ドストエーフスキイ全作品を読む会 読書会通信 No.188
 発行:2021.10.12


第306回10月読書会のお知らせ

月 日 : 2021年10月24日(日)
日曜日です。
場 所 : 池袋・東京芸術劇場小会議室7(池袋西口徒歩3分)03-5391-2111
開 場 : 午後1時30分 
時 間 : 午後2時00分~4時45分
プログラム :  口演 模擬法廷「金貸し老婆とその妹強盗殺人事件」第五回公判
      口演終了後はフリートーク
会場費 : 1000円(学生500円)

☆12月読書会は、2021年12月14日(火)開催予定です。
  会場は、東京芸術劇場小7会議室14:00~17:45

☆「大阪読書会」は、2021年11月24日(水)に第66回大阪読書会を開催予定です。
  時間は14:00~16:00 作品は『作家の日記 上』321-348頁
  会場は、東大阪ローカル記者クラブ



10・24読書会は法廷劇の朗読です。


8月21日読書会は、コロナウイルス感染拡大のため中止しました。10月読書会については、感染者も減少傾向になり、9/30に緊急事態宣言解除となったため、8月に予定していた裁判朗読会を実施します。

朗読会では、以下の脚本にそって、当日の参加者の方にそれぞれの役を演じていただきます。演じたい役をみつけて、奮って立候補してください。残った時間はフリートークです。

『罪と罰』模擬法廷 金貸し老婆とその妹強盗殺人事件裁判 第五回公判(最終審理)
当日、脚本のコピーを用意します。
脚本の全文は以下のサイトに載せています。
http://dokushokai.shimohara.net/toshihikotoyasuko/kanekashi.html

第五審に出廷する人物は以下の11人です。

裁判長:確たる証拠もない事件だが、沈着冷静に審理をすすめていく。
検察官: 二人の命を奪った殺人者を追いつめることに執念を燃やす。
弁護人: 被告人の罪をなんとか軽減しようと奔走する弁護士。
被告人: ロジオン・ロマーヌイチ・ラスコーリニコフ 二十三才。きゃしゃな顔立、栗色の髪、中背よりやや高いすらりとした体つき、黒ずんだ美しい目、なかなかの美男子。いちめん穴だらけのツィンメルマン製のくたびれた丸帽子、乞食同然のひどい身なり。
証人1: ソフィヤ・セミョーノヴナ・マルメラードワ 愛称ソーニャ、マルメラードフの娘。18歳。なかなかきれいなブロンド娘。顔は青白く、痩せて小柄だが、青い目がすばらしい。
証人2 ゾシーモフ 医師。二十七、八歳。大きな太った男。むくんだ青白い顔にはきれいに剃刀をあててあり、髪は亜麻色でくせがなく、眼鏡をかけ、太い指には大きな金の指輪。粋な服装。

【検察側の新証人】
新証人1:伝書人
新証人2:商人の母親と娘 ラスコーリニコフに二十カペイカ恵む 
新証人3:内装職人 

【弁護側の新証人】 
新証人4:巡査 
新証人5:下宿の主婦ザルニーツィナ未亡人

(証言のなかで登場)
アヴドーチャ・ロマーノヴナ 愛称ドゥーニャ? 被告人の妹。兄とよく似た顔だちの美しい娘。髪は兄よりやや明るい栗色。背が高くすらりとした姿。生真面目でもの思わしげに見えるが、誇りに満ちて快活。
アルカージイ・スヴィドリガイロフ 地方の地主。中年。がっしりした体つき、ほとんど白に近い薄色の顎ひげがふさふさしている。ドゥーニャに求婚する。



ドストエフスキ―生誕200周年記念

私は、なぜドストエーフスキイを読むのか、読み続けるのか


上垣 勝
  
ドストエフスキーをかじり始めて(下)

先に、この書を貫く一本の赤い糸について書きました。また、ゾシマやアリョーシャ、また「罪と罰」のソーニャのおどおどした細い指を挙げて、彼らによって「『然り』が指し示される」と書き、この『然り』は、ドストエフスキーがエピグラフで高く掲げた、「地に落ちて死ぬ一粒の麦」(ヨハネ12:24)によって示されているとも述べました。

さて、「地に落ちて死ぬ一粒の麦」の聖句ですが、これは果たして、ゾシマやアリョーシャ、またミハイル、そして遡ればゾシマの早逝した兄マルケールのことを語っているのでしょうか。更には、子どもたちの群れに登場するコーリャもまたその中に含むのでしょうか。結論を言えば、無論そうです。しかし同時に、否でもあるでしょう。

私はドストエフスキーを齧り始めたばかりで、読み浅く、ひとこと言うのもおこまがしく赤面するのですが、ドミートリ―やイヴァンの中にも、いや、それだけでなく淫乱この上ない好色漢で酔っぱらいのでたらめな父フョードルや殺人の実行犯となったスメルジャコフの中にさえ、程度の差はあれ、この「然り」の僅かな芽生えが見え隠れするからで、ドストはそれほど一人の人間のゆらぎの内面を多面的に深層まで深くとらえて、現実に存在する人間に極めて酷似した姿で登場人物を描き、私たちを作品の中に引き込みます。彼は人間の心理が時と場合であちこちに揺らぐゆらぎの心理学を使って書いています。ついでに言えば、カチェリーナやグルーシェンカにもこの「然り」が見られ、上に述べた恥知らずなフョードルにさえドストは真理の片鱗を語らせ、スメルジャコフにさえも人類の深い苦悩を、祈りに似て吐露させるのです。それらだけを取り上げれば、そしてそれを延長して行けば、たとえ僅かであっても、1%ほどは「然り」を指し示していると言えなくはありませんし、人の苦悩の中で生まれた祈りこそ、この「然り」を指し示す業(わざ)の最たるものと言っても過言ではないでしょう。

反対に、ゾシマやアリョーシャは、他の人物よりも断然強く「然り」を指し示しはするものの、彼らがそのままで完全な「然り」であったり、「地に落ちて死ぬ一粒の麦」とは言えませんし、マルケールも完全な一粒の麦とは言えず、ただそれを「指し示している」だけに過ぎません。いや、人間にして「然り」そのものであったり、多くの実を結ぶ良い麦そのものであるのはどこにも居ないと言っていいでしょう。それらは単に真理のカケラやアナロジーに過ぎず、ドストはそれをはっきり自覚して小説を書いていたと思われます。

では、「然り」とは何か。「地に落ちて死ぬ一粒の麦」とはいったい何者か。ドストは素朴にキリストのみを考えていたに違いありません。しかも、もしキリストが歴史の中間時に再来するなら、大審問官が厳しく地上から追い払うに違いなく、一言も語ることなく放逐されるに違いないと見ています。(大審問官こそ否そのもの。やがて死すべき否です。)ですからその様な受難、十字架の苦難と死なしには、「一粒の麦」は地上に現れないと、ドストは大審問官の章で表明していると言っていいでしょう。ゆえにアリョーシャが将来、ゾシマが預言するような明白な形で「地に落ちて死ぬ一粒の麦」になるにしても、そのプロセスは並大抵な歩みでないことを予感させます。もし後編が書かれていれば、ドストは、彼を大審問官に似た人物によって殉教の死を遂げさせるようなストーリーにしたに違いないでしょう。

では、「然り」を指し示すことは無意味か。決してそうではないでしょうし、ドストもそう考えた筈です。むしろ地上で「然り」を指し示すものが一切なくなれば、地上から一切のともし火が絶たれ、完全な闇になるでしょう。だが実際には「然り」を指し示す人物は実在しており、彼はその姿を精魂を傾けて書こうとしたのでしょう。

ドストの文学はそれ故、暗い露地のような場所で生きている私たち、弱く愚かな小さな者にも、望みを与える文学、希望の文学と呼んでいいかも知れません。コロナが始まる前から現実の私たちの周りにはますます希望が無くなり、パンドラの箱のように無数の絶望の虫が後から後から飛び出て来ますが、それでも最後に希望の虫が飛び出して来るのをドストは告げようとしたと言っていいでしょう。その希望の虫とは、彼にとっては、ナザレのイエス以外ではなかったと思われます。

そのため彼は、「罪と罰」で、飲んだくれの救いようのないウジ虫のような退職官吏マルメラードフに語らせたのでしょう。

「なんでふびんがるんだ、こう貴様は言うんだな?そうだとも!ふびんがることなんか毛頭ありゃしないさ!それより磔刑にでもするがいいんだ。磔刑にしろ、磔刑にしろ、だが裁判官、磔刑にしてから憐れんでくれ!そうすればおれも、自分から進んで、磔刑を受けに行くわい。なにしろおれの求めているのは、楽しみでなく、悲しみだ。涙だからな!これおやじ、貴様は、貴様のこの小瓶が、楽しかったと思っているのか?おれはその底に悲しみを、悲しみと涙を求めたんだぞ、そしてそれを見つけて、味わったのだ。だが万人を憐れみ、万人万物がすっかりおわかりになる神様は、おれたちをもまた憐れんで下さるだろう――「意地のわるい、肺病やみの継母のために、親身でもない小さい子供たちのために、自分を売った娘はどこじゃ?人の世での自分の父を、やくざ者の酔いどれを、その無道をも恐れずに情をかけた娘はどこじゃ?」そして仰しゃるには――「来たれ!われは一度汝を許した。…一度汝を許した…今も汝の多くの罪は許されるのじゃ。汝は多く愛したゆえに。」そしておれのソーニャをお許しくださる。(中略)神は万人を裁いて、万人を許される。善人も、悪人も、賢い者も、おとなしい者も、…そしてみんなを一巡すまされると、こんどはわれわれをもお召しになって、――「出い、汝らも!」とこう仰せられるんだ。「出い、酒乱家、出い、意気地なし、出い、恥知らず!」そこでわれわれは、臆面もなく進み出て、御前に立つ。すると仰せられる。――「汝豚ども!獣の姿と、その刻印よ、しかし、汝等も来るがいい!」すると智者が言う、智者が言う――「主よ、何によって彼らを迎え給うや?」すると仰せられる。「智なる者よ、われは彼等を迎える。賢なる者よ、われは彼らを迎える。彼等の中の一人として、みずからそれに値すと思う者ないがゆえに…。」そうしてわれわれにも、両のみ手をお伸べ下さる。われわれはひれ伏して…そして泣きだす…そしてあらゆることをさとるのだ!…その時こそ、さとるのだ!誰も彼もがさとるのだ…カテリーナ・イワーノヴナも…あれもやっぱりさとるのだ…ああ主よ、汝の王国の来たらんことを!」

マルメラードフにも神の御国が与えられる!罪も咎もあるまま我に来たれと呼ぶ方が、彼をもお呼びになる。とすれば、獣の相を顔に印した者、黄泉に落とされるべき者、曲がった汚れた指を持つ彼さえ、「然り」を指し示す者とされると語りたいのでしょう。すなわち、最後には、「然り」「否」でなく、「然り」だけが実現するのです。

その時には、マルケールの言葉はリアリティを持つでしょう。「神の小鳥、喜びの小鳥、どうぞわたしをゆるしてくれ。…ああ、わたしの周囲には、こうした神の栄光が満ちみちていたのだ。…ぼくが泣くのはうれしいからです。ぼくがすべてのものにたいして罪人となるのは自分の好きです。…いったいぼくはいま天国にいるのじゃないでしょうか…。」むろんゾシマの言葉もリアリティを持ちます。「人は死んでも、その真理は滅びぬ。正しき者はこの世を去っても光は後まで残る。」かじり始めの私には、彼の文学の本質は、闇の中で光が垣間見られる密のごとく甘い文学です。そこには愛と赦し、和解を求める渇ける魂があり、私をいつまでも惹きつけます。 



「ドストエーフスキイ全作品を読む会」50周年に想う

  
 下原敏彦

典拠:江古田文学Vol.41 No.1(107)2021 特集:ドストエフスキ―生誕200周年
    江古田文学会 令和3年7月25日発行


1.ドストエフスキ―を読みつづける意義 

2021年は、ドストエフスキ―生誕200周年である。この記念すべき年に市井の愛読者が集う「ドストエーフスキイ全作品を読む会」通称・読書会は、節目よく発足50周年を迎える。祝うべき記念碑が重なったことは、ドストエフスキ―を愛読する者にとって、喜びもひとしおである。この巡り合わせの幸運に感謝したい。満開の桜の下で「ドストエフスキー、バンザイ!」と、祝杯をあげたい気分だ。しかし、残念だが、今、それはできない。世界は現在、皮肉にも、ラスコーリニコフがシベリアで見た悪夢の最中にある。2年越し現実の悪夢がつづいている。

全世界が、アジアの奥地からヨーロッパへ向かって進む、ある恐ろしい、前代未聞の疫病の犠牲となるさだめになった。/ 顕微鏡的な存在である新しい旋毛虫があらわれ、それが人間の体に寄生するのだった。(『罪と罰』江川卓訳)

2020年春からはじまった新型コロナウイルスによるパンデミック。この災難をSF的にとらえれば、こんな空想もできる。環境破壊をつづけてきた人類に対して、自然がついに反撃をはじめたのだと。現実化した新たな「前代未聞の疫病」は、これまで人類が築いてきた日常を簡単に崩壊させた。いま人々は、感染予防対策に翻弄されている。マスク、三密、自粛。そして、急がれるワクチン接種。様々な対策が行われているが、肝心なことを忘れている。それは、「人間とは何かを知ること」だ。姿なきウイルスは、人間を介してのみ感染する。人間を知らずして勝利はない。故に、人間を知ることが必須である。

人間を知る。それは、即ち己自身を知ること。故事にも「彼を知り、己を知れば、百戦危うからずや」と、ある。人類は、数千年の歴史を通して幸福と平和を追い求めてきた。そのために思想や哲学を生みだし、科学を進歩させた。しかし、それで人間は幸せになれたか。地上に楽園をつくることができたか。否、人類は、時を追って傲慢になった。戦争、虐殺、差別、破壊を繰り返した。今日、世界の現状を鑑みても歴史を振り返っても、答えは同じである。人間とは、いったい何だ。

ドストエフスキ―は18歳のとき兄への手紙に書いた。

「人間は神秘です。それは解きあてなければならないものです。もし生涯それを解きつづけたなら、時を空費したとはいえません。ぼくはこの神秘と取り組んでいます」
(1839年8月16日『書簡』米川正夫訳 )


ドストエフスキ―は、「人間の謎を解く」と宣言して作家をめざした。そして、多くの名作を残した。作品の中には、大勢の人間の心理が標本となってうごめいている。米国の作家ヘンリー・ミラーは、『南回帰線』の中で「ドストエフスキ―こそが自己の魂を切り開いて見せてくれた最初の人間であった」と書いた。ドストエフスキ―を読むことは、人間を知ることである。それはとりもなおさず己を知ることに通底する。

「ドストエーフスキイ全作品を読む会」は、作品を繰り返し読むことで、無意識のうちに人間とは何か、自己とは何かを探ろうとしている。その行為は、人類が目指す平和と幸福づくりに貢献しているともいえる。新型コロナを知り、己を知れば、百戦危うからずや。見えぬウイルスとて恐れることはない。その意味で、こじつけかもしれないが「全作品を読む会・読書会」は、疫病感染予防対策に十分なりえると信じる。ステイホームもそのチャンスになる。コロナ禍の今、50年の読書会を振り返って叫びたい。「今こそ、ドストエフスキ―を読もう」と。

とまれ、200周年と50周年、二つの記念すべき節目に立ち会えたことを、たいへんうれしく思う。祝「ドストエフスキ―生誕200周年」と、祝「ドストエーフスキイ全作品を読む会50周年」に乾杯!

2.「ドストエーフスキイ全作品を読む会」とは何か

ドストエフスキ―は、これまで長い、暗い、くどいといった悪印象で、一般読者からは敬遠されてきた。何年か前、『カラマーゾフの兄弟』の新訳が出たとき、ブームが興りベストセラーになったことがある。愛読者としては喜ばしいことだが、訳者は、インタビューで「本を買っても実際に読む人は少ないと思います。千人に一人、五千に一人かも知れません」と、答えていた。難解すぎて、読破する人は稀だというのだ。なんともお寒い限りだが、そんな現実の中で「全作品を読む会・読書会」は、50年間つづいてきた。IT時代、読書する人が激減するなかにあって快挙といえる。あらためて、どんな読書会かふりかえってみよう。

この読書会を端的に紹介した新聞記事がある。2019年9月12日(木)東京新聞夕刊【大波小波】欄に「風変わりな読書会」と題して紹介された。下記は、その抜粋記事である。
 
作品の世界にとり憑(つ)かれる読書は誰でも体験する。作家の強い磁力により、48年間も続く風変わりな市民の読書会がある。会則なし、代表は置かず事務連絡だけで、誰でも参加可能だ。2カ月ごとの会に参加した者が、その場限りの会員である。「ドストエーフスキイ全作品を読む会」(読書会)という。参加者は、「私の読み」や自分にとっての衝撃を熱っぽく披露する。

この記事から早2年、「全作品を読む会・読書会」は、コロナ禍の嵐の中で50周年を迎えた。まるで人類救済を担ったように。その概略を紹介する。

「ドストエーフスキイ全作品を読む会」は、1971年4月14日(水)に第1回目をスタートさせた。以後、隔月年六回のペースで、昭和、平成、令和と時代を継いで開催してきた。2021年2月読書会で、約300回の開催をかぞえる。

近年の活動状況はおよそ次のようである。参加者は20名前後。男女比は、6対4の割合で男性がやや多い。当初「定年になったので」を動機とする熟年男性が目立っていたが、ネット時代になると変化が現れた。ホームページを見て参加する若者たちが増え始めた。最近の参加者の年齢は、20代から後期高齢者と幅広い。

およそ10年間に1サイクルの周期で、5大長編『罪と罰』『白痴』『悪霊』『未成年』『カラマーゾフの兄弟』を中心にいくつかの中短編と『書簡』、『作家の日記』などの作品群を読み切っている。現在、5サイクル終盤であるから、初回からの参加者は、同じ作品を5度、読んできたことになる。

一人の作家の作品を繰り返し読む。時間の無駄ではないか、マンネリ化するのでは、そんな指摘もあった。が、この50年間参加してみて、その心配は杞憂だった。いつのときでも、はじめて読むような新鮮な感動に出会えた。登場人物たちとの再会が懐かしかった。読むたびに違った発見があった。

3.「ドストエーフスキイの会」と「全作品を読む会・読書会」

この風変わりな読書会の誕生をふりかえってみよう。1969年2月、「ドストエーフスキイの会」が発足した。「ドストエーフスキイの会」という名称は、米川正夫訳の『ドストエーフスキイ全集』に倣ったためである。研究者と市民の融和を目指し、「誰でも自由に参加でき、発言できる開かれた場」を根本理念に掲げた。主たる活動として、定例発表会、会報発行、会誌発行、公開講演会、国際交流 文献紹介などが計画された。

1971年はドストエフスキー生誕150周年で、秋に二つの大きなイベントが行われた。10月に「ドストエーフスキイの会」と「ロシア手帖の会」共催で記念講演会、11月に「ドストエーフスキイの会」単独で、記念シンポジウムが開催され、どちらも大成功であった。シンポジウムは参加者200名、延々8時間でも終わらず、第3部を次の例会に持ち越したほどだった。例会会場の新宿・東京厚生年金会館の一室は、毎回大入り満員、立ち見がでるほどの盛況だった。順風満帆な船出に勢いづいた会員の中から、大きな作品だけでなく、ドストエフスキ―の全作品を取り上げて考察していきたいという提案がなされた。有志が集まり、早速読書会設立計画案ができた。「ドストエーフスキイ全作品を読む会」の誕生である。

「ドストエーフスキイ全作品を読む会」へのおさそい(会報1971.3.19)

私達の会も、今年で三年目を迎えましたが、最近、例会以外にも小グループの集まりをもって、お互いの話し合いを深めていきたいという声をあちこちで聞きます。これまでの報告をふりかえってみますと、その対象は、どうしても『罪と罰』『カラマーゾフの兄弟』などの後期の長編に集中しがちで、初期の作品といえば、わずかに処女作『貧しき人々』がとりあげられたくらいのものです。しかし、一般的には、あまりとり上げて論じられることのない作品の中にもドストエーフスキイ独自の注目すべき作品は少なくありません。そこで私達は、『貧しき人々』から初期の中短編を経て、『カラマーゾフの兄弟』『作家の日記』にいたる全作品を読む会をつくり、そのなかでひとつひとつ作品を検討していくことにしました。


かくして、1971年3月に発足した読書会は、4月14日に、第1回目をスタートさせた。定期的な開催を実施するための会場探しが急務になった。早稲田大学の文学部比較文学研究室、池袋の喫茶店、(70年代、80年代)豊島区勤労福祉会館(90年代)、東京芸術劇場小会議室(2000年代から現在まで)と、場所を移しながら、途切れることなく続いた。70~80年代の会場だった池袋の名曲喫茶「コンサートホール」三階は、参加者の気に入りの場所だったが、インベーダーハウスに乗っ取られて消滅し、急遽別の喫茶店を探すということもあった。

時が移り、参加者の入れ替わりと共に参加の条件はなくなり、研究的な側面は薄れ、次第にゆるい集まりと化していった。しかしながら、常連参加者の多くは「ドストエーフスキイの会・例会」にも参加しており、そこで「報告」を行い、その成果を読書会でも共有している。現在の読書会へのおさそいは、次のようである。

…会則やむずかしい手続きはありません。当日参加した人が当日限りの会員です。ドストエフスキーが好きで、関心を持っている方ならどなたでも歓迎です。お知らせとして「読書会通信」をお送りしています。会の運営及び通信の発行は会場費千円とカンパで賄っています。「この場面に感動した」「この人物が好き」「ドストエフスキーと私」「ドストエフスキーと現代」、などなど語り合いましょう。事前の参加申し込みは必要ありません。

4.読書会50周年をふりかえって 
 
この50年、国内外では大小様々な出来事・事件があった。ドストエフスキ―の予言と警鐘を色濃く感じさせる事件も多かった。そんな中でも、読書会は変わることなく開催された。筆者の思い出を基に記してみよう。

1971年4月14日 「全作品を読む会」第1回。作品は『貧しき人々』参加者12名。
1974年3月25日 筆者「ドストエーフスキイの会」に入会。
1974年6月  読書会報告「ロシア文学について土壌主義宣言」。筆者参加。以後、現在に至るまでほぼ毎回参加。多くの読書会仲間の知己を得た。
1995年4月  読書会会場が東京芸術劇場小会議室に定着。
2000年2月  30周年記念特集として「私はなぜ、ドストエフスキ―を読むのか、読みつづけるのか」を募集。
2000年10月 「全作品を読む会」4サイクル目スタート。
2010年10月 「全作品を読む会」5サイクル目スタート。
2019年2月  4月の読書会は緊急事態宣言下で東京芸術劇場閉鎖の為中止となった。
2020年2月  生誕200周年を記念して「私は、なぜドストエフスキ―を読むのか、読みつづけるのか 2021」の募集開始。
2021年2月20日(第300回記念読書会)「大審問官」の章を参加者有志が朗読。好評だった。コロナ渦期間の開催における参加者は11~15名であった。

この半世紀、読書会が参加、または主催した大きなイベントで記憶に残るものをあげてみた。

1999年6月5日  東京芸術劇場「ドストエーフスキイの会」主催 会発足30周年記念シンポジュウム〈ドストエフスキ―で現代を考える〉筆者も報告した。
2000年8月22日 千葉大学欅会館「国際ドストエフスキ―研究集会」主催「ドストエーフスキイの会」〈二一世紀人類の課題とドストエフスキ―〉
2004年11月27日 東京芸術劇場、「ドストエーフスキイの会」主催、ドストエフスキ―の曾孫ドミトリー氏の講演〈曾孫として語る文豪とその子孫〉
2006年4月8日  東京芸術劇場、「ドストエーフスキイ全作品を読む会」主催の講演会。亀山郁夫氏「ドストエフスキ―と〈父殺し〉の深層」
2021年2月28日 「日本ドストエフスキ―協会」主催〈ドストエフスキ―生誕200周年記念シンポジュウム〉がズームで開催され、筆者も参加した。

1971年4月~2021年2月に及ぶ読書会の長い歴史のなかでメディアに4回とりあげられた。

朝日新聞「私の視点」 下原敏彦「フセイン拘束『罪と罰』で正当性立証か」(2003・12・27)
NHKテレビ「おはよう日本」 読書会の紹介(2007・8・25)
東京新聞「文化欄」 「本を語るひととき 読書会人気じわり」(2008.5.1)
東京新聞「大波小波」「風変わりな読書会」(2019・9・12) 

読書会合宿やメンバーとのハイキングも忘れられない楽しい思い出である。

読書会合宿:那須塩原温泉・箱根温泉・群馬四万温泉・信州諏訪温泉・信州昼神温泉・鬼怒川温泉
軽井沢合宿で米川哲夫氏の別荘訪問(1974・8・24)
ハイキング:塩山の滝めぐり・高尾山・青梅御嶽山・小仏峠・上野公園桜見物・石神井公園散策・谷津干潟散策

5.読書会と私

1971年4月、第1回読書会から2021年2月まで300回余の読書会。まさに光陰矢のごとしであった、発足当時二十代だった筆者も、いまは後期高齢者目前である。

筆者とドストエフスキ―及び読書会との関わりは、1969年頃、『貧しき人々』と出会ったことにある。24歳だった。きっかけは、椎名麟三『深夜の酒宴』のあとがきだった。ドストエフスキ―のデビュー秘話が載っていた。文豪の処女作を最初に読んだ二人の若者が感動のあまり未明の街にとび出していったという有名な逸話である。この話は、はたして真実か。その好奇心から木村浩訳『貧しき人々』を買った。なんの変哲もない書簡小説にみえた。しかし、ロシア随一の評論家も絶賛したとある。本当だろうか。いずれにせよ、ドストエフスキ―は、この一冊で世界文学線上にいっきに浮上した。それは事実だ。
 
 …彼ら(二人の友人)は前の晩、私の原稿を取り出し、どんなものか試しに読んでみようということになった。…ところが十ページ読むと、もう十ページ読もうということになり、それからはもうやめられなくなって、とうとう朝まで一晩中声を出して読みつづけたというのである。読み終えると、これから直ぐドストエフスキ―のところへ行こうということに二人とも意見が一致した… (ドストエフスキ―『作家の日記』1877年)
 
読了して、このデビュー秘話はまぎれもない真実であると納得した。初老の小役人と、薄倖な娘の手紙交換。こんなものが小説になるのかと疑っていたが、気が付くと我を忘れて読み進めていた。ドストエフスキ―を全部読まなければ、そんな急いた気持ちがわきあがった。なぜそんな気持ちになったのか。それはいまでも判然としないが、それが筆者を読書会に参加させる動機になったのは明白である。

ある秋の日、時間潰しに寄った中野の知人の家で、何気なく見た朝日新聞の催し物蘭に目
がいった。「ドストエーフスキイの会 第11回例会のお知らせ 1970年10月27日 午後6時~9時)。ドストエーフスキイという文字が、私を見知らぬ土地で旧知の友に出会ったような、なつかしい気持にさせた。行ってみよう。強くそう思った。

はじめて参加した「ドストエーフスキイの会」。こんなに大勢の人がドストエフスキ―を知っている。あの作品『貧しき人々』を読んでいる。そう思うと、喜びと感動で舞い上がった。だが、その時、報告された『カラマーゾフの兄弟』は、まだ読んでなかった。「全作品を読む会」が始まることを知って参加したいと思った。

1971年4月14日 第1回「全作品を読む会」に参加した。作品は『貧しき人々』。例会の報告は理解できなかったが、『貧しき人々』なら、熱も冷めていなかったのでわかると思った。逸話にある『貧しき人々』を読んで熱狂した二人の若者のような人たちが集まってくるに違いない、そんな期待と興味に胸が膨らんだ。だが、実際は報告者の深い考察や分析に、目を白黒させるばかりだった。わが身の浅薄を思い知った。第二回の読書会も懲りずに参加してみた。作品『分身』は読んでいたが、皆の話にはついて行けなかった。これ以後、松本の信州大学病院で母の看護のため長期欠席することになった。

1995年から読書会の世話人をするようになり、同年『ミニ通信』(後に『読書会通信』)
の発行を開始。およそ100人に送付。この年の四月読書会から、会場が東京芸術劇場小会
議室に定着し、会場探しの苦労からは解放された。代わりに、毎回、会場予約のための抽選が新たな課題になった。

1999年6月5日  東京芸術劇場にて「ドストエーフスキイの会」主催の会発足30周年記念シンポジュウムが開催された。筆者も「透明な存在の正体」を報告した。
2004年11月27日  東京芸術劇場 ドストエフスキ―の曾孫ドミトリー氏の講演。
2006年4月8日  亀山郁夫氏の講演「ドストエフスキ―と〈父殺し〉の深層」。お二人を囲んだ懇親会も忘れ難い思い出として残っている。

6.忘れえぬ人々

50周年をふりかえるといろんな人たちが思いだされる。なかでも亡くなった人たちがよりいっそう懐かしい。

・新美しづ子さん 書道家で歌人。80歳で読書会に来られるようになりドストエフスキ―の再読をはじめられた。百歳まで、読書会に、また二次会にも楽しげに参加されていた。昨年百二歳で亡くなった。最後まで読書会の仲間をなつかしんでおられた。
・田中幸治さん 米川正夫先生を師と仰いでおられた。田中さんのドストエフスキー理解は「仏教と剣道」に通底していた。「やっと今それが理解できます」と、伝えたい。
・平哲夫さん おだやかな雰囲気ながら、沖縄に長く赴任し泡盛で鍛えたという酒豪だった。「小生、心臓と格闘中です。何としても戦い抜いてまた読書会に参加致したく念じています」という手紙が最後になった。
・岡村圭太さん 眼鏡の奥に光る鋭い眼差し、古武士然とした風貌、歯に絹きせぬ小気味良いだみ声。それでいて笑い顔は実に人懐こかった。多忙なサラリーマン生活を終え、残りの人生の目標を、ドストエフスキー再読と定め、人一倍熱心に参加されていた矢先の死だった。
・小山田チカエさん 我が家にはチカエさんの絵が3点あり毎日ながめている。夢の中に出てきそうなユニークな人だった。読書会合宿の箱根の宿で聞いた「悲しい酒」は圧巻だった。
・高橋由紀子さん 那須塩原、箱根、群馬四万、鬼怒川。温泉合宿を一緒に楽しんだ。明るく面白い一方で、どこかしみじみした人だった。
・釘本秀雄さん 筆者の手元に「イワン・カラマーゾフの指標 1999.12.11」という手書きの論文が残っている。B4サイズの用紙2段組み12枚に、美しい筆跡でびっしりと書かれている。内容は、「不死がなければ・・・」「大審問官 その実像と虚像」。深い思索をしておられた。じかに報告が聞けなかったのが残念だ。
・新谷敬三郎先生 90年代までの読書会は、懇親会も含めてたいてい参加されていた。研究者には厳しく、一般読者にはやさしかった。居眠りしているようにみえても、時おりうなずかれることで、皆は活気づいた。新谷先生の「一粒の麦」は読書会の土壌に深く根づいたと信じている。(思いだしたら枚挙にいとまがない・・・)
 
ドストエーフスキイ全作品を読む会・読書会」50年の歳月。そこに映る光景は、筆者の人生でもある。50周年から今ふたたびの一歩が始まる。道はないが、ドストエフスキ―を澪つくしとして、新たな旅に踏み出したい。人間の謎を探る旅に。「ドストエーフスキイ全作品を読む会・読書会」は不滅である。

拝啓、ドストエフスキ―殿、楽しい日々をありがとう。生誕200周年おめでとう。これからもどうぞよろしく。



8・21読書会報告


コロナ感染拡大のため中止しました。模擬法廷口演は10月読書会に延期
               
コロナウイルスの第5波感染爆発により、東京都は施行中の緊急事態宣言を9月30日まで延長しました。不要不急の外出、集会自粛の要請がありました。これを受けて、8月読書会は、中止することにしました。ぎりぎりの選択でした。なお、中止お知らせは、HPにアップするとともに「読書会通信187」にも同封しました。

参加を希望されていた皆様には、お詫び申し上げます。



読書会メンバーの著書


梶原公子著『コミュニティユニオン』2021.8.1 あっぷる出版社

副題《沈黙する労働者とほくそ笑む企業》は思想的だが内容は、職場で困っている人たちに
ついてのルポ。ドストエフスキ―『作家の日記』の人生相談を想起させる。形骸化した組合に変わって、会社の理不尽を裁く。現代の必殺仕事人たちの記録。




連 載 ドストエフスキー体験」をめぐる群像

(第97回)三島没後50年が廻り、ドストエフスキー生誕200年の「感想」
③ 小林vs.三島『金閣寺』対談「美のかたち」(s.32)とドストエフスキー

福井勝也

当方が前回の『金閣寺』対談「美のかたち」に注目したのは、もう一つの文脈がある。それは、小林の『金閣寺』=動機小説、抒情詩説には、その対局にある作品として、ドストエフスキーの『罪と罰』が、非動機小説、正真正銘の小説として対置されていたことによる。

この時期の小林は、既に『モオツァアルト』(s.22)や『ゴッホの手紙』(s.27)を刊行し、「『罪と罰』についてⅡ」(s.23.11月)さらには「『白痴』についてⅡ」(s.27.5月-s.28.1月)も発表していた。そして三島が『金閣寺』を刊行した昭和31年には、「近代絵画」(1月から翌年2月まで)と「ドストエフスキイ七十五年祭における講演」(8-10月)が丁度連載されていた。最後の講演録は、ドストエフスキー死後75年(1956年)という年回りの意味不明に触れ、ロシア文学者の米川正夫氏から依頼されて「感想」を述べるものだと初めに断っている。当時ソ連ではドストエフスキーが解禁になり、そのお祭りもあるとの話もあり、発表のタイミングを感じさせられた。そしてその内容は、長文の本格的ドストエフスキー論で、歴史的なロシア・ソビエト文学論の一部として読める。いずれにしても、戦前からずっと書き継がれ、戦中に既に一度纏められたと伝わる小林の幻のドストエフスキー論、それが戦後のこの時期新たな成果になって既に評価されていたことが分かる。

この点で『金閣寺』によって戦後小説家としての地歩を固めたとされる三島に対し、この時期の小林こそ戦後批評家として、その充実期を既に迎えていたのだった。それを代表する批評文が「『罪と罰』についてⅡ」であった。小林が三島に説く世界文学『罪と罰』の特徴こそ、戦前から書き継いだドストエフスキー論のエッセンス(核心)であった。それは、ドストエフスキーが「小説家」として自身を確立させるに到った道筋、その文体的変遷(=文学的成長)を語ってみせるものだった。

このことは『仮面の告白』(s.24)で派手な戦後デビューを果たしながら、なお未だその小説家としては発展途上にあった三島由紀夫にとっても重要な示唆を与えるものでなかったか。同時にそれは、日本の近代小説が自然主義的な「私小説」という独自な達成を遂げた後も、なお世界文学史的な「特殊性」の指摘される中で、独自の達成を三島に期待したものではなかったか。いずれにしても戦後のこの時期、批評家小林と小説家三島の間で行われた「対談・美のかたち」は、現代小説に新たな文体を自ら切り開いたドストエフスキーという作家の実践を「鏡」にした名対談であったと思う。小林はそのことを、ドストエフスキーの『地下室の手記』から『罪と罰』の文体的変遷の問題として、既に「『罪と罰』についてⅡ」で書き記していた。小林は「対談」で、その要諦を三島に説いたことになる。今日においても改めて読み直すべき内容と考える。以下に引用する(下線部分は筆者による、注)。

小林 (‥‥)あそこで(『罪と罰』で、注)ドストエフスキイが、非常に考えたことはね、おそらく初めはコンフェッション(告白体)で書こうと思った、それでやろうと思って、草稿もあるんだよ。そいつがダメになったっていうことは、コンフェッションで書けば、結局、小説にならんとおもったんだよ。それでよしたんだね。で、あれは倫理問題なんだけど、結局は一つの倫理的な或る観念に憑かれたキチガイのコンフェッションというようなものは、これは小説にならないんだよ。それで仕方がないから、こんどは外から書いたんだ、リアリズムでね。リアリズムで書くと、コンフェッションはその主観的意味を失う事になる。それに、主人公もコンフェッションを頼みに出来るのは殺人までだ。殺してしまうと、もう孤独なコンフェッションだけでは生きられない。こんどは世間に生きなきゃならん場面が出てくるわけだろう。そこに小説のモティーフが生れる、というふうに、本能的に考えたわけだな。きみの小説はその逆だ。コンフェッションの主観的意味の強調です、全然。それだからね、あそこにいろいろの人が出て来るけども、あれはあの主人公のコンフェッションの世界の中の人だろう。
三島 はあ、はあ、そうです。
小林 あの人がほんとにつきあった人じゃないね。それだから、どう言ったらいいか‥。
三島 ドラマが成立しない。
小林 しない。だから抒情詩になるわけだよ。無論、作者はそういう意図で書いたんだと思うんだよ。だから抒情的には非常に美しいものが、たくさんあるんだよ。ありすぎるくらいあるね。ぼくはあれを読んでね、率直に言うけどね、きみの中で恐るべきものがあるとすれば、きみの才能だね。
三島 ‥‥‥。(笑)
小林 つまり、あの人は才能だけだっていうことを言うだろう。何かほかのものがないっていう、才能ね、そういう才能が、君の様に並はずれてあると、ありすぎると何かヘンな力が現れて来るんだよ。ぼくにはそれが魅力だった。あのコンコンとして出てくるイメージの発明さ。他に、君はいらないでしょ、何んにも。
三島 ええ、何んにも。
小林 つまりリアリズムってものを避けてね、実体をどうしようというような事は止めてね。何でもかんでも、きみの頭から発明しようとしたもんでしょ。
三島 ええ。
小林 その才能さ。その才能の過剰だよ。これが面白い。面白いっていうのは、いい意味だよ。ぼくはだから退屈しなかった、ちっとも。たしかに、きみは人を乗せた、乗せせてどんどん運んでいったよ。そういうものの中に、ぼくは力を認めたね。そういうように感じて読んだんだよ。(‥‥‥‥)。


ここまでのひとまとまり部分を引用してみて、三島の遺作となった『対談集 源泉の感情』(河出文庫版.2006)の「解説」を書いた藤田氏引用の言葉「(‥‥)以下の対話は小林秀雄の独壇場となる。(‥‥)」は、確かにその通りだと感じられるかもしれない。しかしここで小林は、無論三島の「小説家失格」を宣言しているわけではなかった。むしろその発言は、「抒情詩」のイメージを溢れさせる三島という芸術家の「才能」あるいは「才能の過剰」を指摘して止まないものであった。この点では、小林は『金閣寺』を書いた三島由紀夫を最大限に評価していたことは確実だろう。

しかし同時に、三島という作家の核心「リアリズムってものを避けて、実体をどうしようというような事は止めて、何でもかんでも、きみの頭から発明しようと」するやり方も指摘して、その才能の本質をズバリ見破っている。もしかすると、三島は、この表現に衝撃を受けたのではなかったか。そして、小林のこの三島の「才能の過剰」という本質が、さらに彼の運命を左右する可能性まで予言することになる。すなわち「そういう才能が、君の様に並はずれてあると、ありすぎると何かヘンな力が現れて来るんだよ。」と。そしてさらに、この言葉は「対談」最後の二人のやり取りへと直結していた。

小林 (‥‥)ほんとに君は才能の魔だね。堕ちてもいいんだ。ひるんだらダメですよ。
三島 いつ落ちるか判らない、馬にのってるようなもんだな。
小林 才能のために身を誤ったら、本望じゃないか。ほんとに退屈しなかった、読んでて。才能の魔ですよ。由良川で金閣は焼かなけりゃならんと決心するまでね、あそこはサワリだ。だけども、殺すのを忘れたなんていうことは、これはいけませんよ。作者としていけないよ。だけど、まあ、実際わすれそうな小説だよ。(笑)
三島 (笑いながら)結論が出ちゃった。

 
この「対談」のエンディングを最初に読み終わった時「小林秀雄、畏るべし」との衝撃が改めて襲ってきた。無論この時、小林も三島も、これから約十四年後(s.45.11.25)に生起する「出来事」を予見しうる材料など何も持ち合わせていなかったはずだ。それでも、小林は三島由紀夫という作家の宿命を、その担わされた人間の星を見抜いていたとしか感じられなかった。そしてこのエンディングに係わる部分は、これ以前に小林が既に直感的に述べている前段の部分があることに気が付いた。その部分も遡って引用してみよう。

小林 小説の定義次第ですけどね。そうなると、いつも困る問題になっちゃうなあ。だから、あの中に出てくる人間だって、妙なビッコの人間だって、それからあの妙な女だって、あの小説で何んにも書けていないし、実在感というものがちっともない、そういうのは見方によるんでね、一種の抒情詩みたいなふうに読めば、あれ一つ一つに何か鮮やかなイメージがあるだろう。ぼくはね、あなたは何か新しい横光利一みたいな所があると思うね。感じ方とか才能の性質みたいなものがね、そんなふうにかんじたね。あれはどうして終いに死のうと思ったの。
三島 あれはちょっと実録にとらわれたんです。実録は死のうと思って、薬を買ったり何かしたんです。小刀も刃渡り何寸ということも実録通り。‥‥どうして死のうと思ったのかなあ。(笑)
小林 そりゃあ、死んじまえばよかったんだと思うけどね。あんた、死ぬまで書かなかったろう。どうして殺さなかったのかね、あの人を。
三島 はあ、小説で人を殺した経験は大分ありますが、どうも人を殺すのはむつかしい。
小林 小説では簡単だよ。金閣寺を焼くらい簡単だよ。
三島 生かすべき所で殺しちゃったり、殺すべき所で生かしちゃって、計画が齟齬したということがありますね。あれは殺しちゃったほがよかったんですね。
小林 でも、あれは独白だからね、生きてなきゃ書けないような体裁になってるから、困っちゃったんだろうね。(笑)
三島 ご本人は今年の春、死んだんですよ。
小林 自殺したんですか。
三島 いえ、もともと、ちょっと胸が悪かったんですね。(‥‥)そうしてだんだん精神状態がおかしくなりましてね(‥‥)分裂症(‥‥)病監へ入って、挙げ句の果てに仮釈放になって、今年の春、死んで‥‥。でもぼく、人間がこれから生きようとするとき牢屋しかない、というのが、ちょっと狙いだったんです。ジャン・ジュネの小説なんか、牢屋の中だけで生きているでしょう。(‥‥)。


幾つかの問題が露出している。ここでは、『金閣寺』の主人公である溝口(=私)が小説の最後で語る一節が注目される。この時期、三島には物語の筋立より執着する生があった。
「ポケットをさぐると、小刀とに包んだカルモチンの瓶とが出て来た。それを谷底めがけて投げ捨てた。(改行)別のポケットのが手に触れた。私は煙草をんだ。一ト

仕事終えて一服している人がよくそう思うように、生きようと私は思った。」

『金閣寺』という小説は、周知のとおりモデル小説で、溝口という主人公の行動は、林養賢という金閣寺を実際に焼いた犯人のそれとほぼ重なっている。余り詳しく調べていないように装っているが、実は三島はしっかりと実録を押さえていたようだ。最初に引用した対話で、小林は、「あれは倫理問題なんだけど、結局は一つの倫理的な或る観念に憑かれたキチガイのコンフェッションというようなものは、これは小説にならないんだよ。」と『罪と罰』の草稿について語っていた。そして金閣の焼かれた年に小林自身が、「金閣焼亡」(s.25)という長目の本格的エッセイを既に書いていて、そこには「金閣放火事件は、現代に於ける、まことに象徴的な事件と考えた」とある。事件の背景も調べていて「狂人という閉された精神には、他人への信頼が欠けている。他人というものが、そもそも存在しない。(‥‥)果てしのない自己との会話である。(‥‥)この孤独な演技者は、拍手も喝采もしてくれない自己という観客の前で、いつも演技を繰返さねばならぬ。」と意味深なことを記していた。三島自身も、この小林のエッセイを読んでいたはずで、『金閣寺』執筆への影響も推測されよう。この「対談」もそのような経緯から設定されたものと推察される。おそらく、小林の「対談」での三島への語りかけも、「金閣焼亡」を書いた時点と変わらぬ思いからのものであったはずだ。そしてその元の考えは、小林の『罪と罰』論におけるドストエフスキー(作者)とラスコーリニコフ(主人公)の関係が、その前提になったと推断できる。

これに対して三島は、それが定義上の「小説」か「抒情詩」であるかにかかわらず、『金閣寺』を書き切ることに賭けたのではなかったか。実は、この『金閣寺』の主人公溝口のモデルであった林養賢は、犯行当時は分裂病ではなかったが、その後収監中に分裂病(統合失調症)を発症した事実がある。つまり正確には、犯行時には「キチガイ」でなかった。

これらのことを、林養賢と三島由紀夫の二人に新たに焦点をあてた新著『金閣は焼かなければならぬ』によって教えられた。この著作は、精神科医の内海健氏が三島没後50年の昨年(2020.6)刊行された評論だが、小林と三島の「対談」と交錯するものを感じさせられながら読んだ。内海氏は、著書エピローグの「狂気の原像」で次のように書いている。
 
「(‥‥)三島は『金閣寺』の執筆に際して、(‥‥)骨格については、ほぼ事実経過を踏襲することにした。そして「私」を主人公に据えたのである。きわめて異例のことであるが、そして彼自身自覚していたかどうかはわからぬが、三島はここで「他者」を、より正確に言うなら、主体としての他者を描こうとしたのである。」

そして結果として、溝口(≒林養賢)と三島由紀夫が邂逅する一点を次のように指摘している。「溝口は三島の分身ではない。そして単なる役柄でもない。主体として、そして主体としての他者として描かれている。ここで三島は、ナルシシズムの閉域の外へと踏み出した。みずからの隔離を突破し、ナルシシズムを破砕するという、三島の筆の常ならぬ挙措は、金閣放火という行為と折り重なる。対照的な、ある意味で相反するといってよい精神病理をもちながら、この一点において、二人は邂逅した。
 
この件を読んだ時、内海氏は、「対談」での小林から三島への<問いかけに対する応答>としてこの批評文を書かれたように思えた。しかし小林は、このような作品の達成まで含めて、三島の「才能」を最大限評価したのではなかったかとも感じた。しかしここにはさらに、もう一つの問題、小林による三島の宿命への洞察という問題が再度絡んでくる。

この問題をここで再説するうえで、その三島の「才能」を見抜いた小林は、三島に重ねて横光利一という作家について語ってみせる。それは「感じ方とか才能の性質みたいなもの」

二人の相似感覚から来ているようだ。しかし小林は、何かそれ以上の「才能の魔」が導くこの二人の作家の運命の類似も感じていたのではないか。敏感な三島が、そのことに反応するかのように気が付いて、前の会話から少し間を置いて、不思議な言葉が三島の側から次のように飛び出してくる。

三島 さっき横光さんの話が出ましたけども、小林さんが、『機械』をお褒めになって、そのあとで、もうダメだ、と仰しゃったんで、横光さん、すっかりダメになっちゃたんですってね。
小林 ぼくはダメだなんて言わない。ただね、あたしア 横光さんていう、人間が好きだったしね、立派な人なんでね、それがあんな道をどんどんいくでしょ、あんまりつらい気がして、ついていけなくなっちゃったんだよ。ほんとはああいう才能じゃない才能が、そっちのほうへいっちゃうのが、ぼくはつらくってね、読んでいけなくなっちゃったんだ。それであのへんから読むのやめちゃった。だからあとは知りません、全然。今だに読まないしね、知らないんです。


これは不思議な、そして既視感が漂う、何かが炙り出て来そうなやり取りだと思う。まさか三島は、横光の『機械』と自分の『金閣寺』への小林の評価を重ねていたわけでもないだろうが‥‥。だがもしそうだとすれば、その後で自分が横光のように小林にダメ出しされることを危惧しているかのようにも読める。そして不気味なのは、晩年三島の不穏な片鱗が未だどこにも無い?この時期に、小林は横光に託して三島自身の運命を語っていたように読めてしまうことだ。その発言を誘導したのが、三島自身であった不思議に、その言葉に潜む魔と言ったものを感じる。

横光は戦犯視されるなかで戦後間もなく病死(s.22)することになる。その死後も戦犯追及の時流が続くなかで、三島は、日本浪漫派の詩人伊東静雄に宛てた手紙の中で次のように書いていた。「横光利一氏の死に対してあらゆる非礼と冒涜がつづけられてゐます。私の愛するものがそろひもそろつてこのやうに踏み躙られてゐる場所でどうしてのびのびと呼吸することなどできませう」(s23.3.23付書簡)
 
さらに、前に引用した三島が中村との「対談 人間と文学」で、川端康成と比較して横光利一に関して言及していたことがあった。それは、あの小林との「決定的対面」(s.42.5)を洩らした同じ「対談」のなかの発言であった。

「横光はそれ(川端と逆の文学方法、筆者注)を徹底的に愚直な方法でやった。」「あんな誠実な人はいないな。横光さんという人は好きです。ほんとに誠実だ。あの人は自分のエロティシズムの効用に全く無知だった。川端さんと逆です。」「あんなにすべてに無意識だった人はいない」(1967.7.10)

何か、前掲引用の小林の横光評の思いが三島に乗り移っているように感じられないか。やはり、ここでも小林の直感が何かを呼び寄せ、三島が小林の掌の上を歩んで来たことを告白しているように聞こえる。横光と三島は、小林に言わせると、ある日本文化の歴史にあって繰り返される「宿命」を踏襲する者たちであったということか。そしてこのことは、日本の歴史を熟知した者たち(この点で、小林の他に保田輿重郎が連想される)の過去への凝視が、未来の「出来事」をイメージする力を与えたということなのだろうか。(2021.10.6)



投 稿
 

ラスコーリニコフは君主か

富岡太郎

ドストエフスキ―の小説『罪と罰』では、悪い金持ちから金を没収して善行を行うというラスコーリニコフの「哲学」が描かれている。善行とは社会を改良することであり、多数の貧民を救うことである。善行のためには金が必要なので金持ちを殺害するというのである。
本来、金持ちから財産を没収して貧民に分配する役割は、君主の役割である。そして君主が君主の地位にいるのは国民の総意である。

ラスコーリニコフは、自分の理性を君主の地位に格上げしている。それはうぬぼれである。またラスコーリニコフは死刑を実行しているのであり、やはりうぬぼれている。人類を質的に高めるエリートは特権を持つという「哲学」は差別感情であり、自己正当化の罪である。
その罪は、一人の貧しい女性に裁かれる。ソーニャは殺人者に謝罪しろと命じる。これほど恐ろしい罰は考えられない。インテリの罪。



展 示
 

清水正・批評の軌跡 展示会場 日本大学芸術学部芸術資料館
ドストエフスキ―生誕200周年に寄せて 2021年9月1日(水)~24日(金)

9月21日(火)午後14時40分~17時 清水正オンライン講義『罪と罰』
主催 日本大学芸術学部芸術資料館 協力 ドストエフスキ―文学記念博物館

冊 子 

『清水正・批評の軌跡 -ドストエフスキ―生誕200周年に寄せて―』(新生社)2021.8.31

映 画  

「市民ケーン」と『カラマーゾフの兄弟』(編集室)

映画観賞でドストエフスキ―作品を想起することがある。1941年公開の名画「市民ケーン(オーソン・ウェルズ監督・主演)」も、その一つだ。権力をほしいままにして生きた新聞王ケーンが一人孤独に死んだ。臨終に「バラのつぼみ」の言葉を残して。物語は、その「バラのつぼみ」とは何かを探す話だ。観ていて、『カラマーゾフの兄弟』を思いだした。

父殺しの廉で裁判にかけられるドミートリー。彼には大切な思い出がある。一袋のくるみがそれだ。だが、そのことを知るのはミーチャ自身だけ…。

「バラのつぼみ」とは何か。新聞王にとって、かけがえのないもの。子どものころ雪の日母と別れた日、そり遊びしたそりだった。だが、だれも気づくことなく焼却される。



ドストエフスキ―情報

  
亀山郁夫著『ドストエフスキー 黒い言葉』(集英社新書2021.7.21)
「生誕200年、ドストエフスキーが贈る言葉」「黒は、豊饒の証である」 

高橋誠一郎著 「堀田善衛とドストエフスキ―」
ロシア文化通信「群GUN第58号」2021.7.31 群像社発行
「危機の時代に対する作家の向きあい方」



お知らせ


月刊誌 「武道」2021年9月号(日本武道館発行)随筆欄
     下原敏彦「オンボロ道場奮戦記」

新 聞 朝日新聞「声」欄 2021年10月10日  
     下原敏彦「コロナと共生」

シンポジウム 第18回国際ドストエフスキー協会(IDS)シンポジウム
https://www.ids2022n.jp/ コロナ状況で下記日程に延期になりました。
開催日時;2022年8月22日~8月27日
開催場所;名古屋外国語大学

公 演 TOKYO NOVYI・ART(トウキョウ ノーヴイ・アート)
ゴーゴリの『検察官』上演します
月 日 2021年12月4日(土)、5日(日)
会 場 東中野梅若能楽堂
連絡:中村恵子 090-1530-7490



編集室

ドストエフスキ―生誕200周年記念原稿募集
「私は、なぜドストエフスキ―を読むのか、読みつづけるのか」常時、受付ます。

カンパのお願いとお礼

年6回の読書会と会紙「読書会通信」は、皆様の参加とご支援でつづいております。開催・発行にご協力くださる方は下記の振込み先によろしくお願いします。(一口千円です)

郵便口座名・「読書会通信」 番号・00160-0-48024 

2021年8月7日~2021年10月10日までにカンパくださいました皆様には、この場をかりて心よりお礼申し上げます。

「読書会通信」編集室 〒274-0825 船橋市前原西6-1-12-816 下原敏彦方