそもエイプリルフールの起源は何なのか。
昔の新年は現行の暦の3月25日で、それから4月1日まで春分の祭りがひろくおこなわれ、その最後の日には贈物を交換するならわしであった。ところがフランスでは1564年にシャルル9世が新しい暦法を採用して、新年を現行の1月1日に改めたが、それが末端までとどかず、やはり4月1日が新年の祭りの最終日と考えられてその日贈物がかわされ、なかには新年のかわったことをよろこばぬ人々が、4月1日に昔の正月をしのび、でたらめな贈物をしたり新年の宴会のまねをしてふざけたのがおこりで、それがヨーロッパ各国にひろがったとみられている。 (平凡社『世界大百科事典』より)




資 料

ドストエーフスキイとてんかん  下原康子(訳)

論 文 名:The Epilepsy of Fyodor Mihailovitch Dostevsky(1821-1881)
著 者 名:P.H.A.Voskuil
著者所属:Dr.Hans Berger Kliniek、 Epilepsiecentrum van de Stichting De Klokkenberg、 Breda、 Netherlands
掲載雑誌:Epilepsia 24:658-667、1983. Raven Press、 New York

                          
要 約

今から百年前、1881年1月27日にF・ドストエーフスキイは死去した。その後、多くの伝記、単行書、回想記などが出版された。せまい範囲ではあるが医学分野の論文も発表され、その中ではドストエーフスキイがてんかん患者であったという事実について議論されてきた。
 ここに述べるのは、現在の医者が初めての患者に対して行うのと同じ方法をもちいてドストエーフスキイの病気の詳細から彼の病歴を構成してみようという試みである。病歴に必要な情報は全発作の記述、頻度、誘因、進行、治療、家族の病歴である。1929年にハンス・ベルガーが発明した脳波を参考にすることができないのが残念だが、ドストエーフスキイのてんかんの病型分類を試みた。その際の問題はいわゆるエクスタシー前兆が存在したか否かの点である。ここに提供するデータによれば、ドストエーフスキイのてんかんは原発性全般てんかんというよりむしろ部分複雑てんかんであって、その発作が二次的に夜間の全般発作を引き起こしたと考えられる。
 
ドストエーフスキイはその生涯で数多くの医者と接触をもったが彼らに対しあまり尊敬を払っていなかったらしい。1877年3月7日、ある賛美者の一人にあてて書いている。「医者が人類に貢献しているって?どんでもない、彼らときたら、報酬にみあう以上には勉強しようとしません」

ここに試みるのは、かの偉大な作家の没後百年以上たった今、彼の医者に対するイメージを改善させようという一つの試みである。この中で私は現在においても、患者の生活における事実の記録が研究におけるもっとも重要な方法の一つであり、てんかんの場合なおさらだということを示したいと思う。この方法は今世紀になって発達した脳波記録装置のように洗練された方法ではないが、正しい方法なのである。病歴は診断と分類のためだけでなく、作家の生涯と作品の中で病気のはたした役割を評価するという点でも重要である。ドストエーフスキイは作品の中でてんかん持ちの人物を数人描いてはいるが、彼自身の経験をそのまま語っているというわけではない。

1854年2月22日(その一週間後、獄から釈放された)オムスクから兄のミハイルにあてた手紙の中で、「神経の変調からてんかんの発作をきたしました。でもたびたびではありません」と書いている。

1857年3月9日、友人のヴランゲリ男爵に「医者はぼくの病気はてんかんだと言いました」と書いた。この医者とはヤノーフスキイのことで、ドストエーフスキイとは1846年から親交があった。シベリアの第七歩兵大隊の医師だったエルマコフ は1857年12月16日の診断書の中で、この患者について次のように書き留めている。「年齢35才位、体格普通、1850年にはじめてのてんかんの発作に見舞われる。症状は突然の叫び声、意識消失、四肢と顔面のけいれん、口からもれる泡、いびきのような息づかい、速くて弱い脈拍、発作時間15分。その後、発作状態は全般的な衰えをみせて意識が回復する。1853年に再発。以後毎月発症。発作の時、ドストエーフスキイ氏は脳の器質性の障害が引き起こす極度の疲労と顔面神経痛にみまわれ、全身の衰弱に陥った」

1851年、オムスクの軍病院の医師だったTroickyはリーゼンカンプ(Troickyの同僚でドストエーフスキイの工兵学校の学友でもあった)に「ドストエーフスキイは気の毒だ。こんな遠くに連れてこられた上にてんかんがひどくなるなんて」と話している。

病 歴

てんかんと思われる発作の最初の記録はドストエーフスキイの友人グリゴローヴィッチによるものだ。その発作はドストエーフスキイが1846年、最初に世に認められた作品『貧しき人々』の完成後まもなくのことだった。グリゴローヴィッチと散歩していた時、葬式の列に出会った。ドストエーフスキイは列をさけようした。しかしいくらも距離をあけないうちに激しい発作にみまわれた。彼は近くの食料雑貨屋に運ばれ、いろいろ手を尽くした後やっと意識を回復した。

同じ夏(あるいは一年後)ある小さなパーティが終わりかけていた夜おそく、別の友人がドストエーフスキイの顔の奇妙な変化と目の中の驚愕の色に気がついた。数分たってドストエーフスキイは力なく「ここはどこですか」とたずね、外気をもとめて窓にかけよった。そこの主人が部屋に入ってきたとき、ドストエーフスキイは窓敷居に腰かけていた。彼の顔はゆがんで頭は片方にかしぎ、身体はけいれんを起こしたように震えていた。主人は冷たい水で彼の顔を濡らした。しかしドストエーフスキイは十分回復しないうちに通りに走り出てしまった。驚いた主人はあとを追ったが追いつけなかった。そこで馬車に飛び乗り、2ブロック先の病院の門の前でやっとドストエーフスキイをつかまえることができた。そのときは平静にもどっており、失礼して帰らせて欲しいとたのんだ。そして助けが欲しいという、ぼんやりとした考えから病院まで走ったのだと説明した。

1846年5月の朝、ドストエーフスキイは初めて医師ヤノーフスキイを訪問した。そのときのことをヤノーフスキイが書いている。
「彼は中背で骨太、肩幅がひろくめだって大きな手足をしていた。顔は青白く、髪はやわらかなブロンドだった。額はきわだって発達しており、青みがかった灰色の目は小さくてよく動き、薄い唇はかたく結ばれていた。身体の所見にはとりたてて異常はなかったが、ただ心臓の鼓動に乱れがあり脈も不整脈で、あきらかに微弱だった。子供のころるいれきか、くる病にかかったような痕跡があった。ドストエーフスキイは子供のころは神経が過敏だったと説明した。」

1847年から1849年にかけてヤノーフスキイはドストエーフスキイの発作を3回目撃した。
1.1847年7月、ヤノーフスキイはなにか予兆のようなものを感じて聖イサク広場にでかけた。広場を横切りざま、彼の患者をみつけ走りよってその軍服の腕をつかんだ。ドストエーフスキイは帽子を被らず、上着とチョッキのボタンはとれ、ネクタイもなかった。彼は自分は死にかかっていると叫んでヤノーフスキイに助けを求めるのだった。脈拍は100以上になり、頭は後にのけぞりこわばって、けいれんが始まっていた。医師は彼を家に連れて帰り、静脈から石炭のように黒い血を抜いた。そしてそれから数日間は自宅に泊めた。
2.1848年5月、ドストエーフスキイはヤノーフスキイにベリンスキイの死を告げた。ドストエーフスキイの様子から医師は彼に泊まっていくようすすめた。その日は無事に過ぎた。しかし明け方の3時ごろ医師はドストエーフスキイの眠っている部屋から重苦しいいびきのような息づかいを聞いた。行ってみるとドストエーフスキイは仰向けになって目を開き、口から泡をふき、舌を出し、けいれんしていた。
3.1849年早春のある日、夜遅くサークル内での不愉快な事件のあった後、ドストエーフスキイはヤノーフスキイに発作が起きそうだと言って助けを求めてきた。医師によればこの時おこった発作は特に激しくまた特徴のある発作だった。というのは患者は数回の光発作にみまわれていたのである。

ドストエーフスキイはこの時の発作の性質については認識がなかったが、「breeze(微風)をともなった発作」と表現した。前兆があったことが推測できるが、興味深いのはbreeze(微風)ということばが文字通りアウラ(前兆)を意味しているということである。もしドストエーフスキイが医学書でこの言葉を知っていたとしたら(彼はときどき医学書を読んでいた)このときの発作にkondrashka(発作)ではなくエピレプシー(てんかん)という言葉をつかったであろう。

結論として、ドストエーフスキイの最初のてんかん発作は25才ごろであって、4〜7才または一説にあるように18才の父の死の時ではない。最終的な診断は最初の結婚(1857年2月6日)後の数日間におこった激しい発作で下すことができる。このとき以来、発作は激しさを増し頻繁におこるようになる。

1850年以後の発作

1855年の兄ミハイルへの手紙でドストエーフスキイは「私はあらゆる種類の発作にみまわれています」とかいている。二度目の妻アンナ・グリゴーリエヴナ・スニートキナの回想記によればドストエーフスキイの発作はほとんどが睡眠中に起きているという。重要なのは彼がおそくまで執筆したり読書したりした夜のおそい時間に発作がおきていることである。二度目の結婚(1867)のハネムーンの間、短い期間に続けて二回発作をおこしている。二度とも夕食の席でシャンパンを飲んでいた。「それはカーニバルの最終日、夕食とシャンパンを終えた、夜おそくのことでした。ドストエーフスキイはたいへんいい気分で私の姉におもしろい話をしていました。突然言葉が途切れたかとおもうと長椅子から立ち上がり、私の側によりかかってきたのです。彼のゆがんだ顔を見て私はびっくりしました。それから突然の恐ろしい叫び声、それは人間のものとは思えないまるで獣のうなり声のようでした。そしてますます私によりかかってきます。私は彼の肩に腕をまわして長椅子に寝かせようとしました。意識のない夫の身体が床に滑り落ちてしまったときの私の驚き。私は床にひざまずき彼の頭をけいれんの間中、膝の上でかかえていました。けいれんはじょじょにおさまり意識がもどりました。けれどはじめは自分がどこにいるのかもわからず、舌がもつれてしゃべることができません。何か言いたいのですが、言葉が混乱しているのです。彼がなにを言いたいのかを理解するのは困難でした。」

ストラーホフもまた発作の描写をしている。「彼はまるで言葉をさがすか、考えをまとめようとするかのよう一瞬沈黙した。私は彼がなにか並外れたことをしゃべるに違いないという確信をもって見守った。ところが、彼の半分開いた口から突然奇妙な途方もない長く尾をひく音がもれ、彼は部屋の真ん中に倒れてしまったのである。」

発作は一見は平常を保っているように見えるもうろう状態に続いておこることが多かった。発作の後は健忘症(発作後の自動症)に陥った。

1875年8月、ドストエーフスキイによれば、完全に意識をなくして床に倒れていた後、気がついておきあがってから、タバコを一つ二つと巻き終えた。全部で四本巻いたが「出来が悪かった」という。

1870年10月、ドストエーフスキイによれば発作の後、火のついたローソクを部屋に運んできて、窓をしめた。その直後また発作にみまわれたらしい。発作の後はしゃべったり書いたりするのに困難をきたした。加えて発作後の3〜5日は欝状態が続くと何度か語っている。

エクスタシー前兆

これまでは恐怖と失語症の前兆のみで、エクスタシー前兆にはふれなかった。実はこれが長年論議の的になっている問題点なのである。これに関しては1977年のW.G.Lennoxと1978年のHenri Gastautの注目すべき論文がある。ガストーの論文はCatteauの優れた業績をふまえたものである。

ドストエーフスキイは少なくとも三人の人物にエクスタシー前兆について語っていることがわかっている。ソフィヤ・コワレフスカヤ、ストラーホフ、ヴランゲリ男爵の三人である。加えて、この現象を『白痴』のムイシキンと『悪霊』のキリーロフの口からも語らせている。
 
ソフィヤ・コワレフスカヤは少女のころドストエーフスキイと出会った。その回想のなかでドストエーフスキイが1865年に自分の病気について語ったことを書き記している。それはシベリア流刑中(1854〜1857)のことで、不意に古い友人が訪ねてきて、議論に熱中した時のことだった。これは、ストラーホフが1863年に復活祭前夜のこととして書き留めている出来事と同一のものらしい。

友人との議論の最中、ドストエーフスキイは熱中のあまり叫んだ。「神は存在する。いるのだ」それと同時に近くの教会の鐘がイースターの祈りを告げて空いっぱいになりわたった。彼はさらに言った。「天が地上に降りてきて私は呑み込まれたのを感じた。私は本当に神を感知した。神は私の中にいた。そうだ、神は存在する。私は叫んだ−その後は何も憶えていない」

ドストエーフスキイはこの時点での自分の経験をメッカからエルサレムまで飛んだという伝説上のマホメットの天上訪問と同一視している。伝説によれば、これらの出来事は一瞬におこったとされている。ドストエーフスキイはコーランの仏訳本を持っていた。またコーランの十七章一節を読んでいたとみられる。

ドストエーフスキイは続けて言った。「まったく君、病まない人よ、われわれてんかん者が発作前の数秒の間に体験する至福、それはどんな幸福なのか、あなたたちには思いもよらないだろう。コーランの中でマホメットがパラダイスを見、その中に入ったと我々は確信している。理性的でおばかさんの人たちは皆、彼がたんなる嘘つきで詐欺師だと信じている。しかしそうではない。嘘つきではない。てんかん発作中は本当に天国にいたのだ。彼は私とおなじてんかんである。この至福が何秒、何時間、何ヵ月続くのか私にはわからない。しかし私はこの至福を私の人生の悦びすべてとも交換したいとは思わない」

発作の頻度

発作の頻度と進行の具合はヴランゲリ、ストラーホフ、ドストエーフスキイの手記、二度目の妻の日記などから公平に正確に推定すべきだが、一日に2回から4か月に1回までの変動がある。平均すると、月1回の発作がおよそ35年間続いたと考えられる。

家族の病歴

Yarmolinskyはドストエーフスキイの父親は渇酒癖と奇妙な発作があったと書いている。その他叔父や兄弟にも飲酒に関わる問題があったといわれている。兄のニコライは多血症、痔疾、ヒポコンデリーでその結果生じた神経の障害があった。母は結核で死んでおり、父親はいわれているように暗殺されたのではなくおそらくは脳出血で死亡したものと思われる。息子のアレクセイは三才の時てんかん発作重延状態で死亡している。

鑑別診断

 現在、3つの鑑別診断が考えられている。ヒステリー、全般てんかん、部分てんかんである。

ヒステリー

いくつかの理由によりドストエーフスキイは神経症的な性格を有していたことは確かである。彼の言動は情動不安性、興奮性、うつ、フラストレーションの低レベルで特徴づけられる。時としてまったく無口、また別の時には自分自身をさらけだす。これらの症状は発作の前になると、昂じることが多かった。特にシベリア時代の兄ミハイルにあてた手紙の中で神経衰弱に似た神経障害や恐怖や心臓の鼓動の早いことなどを訴えている。「二年間というもの私は奇妙な道徳的に不安定な病的な状態に陥り、ヒポコンデリーになっていました。いったい、何をしていいのかわからずにいました」

1837年、おそらく精神的な誘因からくると思われる失声症の期間があった。フロイドの説では発作の原因をヒステリーとしているが、その事実材料はとぼしい。その説は作品の脚注とあいまいな暗示に基づく空想の産物である。またドストエーフスキイの娘の信憑性に欠ける伝記(彼女は父が死んだとき12才だった)の中の誤った記述も一役かっている。事実の分析においては Frank と Catteau の業績が優れている。当時フロイドが一般的に知られていた以上のてんかんの知識を持っていたとは思われない。彼はツヴァイクに宛てた手紙で次のように書いている。「てんかんは心の働きと別の器質的疾患である。そして、精神活動の低下と退化をともなう。天才といわれる人物のなかでてんかんと考えられている人のほとんどはヒステリーの事例である」

ドストエーフスキイの発作は心理的なものではなかったが、実際には心理的なストレス、しかも、とりわけ執筆活動に関係のあるストレスによってしばしば引き起こされている。このことはアンナ・グリゴリエブナの日記と『白痴』について書きおくったマイコフへの手紙で裏づけることができる。

全般てんかんか部分(側頭葉)てんかんか

部分(側頭葉)てんかんか全般てんかんかの立証が不十分という理由からガストーはエクスタシー前兆の存在をもはや信じることができないと結論した。彼の説によれば、「てんかんの症状の一つと言われるこの現象は実はドストエーフスキイの創作によるものである。彼はてんかん患者としての経験と小説中の創造とを区別できなかった。あるいは意図的に区別しなかった。またドストエーフスキイはいくつかの発作の前におきる精神症状に気づいていたには違いないが、それを神秘化している。そしてドストエーフスキイの真実はこの神秘化の中にこそあった」また、ガストーは、部分てんかん対全般てんかんの議論で重要と思われるポイントを指摘している。@自動症はてんかんにはよくある症状であるが、発作の前、あるいは発作に代わっておこることはなく、発作の後の症状である。Aドストエーフスキイは自分の発作にむすびつけてはエクスタシー前兆について言及していない。B原発性てんかんにしばしばみられるけいれんに対する家族的素因があった。ドストエーフスキイの息子のアレクセイはてんかん重延状態で死亡している。C器質的脳病変を疑われるような、神経学的、精神医学的な証拠がない。D発作は夜間、しかも眠りの初期の段階で起きている。Eいくつかの発作、特に朝起こったものは、けいれんが先行していた。ドストエーフスキイはその時「はじまる」と叫んだ。それは両側性の強いミオクローヌスの発作であった。これは大発作の前の症状であることが多い。Fドストエーフスキイの知られている発作のすべては、わかっているかぎり全身性全般てんかんである。

たしかに、エクスタシー前兆はたいへん稀である。ガストーは35年間の診療で一人も見たことがないという。オランダのてんかん学者のなかにもエクスタシー前兆のある患者を診たという報告はない。しかしながら、なんともいえない幸福感や喜びを感じた患者の報告が、ガストー(1987)はじめAlajouanine(1951),DeCastro ら(1960),Boudouresque ら(1972),Cirignotta ら(1980) によって発表されている。
(訳者注:日本における報告:松井聖、内藤昭彦恍惚発作を呈した側頭葉てんかんの一例-いわゆるドストエフスキーてんかんについて- 精神医学29(8):857-864 1987)

その中の、Cirignottaらは1980年に多描記脳波検査(Polygraphic EEG)を使って眠い状態またはリラックスした状態の時に起こった発作の記録を報告している。これらの発作は漠然とした主観的な症状から成り立っており、患者がその一瞬に知覚したことを表す言葉は不完全なものであった。しかしながら、それは強烈で、かつて経験したことのない感覚であった。発作が持続する間、いやな感覚、感情すべて消え去り、思考は停止していた。彼の精神と存在全体が至福の感覚で満たされた。周囲に対する注意力は休止したが、彼には、そのことが発作の開始のための必要条件であるかのように思えた。

患者の個性が発作の症状に影響を及ぼしているという見方は重要である。精神的前兆や発作の症状が患者の精神世界に関わりがあり、それがドストエーフスキイにあっては至福と調和の世界に対する彼の熱望の現れであったという想像は確かに可能である。

何が真実だったのか、何がドストエーフスキイの想像だったのか、早急に決定するのは危険だ。彼が『白痴』で描いたセミョーノフ広場の判決と処刑劇の場面は彼の想像ではなかった。その場面は歴史上の事実である。また、ドストエーフスキイが潜在的な尊属殺人に対する罪の意識から、罰せられたいと望んでいたと推測する説もある。

てんかんの家族史と脳障害の兆候のないことは、部分てんかんの診断に矛盾しない。同様に夜間の全般てんかん発作の発生にも矛盾しない。Janz(1974)の分類では、全般性強直間代発作と部分複雑発作の両方のある患者がしばしば睡眠中に発作をおこしている。一方、原発性全般てんかんでは発作の87パーセントが覚醒中に起きている。ドストエーフスキイの場合、覚醒中の発作は稀であった。筆者はすでにドストエーフスキイの睡眠習慣が尋常ではなかったことに言及した。ドストエーフスキイの事例において、その症状に関する疑問は完全に解決されたとは言えない。同様に病因についても議論の余地がある。

 遺伝に関しては、ヤンツが睡眠てんかんではその7.7パーセントに家族性てんかん障害が認められ、覚醒てんかんにおいては、(それはしばしば真性てんかんまたは原発性全般てんかんだが)12.5パーセントに家族性てんかん障害を認められたと報告している。

ドストエーフスキイのてんかんの診断に解決をつけるため、ドストエーフスキイの症状を要約してみよう。@かすかなbreeze Aエクスタシー前兆 B表情を伴う嚥下障害 C蒼白 D頭部ののけぞり E恐怖感 F叫声 G全身に及ぶ痙攣発作 H 自動運動を伴う永続的な混乱状態、書くこと・話すことの混乱、発作後の欝。I最近のことがらを記憶する機能の混乱(後述)。

私はガストーが提出した疑問のいくつかは共有している。しかし、ドストエーフスキイの事例が二次的に全般性夜間発作にいたった部分複雑てんかんの分類であったという説を完全に否定する説に賛成することはできない。なぜなら、我々は実際にそのような患者を知っているからだ。エクスタシー前兆があったかどうかは難しい問題だが、先にあげた症状から総括的に判断するかぎり、ドストエーフスキイに部分てんかんの症状があったことは確かである。そしてそれは1846〜1847年の間、ヤノーフスキイや他の友人が残したドストエーフスキイの発作の記録とも一致する。
訳者注:ガストーはこのVoskuilの論文を受けて1984年に「ドストエーフスキイのてんかんについての新しい考察」(下原康子 訳:ドストエーフスキイとてんかん 広場No.2 P.63-71 1992)という論文を発表した。その中で結論としてVoskuilの説に賛成している。

病 因

最初の発作が1846年に起こったという説を信じると仮定すれば、器質的な脳障害を受けたと思われる唯一の記述をドストエーフスキイの手紙に見出せる。1846年の終わりに、ドストエーフスキイは兄のミハイルに手紙を書いた「僕は文字どおり死ぬほどの病気をしていたのです。神経系統全体が極度にひどく苛立ったための病気ですが、それが心臓に集中して心臓の充血と炎症を引き起こしたのです。蛭と2回の放血でようやく取り静めました」この病気にかかる前までは、ドストエーフスキイは自らの身体をかえりみず、医者にかかることを避けていた。しかし、この病気以後、その習慣はあらためられた。

治 療

1863年7月17日、ドストエーフスキイはツルゲーネフに手紙を書いている。「実のところ、小生はできるだけ近いうちにベルリンとパリに向けて出発します。それはただただてんかんの専門医の診察を受けるためなのです。パリでTrousseau、ベルリンではRomberg(訳者注:当時の有名な神経学者、臨床家)。ロシアには専門医がおりません。小生は当地の医者たちから、互いに矛盾撞着した診断を与えられるので彼らに対してまったく信頼を失ったほどです」

 Herpinを訪ねることも考えていた。ドストエーフスキイはてんかん治療のための薬は服用していなかった。ヤノーフスキイは時々、放血をおこなった。ペテルブルグでドストエーフスキイがかかっていた医者はI.B.von Bretzel であった。ベルリンでは胸部疾患の診察のためにFrericksという医者を訪ねた。またBad EmsではOrth医師の診察を受けた。

発作は1860年から1870年にかけてもっとも頻繁に起こった。しかしながら、肺気腫による死の数年前は徐々におさまっていた。『悪霊』執筆中、何度か発作にみまわれた。この間に起こった記憶の混乱が作品を構成する上で大きな障害となった。また、知っている人々の顔を思い出せず、そのために面倒をおこすこともあった。

1873年1月、ドストエーフスキイはソロヴィヨフに自分の病気について語っている。「発作の始まる前までは私は起こったすべてのこと、日常の些細なこと、見たことのある顔や読んだり聞いたりしたあらゆることを細部まで鮮明に記憶している。ところが、発作が起きるとしばしばそれらを忘れてしまう。時にはよく知っていた人の顔さえ思い出せない。私は投獄の後に書いたもののすべてを忘れてしまった。『悪霊』を書いていたとき、毎回、最初から読み直さねばならなかった。なぜなら、登場人物の名前さえ思い出せないからだ」

ドストエーフスキイの手記からの引用でこの論を終えよう。1865年12月、ドストエーフスキイは書いている。「たしかに、私はてんかん(falling sickness)だった。この病のおかげで12年間も不愉快な生活を強いられたことは不運だった。しかし、私はこの病気を恥じてはいない。てんかんは私の創作活動を妨げはしなかった」

翻訳に際して参考にした図書

1.Henri Gastaut 著 和田豊治 訳 ドストエフスキイーのてんかん再考-原発てんかん説-  大日本製薬株式会社 1981
2.金澤 治 著 知られざる万人の病 てんかん 第1部:てんかんだった偉人達の話
  南山堂 1998
3.原 卓也 著 ドストエフスキイー  講談社(新書) 1981
4.Owsei Temkin 著 和田 豊治 訳 てんかんの歴史 1-古代から十八世紀まで- 
中央洋書出版部 1988
5.Harold L. Klawans 著 加我牧子 訳 ニュートンはなぜ人間嫌いになったのか
第4章:楽園への旅 白揚社 1993 



2・16読書会参加者(順不同・敬称略)

2月読書会は、18名の参加者がありました。



編集室

昨年12月読書会で「ペテルブルグ年代記」をとりあげましたが、先日、米川哲夫氏からお礼のハガキをいただきました。一部ご紹介いたします。
「河出出版『ドスト全集』で私がしたささやかな仕事が、皆さんのお役に立った、そのことうれしいことです。」とのことでした。ありがとうございました。

皆さんからカンパいただきました。お礼申し上げます。

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