ドストエーフスキイ全作品を読む会 読書会通信 No.206 発行:2024.10.1
第324回10月読書会のお知らせ
月 日:2024年 10月11日(金)
場 所:IKE Biz としま産業振興プラザ
〒171-0021 東京都豊島区西池袋2-37-4 (Tel.03-3989-3131)
(池袋駅西口より徒歩約10分、メトロポリタン改札より約7分)
開 場:午後1時30分
時 間:午後2時00分 ~ 4時45分
作 品:『罪と罰』第2回
報告者: 徳増多加志さん
参加費:1000円(学生500円)
全作品を読む会12月読書会
日時:2024年12月 6日(金)14:00~16:45
会場:としま産業振興プラザ *最終頁の「大切なお知らせ」をごらんください。
作品:『罪と罰』第3回目
大阪読書会(第82回)
日時:2024年11月22日(金)14:00~16:00
会場:東大阪ローカル記者クラブ
作品:『ネートチカ・ネズヴァーノヴァ』1~3
2024年10月11日(金)読書会
作品 『罪と罰』第2回
報告者 徳増多加志さん
レジメ
『罪と罰』第2回(2024年読書会)
徳増多加志
読み手が素朴に抱くであろう問題を検討する。この作品を曲がりなりにも理解するために触れる必要のある事柄に迫りたい。
1.ソーニャとラスコーリニコフの対話場面の解読
三回の対話場面が、この作品の中心に置かれるのは自然だが、この場面のこれまでの扱い方には疑問がある。
(1)第4編4章
『ラザロの復活』の朗読の場面は、道具立てとしては派手だが、重く見るべきではない。ラスコーリニコフがソーニャに朗読を頼む動機が判然としないし、彼に自分が死んでいること(復活が生起するためには既に死んでいることを要する)の自覚はあったとも思えない。他方ソーニャは、彼が人殺しであることをまだ知らないのだから、復活させるいとも持たない筈で、彼に頼ろうとする気持ちが無自覚に働いた結果が成り行きを決めているだけではないか。―この朗読は小説のテーマの中心にはなり得ない。(『ラザロの復活』を畏怖する評家たちの過大評価が齎した歪みが支配的だ。信仰を抜きにして言えば、感動を呼ぶ物語ですらない!)
(2)第5編4章
これが内容的には最も重要で、主人公の告白に至る心の動きが具に描かれる。思想上はソーニャとの隔絶を意識しながらも、二人の間に「共感」の場が作り出されていく過程を丁寧に辿る必要がある。―詳細に検討したい。
(3)第6編8章
ラスコーリニコフの優柔不断とソーニャの決然とした態度との落差の意味を精確に探る必要がある。―エピローグの解明に繋がる。(当日触れたい。)
2.『罪と罰』におけるスヴィドリガイロフという人物の意味
スヴィドリガイロフは、ドストエフスキー作品の所謂「悪人」たちの系列に属する人物とされ、ラスコーリニコフの「分身」に相当する深刻な問題を孕む人物として扱われることが多い。しかし、作品の叙述を先入見なしに公正に検討すれば、到底「悪人」とは言えない。ではどういう人物なのか?この解明を試みたい。
3.描かれた人物に即して登場人物の10年後を想像してみる
登場人物の10年後を想像することで、その文学的な意味を捉える。
(1)ラスコーリニコフとソーニャの婚姻の顛末
(2)ソーニャに恋するレベジャートニコフ
(3)ドゥーニャとラズミーヒンの結婚生活とその帰結
(4)ルージンとソーニャの妹弟たち
(5)ポルフィーリイのその後の生活
4.考察したいその他の諸問題(当日触れる)
2024年10月読書会資料
『人間失格』と『罪と罰』 編集室提供
「恥の多い生涯を送って来ました」という書き出しから始まる太宰治の『人間失格』は太宰の代表作の一つです。この手記の語り手葉造は、太宰自身がモデルとも、また太宰の自伝であるともいわれています。この作品の中に、友人の堀木と酒を酌み交わしながら「アントニム(対義語)ゲーム」で遊ぶ場面があります。「罪」のアントニムについてあれこれ言い合っているうち、ドストエフスキー『罪と罰』が脳裏をかすめます。
注:アントニム(antonym)対義語、反対語 / シノニム(synonym)同義語、同意語
太宰治『人間失格』(青空文庫より)
第三の手記 二
「罪。罪のアントニムは、何だろう。これは、むずかしいぞ」
と何気無さそうな表情を装って、言うのでした。
「法律さ」
堀木が平然とそう答えましたので、自分は堀木の顔を見直しました。近くのビルの明滅するネオンサインの赤い光を受けて、堀木の顔は、鬼刑事の如く威厳ありげに見えました。自分は、つくづく呆あきれかえり、
「罪ってのは、君、そんなものじゃないだろう」
罪の対義語が、法律とは! しかし、世間の人たちは、みんなそれくらいに簡単に考えて、澄まして暮しているのかも知れません。刑事のいないところにこそ罪がうごめいている、と。
「それじゃあ、なんだい、神か? お前には、どこかヤソ坊主くさいところがあるからな。いや味だぜ」
「まあそんなに、軽く片づけるなよ。も少し、二人で考えて見よう。これはでも、面白いテーマじゃないか。このテーマに対する答一つで、そのひとの全部がわかるような気がするのだ」
「まさか。……罪のアントは、善さ。善良なる市民。つまり、おれみたいなものさ」
「冗談は、よそうよ。しかし、善は悪のアントだ。罪のアントではない」
「悪と罪とは違うのかい?」
「違う、と思う。善悪の概念は人間が作ったものだ。人間が勝手に作った道徳の言葉だ」
「うるせえなあ。それじゃ、やっぱり、神だろう。神、神。なんでも、神にして置けば間違いない。腹がへったなあ」
「いま、したでヨシ子がそら豆を煮ている」
「ありがてえ。好物だ」
両手を頭のうしろに組んで、仰向けにごろりと寝ました。
「君には、罪というものが、まるで興味ないらしいね」
「そりゃそうさ、お前のように、罪人では無いんだから。おれは道楽はしても、女を死なせたり、女から金を巻き上げたりなんかはしねえよ」
死なせたのではない、巻き上げたのではない、と心の何処かで幽かな、けれども必死の抗議の声が起っても、しかし、また、いや自分が悪いのだとすぐに思いかえしてしまうこの習癖。
自分には、どうしても、正面切っての議論が出来ません。焼酎の陰鬱な酔いのために刻一刻、気持が険しくなって来るのを懸命に抑えて、ほとんど独りごとのようにして言いました。
「しかし、牢屋にいれられる事だけが罪じゃないんだ。罪のアントがわかれば、罪の実体もつかめるような気がするんだけど、……神、……救い、……愛、……光、……しかし、神にはサタンというアントがあるし、救いのアントは苦悩だろうし、愛には憎しみ、光には闇というアントがあり、善には悪、罪と祈り、罪と悔い、罪と告白、罪と、……嗚呼、みんなシノニムだ、罪の対語は何だ」
「ツミの対語は、ミツさ。蜜の如く甘しだ。腹がへったなあ。何か食うものを持って来いよ」
「君が持って来たらいいじゃないか!」
ほとんど生れてはじめてと言っていいくらいの、烈しい怒りの声が出ました。
「ようし、それじゃ、したへ行って、ヨシちゃんと二人で罪を犯して来よう。議論より実地検分。罪のアントは、蜜豆、いや、そら豆か」
ほとんど、ろれつの廻らぬくらいに酔っているのでした。
「勝手にしろ。どこかへ行っちまえ!」
「罪と空腹、空腹とそら豆、いや、これはシノニムか」
出鱈目を言いながら起き上ります。
罪と罰。ドストイエフスキイ。ちらとそれが、頭脳の片隅をかすめて通り、はっと思いました。もしも、あのドスト氏が、罪と罰をシノニムと考えず、アントニムとして置き並べたものとしたら? 罪と罰、絶対に相通ぜざるもの、氷炭相容れざるもの。罪と罰をアントとして考えたドストの青みどろ、腐った池、乱麻の奥底の、……ああ、わかりかけた、いや、まだだ ……
プレイバック読書会
第27・28回読書会(1974・11~1975.1)
再録:ドストエーフスキイ全作品を読む会 読書会通信 No.97 2006.8.3
『罪と罰』
新谷敬三郎
11月16日(土)午後6時から第27回読書会を開く。寒い日でもあったせいで出足は悪かった。出席者10名。
『罪と罰』これは草津温泉の天狗山ペンションで泊まりがけで行った読書会でも取りあげたけれども、こういう長編となると、それにこの名作はみなさんすでに何回も繰り返し呼んでおられて、すみずみまでよくご存知で、かえってずばり物が言えないせいで、話がどうも、あらぬ方向へ流れてゆきがちなのである。ある人は、マルメラードフとラスコリニコフは大変よい対照をなしているという。貧のなかで身をもちくずして、どこまでも落ちてゆく、くたびれた初老の男は、そういう自分というものから逃れたい一心で、神にすがりつこうとする。24歳の学生の方は自意識の壁を越えて、何とかして自分で生きたいと願っている。老婆殺しはその証であった。とすれば、スヴィドリガィロフという男は余計なのじゃないか。この奇怪な無人物なしにでも、ある男の罪と罰の物語は成立する。
と、こういった意見に対して、対照されているのは、マルメラードフとラスコリニコフではなくて、マルメラードフとスヴィドリガイロフである。そしてその対照の軸をなしているのがラスコリニコフである。落ちぶれはて世間から見捨てられた魂と我意の肥大をきたした淫蕩なるニヒリスト、この対照的人物を両極とする、そこから発する磁力の場に投げ込まれた、それ自体運動力をもたない磁力に敏感に反応するものとして、老婆殺しの青年はある。
大体ラスコリニコフは、物語のいわゆる生きた人物ではなくて、ひとつの観念、殺人という観念の人格化されたものであって、ドストエフスキイの長編小説の中心人物はいずれも多かれ少なかれ観念の怪物であって、彼の主人公の無私性あるいは無人格性もそういう性質からくるのだが、そういう主人公、題材の核となり筋を運んでゆく道具となる主人公の性質が物語の展開の仕方を規制している。ドストエフスキイの小説は明らかに思想小説であり、観念の実験の物語である。
ところで、ラスコリニコフを軸としたもう一対の対照がある。ポリフィリイとソーニャである。予審判事、この有能なる司法官僚は実は殺人の理念、その自己意識であって、それに対置されて聖なる娼婦、復活の信仰がある。ラスコリニコフはこの二人のあいだを往ったり来たりしなければならない。殺人犯がスヴィドリガイロフとポリフィリイとソーニャと、この三人を訪ね歩く、あるいは偶然に出会う。その順序のなかにおそらく、作者の観念の劇を見ることができよう・・・・こうした読み方は、それこそ観念的にあまりにも図式化しすぎた読み方なのではないか。当然こういう反問が提出される。
が読書会の後半は、結局ソーニャの問題に終始したようである。犯罪者と娼婦、これはあるいは文学、というより人間の永遠のテーマなのかもしれない。どこの国の文学にも、それは物語の一モチーフとして、大変古くから今日に至るまで途だえることなく繰返されている。
どこへも行きどころのなくなった、というか、たえず追いかけられ、追いつめられている男と落ちるところまで落ちて、はいあがる知恵も元気もなくなった女、こうした対応の大変ロマンチックな、というかいわば形而上学的な形象として、『罪と罰』の二人はある。ところで、問題はおそらく、ソーニャと父マルメラードフとの関係にある。この二人の人物というか、モチーフの関係が、おそらくこの殺人物語のもうひとつの主要なテーマなのであろう。
会は例によって時間切れで、場所を高田馬場に移して、おしゃべりはつづいた。
連 載
「ドストエフスキー体験」をめぐる群像
(第115回)小林秀雄「ドストエフスキイ・ノオト」とベルクソン哲学⑥
「「罪と罰」についてⅡ」結語(1948)の意味するものとは何か?
福井勝也
小林の「「罪と罰」についてⅡ」結語が導かれる最後の部分の引用から始めようと思う。
「丸太の上に腰を下して黙想するラスコオリニコフは、その心理を乗り越えたものの影である。ラスコオリニコフは、監獄に入れられたから孤独でもなく、人を殺したから不安なのでもない。この影は、一切の人間的なものの孤立と不安を語る異様な(これこそ真に異様である)背光を背負っている。見える人には見えるであろう。そして、これを見て了った人は、もはや「罪と罰」という表現から逃れる事は出来ないであろう。作者は、この表題については、一と言も語りはしなかった。併し、聞えるものには聞えるであろう、「すベて信仰によらぬことは罪なり」(ロマ書)と。」(小林秀雄全作品16、p168、新潮社刊、太字強調は筆者)
かつてこの小林論考を最後まで読んできて、この聖書引用のパウロの言葉に意外な感じを覚えたのを思い出した。何故なら、この少し前の段落で小林自身が「時が歩みを止め、ラスコオリニコフとその犯罪の時は未だ過ぎ去ってはいないのを、僕は確かめる。」とはっきり書いていたからだ。それと最後まで、ラスコーリニコフはソーニャが差し入れた枕元の聖書を開く気配を見せていなかったためだ。しかし今回、読書会に合わせて原作を久しぶりに通読してみて、この小林の文章末尾が頭のなかで消えずに響くのを聞いた。
また芦川進一氏は、この論考末尾の「すべて信仰によらぬことは罪なり」(ローマ人への手紙十四23)を引用しながら、自著のなかで次のように述べておられる。
「興味深いことに、小林は『罪と罰』論Ⅱを、またもパウロの言葉によって閉じる。『ドストエフスキイの生活』のパウロから、新たなパウロへ(小林は、『生活』の末尾を「我等若し心狂へるならば神のためなり。心確かならば汝等のためなり。(コリント人への第二の手紙、五13)」とパウロの言葉で結んでいた、筆者注)。先に神に「心狂へる」ドストエフスキイの生を凝視した小林が、今や更に歩を進め、自らを「神(ユ)に(ロ)心狂(ージ)へる(ヴァヤ)」ソーニャに重ね、ラスコーリニコフに一切を仮託していた旧き自己を罪人と弾じたとさえ言えるであろう。 『罪と罰』論Ⅱとは、ソーニャが掴んだ「一本の藁」を介した、他ならぬ小林自身の回心体験の表出とも言い得るような、ひたむきな激しさを内包した作品論である。」 (『ゴルゴタへの道-ドストエフスキイと十人の日本人』2011、新教出版社)
果たして、かつて唐突感すら覚えたこの「罪と罰」論の末尾の言葉に、どこまで心を傾けることができるだろうか。芦川氏が言うように「小林自身の回心体験の表出」とまで言いうるものだろうか。問題は、この結語が小林自身の表現ではなく、聖書からのパウロの言葉の引用であることによると思う。最後、小林はそれを肯定的に引用しようとしたのだろうが、それがラスコーリニコフの耳(心)まで届いていたかということが問題になる時、この時点では未だ否定的にならざるを得ない。但し、作者ドストエフスキーからすれば、確かに聞き取った中身の言葉であったように思う。小林は、本稿冒頭で引用した文章の少し手前でそのことをこんな言葉で語っていた。やや込み入った表現になっている。
「時が歩みを止め、ラスコオリニコフとその犯罪の時は未だ過ぎ去ってはいないのを、僕は確かめる。そこに一つの眼が現れて、僕の心を差し覗く。突如として、僕は、ラスコオリニコフという人生のあれこれの立場を悉く紛失した人間が、そういう一切の人間的な立場の不徹底、曖昧、不安を、とうの昔に見抜いて了ったあるもう一つの眼に見据えられている光景を見る。言わば光源と映像とを同時に見る様な一種の感覚を経験するのである。ラスコオリニコフは、独力で生きているのではない、作者の徹底的な人間批判の力によって生きている。単にラスコオリニコフという一人の風変わりな青年が、選ばれたのではない。僕等を十重廿重に取巻いている観念の諸形態を、原理的に否定しようとする或る危険な何ものかが僕等の奥深い内部に必ずあるのであり、その事がまさに僕等が生きている真の意味であり、状態である、そういう作者の洞察力に堪える為に、この憐れな主人公は、異様な忍耐を必要としているのである。」(前掲「全作品」16、p168-169)
ここで小林が、ラスコーリニコフに注ぐ透徹した眼力の二重性には、注目すべき背景があると感じる。その眼力は元々、作者ドストエフスキーが主人公ラスコーリニコフに注いだ強度ある一人称的視力であった。しかし最後には、『罪と罰』が三人称小説に変更されるに及んで、その視力は多角し変化を被ることになった。小林の視覚が、光源と映像と同時に複眼的に感覚するようになるのも、それらのことによる。しかしそれらが可能になるには、元々小林が、ドストエフスキーに劣らぬ程の(いや、それ以上に?)ラスコーリニコフとの同一化を企図してきた経緯(いきさつ)があった。但しそれだけでは、三人称小説の『罪と罰』が論じ切れないのは確かであった。そこにドストエフスキーにとっても、小林にとっても『罪と罰』が『地下室の手記』と区別される画期的小説としての特権性の発見があった。
ここで関連で、興味深い見解を示していると思う「『罪と罰』について」(昭24.5)(《論考》小林秀雄所収p.202-203、中村光夫著、1983増補版)という問答体の論文を紹介する。前掲引用「‥‥光源と映像とを同時に見る様な一種の感覚を経験をする。」の文章を受けて、B(中村)とA(架空の友人)が次の様な対話を交わす論考全体の最終部分である。
B (「‥‥」)と彼(小林、注)は「罪と罰」論の終りに書いているが、実はこの評論はここから(上記「 」部分から、注)始まっているのだ。光源と映像との間に言葉の橋を架けること、これが同時に作者の秘密に参ずることだったのだ。
A すると彼は「罪と罰」と逆のプロセスを辿って、いわばラスコオリニコフの立場からドストイェエフスキイを描いたわけだね。
B そういうことになるね。またはラスコオリニコフが、かりに四十まで生きたとしたら、彼が、その青春を振りかえって書いた筈の告白体小説といってもいいだろう。ドストイェエフスキイ自身も「罪と罰」をはじめは一人称小説で書こうとしたのだからね。しかし重要なのはそんなことじゃない。(‥‥) 大切なのはこの小説の背後にあるドストイェエフスキイの形而上学が、ほとんど信仰としてこの評論の筆者に乗り移っていることだ。「ラスコオリニコフとその犯罪の時は未だ過ぎ去ってはゐない」と彼は云っているけれど、「罪と罰」の思想は、かつてラスコオリニコフを支配したとおそらく同じ強さで彼を支配しているんだ。
A そうすると、やはり彼(小林、注)がラスコオリニコフになったというわけかい。
B おそらくそうだ。そしてこれは大概の青年がある時期に麻疹のようにかかる「文学の害毒」と違うからね。ラスコオリニコフの生きた地獄をかけらでも胸のなかに持つ人間が彼の眼に必然と「不徹底、曖昧、不安」に映るほかはない「人生の立場」とその「生きている真の意味である状態」との葛藤をどう処理するかということだ。どこで、「踏み越える」かということだよ。
A うん、それは小林さんがドストイェエフスキイから受けた本当の影響が、「ドストイェエフスキイ論」を書いただけですませる性質のものかどうかという問題にもなるだろう。
B 相手を殺すか、自分が死ぬかだ。おそらく外国文学の影響をうけて、ここまで行った人は、これまでの日本にいないのだ。そして、これはもうドストイェエフスキイを一応離れた現代日本の問題だと云っていい。
この「『罪と罰』について」の架空対談は、小林の論考発表の翌年(昭24)に書かれている。今回本論文を読み返してみて、小林論考を含め、『罪と罰』の理解を深めることができた。まず、筆者が下線を引いた最初の部分は、論考末尾のパウロの言葉が(小林の思いを、半ば含んで)ドストエフスキーの思想として語られたものと感じることができた。しかしこれに続く引用部分は、未だラスコーリニコフには「罪と罰」の思想は聞こえてはいないと思え意見を異にした。これらの点で、当方以前の考えと結果的にはそれ程の変化がない。
同時に、小林が『罪と罰』の読みの姿勢を微妙に変えてきたことに強く惹きつけられた。この点で、シベリアでラスコーリニコフの改心更生は徐々に始まっていると判断したい。先述の芦川氏からかつてお聞きしたのだったが、その更生改心は既に「なだらかに、始まっている」とのことであった。そしてここでの問題は、小林の戦後での微妙な転換が何からもたらされたかであって、それを改めて考えてみるべきだと感じた。
その関連で、引用の「対談」で下線を引いたもう一つの箇所についても触れておきたい。この末尾では「どこで「踏み越える」」と言っているのか、ここでは、その「踏み越え」の対象が、抑も「老婆殺し」ではなかった。それはラスコーリニコフの「不徹底、曖昧、不安」な「人生の立場」と「生きている真の意味である状態」との葛藤を「どこで踏み越える」かの問題であった。ここには、『罪と罰』の主題が「老婆殺し」にはなく、何より主人公ラスコーリニコフ内心の問題、「生きている真の意味である状態」を「人生の立場」に優先させる決断の問題としてあった。「老婆殺し」は、そのことの(間違った)方便でしかなかった。
確かに「老婆殺し」は、複数ノートが合体改編されて以降(三人称小説)のプロットとして設定された。ここにラスコーリニコフが成立し、殺人が実行され、世間も、「犯罪と刑罰」も彼に押し寄せて来た。しかし、元々の小説(「告白」)の尻尾を持つ、そして依然この純然たる主題の解決に糸口を見いだせない主人公には、シベリアでの小説的安定を簡単には迎え入れられない。何故なら、ラスコーリニコフが抱いた観念は、単に作者ドストエフスキーが思い付いたものでなく、小林が戦前から「罪と罰」論でその主調音を正確に奏でて来たものであって、人類普遍の問い(自己とはなにか?)としてあるからだ。
それがこの「対談」部分で正確に主題としてフォローされたことになる。同時にここまで書いてきて矛盾するようだが、だからこそ「信仰に依らぬラスコーリニコフには罪がある」としか言い得ない「直観」が自分に突然降りて来たのも感じている。
そして、この問題は引用の「対談」に連続するAとBの最後の問いへと連続してゆく。やや大げさな言い方にも聞こえるが、Aの言う、「ドストイェエフスキイ論」を書いただけでは済まされない、「小林さんがドストイェエフスキイから受けた本当の影響」とは何か?あるいはBの言う、「相手を殺すか、自分が死ぬかだ。おそらく外国文学の影響をうけて、ここまで行った人は、これまでの日本にいない」と言われる小林をどう考えるべきか?
この点で、おそらく同様な問いを発しているA、B両氏が所有せず、当方が有する持ち駒がありうる。それは、小林がその先歩んだ文学的人生を当方が承知していることだろう。
この点、その後の小林の注目すべき影響とは、1958年に開始され五年間『新潮』に掲載されたベルクソン論「感想」執筆であったと思う。当方は、小林の戦後の「「罪と罰」についてⅡ」(1948)なくしてベルクソン論「感想」は書かれなかったと確信している。その最大の理由とは、内心の問題の「踏み越え」に堪えるラスコーリニコフの姿こそ、人間の意識に直接与えられたものについての経験哲学(「第一論文」)を孤独に切り開いたベルクソンの姿に比せられる対象はないと思っているからだ。そして小林は自らの批評文学によって、ドストエフスキーの恰好の作品を対象に、ベルクソンと十分に比較可能なかたちで、両作家(文学者と哲学者)の偉大さの本質(同質性)を明らかにしてみせたのだと思う。
さらに注目すべきは、小林が「感想」でベルクソン論を書き始めた第一回の連載稿に有名な話があることだ。それは、終戦翌年に亡くなった母親が蛍になって現れた話、酔っ払った小林が駅の高いホームから外側へ転落したが、母親に救われ九死に一生を得た話である。「或る童話的経験」と本人が呼ぶ「心の経験」が率直に語られている。やはり、それは小林の「ベルクソン体験」であったと思う。その際、「(‥‥)事件後、発熱して一週間ほど寝たが、医者のすすめで、伊豆の温泉宿に行き、五十日ほど暮らした。その間に、ベルグソンの最後の著作「道徳と宗教の二源泉」をゆっくり読んだ。以前読んだ時とは、全く違った風に読んだ。私の経験の反響の中で、それは心を貫く一種の楽想の様に鳴った。私は、学生時代から、ベルグソンを愛読して来た。(‥‥)」(前掲「全作品」、別巻「感想上」、p17)
この辺りの文章を突然引用したが、ベルクソンの最終作とされる『道徳と宗教の二源泉』を小林が、この際ほど(年譜では昭和21年秋頃か、注)熟読した時期はなかったと思う。それが母親の死と前後した特別な経験であったことが、やや時を経て「感想」に繋がったのは当然だろう。しかし当方が強く意識させられるのは、この読書体験がそれ以前「「罪と罰」についてⅡ」を書き始めるに際に与えたであろう意味の大きさである。
しかし残念ながら、小林は、「感想」出だしにおいてここまで親身に語った『道徳と宗教の二源泉』について、その本論ではこれ以上触れることがなかった。それはたぶん、「感想」を連載56回で(未完)としたためだろうが、書き切っていれば、最後『二源泉』に戻ってきたはずだと思っている。ついでに触れておけば、小林が「感想」の連載を中断した時期は、彼らがソ連作家同盟に招かれてソビエト旅行(ドストエフスキー墓参)に向かった、1963年6月のことであった。実は、この時期は戦前からのドストエフスキー論を間もなく中断して、「本居宣長」の執筆(1965.6)へと進む小林晩年の転換期にも当たっていた。
残りのスペースで、小林の「「罪と罰」についてⅡ」の末尾の表現の問題に戻ろうと思う。
ここまで書いてきて、どこまでもラスコーリニコフに化体した小林の「踏み越え」の選択枝として、この際ほど、小林が「イエス・キリスト」に近づいた時はなかったのではないかと思えてきた。それは、引用「対談」の最後にA・B両氏が語ったことを真に受けることでもある。とすれば、「「罪と罰」についてⅡ」の結語も小林自身の言葉と言っていいだろう。
但し、小林に躊躇もあった。その困難な選択がやはりラスコーリニコフの更生にあった。その「踏み越え」の手立てとして、その時小林の眼前に存在した者もベルクソンでなかったか。端的には、彼の遺作『道徳と宗教の二源泉』と出会い直したことだろう。何より『二源泉』の「動的宗教」を導く「神秘家たち」「特権的な魂の人々」への思いではなかったか。
予審判事ポルフィーリーは不思議なことに、殺人犯ラスコーリニコフに「太陽になれ」と最後まで励まし続けた。実は、彼はラスコーリニコフの「犯罪論」(「ナポレオン思想」と流布され、その真相は不明)を知り尽くした者で、その真実を語らせようとしたのが分かる。
やがてその「新人類」(太陽)が現れるが、シベリアでの旋毛虫の夢後の世界であった。ここには、ラスコーリニコフが苦しみの果てに、人類の「神秘家たち」「特権的な魂の人々」に更生する可能性が現出していないか。小林も、それを感じ期待したのではなかったか。
しかし、その思いを継いだベルクソン論「感想」は結局未完に終わった。思いは、中断したままになった。しかし同時に、そこから「本居宣長」を書き始める道も開けた。「「罪と罰」についてⅡ」結語は、ベルクソンを通じて「宣長」で別途甦ることになった。(2024.8.30)
追悼 藤倉孝純さん
さらば 魂の革命闘士
下原敏彦(編集室)
8月13日、突然、藤倉孝純さんの訃報が届きました。8月4日に逝去されたとのお知らせ。藤倉さんは「ドストエーフスキイの会」会員として、「全作品を読む会」の世話人として80年代、90年代をドストエーフスキイの会及び全作品を読む会読書会の運営に尽力されました。今春の4月読書会には、ひさしぶりに新作『魂の語り部 ドストエフスキ―』(作品社)を持参して『夏象冬記』を報告されました。突然の訃報に接しただ驚くばかりです。
藤倉さんはかって革命運動家でした。60年安保での全学連時代、70年安保での全共闘時代。思想と行動がぶつかり合った激動の時代でした。多くの活動家が戦線から離脱していきました。そのなかにあって藤倉さんは、最後まで革命戦士の旗を守り抜いた魂の活動家であり、かつドストエフスキー研究者であったと思います。晩年は病気療養もあって伊東市川奈に転居されましたが、ドストエフスキ―を読みつづけ、特に『悪霊』論 に取り組まれました。
藤倉さんの著作
・『民族問題とレーニン』(BOC出版部・高梨純夫のペンネームで)
・『神なき救済 ドストエフスキ―論』「」(社会評論社1996)
・『悪霊論』(作品社2002)
・『魂の語り部 ドストエフスキ―』(作品社2023)
編集室
年6回の読書会と会紙「読書会通信」は、皆様の参加とご支援で続いております。
開催・発行にご協力くださる方は下記の振込み先によろしくお願いします。
郵便口座名・「読書会通信」 番号・00160-0-48024
2024年8月2日~2024年10月1日までにカンパくださいました皆様には、
この場をかりて心よりお礼申し上げます。
「読書会通信」編集室 〒274-0825 船橋市前原西6-1-12-816 下原敏彦方