ドストエーフスキイ全作品を読む会 読書会通信 No.204 発行:2024.6.15
第322回6月読書会のお知らせ
月 日 : 2024年6月29日(土)
場 所 : 池袋・東京芸術劇場小会議室5(池袋西口徒歩3分)03-5391-2111
開 場 : 午後1時30分
時 間 : 午後2時00分 ~ 4時45分
作 品 : 『賭博者』
報告者 : 冨田臥龍さん
会場費 : 1000円(学生500円)
全作品を読む会8月読書会
日時:2024年8月17日(土)14:00~16:45
会場:東京芸術劇場小5会議室
作品:未定
大阪読書会 (第80回)
日時:2024年7月26日(金)14:00~16:00
会場:東大阪ローカル記者クラブ
作品:『死の家の記録』第1部
2024年6月29日(土) 読書会
作品:『賭博者』
報告者: 冨田臥龍さん
賭博をしない人が書いた『賭博者』論 ─賭博と賭博者について
冨田臥龍(冨田陽一郎)
はじめに 賭博で財を築いたものはない
1. 賭博の確率論
2. ギャンブル依存症について
3. 賭博と堕落・ギャンブル漫画『カイジ』などについて
4. ルーレットの町と学校の町
5.ドストエフスキーと賭博~甘えられなかった幼少期・子ども期の代償としての
「遊び」と、母マリアの代わりとしての二番目の妻アンナ
6. 私と賭博 パチンコ500円、競馬付き合いのみ、競輪、競艇、オート一切やらず、
ルーレットやカジノ経験なし、知り合いの歯科医の高校野球トトカルチョ500円のみ、あと、正月の麻雀での景品、青年期の嫌いだった賭け麻雀体験、など
7. 私とドストエフスキー『賭博者』~冨田臥龍がこのテクストをどう読んだか・特にギャンブル中毒のおばあちゃんの道化的造型について~
おわりに ドストエフスキーの人生における、『賭博者』のテクストの意味
二番目の妻、アンナ・スニートキナ(アンナ・ドストエフスカヤ)との出会いのきっかけとなった、思い出深いこのテクストの持つ意味について)
寄 稿
『賭博者』4つ不思議
下原康子
1.スピード脱稿の不思議
『賭博者』が、わずか1か月たらずで書き上げられのには理由がありました。1861年1月に兄ミハイルと創刊した雑誌『時代』が1863年5月に発禁となり借金を背負い込みます。1866年、金策尽きてしまったドストエフスキーは、抜け目のない出版社主ステロフスキーの誘いに乗せられ、3巻全集の版権を売り渡してしまいます。しかも、1866年11月までに新作の新編を書くこと、履行されない場合は、以後9年間のドストエフスキーの著作は一切の印税なしにステロフスキーが出版できるという約束までさせられます。当時、『罪と罰』にかかりっきりだったドストエフスキーに新しい小説を書く余裕などありません。そんな窮状をみかねた友人たちのすすめで、速記者を雇うことになったのです。
2.スピード結婚の不思議
1866年10月3日、19歳の速記者アンナは44歳の作家ドストエフスキーの家を訪ねます。アンナはドストエフスキーの最初の印象を「なんだか打ちのめされ、憔悴した病人といった感じがした」と書いていますが、それも無理からぬことで、ドストエフスキーは、1864年4月に最初の妻マリヤが結核で死亡、同年7月、兄ミハイルが肝臓腫瘍で病死、という重なる不幸にみまわれていました。一方、アンナも1866年4月に父を亡くしたばかりでした。自分の腕でお金を稼ぎ自立しようと決意していた彼女は、速記者としての初仕事を喜び誇らしく感じていました。それにもまして、高名な作家ドストエフスキーのところで働ける、知り合いになれることがうれしかったと回想しています。ドストエフスキーは、アンナの節度ある生真面目な態度がとても気に入って、日を置かずにあけすけに打ち明け話をするまでになりました。『賭博者』の速記は10月29日で終了しましたが、アンナは引き続き『罪と罰』終編の口述をしています。
そして11月8日、作り話にかこつけたドストエフスキーからのプロボーズを受け入れます。「いつからわたしを愛していると気づいたの?」と聞いたドストエフスキーに、アンナは、文学好きの父がドストエフスキーを愛読していたこと、自分も15歳ころからドストエフスキーの小説のなかの人物たちに惹かれていたと、話します。
夫の死から三十年後、アンナ夫人は感慨深い述懐をしています。
私は格別美しくもなく才能もなく知的に発達しているわけでもなかった。それにもかかわらず、こういう賢明で才能のある人物から深い尊敬を受け、ほとんど崇拝されたということは、これは私の生涯にわたってのある種の謎だった。
しかしその後、夫人はその理由をいくらか理解したといって次のように述べています。
私と夫はまったく違った構造、まったく違った性格、異なった意見の人間だったが、少しもまねをせず媚びず常に自己を失わなかった。彼も私が彼の精神生活、知的生活に介入しなかったことを認めてくれたのだろう、だからこう言っていた。《おまえは私を理解してくれるたった一人の女性だ》彼の私に対する関係はつねに一種の堅固な壁をなしていたが、それについて彼はそれをよりどころにし、あるいはよりかかれるものというふうに感じていた。壁は失われないだろうし、心をなぐさめてくれるだろう。(『回想のドストエフスキー』)
3.ルーレット賭博の魔力の不思議
『賭博者』発表(1866)の翌年の1867年4月、ドストエフスキーは夫婦連れ立って国外旅行に出かけました。『アンナの日記』は、4年の長きに及んだ外国生活の最初の年に書かれており、その間のルーレット賭博やてんかん発作の記録が克明に記録されています。ドレスデンに着いて早々、5月4日には、新妻を残し泊りがけでホンブンルグに向かいます。ルーレット賭博のためでした。5月15日、無一文になってドレスデンに帰ってきます。懲りるどころか、6月22日にはバーデンに行き、8月11日にジュネーブに移るまで、まさに『賭博者』の世界さながらのルーレット耽溺の日々が続きます。そんな中なのに、ドストエフスキーはてんかん発作をたびたび起こしているのです。誰ひとり頼る人のない外国にあって、若干二十歳のアンナ夫人が、この難関を切り抜けた、その気丈さには、驚き感嘆せずにはいられません。
アンナ夫人はドストエフスキーの賭博熱について次のように書いています。
あれほどの苦しみをのりこえてきた人が、自制心を持って、負けてもある程度でやめ、最後の1ターレルまで賭けたりしない意志の力をどうして持ち合わせないか不思議でならなかった。このことは、彼のような高い性格をもったものにふさわしからぬある種の屈辱とさえ思われ、愛する夫にこの弱点がのあることが残念で腹立たしかった。けれどまもなく、これは単なる「意志の弱さ」などではなく、人間を全的にとらえる情熱、どれほど強い性格の人間でもあらがうことのできない何か自然発生的なものだということがわかった。そう考えて耐え忍び、賭博への情熱を手のほどこしようのない病気とい見なすほかはなかった。 (『回想のドストエフスキー』)
このアンナ夫人の深い洞察には、ドストエフスキー、ユング、フロイトも脱帽するのではではないでしょうか。
ドストエフスキー
この男(『賭博者』の主人公)はある意味で一個の詩人なのです。しかも重大なことはこの男がその自分の詩的傾向を深く心に感じていて、それを恥じているということです。そうではあるのですが、この男のリスクを求める欲求こそがこの男を彼自身の意識においても高貴なものにしているのです。 (ストラーホフ宛の手紙)
ユング
彼のアルコールへの渇望はある霊的乾きの低い水準の表現でした。その乾きとはわれわれの存在の一体性に対する乾きであり、中世風の言い方をすれば神との一体化ということであったと思います。 (アルコール依存症の人たちの更生のためのグループ「アルコホーリクス・アノニマス」の会長にあてた手紙)
フロイト
賭博はドストエフスキーにとっての自己処罰のひとつの形式で、賭博に負けて自分を処罰することで、自分の罪悪感を満足させると、執筆を妨げていた原因が取り除かれて執筆に戻ることができた。 (中山元 訳『ドストエフスキーと父親殺し/不気味なもの』)
4.ドストエフスキーのギャンブル依存症からの回復の不思議
「明日だ、明日こそは何もかも片がつくのだ!」『賭博者』の最後のこの一言は、主人公の破滅を予感させます。同時に、外国旅行におけるドストエフスキーのギャンブル耽溺を連想させます。実際にそれは何回も何回もくり返され、アンナ夫人を困惑と不安に陥らせました。しかしながら、ドストエフスキーは、ルーレット賭博の呪縛から解き放たれたのです。現代医学においてもその回復は容易ではないとされているギャンブル依存症から回復したのです。どうしてそれが可能だったのでしょうか。いかなる奇跡がドストエフスキーの身の上に起こったのでしょうか。これが、私の『賭博者』最大の不思議であり、ドストエフスキー復活の謎として、解けないままになっています。
この謎について、アンナ夫人は次のように書いています。
夫が1871年4月28日(新暦)によこした手紙がある。「大きな事件がわたしの身におこった。ほとんど十年来(というより、兄が亡くなって、突然借金で首がまわらなくなって以来)わたしを苦しめてきたいまわしい幻想が消えてしまったのだ。わたしはたえずひと山あてることばかりを夢みてきた。真剣に、熱烈に夢みてきた。だが、いまやすべては終わった!今度こそほんとうに最後だったのだよ。信じてくれるだろうか、アーニャ。もう今では両手はいましめを解かれてしまった。わたしは賭博につながれていたのだ。今はもう仕事のことだけを考えて、これまでのように幾晩も幾晩も勝負事を夢みるようなことはけっしてしない。
もちろんわたしは、夫のルーレット遊びの熱がさめるというような大きな幸福を、すぐには信ずるわけにはいかなかった。どれほど彼は、もうけっして遊ばないと約束したことだろう。それでもその言葉が守られためしはなかったのだ。ところが、この幸福は現実のものとなった。今度こそ彼がルーレットで遊んだほんとうに最後だった。その後夫は、何度も外国に出かけたが、もはやけっして賭博の町に足を踏み入れようとはしなかった。あれからまもなくドイツではルーレット賭博が禁止されたのは事実だが、スパーやサクソンやモンテ・カルロではまだおこなわれていた。行こうにも遠すぎたのかもしれないが、それよりも、もう遊びに魅力を感じなかったのだ。ルーレットで勝とうという夫のこの「幻想」は魔力か病気のようなものだったが、突然、そして永久に治ってしまった。 (『回想のドストエフスキー』)
参考図書
『回想のドストエフスキー 上・下』 アンナ・ドストエフスカヤ 著 松下裕 訳 筑摩書房 1974-75
『ドストエーフスキイ夫人 アンナの日記』アンナ・ドストエーフスカヤ 著 木下豊房訳 河出書房新社 1979
『ドストエフスキー全集 別巻:年譜』 L.グロスマン編 松浦健三訳編 新潮社 1980
参考ページ
『賭博者』に想う 病的賭博と嗜癖
http://dokushokai.shimohara.net/meddost/tobakusha.htm
ドストエフスキーのルーレット賭博関連の記録
http://dokushokai.shimohara.net/meddost/tobakukiroku.html
ドストエフスキー・アンケート
ご回答ありがとうございました。
徳増多加志
1.好きな作品(上位3位まで)と好きな人物(上位6人まで)
2.好きな場面・挿話・言葉など。その理由
3.感銘を受けたドストエフスキー論とその理由
4.あなたにとっての「ドストエフスキー体験」とは?
5.現在においてドストエフスキーはインパクトを持ち得るか?その理由
6.自由意見
1.好きな作品と好きな人物
作品:『罪と罰』、『悪霊(悪鬼ども』、『カラマーゾフの兄弟』
人物:イワン・カラマーゾフ(説明の要なし)、ドルゴルーキー(『未成年』の主人公)、ゴリャートキン(『分身』の主人公)、マクシーモフ(『カラマーゾフの兄弟』に出てくるトゥーラ県の元地主)、ホフラコワ夫人(『カラマーゾフの兄弟』リーザの母親で少し調子の狂った未亡人)、トルソーツキー(『永遠の夫』の寝取られ亭主)
2.好きな場面
『悪霊(悪鬼ども』から:シャートフがスタヴーギンを殴る場面、ステパンが講演する直前の場面の観察記録。同じ講演会で報告する、独断的なそうな人物の描写が周到。
『カラマーゾフの兄弟』から:「反逆(反抗)」と「大審問官」章、イワンの悪夢の場面。
3.感銘を受けたドストエフスキー論とその理由
感銘・影響を受けた論考は数多いが、6つだけ挙げておく。
①小林秀雄のドストエフスキーの作品論(講談社その他)
私の印象では、ドストエフスキーを論じる大半の論考は、作家本人の周りを彷徨っているばかりで、作家本人に達していない。だが、小林の論考は、作家本人に迫って、作家の人間そのものの姿を私たちに明示しようとしているようだ。いわゆる専門家は、データ・資料を客観的に精確に提示して、登場人物の思想・イデーを取り上げ纏めているようではあるが、作品を形づくるドストエフスキー自身の「魂の動き」を明るみ出すことはまずない。これに対して小林は、登場人物の思想を吟味することもなく、この魂に執拗に迫る。このような姿勢なくしては、ドストエフスキーを読むことにそれほどの意味はあるまい。
②ミハイール・バフチン『ドストエフスキーの詩学』(ちくま文庫版の翻訳を薦める)
バフチンが明らかにした2つの枠組み(ポリフォニー論とカーニバル論)は、ドストエフスキーの作品に取り組む際の基準となるべきであるが、これに留まることなく、これを前提にしてドストエフスキーの思想内容に向かおうとする論考を私はあまり知らない。初めの翻訳に問題があったせいか、日本の多くのドストエフスキー・フリークは、バフチンを誤解・曲解しているようだ。彼はソ連国家の下で生活していたために、ロシア正教信徒であることを抑えて(隠して?)ドストエフスキー論を書いていた。しかし、彼がロシア正教徒として埋葬されたことの意味を真面目に顧慮すべきだと思う。クリステヴァ経由で歪められた西欧流のバフチン像は訂正されなくではならないと思う。
③内村剛介『人類の知的遺産ドストエフスキー』(講談社)
内村のロシア語を解する能力には驚くべきものがあるし、文学に対する姿勢の真剣さは私たちのこころを打つ。この本は入門書の側面も備えているが、彼にしか書けなかった質の本である。ロシアの文化、特にロシア正教とその異端(古儀式派)、フォークロアに関することに関する広く深い知識に裏打ちされており、米川ドスト(内村の所謂「ヤマト・ドスト」)を脱却する必要を唱えた、非常に重要な本だと思う。
④中村健之介「ドストエフスキー 生と死の感覚」(岩波書店)
この著者の処女作「ドストエフスキー 作家の誕生」と違って、円熟期のドストエフスキーの作品を扱っているが、作品論と言うよりは、ドストエフスキーという人間の根底にある、神の存在・不死の存在に対する「感覚」を探ったもので、他の研究者と違って「愛読者」の立場から思索したものである。その柔軟な思索と周到で正確な読解には驚嘆する他ない。ドストエフスキーの信仰の問題にもストレートに踏み込んでおり、非常に刺激的な本であり、次の江川と違って牽強付会を感じさせる著述はなかったように思う。(因みに私は晩年に書かれた彼の著書はあまり感心しない。)
⑤江川卓「謎解き『罪と罰』」(新潮社)
語り口は平易であるが、ロシアの文化的背景に関する知識を駆使して書かれており、日本のドストエフスキー研究に画期をもたらした本である。文学観などに関しては同意できない点もあるし、「牽強付会」を感じる主張もいくつかあった。しかし、従来の恣意的な研究を許さない場を私たちに開いて見せたことは確かだと思う。発表当時、大学のロシア文学専攻学生の書く卒業論文が江川の亜流だらけになったと聞いたことがあるが、それは影響力の大きさというより、それまでの研究の拙さがこの本のせいで若い世代にも露呈した結果ではないかと思う。
⑥ジョン・ミドルトン・マリ『ドストエフスキー』(邦訳 泰流社)
ドストエフスキーの死後ほどなくして書かれたもので、その分資料も不十分で、「学問的な」観点から見れば、難があるが、素朴にドストエフスキーという人間が何を生涯の課題にしていたかが力強く、かつ、克明に述べられている。所謂「評論家」のものと違って、その誠実な追求姿勢に私は惹かれる。
4.あなたにとっての「ドストエフスキー体験」とは?
極めて私的なことになるが、十代後半から二十代初め頃にかけて、私は、マルクス主義に取り憑かれ、今思い出すと極めて危うい状態にあった。この状態から覚醒するきっかけを与えてくれた人たち(恩師を含めて)にも私は恵まれたが、ドストエフスキー読書体験はより深いところから私に反省を迫った。青年期の危うさから脱することを可能にしたのは、あれらの大作を著したドストエフスキーという作家その人であった。それ以来私は、ドストエフスキーという人間から離れて生きていくことはできないと感じている。
5.現在においてドストエフスキーはインパクトを持ち得るか?その理由
「インパクト」が何を意味するかにもよるが、文学であるから当然であるが、今後も個々の人たちに影響を与えることはありうるだろう。しかし、国家・社会・国際情勢に影響を直接に与えることはないと思う。
6.自由意見
私が常日頃気になっている問題点を記しておく。
日本人がドストエフスキーを論じるとき、キリスト教に関わる事柄が問題になると、安直に西欧キリスト教(カトリックもプロテスタント諸派もこの場合大差がない)を参照して、ドストエフスキーを類推的に理解(誤解)してきたような傾向がある。しかし、ドストエフスキーは基本的に「ロシア正教信徒」であった。(正教とずれるところがあったことを強調する向きもあるが、ここでは本質的ではない。正教を信じたいと思っていたことは確かである。)これは西欧のキリスト教とまるで違う。例えば、基本的なことを言えば、ロシアの正教は、西欧キリスト教の基本教義である「原罪」の考え――人間が生来本質的に有しているとされる罪のあること――を認めない。この正教の考えがドストエフスキーの小説の中に書き込まれている人間観の基底にある。西欧キリスト教を参照枠にしたのでは、誤解に導かれる怖れがあるのだ。
私は、文学研究と言うよりも、思想的な関心が強いので、ロシアの古くからの思想(正教や異端の信条だけでなく、フォークロアの基底にあるものも含む)とドストエフスキーの関わりを探りながら、作品を読んでいきたい。
2024年4月20日 読書会報告
作品:『夏象冬記』
報告者:藤倉孝純さん
レジメおよび自著にそった豊富な内容の報告をされました。
藤倉孝純著『魂の語り部 ドストエフスキ―』作品社
第4章:西洋との別れ
連 載
「ドストエフスキー体験」をめぐる群像
(第113回)小林秀雄「ドストエフスキイ・ノオト」とベルクソン哲学④
- 「「罪と罰」についてⅡ」(1948.s.23.11)への道筋にあるもの -
福井勝也
前回は、主に「「罪と罰」Ⅰ」(1934.s9.1)について述べた。今回は、それから約15年後発表された「Ⅱ」に到るまでの小林の批評家としての道筋を更にたどってみたい。こう書くと当然に、この間の戦中から敗戦後数年迄の昭和史の背景にあった歴史事実(世界戦争)が思い浮かぶ。しかし批評家小林秀雄の問題を考える時、後のベルクソン論「感想」(1958.s33.5月開始)の書き出しの文章を思い出すべきものと思える。小林は次のように書いていた。やや長目だが、大切な文章に思えるので段落の全体を引用しておきたい。
「終戦の翌年、母が死んだ(精子、s21.5.27死去、注)。母の死は、非常に私の心にこたえた。それに比べると、戦争という大事件は、言わば、私の肉体を右往左往させただけで、私の精神を少しも動かさなかった様に思う。日支事変(日中戦争のこと、s.12.7月に盧溝橋事件で開始、注)の頃、従軍記者としての私の心はかなり動揺していたが、戦争が進むにつれて、私の心は頑固に戦争から眼を転じて了った。私は「西行」(s.17.11-12月、注)や「実朝」(s.18.2-5-6月、注)を書いていた。戦後、初めて発表した「モオツァルト」(s.21.12月、注)も、戦争中、南京で書き出したものである(年譜では、s.18.12月、注)それを本にした時、「母上の霊に捧ぐ」と書いたのも、極く自然な真面目な気持ちからであった。私は、自分の悲しみだけを大事にしていたから、戦後のジャーナリズムの中心問題には、何の関心も持たなかった。」 (『小林秀雄全作品』別巻 感想(上)p.11)
これまで何気なく読み過ごして来たベルクソン論の冒頭であるが、ここまで小林の文章を辿ってきて、この率直な言葉を吐くことで「感想」を始めようとした小林の真意が、少しは分かったように思えた。この段落には、ただ率直なだけでない、戦後に批評家としての言葉を発するために、どうしても書いておかねばならない、この間の小林の心の経緯が辿られていたものと感じた。そのことを端的に書けば、どんな大事の国家的戦争よりも母親の死の方が自分の精神にこたえたというのが、小林の正直な心の経験であった。そして何と評されようと、自分がこの時期に心深く沈潜して為した経験だけを語る決心が、戦後改めてラスコーリニコフの心の経験を語り直すことに重なり、それらの新たな批評言語を支える形而上学的背景となったベルクソン哲学自体を語ることへと繋がったのだと思えた。
ここで元に戻して論じてゆく。この時期、小林の「ノオト」(作品論)としては《「悪霊」について》(1937.s.12.7月)と《「カラマアゾフの兄弟」》(1941~42.s16~s17)が書かれて、その最終回ではいずれも「(未完)」と記され「文芸」に発表された。なお、既に触れた伝記的作品《「ドストエフスキイの生活」》(1935~37)の連載中には、そこで言及された「作家の日記」を補足するように長文の画期的論稿《「ドストエフスキイの時代感覚」》(1937.1月)が「改造」に別途掲載された。今回改めてその最終フレーズまで読んでみて、既にこの時期に小林がドストエフスキー晩年の歴史感覚を掴み切っていて、これ以降の戦争の時代を見透す鋭い時代感覚をそこにはっきりと重ねていたことが感じられて急に怖くなった。
その最終段落の「歴史的限界」という、この時代のキイワードに連なる結語「僕は人間の眼が複眼である事を信じている、謎を作る眼と限界を見る眼と。」には、戦後の「「罪と罰」Ⅱ」にも通じる複眼が現出していると思った。批評家の特別な眼力が、既にこの時期に獲得されていたようだが、それは外部的な歴史事実(世界戦争)によるよりも、ドストエフスキーやベルクソンへの集中の独自な自己省察が、小林にそれを付与したと思える。
実はこの辺について、かつて本欄で『悪霊』論に関連し言及しようとしたことがあった。その際《「ドストエフスキイの時代感覚」》についても併せて触れた(『通信』No.169.2018.8)。今回拙文を読み返して、小林のドストエフスキー批評が、この時期既に独自の<かたち>を整え、その<輪郭>を形成しつつあったことを改めて感じた。
そのことは、この時期小林の「悪霊」論のスタヴローギン像が、戦後のラスコーリニコフ像を先取りしたように読めたことによる。すなわちその「悪霊」論では、スタヴローギン像が自身の科白の「自己定義」として先ず引用され、続いて主人公の心的事実の核心「スタヴローギンの告白」が生々しくそのまま引用される。つまりこの「悪霊」論は、全体が四章仕立てなのだが、文末に「(未完)」と記される第四章のほぼ全体が、「告白」の小林流「引用」で終始されていた。それが、本批評の不評(「中断」と「躓き」)の主な原因になって、一般に語られて来たのだが、かつての当方拙文では、それに異論を唱えたつもりでいた。
その意図は、小林がここで注視した対象とは、スタヴローギンの「自己定義」と「告白」そのものにあり、独自の語り口、文体にこそあると思ったからだ。そして、この「悪霊」論自体を小林は「未完」としたが、それは文字通り「未完」と記しただけで、結果的に小林は戦後の「「罪と罰 」Ⅱ」で、ラスコーリニコフ自身がその意識を語る語り口、『罪と罰』の文体(一人称的三人称)の問題に連続させ、そこで事態を「完了」させたと理解したからだ。
但し問題は「「罪と罰 」Ⅱ」前段で、『地下室の手記』を<坐礁した文体の一人称小説>
とする指摘が『罪と罰』読解の直接的な転換を導いたが、課題は戦前から連続していた。
そしてそれらをはっきり意識させたのが、この時期の小林の切実な心の経験であった。さらにその感覚を小林の背後から支えたのが、心の経験を直接に語ろうとするベルクソンの哲学(とりわけ、第一論文「意識に直接与えられたものについての試論」)であった。
「「罪と罰」Ⅱ」は、自身が心の経験をラスコーリニコフに仮託して語る<精神の私小説>(中村光夫)であった。それはまた、ドストエフスキーが小説家として生涯苦しんだ自己表現のかたち、文体(人称)の問題としてあった。そしてそれらの「私」の問題を、小林に形而上学として説いたのがベルクソンであった。さらに、この問題を探ってみよう。
ここでの問題は、更にドストエフスキーの作品に対する小林の堅固な直観が働いていた。それは繰り返し自身が語ったことだが、ドストエフスキーの後期長編作品の主人公には、その根幹のスタイル(「精神の貌」)がラスコーリニコフで既に出来上がっていて、その後の作品の人物像は、その変型、発展型であるという考えであった。そのことは、この「悪霊」論でも既にはっきり語られていた。「ムイシュキンがスイスからやって来たのが確かなら、スタヴロオギンがシベリヤからやって来たのも確からしい。」(「「悪霊」について」4 p.186-187、『全作品9』所収)とは、つまりスタヴローギンは、ムイシュキンと同じくラスコーリニコフの後身であることを結局小林は言明していたことになる。言い換えれば、小林はこの時期のスタヴローギン論で、ラスコーリニコフ像の意識の核心を先行して語ろうとしていたことになる。次に、そのことを語ったと思う具体的な一節を引用してみたい。
「悪の思想は、ドストエフスキイが、頭で考案したものではない。彼の抜き差しならぬ体験が、彼をこの直截な陰惨な人間観察に駆り立てたのである。彼はケルケゴオル(デンマークの宗教思想家1813~1855、注)を読んだ事はなかったが、「悪霊」の約二十年前に、「人間の意識の度は絶望という冪(べき)(累乗、注)の指数だ」(「死にいたる病」1849、注)と恐らく何等比喩的なものを感じないで書いたケルケゴオルと、無気味な程酷似したものを、人間の精神の裡に見ていたのである。
人間は先ず何を措いても精神的な存在であり、精神は先ず何を措いても、現に在るものを受け納れまいとする或る邪悪な傾向性だ。ドストエフスキイにとって悪とは精神の異名、殆ど人間の命の原型ともいうべきものに近附き、そこであの巨大な汲み尽くし難い原罪の神話と独特な形で結ばれていた。悪は人格の喪失でもなければ善の欠如でもない。彼の体験した悪の現実性に比べれば、倫理学や神学の説く悪のディアレクティックなぞが何んだろう。」 《「悪霊」について》3、p.179、『小林秀雄全作品』所収)
文章を引用しつつ、ここでの表現が、恰もラスコーリニコフの原点かつ到達点の極言であるかのように錯覚した。次に、それを証明する「「罪と罰」Ⅱ」の一節を引用してみる。
「彼は犯行を確かに希望し、その結果に確かに絶望したか。彼は犯行を回想し、「俺は俺自身を殺したのだ」と言ったのは、犯行が、彼の彼自身についての絶望をいよいよ痛切なものにしたという意味であった。犯行はそのきっかけに過ぎなかったという事、己れ自身に絶望した人間にでなければ現れ得ない空しい行為であったという事、それは作者が恐ろしい程適確に描き出した処であった。ラスコオリニコフは、ケルケゴオルとともに言えた筈だ、「意識の度は絶望という冪(べき)の指数である」と。(この後に一行空き、注)
これは犯罪小説でも心理小説でもない。如何に生くべきかを問うた或る「猛り狂った
良心の記録なのである。」(《「罪と罰」についてⅡ》4、p.154~155、『全作品』所収)
ここでは、キルケゴールの同じ格言がスタヴローギンとラスコーリニコフの両者の心に、ただ偶然に献げられたわけではない。両主人公に課せられている意識と行為の本質的差異を問うドストエフスキー文学の真骨頂を見抜いた小林が、その「事実」を適切に両主人公の心の経験に照らし合わせて見せただけであった。そしてその意識のあり方を小林は何処で経験したのか、その種明かしをするように「「罪と罰」Ⅱ」一の、下記『地下室の手記』論のなかで、ベルクソンの言葉に触れてゆく。さらに引用の小林の試論は、『地下室の手記』から『罪と罰』へと移り、新しい「私」の「像」(「かたち」)を希求するドストエフスキーの創作の根底にあった新たな人間観に触れてゆく。そしてここでも、その表現を背後から支えたものが、その辛い自身の心の経験の時期を通じて、小林が直観し続けた現代物理学とベルクソン哲学の知見であったことが、その二つの文章から読み取れる。
「この主人公(『地下室の手記』の、注)は、人間の意識というものを、殆どベルグソンの先駆者の様に考える。意識とは観念と行為との算術的差であって、差が零になった時に本能的行為が現れ、差が極大になった時に、人は可能的行為の林のなかで道を失う。安全な社会生活の保証人は、習慣的行為というものであり、言い代えれば、不徹底な自意識というものである。」 (《「罪と罰」についてⅡ》1、p.113、『全作品』所収)
「「罪と罰」の覚え書の中に、この作を告白体で書いたものがある処を見ると、作者は、この新しい世界へ這入るのに、余程逡巡したらしいが、彼は遂に踏み込んだ。「私」は消えた。という事は、作者の自己の疑わしさが、そのまま世界の疑わしさとして現れたという事であって、今更公正な観察者なぞが代理人として、作者のうちに現れる余地はなかったという意味である。人と環境或は性格と行為との間の因果関係に固執する、所謂自然主義の世界は、もっと深い定かならぬ生成の運動に呑まれ、人間の限定された諸属性が消えてその本質の不安定や非決定が現れ、信仰や絶望の矛盾が渦巻く。ここに現れた近代小説に於ける世界像の変革は、恰も近代物理学に於ける実体的な「物」を基礎とした従来の世界像が、電磁的な「場」の発見によって覆ったにも比すべき変革であった。」
(《「罪と罰」についてⅡ》1の末尾、p.117、『全作品』所収)
引用二つの文章の比喩的言辞は、既に戦前「地下室論」等にも類似の表現が見受けられるものであった。確かに戦後の「「罪と罰」論」を読めば、書き出しの第一章が、その反復による総括であったことが直ぐ分かる。しかし、それら先行した論述を締め括るように、やがてそこからきっぱりと離陸を図り、最後印象的な文末まで、明晰性を備えた詩的批評言語の新たな展開が鮮やかに感じられる。その彼我の対照は、一体何処からもたらされたのか。
今回は、二つの「「罪と罰」論」に挟まれた小林の「ドストエフスキイ・ノオト」のうち、主として《「悪霊」について》述べることになった。今回の締めくくりでは、《「カラマアゾフの兄弟」》について触れたいと思う。但しそれについては、以前に紹介した郡司勝義氏の『ドストエフスキイ全論考』から、その解説文の一部を引用紹介させて頂く。
「この文章(「カラマアゾフの兄弟」論、注)の直前に書かれた「パスカルの『パンセ』について」(昭和十六年七月、八月)に、「呻きつつ求める」パスカルの姿を書いているが、それを揺曳して深化し、永遠の謎の前に立つドストエフスキイの姿を書いている、と言ってもよいであろうか。この連載を休んだ四月(s17年、注)は「当麻」を、六月は「無常といふ事」を、八月は「徒然草」を、別のところに発表している。そして、この「カラマアゾフの兄弟」を未完に終わらせて、十一月、十二月には「西行」を、翌年(s18年、注)の二月、五月、六月には「実朝」を発表した。この一連の作品をみて、著者の日本への回帰とは、一般に言うところである。もしも「西行」にラスコオリニコフに、「実朝」にはムイシュキンに通ずる一種の気味合を感じとる人があれば、「モオツァルト」(昭和二十一年十二月)にも、アリョオシャの臭いをかぐであろう。しかし、昭和十九年、二十年、二十一年と完全に沈黙をまもった著者の三年間は、決して空白だったわけではなく、種々の嵐が精神のなかを吹き荒れていたに違いないし、そのなかには、言うまでもなく、ドストエフスキイも含まれていたであろう。」(『ドストエフスキイ全論考』p.524)
やや長い引用になったが、終戦を跨ぐ沈黙の三年間を含め、小林が戦後に復帰するまでの空白と謎の期間を埋め直し、明らかにする文章であると感じた。しかしよく読めば、そこには元々「空白」も「謎」もなく、むしろ「永遠の謎」を「呻きつつ求める」パスカルに倣い、それをドストエフスキーやベルクソンに反復することで、批評家として自身を養った小林の心の経験があるだけであると思った。そのように郡司氏は教えてくれていた。その意味では「日本への回帰」など、小林への底の浅い議論でしかなかったのが分かる。
むしろそこには、ドストエフスキー文学に求め続けたと同じ問いを、日本古典の主人公に「永遠の謎」として再発見する小林の孤独な精神の持続があり続けた。そしてさらに、郡司氏の指摘で気になるのが、「西行」「実朝」「モオツァルト」の主題に、具体的に重ね合わせられたラスコオリニコフ、ムイシュキン、アリョオシャたちのイメージの行方である。
ここで考察されなければならないのは、やはり一般論としての小林の「日本回帰論」などでは全くあり得ず、今回論稿で触れてきた小林がドストエフスキーに希求した人間存在の孤独で裸な心の経験ではなかったか。そしてその差異を言うなら、書き分けられた個々の主人公の心のイメージであって、小林はそのことを日本文学の古典のなかに、具体的かつ普遍的なかたちでそれを探ってみせた。ここで今回最後に、小林の「西行論」から一行だけ引用しておこう。小林は、途中何十首も西行の歌を引いて、その間に言葉を添えていた。
「いかにかすべき我心」これが西行が執拗に繰り返し続けた呪文である。」
この表現に、戦後「「罪と罰」論」のラスコーリニコフの煩悶する心のありさまを重ねるのは容易かも知れないが、その行方まで重ねるのは困難であったようだ。 (2024.5.20)
編集室
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