ドストエーフスキイ全作品を読む会 読書会通信 No.190 発行:2022.2.2
読書会のお知らせ
2月13日(日)に予定していた以下の読書会は、オミクロン感染急拡大のため、急遽中止いたします。
2月に予定していたプログラムは以下の4月読書会に延期いたします。
月 日 : 2022年4月2日(土)
場 所 : 池袋・東京芸術劇場小会議室5(池袋西口徒歩3分)03-5391-2111
開 場 : 午後1時30分
時 間 : 午後2時00分 ~ 4時45分
プログラム : 朗読会 『貧しき人々』 その後はフリートーク
会場費 : 1000円(学生500円)
第68回大阪読書会(予定)
2022年3月30日(水)14:00~16:00
作品は『貧しき人々』。会場は、東大阪ローカル記者クラブ 担当:小野
2022年、全作品を読む会6サイクル目がスタートしました!
第1回目(4月2日)の読書会は、『貧しき人々』です。
資 料 ①
私の一冊:ドストエフスキ―著『貧しき人びと』
(典拠:(産経新聞2021年11月30日夕刊 ビブリオエッセー)
下原敏彦
時は1845年5月の未明、白夜のペテルブルグを2人の青年が興奮した様子で駆けて行く。 一人は、若手詩人ネクラーソフ。もう一人は作家デビューしたばかりのグリゴローヴィチだ。 二人は、人間の謎を解くため小説を書き始めたある文青年の友人だった。
その日の夕、文学青年は書き終えた原稿を置いて帰った。「どんなものか」二人は声に出して読み始めた。数ページも読めばわかる、そんな気持ちだったが、いつしか時を忘れ、読み終えた時、感動のあまり作者を抱きしめるため白夜の街に飛び出した。ドストエフスキーのデビューにまつわる有名な秘話である。
50年前、ある文庫本のあとがきでこの逸話を知った。半信半疑だった。そんな本に出会ったことがなかったからだ。好奇心から木村浩訳『貧しき人びと』を買った。すぐ後悔した。派手な冒険物語か緻密な推理ものを想像していたのだ。だが、書かれていたのはメールのやりとりのような日常を綴った書簡小説だ。同じアパートに住む孤独な中年の小役人と、遠縁の貧しい娘との哀れでみじめな手紙のやりとり。「こんな小説のどこが・・・」だが、気づくと我を忘れて読み耽っていた。
読み終えて「素晴らしい小説があります」と叫びたくなった。19世紀ロシアの二人の青年の気持ちが理解できた。私の世界文学の旅はこの一作からはじまる。
それは発足まもないドストエフスキーの読書会に参加しながらの楽しい旅だった。全作品を10年1サイクルで繰り返し読みつづけてきた。今年で5サイクルが終了。読書会の50周年がドストエフスキー生誕200年と重なった。巡り合わせに感謝したい。来春は6サイクル目が始まる。始まりは『貧しき人々』。最後になるかもしれないが、しっかり味わいたい。
資 料 ②
『貧しき人々』前史
初出:ドストエーフスキイ全作品を読む会 読書会通信 No.122(2010.10.5)
下原康子
ジェーヴシキン(早乙女幸作 48歳)
生い立ちは不明。17歳で役所に入り同じ場所、同じ仕事(筆耕)で勤続30年。その間の20年ほどは下宿の老主婦(故人)とその孫娘マーシャ(当初は赤ん坊で今は13歳になるという)と3人でひっそりと楽しく暮らしていた。ワルワーラとは遠い親戚ということで、いきさつは不明だが、貸間を借りて彼女をかくまい、自らも近所に引っ越して経済的にも面倒をみている。使用人のテレーザが二人の間を行き来して手紙を届けている。
ワルワーラ(17歳)
父はペテルブルグから遠く離れた村で公爵家の大きな領地の管理人をしていた。野原や森を飛び回り幸せな黄金時代をすごした。しかし、12歳になったとき公爵が亡くなり、父はクビになった。やむなく一家3人はペテルヴルグに引っ越す。寄宿学校に入ったがなじむことができなかった。14歳のとき、事業に失敗した父があっけなく死ぬ。直後にアンナ・フョードロヴナが親戚顔で現れ路頭に迷う母娘を自宅に引き取る。そこにはワルワーラの従妹にあたる孤児サーシャと下宿人の青年ポクロフスキーが暮らしていた。得体の知れない来客がしじゅう出入りする家であった。
ポクロフスキーの指導で本を読み始めたのをきっかけに二人の間に恋が芽生える。つかの間の満ち足りた幸福な日々が訪れたが、結核を患っていたポクロフスキーはまもなく死んでしまう。追い討ちをかけるように病身だった母も亡くなる。(以上、ワルワーラのノートより) 母の死後、ワルワーラはアンナ・フョードロヴナの魔の手にかかりブイコフに陵辱されてしまう。傷つき病気になった彼女をジェーヴシキンが救い出し貸間に住まわせる。
ポクロフスキー父子
父ポクロフスキーはうだつのあがらない官吏だった。最初の妻(青年の母)はたいそうな美人だったが、結婚して4年ほどで亡くなり、その後再婚する。当時10歳で継母にいじめられているポクロフスキーを保護者になって引き取ってくれたのはブイコフだった。ブイコフが彼に興味を持ったのは、彼の亡くなった母親を知っていたからで、この母親は娘時代にアンナ・フョードロヴナの世話になっていて、その口ききで官吏ポクロフスキーの元に嫁いだのだった。アンナ・フョードロヴナと親しかったブイコフは気の大きいところを見せて、花嫁に五千ルーブリの持参金をつけてやった。この金がどこへ行ってしまったものかはわからない。(ワルワーラがアンナ・フョードロヴナに聞いた話)
ブイコフの世話でポクロフスキーは大学まで進んだが、健康をそこねて勉強を続けることができなくなった。ブイコフの紹介でアンナ・フョードロヴナの家でサーシャに勉強を教えるという条件で寄宿することになった。青年は自分の家庭の事情はいっさい口にしなかった。彼は父親を軽蔑している。おそらく、老人が実の父ではないことを知っているのだろう。一方で、老人は息子を心底愛し崇拝している。
プレイバック 「私は、なぜドストエフスキーを読むのか」
ドストエーフスキイとわたし 『貧しき人々』に感動した私
典拠:「ドストエーフスキイの会」会報No.15 1971.6.22
三木卓(詩人・作家)
ドストエーフスキイに最初に感動したのは、『貧しき人々』だったと思う。『罪と罰』はこれより早くて読了したのは中学一年生の時だったが、これはそうとうな苦行で、途方に暮れた記憶しか残っていない。『貧しき人々』はそのあと『死の家の記録』をはさんで読んだが、異様な感動をうけた。それは何よりも、この作品が非常に熱っぽい衝迫力を持っているからだった。当時は朝鮮戦争の最中で、わたしをとりまく生活環境はそうとうなものであったし、わたしは何といっても無力な少年にすぎなかったから、おそらく、そのこともあったかもしれない。しかし、そんなことだけでは、もちろんなかった。
年譜を繰ってみると、この作品はドストエーフスキイ24歳の時に完成している。わたしはそのことに驚いてしまう。これが才能というものなのかもしれない。「君、君はどんなものを書いたか自分でわかっていますか。いや、君にはわかっちゃあいまい」とべリンスキーは言った、ということであるが、わたしもそういいたい思いだ。
『貧しき人々』を読み返してみて目をみはるのは、24歳の青年が、なんと深く他者と交感することができるのだろう、ということである。この作品の輝きはまさにそれに根差している。わたしは、ここに他者の悲惨を見てとり、それを出来得る限り自らの悲惨として受けとめ、感受しようとする精神を見出す。その精神は巨大な感受力を持っていて、それによって、この世界をおおいつくしたい、とねがっているのだ。わたしは、その作品の願望にまず圧倒されたのだった。
しかし、そのような志向を持った精神がどうして生れたのだろう。わかっていることは、まず、その精神が何らかの意味において苦痛を知るものである、ということだろう。余裕や弛緩は人間を鈍感にする。幸福なものは充足して外部に関心を示すことが少ない。
『貧しき人々』を読みつづけていくと、この作家が悲惨な人間の心について、それから発する行動について実によくわかっている、という思いにおそわれる。われわれは、ここにすでに後年ますますとぎすまされていくドストエーフスキイ流のリアリステックな眼が確固として存在することを知るが、同時にそんな眼をもたされてしまった青年作家の生というものの実態についても、かいま見る思いがするのである。作中人物たちは、おたがいの関係について「あ々、友よ!不幸は伝染病でございます。不幸な者と貧しい者とは、その上の伝染を予防する意味で、お互いに避けあわなければいけません」(中村白葉訳)といわせているが、これはまた、作者自身の感懐でもあったろう。不幸な者は不幸な他者をよく理解し得るし、またかれを必要ともする。そして若きドストエーフスキイは、その作品において、それを避けるどころかその逆に身をかけたのである。その〈交感〉への素直な努力がわたしを打ったのであろう。そして、後期の作品にふれたあとでも、この作品への尊敬と愛は少しもあせないのである。
ドキュメント
『貧しき人びと』マラソン読書 あの感動をもう一度
(日本大学芸術学部文芸学科 下原ゼミ/『江古田文学6号 2007』)
~ 軽井沢・ゼミ合宿で体験する1845年5月6日未明の白夜の出来事 ~
朗読会参加者は、下原ゼミの学生たち(男子3名、女子2名)
12月14日 読書会報告
参加者は常連10名と初参加の女性1名の合計11名でした。当日のプログラムは、「 模擬法廷 フョードル・カラマーゾフ殺害事件」の口演でした。突然のキャスティングにもかかわらず、快く引き受けてくださいました。以下の上垣さんのご寄稿のなかに当日の様子が書かれています。
寄 稿
「カラマーゾフの兄弟」 ―「誤れる裁判」に思う ―
上垣 勝
「ドストエフスキー全作品を読む会」が面白い。3時間をたった千円で楽しめるのだから、「渇ける者よ、来たれ。カネなき者よ、来たれ!」12月の読書会も中々他では味わえない内容。極上の時とは言えないまでも、人生上質の時間。
今回は、「カラマーゾフの兄弟」の第12編をなす「誤れる審判」、いわゆる「誤審」部分を、下原敏彦さんが巧みにシナリオ化してくださったのを参加者が担当を決めて読み、感想を述べあいました。脚本の方は、もう見事なシナリオ作家の腕前。感想の中には、鬼滅の刃や日本の土着宗教とドストエフスキーの作品との親和性めいた、了見の狭い私にはアッと驚くほどのことが語られたり、NHKテレビで放映されたという、亀山郁夫氏の大審問官論への素朴な疑問がビシビシ飛び出したり、生誕200周年を記念して有志でドストエフスキーとトルストイの足跡を訪ねる旅をしましょうよという楽しい提案や、もう9回もロシアを旅したという話などで盛り上がり、司会者のかじ取り役を越えての熱のこもった解説ぶりや、そのたしなめのお言葉らも出て、一時は法廷よりもハラハラ?3時間の読書会はあっという間に楽しく終わりました。中には、自分は悩んだり迷ったりする時には、「カラマーゾフの兄弟」を取り出してゾシマやアリョーシャの言葉に聞いて慰められるのという、素朴な味わい方を紹介する人もあり、その素直さにほっとさせられる一幕もありました。
それにしても、小説の読書会は大学受験の現代文の読解と違ってただ一つの正解というのはなく、色々な読み方があるので面白いのでしょう。以前に某読書会に顔を出そうとしたことがありました。ところがその会はいわゆる指導者が主催し、その人物の解説があったりまとめがあったり、その日の読書会用にその人がテキストを準備すると言った古風なやり方の上、何千円も取るというので嫌気がさしてやめました。「ドストエフスキー全作品を読む会」もむろん主催者はいるものの、参加者はどういう感想を述べてもいい縛りのゆるやかな、いや殆どないために、皆の最後尾にチョロチョロつきながら大変面白く参加させて頂いています。
ところで「誤れる裁判」のことですが、作者はどうして正しい判決でなく「誤れる裁判」という設定にしたのか。私の想像では、もし正しい判決が下されて小説が終われば、三文小説の仲間入りをしたでしょう。だが、陪審員らによってミーチャの有罪判定が下され、冤罪を受けることで作品に一層深みが加わり読者を楽しませます。ただ私には、作者は巧妙で、「誤審」に至った背景をうまく示していますが、そこにドストといえども手抜きしたのでないかと思わせるふしを感じます。
むろん愚かな私ができる訳ではありませんが、もしドストがいささかも手を抜かなければ、イヴァンの精神状態を勘案して、彼の再証人審問を行なうことで前代未聞の壮絶な場面を作って、それでも誤審に至るという世界の読者が絶倒しそうな大論戦を著者が展開するという、人類始まって以来誰もが気づかぬほど究極の所まで行く小説にして欲しかったという期待があったからです。それをしなかったドストに一抹の寂しさを感じたのであり、「カラマ」は最高の文学ではあるが著者もやはり神でなく一人の人間であることを見てしまったというわけ。
こんな呑気なことが言えるのは、私がずぶの素人であるからでしょう。それをよいことにして、今日も「誤れる裁判」から、恥を忍んで思うことを書いてみます。私には、フェチュコーヴィッチの弁論が際立ってすぐれていると思えるからです。いや、検事のイッポリートの方が優れているのよという発言をあの時チラッと耳にしましたが……、それを耳にしたのでメラメラと言いたくなって……。馬鹿ですね。
① 検事イッポリートに対する弁護士の反対論は端折りますが、ミーチャがなぜ父親を殺さなかったかの弁護士の分析は鋭いものです。たとえ父親の家に入ったとしても、入っただけでは殺したと断定できないことを論証し、父親を殺さずに済んだことを彼は喜んだはずであり、殺していないからこそ彼は一分後に、憤怒のあまり危害を加えた「グリゴーリイのそばへ駆け寄った」のであり、「潔白な感情、?―同情と憐憫の情を起こすことができた」と説くのです。この弁護士はミーチャの魂に寄り添い、検事以上に深く見事にその魂を把握しています。弁護士たる者の鏡に思いました。
ミーチャが父親を殺して自殺しなかったのは、「母親が彼のために祈ってくれた」からであったと弁護士が語るところにも、人情の深い洞察があります。たった一人でも真に愛してくれる者がいたなら、それが一生涯人を支え続けるというのですからほろりとします。
② 彼はスメルジャコフの自殺についても論じて、スメルは検事が断じるような「低能」ではなく、彼には「恐ろしい猜疑心と鋭い知力を発見」できると語り、彼が持っていた「非情な毒念、底知れない野心、盛んな復讐心、強い嫉妬心」を指摘し、「彼はわれとわが出生を憎みかつ恥じていた」ことを明らかにした上で、「彼は自分以外の何ものをも愛していない」人物であったと洞察しています。
その自己愛は、自分の過去と現在の一切を受け入れ、更には感謝し、平和な魂を持って自分と和解ができたような愛でなく、二重三重に周りに厚い壁を作って自己に閉じこもる自己愛だったという指摘でしょう。
それを更に分析して、彼の自殺は「良心の呵責や悔恨」からのものでなく、「絶望のために自殺したに過ぎない」と語ります。弁護士によれば、「良心の呵責はすでに悔恨を意味していますが、自殺者が必ずしも悔恨に責められたものとは断ぜられない。絶望と悔恨、――この二つのものはまったく異なったもの」だというのです。この洞察も鋭いものですが、この種の「絶望は憎悪に満ちていて、絶対に妥協を許さない」場合があり、「自殺者は自分で自分に手を下そうとする瞬間、一生うらんでいた者にたいする憎悪を、一倍つよく感じた」かも知れないと弁じます。
スメルジャコフの拠り所は、無神論に立って、神がいなければ何でも許される、どんなことをしてもかまわないと語るイヴァンに立脚していました。ところが、信頼していたイヴァンの急激な考えの転換によって、スメルは生きる一切の根拠を失い、絶望したのも無理はありません。それはイヴァンへの絶望ですが、自分の生への完全な絶望となって自己の上に崩れかかり、「余は、何人にも罪を帰せぬため、自分自身の意志によって、甘んじて自己の生命を断つ」と遺書をしたためて自殺したのです。ここには一切の弱さを排除し、一切の者の助けを拒否した人間の、傲岸不遜をきわめた絶望があります。もしかすると、イエスが差し出した憐れみの手をも振り払ったイスカリオテのユダも、彼と同様の心境だったかも知れません。キルケゴールが指摘したような絶望の恐るべき罪。
ドストエフスキーの頭には、そういうユダへの思いがチラッとかすめたように私には思えますし、確かにゾシマが既に自殺について鋭い考察をしていましたから、この事も興味深い所です。(今、私の胸に浮かんでいるのは、もしドストの頭をユダのことがかすめていたとすれば、ドストはユダの救済の道あるいは棄却の道についても考えていたであろうということです。これはまた、いたって興味深いキリスト教神学のテーマに違いありません。)
ところで弁護士フェチュコーヴィッチは、この父殺し事件の核心の一歩手前まで迫ります。だが、イヴァンの証言はその譫妄狂のゆえに十分な信憑性がなく、弁護士自身も、「裁判官ならびに検事諸君の確信を分かつものであります」と、せっかく核心に迫りながら、そこで急転回してあと戻りするのです。
ただその後も彼は、この事件には「何かなぞめいたあるものが感じられ」、「十分説明されない、はっきり言い尽されないあるものが潜んでいるようです」とは数度にわたり語っています。だが、そこまで弁護士が納得できないのなら、彼は嫌疑不十分だとして、イヴァンの証言能力の回復を待って、後日再審をするように強く要求すべきでした。だが残念なことにそれをしなかったのです。彼がそうしなかったようにドストが設定した所に、先に述べたドストの手抜き論を思うのです。
③ 次に移りましょう。弁護士はミーチャの魂にある「真実なものへの飢え」を見抜いて弁論に立っています。カラマーゾフ家の者らは、「二つの深淵を同時に見ることができる」のであり、「二つの面を備え、両極端の間に動揺する天性を持っている」が、ミーチャの二つの両極端の深淵は「遊蕩」と「愛」であります。この事は検事によっても弁護士によっても認められているものですが、弁護士の方はミーチャの遊蕩の背後に、愛への一段と深い渇望があると見ているのです。すなわち真実なもの、精神的に高尚なものへの飢えであり、真実な愛への飢えです。そこで、このような人間は、「高潔な美しい対象物によって自己革新を求めます。悔い改めてりっぱなものとなり、潔白な高貴な人間になる可能を求める」ものだと、ミーチャの魂の深みにあるものを究めて行きます。(そしてこの論をさらに深めますが、弁護士はその途中で、興味深い父親論を展開しますが、今は触れません。)
④ さて、今回の愚論を述べようとしたきっかけに至りました。フェチュコーヴィッチは、法廷が「恐ろしい刑罰を被告に下されようとされるのは、それによって彼の魂を永久に救いよみがえらせるためなのでしょうか?」と問い、「もしそうだとすれば、どうか偉大な慈悲をもって彼を圧倒してください!しからば、諸君は被告の魂がいかにふるえ、おののくかをごらんになるでしょう。どうして自分はこの慈悲にたえられよう、はたして自分はこれほどの愛を受けようとしているが、自分はこの愛に価するものであろうか、こういう被告の魂の叫びをお聞きになるでしょう!」またこうも語ります。「この魂に慈悲を加えてごらんなさい。愛を示してごらんなさい、たちまちこの魂はおのれの過去をのろいます。なぜなら、この魂の中には多分に善良な萌芽がひそんでいるからであります。」
弁護士でなく、まるで切々と愛を説く教育者の言葉を聞くかのようです。こういう弁論が現実の法廷でなされることがあるのかどうかを私は知りませんが、ミーチャの魂のあり所を見据えながらのこの論告は、一法廷にとどまらず、そこを出て社会全体に語られ、広く世界の舞台で説かれるべき論告と言っていいでしょう。
私はここを初めて読んだ時、本書の10数年前にフランスで出版されたユゴーの「レ・ミゼラブル」(1862年出版。ロシア語訳は何年?)とダブりました。(「カラマーゾフの兄弟」は1880年出版)。ミリエル神父のとっさの愛の決断なしにはジャン・バルジャンの魂の善良な萌芽は決して新しく創造され、芽吹くことはなかったでしょう。「見よ、全ては新しくなった」とあるような事態は決して起きなかったでしょう。弁護士の言葉とミリエル神父の行為による言葉は互いに共鳴していると思いました。
さて、弁護士は更に論告を続けますが、今や再び、「カラマーゾフの兄弟」の第一部で示されていたゾシマ長老とその兄マルケールの、霊的で高いスピリチュアリティが突然披瀝されるのです。少し長いですが引用しましょう。
偉大な慈悲を加えられた「彼(ミーチャ)は、悔悟の念と目前に現れた無数の義務とに、慄然として圧倒されるでしょう。そのときこそ、もう『おれは勘定をすました』などと言わずに、『おれはすべての人々にたいして罪がある。おれはいかなる人々よりも無価値なものだ』と言うでしょう」とフェチュコーヴィッチは説き進めます。これはもうゾシマが達していた境地であり、マルケールの領域です。むろん弁護士の弁論は口の弁論にしかすぎず、ましてやミーチャが実際にそういう境地に達するかどうかは保証できませんが、弁護士が仰ぎ望むのはそういう高みです。そしてこの弁護士は、「ロシアの裁判は単なる刑罰ではなくして、滅びたる人間の救済である」と説いて、論告を終えます。
むろん法に基づく裁判で、被告に対して、彼が説くような偉大な慈悲をもって圧倒するというのは、非現実的でしょう。それ故また、この弁護士の説く所も、ゾシマやマルケールとは違って、なぜか読者の心に切々と訴えかけたり肉薄したりする所がやや虚弱に感じられもします。論告だから当然でもあります。だが、この長編を貫く主題が、フェチュコーヴィッチによってここに再び現れたのです。そのことによって、「誠に実に汝らに告げん。一粒の麦もし地に落ちて死なずば唯一つにてあらん。もし死なば多くの実を結ぶべし」(ヨハネ伝12章24節)という、エピグラフの言葉がどういう意味を持つかを、読者は改めて考えさせられることになります。独断と偏見を言えば、著者はこの小説で、この一片の聖句と格闘し、全身全霊を込めて究め、現実生活の中で渾身の力を込めてメディテーションをしていると言っていいかも知れません。
ドストはシベリア流刑以来、長年にわたって繰り返し聖書を読み、深く思索して小説を著して来ました。その彼の最後の書となった本書で、ヨハネ伝のこの聖句をどのように読めばいいのか、「家畜追い込み町」という実に象徴的な、畜生的な人間たちが追い込まれ棲息している町、この世での、罪ある人々、カラマーゾフ家を舞台にしてその注解の試みをしたと見ることができます。
⑤ ここまで書いて来て思います。ドストエフスキーは、先に私が書いたような、イヴァンの証人尋問を再度する必要はなかったのです。弁護士は事件の判決の行方を見越しながら、有罪判決が必須であると見たからこそ、それに抗って、今述べたスピリチュアルな高みまでせりあがりつつ高邁な思想を展開し、論告を終えることができたのでしょう。ドストエフスキーの「誤れる裁判」の企ては決して手抜きではなかったと、今思います。
エピローグの「カラマーゾフ万歳!」に至るアリョーシャと子どもらの、軽快で心地よい会話は、「誤れる裁判」という重苦しい雰囲気を緩め、一服の清涼剤をなしています。読者はホッとし、安らぎを与えられて本を閉じます。そこには、遥かな未来から差し来たる明るい希望の光がほのかに射しているかのようです。そう。微かな救いの光が木洩れ陽のように漏れています。
資 料 ③
ドストエフスキ―に対する人定審問より (編集室)
(典拠:『ドストエフスキー裁判』ベリチコフ編 中村健之介訳)
問 名前、父性、性は。年齢は。信ずる宗教は。宗教の定めた儀則をその定められた時に守ったか。
答 フョードル、ミハイロフ、ドストエフスキー。当27歳。ギリシア・ロシア正教。宗教の定めた儀則はその定められた時には守りました。
問 両親の身分は。存命ならば彼らの居住する場所は。
答 父は1等軍医6等官ドストエフスキ―、母は商人身分の出身。両人ともすでに死亡しました。
問 教育はどこで受けたか。その費用はだれによったか。教育課程修了は何年か。
答 中央工兵学校。自費。1843年、中央工兵学校士官部卒業を以て終わりました。
問 現在勤務に就いているか。その勤務に就いたのは何年か。官等は。また、これまでに予審あるいは裁判を受けたことはあるか。あるとすれば何に因ってか。
答 1843年、中央工兵学校士官高等部を卒業後ただちに勤務に就きました。工兵局製図室勤務。1844年、退役。階級、陸軍中尉。これまで予審あるいは裁判を受けたことはありません。
問 不動産あるいは自分の動産を持っているか。持っていないとしたら、自分の、そして家族がある場合は家族の、生活を維持するためのいかなる手段を持っているか。
答 両親の死後、〈兄弟たち〉その家族全員とともに、残された不動産、すなわちトゥーラ県なる農奴約百人より成る領地を相続しましたが、1845年、親族相互間の了解のもとに一定額の一時金を受け取りそれを以て相続財産の配当金分に対する権利を放棄しました。
連 載
ドストエフスキー体験」をめぐる群像
(第99回)三島没後50年が廻り、ドストエフスキー生誕200年目の「感想」
④ 三島『仮面の告白』から『金閣寺』へ、そして小林「『罪と罰』についてⅡ」
福井勝也
小林と三島の対談「美のかたち―『金閣寺』をめぐって―」(s.32.1)を論じた後になるが、三島のそれまでの戦後小説家としての活動、特に戦後デビュー作として評価される『仮面の告白』(s.24.7)について考えてみたい。三島の戦後文学活動は、先行する所謂第一次戦後派(椎名麟三等)にやや遅れをとるかたちで始まった。そしてその遅れを一挙に挽回した作品が『仮面の告白』であった。この小説の画期的だったことは、まさか、「私」(≒三島)の同性愛的な性向を暴露するスキャンダリズムにあっただけではないだろう。
むしろそのねらいは、『仮面の告白』というタイトルに込められていたと思う。それは「一人称小説」のかたちを取りながら、それまでの日本文学の主流とされた「私小説」から遠く離れた「私」の設定にその眼目があったと思われる。すなわち、その「告白」は一義的で確固とした「私」のそれではなく、言わば「仮面的主体」の不確実な「告白」であった。そして三島は、戦後体制が確立し始めたこの時期、以降の戦後史総体を「仮面」と言うキイワードで作家的自己を現出したことになる。このことは、三島の戦後デビューのあり方として注目すべきことに思える。そして三島のこの小説への意欲は、近代日本文学の領域を越えて、世界文学的な営為と比すべき内容を孕んでいたことも指摘してゆきたい。
ここで予め触れておけば、『金閣寺』(s.31.10)も『仮面の告白』と実質的に同じ「一人称小説」であり、その両作品が三島文学を世に知らしめる代表作となった。その二作には内在的な連続性が指摘可能だが、その背景にある歴史性と世界文学性も考えてみたい。
そのような特質が、何からもたらされたか。まず言えることは、『仮面の告白』で成立した「一人称」の「三島的私」が、『金閣寺』のそれへと連続したからだろう。つまり両作品に共通する「私」とは、単なる作者自身ではなく、流動する他者の主体を孕み、それが連続的に現れた。それは、時代を先取りする鋭敏な感受性による独自な表象となった。言わば、作家固有の「イメージ」に彩られ、三島にしか描き得ない文学世界として印象づけられた。
そのことをはっきり明言したのが、批評家の小林秀雄であった。小林は「対談 美のかたち」(s.32.1)で、その淵源を三島固有の「才能」「才能の魔」として指摘し予言的に語った。結果小林の、『金閣寺』=「抒情詩的告白」(コンフェッション)という言葉は、「あのコンコンとして出てくるイメージの発明」との形容とともに、良くも悪しくも『金閣寺』の文学史的評価を決定づけた。その背景には、小林がこの時期「『罪と罰』についてⅡ」で取り組んだ『地下室の手記』から『罪と罰』への作品生成、それとの比較考察が重なった。
そして今回、その小林の直感的洞察と比較すべき論考『金閣は焼かなければならぬ』(2020.6)での内海健氏の言葉を改めて新鮮に読んだ。三島の死後50年して、このような発展的な再評価が巡り来る三島の運命の不思議を感じた。ここで再度引用してみたい。
「溝口(『金閣寺』の主人公「私」、筆者注)は三島の分身ではない。そして単なる役柄でもない。主体として、そして主体としての他者として描かれている。ここで三島は、ナルシシズムの閉域の外へ踏み出した。みずからの隔離を突破し、ナルシシズムを破砕するという、三島の常ならぬ挙措は、金閣放火という行為と折り重なる。対照的な、ある意味で相反するといってよい精神病理をもちながら、この一点において、二人(溝口≒林養賢(主人公のモデル)と三島由紀夫、筆者注)は邂逅した。」 (「同著」エピローグ、「狂気の幻像」p.211-212、前回も引用、太字は筆者、注)
もう一つここで紹介したい近著がある。こちらも三島没後50年に合わせ刊行された『暴流(ぼる)の人 三島由紀夫』(井上隆史著、2020.10)である。『仮面の告白』という主題を端的に語る一節があって今回注目した。多面的な考察の一部分だが、是非引用しておきたい。
「「仮面の告白」ノートで、三島は「肉にまで喰ひ入つた仮面、肉づきの仮面だけが告白をすることができる。告白の本質は「告白は不可能だ」といふことだ」と記している。このとき、『仮面の告白』という作品は、(‥‥)ある一般的な原理を指し示すことになる。それはどんな語り手自身であっても語り手自身を語ることなどできず、そこで語られる対象は常に「仮面」にほかならないということ、それにもかかわらず、その「仮面」と語り手とを同一視することによって「私」というアイデンティティが成り立つのだが、実のところそれは一つの「神話」にすぎないという、「私」をめぐる原理、あえて言えば哲学的逆接である。」(同著p.164)
この解説から『仮面の告白』が、主人公=「私」(≒三島)の同性愛的な性向を露悪的に告白したのみの作品ではなく、<私>の哲学的な探求に係わる小説であったことが理解される。そして、それが新たな<語り手>による戦後小説として当時の日本人に受容された。同時に、井上氏の解説文から当方には某作品が既視感となって思い出され、そのタイトルが直ぐに頭に浮かんだ。その作品とは、ドストエフスキーが約10年のシベリア流刑からペテルブルクに帰還し数年過ぎ、再起した小説家の複雑な個性を顕わにした『地下室の手記』(1864)であった。この小説の「地下室人」の<独白>こそ、井上氏の「<私>というアイデンティティ神話の崩壊」「<私>をめぐる原理の哲学的逆接」を宣言した作品であり、19世紀半ば過ぎに、それも辺境と言えるロシアで発表された世界文学史上の問題作であった。
この時点で、三島がおそらく『地下室の手記』を意識してなかったわけがないだろう。しかし『仮面の告白』の巻頭を飾る「エピグラフ」が、『カラマーゾフの兄弟』の一節「美―美という奴は恐ろしい怕かないもんだよ!」から始まっていることがある。これも、ドストエフスキーを意識していたことの証明にもなろうが、とりあえずこれをどう考えるべきか。ここでの問題の端緒は、エピグラフの末尾「一体悪行(ソドム)の中に美があるのかしらん?‥‥‥しかし、人間て奴は自分の痛いことばかり話したがるものだよ。」というドミトリー(ミーチャ)の言葉にあった。三島はその文言に着目し、そこから物語を始めようと考えた。そして読者は、作品全体を読み終わって、再度この「エピグラフ」に戻って来る。確かに『仮面の告白』では、作家三島の「美の追求」というテーマも既に鳴り始めていた。そしてそれは、この後の『金閣寺』でより鮮明になった。とにかく『仮面の告白』では、「男色」という「悪行(ソドム)」の中での「美」の問題が、テーマ的に迫り上がり、それが予想通りに話題を呼んだ。三島は満を持したデビュー作で、いくつかのねらいを仕掛け、その達成に成功した。それにマッチした「導入文」が『カラマーゾフの兄弟』の一節で、それが「エピグラフ」を飾った。
さらにここで、もう一つ触れておきたい三島のこの時期の文章がある。それは『仮面の告白』が刊行された直後「近代文学」(s.24.10)に掲載されたもので、その執筆年月日(s.24.6.25)から、おそらく『仮面の告白』の刊行(s.24.7.5)に合わせて、その直前に書かれたものと推定される。そのタイトルは「美について」(『三島由紀夫の美学講座』ちくま文庫所収、2000)というもので、そのなかで『仮面の告白』のエピグラフの冒頭の一部が引用されている。「ドストエフスキーは美の観念の次元を高め、人間存在の内に行われる神と悪魔の争いをも美という存在形式で包括した」のであって、「そこにはヨーロッパ人にとって普段の脅威であるところのアジア的混沌の風土」が存在すると指摘している。これは、小論ながら正面からドストエフスキーを論じた堂々とした「エッセイ」と言える。既にこの時期、三島のドストエフスキーに対する深い関心と鋭い洞察が十分に見て取れる。
この時期、そのような三島の背景を考えた時、彼の『地下室の手記』への見識もかなりのものであったと推測される。そしてあまり一般的でない<語り手の問題>など、おそらく、それが分かる者だけが気付いてくれればいい、そんな現代作家三島の自負心すら感じる。
」
さらに、この頃文壇人気をリードしたのは、第一次戦後派の椎名麟三であった。彼はこの時期の有名なドストエフスキー派で、三島は椎名の実存主義的ドストエフスキーと対抗しつつ、より文学方法論的な観点からドストエフスキーを問題にしようとしたではなかったか。その結果が、「地下室的話法」に着目した「仮面の告白」であったと考えられる。
やや考えすぎと言われそうだが、最近『仮面の告白』と『地下室の手記』との小説的近似について、新潮文庫最新版の「解説」で中村文則氏が触れている内容もある。すなわち「初めに主に主人公の隠された内面が「説明」され、後にそれが人生と触れることでどうなるか、という転回を持つ点でドストエフスキーでも(『カラマーゾフの兄弟』よりも)『地下室の手記』(に近しい)だろうと思われる。」と書かれている。さすが『地下室の手記』に影響を受けたドストエフスキー派の現代作家の指摘だと思った。但しそれだけでは、物足らなさを感じる。先述井上氏の「私をめぐる原理の哲学的逆接」こそ、『地下室の手記』を意識したはずの三島が、戦後デビュー作に込めたライトモチーフだと思えるからだ。
しかし確かに、三島がこのような意図をどこまで創作にあたって意識していたかは明らかではない。創作ノートに、ドストエフスキーの『地下室の手記』に拘った記述がどの程度あるのかも確かめてはいない。ただし、三島が『仮面の告白』(s.24.7)に込めた「私をめぐる原理の哲学的逆接」と言う問題が、『仮面の告白』から七年後の『金閣寺』(s.31.10)まで持ち越され、作品自体がその意識的亢進の所産でなかったか。そんな経緯もあったか、『金閣寺』刊行直後に小林との「対談 美のかたち」(s.32.1)が現実化した。しかし意外な小林の発言に終わった。そのことが、これ以降の三島の(作家)人生に深い影響を及ぼしたのでなかったか。以上が、今回当方が述べてきたこれまでの推論である。もう少し続ける。
既に、その「対談」をめぐってのやり取りについては、前回、前々回に触れてきた。そこでの小林の発言が、彼がこの時期に公表していた「『罪と罰』についてⅡ」(s.23.11)によるものであったことは既に触れた。問題は、小林の戦後新たなドストエフスキー作品論として評価された「『罪と罰』についてⅡ」と三島の『仮面の告白』(s.24.7)の刊行時期が近接していたことで、そこから『金閣寺』執筆まで至る推察可能な内容である。
おそらく三島は、昭和24年7月に河出書房の初の書き下ろし長編として『仮面の告白』を刊行する直前に、この「『罪と罰』についてⅡ」をおそらく読んでいただろう。それでは、その三島が特に注目して読んだ文章とは、具体的にその文章のどの辺りだったか?
当方は、おそらく全体4部のうち第1部の終末部分であったと推察している。すなわち、ここでは『罪と罰』が書かれる前提に『地下室の手記』という小説に内在した問題、その成行としての<小説的破綻>、それからの再生<小説的変貌>が語られる。形式的には、<一人称告白小説>が乗り上げた<暗礁>から<新たな「私」による三人称的世界>への変貌。
そこでは、そもそも『地下室の手記』とは、どんな小説かという問題が並行して論じられる。小林はまず次のように、その一節で語っている。「彼(主人公の「地下室人」、筆者注)は、性格を紛失してしまうが、所謂性格破産者ではない。性格とは行為の仮面に過ぎず、行為とは意識の貧困の仮面に過ぎぬ、それが彼の確信であるが、何故、この確信は彼に何の元気も勇気も与えてくれないのか。」この部分に注意すべき「仮面」という言葉が出てくるが、ここは三島が眼に止めた箇所ではなかったか。その下線部は、『仮面の告白』の「私」(≒三島)の科白であってもおかしくない部分に読める。さらに続けて小林は、「この憐れな男は、少なくとも自分だけは掛替えなく生きている事を感じてゾッとする。この感覚は、歯痛のように彼を貫く。すべての行為は愚劣であり、無為ほどましなものはないと信じた男は、ひょんなことから自分でも呆れ返るほどの愚行を演じねばならぬ。生きるという事は、そういう具合なものなのか。」という件がある。この部分の地下室人の「愚行」は、『金閣寺』の主人公の溝口(=「私」)が「金閣は焼かなければならぬ」と決意し実行したこと、あるいは『罪と罰』のラスコーリニコフが「老婆殺し」を決意し実行したこと、その各々に深いところで通じていて、そのどれもが等価なものとしてあるように描かれている。
そしてさらに小林は、「人間とは何かという問いは、自分とは何かという問いと離す事が出来ない。」と書き記す。そしてその直前で「(‥‥)これが、ドストエフスキイが一人称小説の形式を捨てた場所である」と宣言して、『地下室の手記』の文体を次のように総括してみせる。「一人称小説の形式は、その最も烈しい純粋な形で挫礁した。失敗したのではない。計画通りに見事に暗礁に乗り上げたのである。その事こそ、主人公には得られず、作者に与えられた、明答ではなかったか。曰く、新に自分自身を産め、と。」(太字は筆者)
三島の『仮面の告白』という小説は、この『地下室の手記』が到達した地点から書き始められていたはずだ。そして想像だが、三島にとって『金閣寺』とは、自身の『罪と罰』を書く試みではなかったか。しかしドストエフスキーは、『地下室の手記』の次に『罪と罰』で「新たな自分自身」を生み出したが、三島は『仮面の告白』の後に『金閣寺』でそれを生み出すことは出来なかった。とりあえずそう断定したのが小林であったように考えられる。「対談」で小林は、そのことを繰り返し語ったに見える。しかし三島は真に、新たな自分を産み得なかったのか。今回そんな疑問を感じたのは、既に何回か引用した『金閣は焼かなければならぬ』の内海氏の見解に、新たな読みの深まりを感じたからであった。小林も認めた三島の「才能」は、単に「頭からコンコンと生み出されるイメージ」だけを生み出すものではなく、内海氏が指摘する「主体としての他者」をも生み出したのではなかったか。だとすれば三島は小林に、その『金閣寺』を自身の『罪と罰』として評価して欲しかったのではなかったか。しかし期待は美事に裏切られた。
おそらく三島が、この「対談」で受けた衝撃は、以後の小説家人生に深い影を落とす結果になったのではなかったか。それだけに、三島にとっては「事件」四年前の小林との最後の「対面」は、やはり決定的な「再会」になっただろう。小林がその時、三島と何を話したか詳細は不明だが、三島が最後まで書き通した小説『豊饒の海』が話題になったに違いない。
最後に、小林の「『罪と罰』についてⅡ」における、上記引用「新に自分自身を産め、と」以降の文章を最後まで記しておく。三島はこの全体を読んで、ドストエフスキーが成し遂げた『罪と罰』の世界を、自分の『金閣寺』に生かしたいと思ったのではなかったか。
「「罪と罰」の覚え書の中に、この作を告白体で書いたものがある処を見ると、作者は、この新しい世界へ這入るのに、余程逡巡したらしいが、彼は遂に踏み込んだ。「私」は消えた。という事は、作者の自己の疑わしさが、そのまま世界の疑わしさとして現れたという事であって、今更、公正な観察者なぞが代理人として、作者のうちに現れる余地はなかったという意味である。人と環境或いは性格と行為との間の因果関係に固執する所謂自然主義小説の世界は、もっと深い定かならぬ生成の運動に呑まれ、人間の限定された諸属生が消えて、その本質の不安定や非決定が現れ、信仰や絶望の矛盾や循環が渦巻く。ここに現れた近代小説における世界像の変革は、恰も近代物理学に於ける実体的な「物」を基礎とした従来の世界像が、電磁的な「場」の発見によって覆ったにも比すべき変革であった。」(『小林秀雄全作品』16、p.116)
(2022.1.20)
広 場
読書会の皆様からの賀状より (編集室)
・年一回は絶対に会に参加しようと思いつつ今年も果たせませんでした。6サイクル目が来年からスタートすることを知りました。これは日本中を探しても見つけられない会独自の偉業と言ってもよいものです。
・「声」の投書欄の柔道の記事を読みました。
・コロナ前、コロナ中と『全作品を読む会』で育てていただいて感謝しています。
・昨秋、骨折し、回復に時間がかかりました。
・本年からは新しいドストエフスキ―紀を始めたいと思っています。
・昨年はドストエフスキ―生誕200年でNHKラジオ亀山郁夫氏の連続講義「文学の世界/ドストエフスキー」を聞きました。
・2月から新しいサイクルがスタートしますね。また参加させていただきます。
・82歳の年を迎え、唯々感謝の心持で一日を過ごしております。
・読書会の活躍ぶりは目覚ましいですね。
・読書会の意義を再認識しています。
・厳しい情況の中、お互い頑張りましょう!
2021年「全作品を読む会」活動報告
「読書会通信184」令和3年2月10日発行
■2月20日(土)小五会議室で開催 作品『カラマーゾフの兄弟』6回目「大審問官」の朗読 参加11名
「読書会通信185」令和3年3月26日発行
■4月4日(日)小5会議室で開催 作品『カラマーゾフの兄弟』7回目 前半は「神秘的な客」の朗読、報告者・太田香子さん「一粒の麦死なずばの持つ意味とは」参加11名
「読書会通信186」令和3年6月17日発行
■6月27日(日)小5会議室で開催 フリートーク「ドストエフスキーの現代性について」参加10名 共同通信社の鈴木記者取材
「読書会通信187」令和3年8月10日発行
■8月21日(土)コロナ感染拡大 緊急事態宣言解除延期。東京芸術劇場閉館で中止。
「読書会通信188」令和3年10月12日発行
■10月24日(日)小7会議室で開催 口演 模擬法廷「金貸し老婆とその妹強盗殺人事件」第5回公判 参加9名
「読書会通信189」令和3年12月7日発行
■12月14日(火)小5会議室で開催 口演 模擬法廷「フョードル・カラマーゾフ殺害事件」 参加11名
2021年の読書会は、前半は東京2020オリンピックに後半は新型コロナウイルスに翻弄された1年でした。このなかで8月読書会は、緊急事態宣言の解除延期で開催できませんでした。読書会の中止は、この一回で済みました。しかし曜日は、土曜日確保がむずかしくなり、日曜日や平日開催が余儀なくされました。
2021年はドストエフスキ―生誕200年、読書会発足50周年及び5サイクル最後の年になります。読書会では、この節目を記念して脚本化した裁判劇を口演しました。『罪と罰』からは「金貸し老婆とその妹強盗殺人事件」第5回公判を『カラマーゾフの兄弟』からは「フョードル・カラマーゾフ殺害事件」です。また前年の「イワン対スメルジャコフ三度目の訪問」につづき「大審問官」の朗読も大好評でした。コロナ感染の動向が落ち着かない不安な年でしたが、昨年の漢字「金」を表す明るい話題もありました。
ドスト生誕200年を記念して共同通信社(鈴木記者)が6月読書会を取材しました。その記事は信濃毎日新聞など各地方紙で広く紹介されました。また6サイクルスタートの前夜祭として編集室(下原敏彦)が産経新聞のコラムに投稿した『貧しき人々』が11月の月間賞に選ばれ2021年12月25日の産経新聞夕刊紙上で好評を得ました。
大阪「全作品を読む会読書会」2021年
3月25日(木)作品『作家の日記』
7月26日(月)作品『作家の日記』
9月29日(水)作品『作家の日記』
11月24日(水)作品『作家の日記』
12月21日(土)作品『作家の日記』
新 聞
日本経済新聞 2021年12月24日「春秋」
ロシアの作家、ドストエフスキーは常にお金の問題で悩み続けた。自身の賭博癖、無心に群がる親戚たち。人生最後の文章も、小説の印税を早く払ってほしいという編集者へのお願いだったという。今年生誕200年、没後140年を迎えた文豪の素顔は妙に人間臭い。▼実生活を映してか、作中にもお金が具体的な金額を伴いよく顔を出す。『カラマーゾフの兄弟』では、現金3000ルーブルが殺人事件の鍵になっている。他の作品でも登場人物らは信仰の意味など深遠な議論を戦わせる一方で、巨額の遺産からささいな借金まで身分に応じたお金に翻弄される。このリアリティも人々を引き付けた。▼当時のロシアは急速な近代化で混乱の中にあった。雑誌『現代思想』で社会学者の大沢真幸さんは、この作家には神と金が生涯の問題であり、両者を重ねてみていたと説く。大沢さんによれば金が新たな神となったのが資本主義であり、神を巡る精緻な議論は資本主義の長所と困難を考えるヒントとして今も有効だという。▼社会主義国ソ連が姿を消して30年たつ。民主国家が世界を覆い安定するというフランシス・フクヤマ氏の「歴史の終わり論」は外れ、旧東側では古い権威主義が復活し旧西側も自由や民主主義が揺らぐ。世情が不安定な時ほどドストエフスキ―の読者は増えるそうだ。だとすれば文豪の地位は安泰だが、素直に喜びにくい。
新 刊
亀山郁夫著『ドストエフスキーとの旅-遍歴する魂の記録』岩波現代文庫 2021.10.15
亀山郁夫訳『未成年1』光文社古典新訳文庫 2021.11.20
亀山郁夫・望月哲夫・番場俊・甲斐清高編『ドストエフスキー表象とカタストロフイ』
名古屋外国語大学出版会 発行2021.11
『現代思想 2021年12月臨時増刊号 総特集=ドストエフスキ―』ユリイカ・現代思想
青土社 発売日2021.11.26
読書会参加者の著作
常木みや子『遺丘』(テル)思潮社 2021.10.31
以下の詩が収録されています。
Ⅰ Ⅱ
・だんまつまがくる夜 ・ふねはゆっくり動き始めた
・ペガサスの位置 ・時間を切って走っていく
・パルミラ ・扉を開ける
・ダルウィーシュの壁画 ・未来の朝
・シリア砂漠 AD2000 ・腐海巡礼
・人骨を洗う ・変容
・荒野 ・水の中のシリア
・なぎのすけうまれた 3800 グラム ・聖なる丘ギョベックリ テペ2008
梶原公子著『コミニュテイユニオン』アップル社21.8.1
解雇、過酷労働、パワハラと戦うために必要な存在、それがユニオン
雑 誌
『江古田文学 107号』特集・ドストエフスキー生誕200周年
令和3年7.25 江古田文学会
『全作家120号』 発行2021.9.30 提供=長野正さん
・エッセイ部門「三島没後五十年に際して」羽鳥吉行(長野正)
・評論部門 高橋誠一郎「宮崎駿監督の堀田善衛観」
シンポジウム
第18回国際ドストエフスキー協会(IDS)シンポジウム
コロナで下記日程に延期しました。
開催日時:2022年8月22日~8月27日
開催場所:名古屋外国語大学
編 集 室
ドストエフスキ―生誕200周年記念原稿募集
「私は、なぜドストエフスキ―を読むのか、読みつづけるのか」引き続き、受付けています。
カンパのお願いとお礼
年6回の読書会と会紙「読書会通信」は、皆様の参加とご支援でつづいております。開催・発行にご協力くださる方は下記の振込み先によろしくお願いします。(一口千円です)
郵便口座名・「読書会通信」 番号・00160-0-48024
2021年10月6日~2022年1月22日までにカンパくださいました皆様には、この場をかりて
心よりお礼申し上げます。
「読書会通信」編集室 〒274-0825 船橋市前原西6-1-12-816 下原敏彦方