ドストエーフスキイ全作品を読む会 読書会通信 No.187 発行:2021.8.10
(新型コロナ感染急拡大のため、8月21日読書会は中止になりました)
第305回8月読書会のお知らせ
月 日 : 2021年8月21日(土)
場 所 : 池袋・東京芸術劇場小会議室5(池袋西口徒歩3分)03-5391-2111
開 場 : 午後1時30分
時 間 : 午後2時00分 ~ 4時45分
プログラム : 口演 模擬法廷「金貸し老婆とその妹強盗殺人事件」第五回公判
口演終了後はフリートーク
会場費 : 1000円(学生500円)
10月読書会は、2021年10月24日(日)開催予定です。
東京芸術劇場小7会議室14:00~17:45
「大阪読書会」は、2021年9月29日(水)に第65回大阪読書会を開催予定です。
14:00~16:00 東大阪ローカル記者クラブ
作品は『作家の日記』285~321頁
8・21読書会は法廷劇の朗読です。
コロナウイルス感染拡大で先行きの見えぬ状態にあります。8月21日、会場の東京芸術劇場が閉館にならず、開催が可能であれば、以下の裁判朗読会を実施します。朗読会では、以下の脚本にそって、当日の参加者の方にそれぞれの役を演じていただきます。演じたい役をみつけて、奮って立候補してください。残った時間はフリートークです。
『罪と罰』模擬法廷 金貸し老婆とその妹強盗殺人事件裁判 第五回公判(最終審理)
当日、脚本のコピーを用意します。
脚本の全文は以下のサイトに載せています。
http://dokushokai.shimohara.net/toshihikotoyasuko/kanekashi.html
私は、なぜドストエーフスキイを読むのか、読み続けるのか
ドストエフスキーをかじり始めて
上垣 勝
「ドストエフスキーの全作品を読む会」の中には、中学1,2年生で読み始めた人も何人かおられるようです。むろんすっかり分かって読んだのでないでしょうが、しかしその後ずっとドストを読み続けていると言いますから、世には早熟の人もいるものだと全くあきれます。何歳の人たちであれ、その姿は眩しいばかりです。
私などは20代になってやっと白葉の安い古本で「罪と罰」に触れただけです。まさにサッと触れただけで、しっかり読んだとか、魅せられたとか、その問題提起に触発されて深く熟考したとは到底言えません。その後、50代でやっと、「白痴」や「悪霊」、「カラマーゾフ」を早く終わらないかとうずうずする思いで読み終えました。「貧しき人びと」、「死の家の記録」、「虐げられた人びと」、「未成年」も似たりよったりで最近やっと読破したものもあり、「地下室の手記」などは、ある言葉がどんなコンテキストで言われたのかを探すために読みました。「日記」などは途中で今も投げています。威張るようですが、これではドストを読んだとは到底言えません。何しろ「全作品を読む会」は50年も続いて来て、今では全作品を5回も精読した猛者らがウヨウヨいるようですから、まるで聳えるマッターホルンを見上げる幼児に似てわが目が飛び出るほど驚くと共に、私などはドストの世界を何も分かっていない幼稚な子ども、誰もがひねりつぶせる赤子のような存在だと、片隅で身を小さく丸めています。
それがどういう風の吹きまわしか、生誕200年の前年から会に参加させて頂いて「カラマーゾフの兄弟」を齧り始めました。理由の一つは、読書会に来る人たちがどこか何となくドストの世界から抜け出て来た人たちのような片鱗があり、現実のお姿は知りませんが、私には好ましく、魅力なのです。今のところ、読書会の中で小説のような殺人もバトルも裁判もなく終りの気配もありませんが、突然読書会が新しいステージへ急展開して、「カラマーゾフ万歳!」の子どもらの歓声のようなものでアッと結末を迎えても、それもドストの世界かも知れないなどと、失礼な遊びの空想が起こります。とは言っても、私は世話人の皆さまに心から感謝して、灯が消えそうになっても再びパッと明るく灯り始め、その後は勢いよくいつまでも燃え続けることと心から期待しています。
今日これを書き出したのは、彼の作品に登場する人物が殆ど二つの側面あるいは多面的な顔を擁しており、それが現実にどこかにいる揺れ動く人間の姿を感じさせて小説が一層身近になっていますが、「カラマーゾフの兄弟」もやはりそうで―どの主要人物の中にも私がいて、私自身の顔が見えます―、「カラマーゾフの兄弟」は個々人だけでなく、作品全体を一人格と見ても極端から極端まで多面的で、私の内面に似て愛憎無限が入り混じって発展しますが、それにも拘らず何故か安心して読者が読み進めうるのは、作品の中心に唯一ホッと寄りかかれる巌のように不動のものが隠れているからでしょう。いわゆる心地よい通奏低音のようなもの、全体を貫く一本の赤い糸です。人物たちがどう転んでもこの不動のものによって救いがあるので安心して読める気がします。それを今日、次の言葉を目にしてハッとしました。「キリストは、『然り』と同時に『否』となったような方ではありません。この方においては『然り』だけが実現した。」(Ⅰコリ1:19)
登場人物たちによって、「然り」と「否」が色々なニュアンスの中で展開されてストーリーが大胆に進行して行きますが、しかしどんなに極端から極端にまで人物が発展し、「否」の深淵を凝視させられても、「然り」が厳然としてあります。それがゾシマ長老とアリョーシャらによって指し示される線です。――ドストは、不思議にもミーチャにさえ、コンテキストは違うとはいえ、「私はどこにいてもある」(ギリシャ語で言えば、エゴ―・エイミでしょう!)という実在の永遠性を表す言葉を暗示しています。――とはいえ、ゾシマもアリョーシャもむろん生身の人間ですから色々な限界を背負っています。だが、特にゾシマの少年時代から青年時代に至るまで、そして僧院に入るまでの歩みは、読者の心にいつまでも強烈に残る「然り」と言えるものであり、アリョーシャにしても、彼自身カラマーゾフ一家の混沌の遺伝子を内に持っていると告白しますが、それでも「小天使」と揶揄されつつだとはいえ、この「然り」を指し示すのです。とは言え「然り」を僅かに指し示すのみであり、しかしまた、たとえ曲がった指でも天を指し示すに十分であり、本は違うがソーニャの汚れて曲がった細い指こそ力強く指し示すことがあるのです。
私見では、アリョーシャはまだ決定的な挫折を経験していない若者で、私にはいかにも頼りなく青臭く感じられます。ところがこの頼りない青臭い人物像こそ何か重要なものを暗示しているかも知れません。もしかすると、彼のやがて想定されるドラスティックな挫折、そしていかなる世の力によっても救われぬその挫折からの、劇的アウフヘーベンによる血湧き肉躍る新展開こそ、ドストエフスキーが未完になった後編で目論んでいた救済のサスペンスでないか?その時には、「『然り』だけが実現」したことが歴然とした形で提示されたのでないか。そんな妄想が湧いて来ます。
この書を貫くこの「然り」の一本の赤い糸は、むろんドスト自身が意識しつつ置いたものです。それは何より、この書の冒頭で、「よくよく言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」(ヨハネ12:24)と、わざわざエピグラフとして掲げ、しかもこの書の核心をなす重要な箇所(「ゾシマ長老とその客」と「謎の客」)で、2度にわたってこの句に言及した所から明らかです。
余談ですが、「カラマーゾフの兄弟」のどの人物に惹かれるかは全く自由であり各自で違うでしょう。ただ不思議なのは、まだ皆さんをよく存じ上げぬ故かも知れませんが、ゾシマ長老やアリョーシャに最高に惹かれるという人は会で聞いたことがありません。これがまたこの読書会が長続きし、面白いところかも知れません。毎回集まる人の多くは、年経て苔むした求道者、永遠に求め続ける人だからかも知れません。そして私自身、年齢は重ねても少しも完成や成熟の兆しがありません。むしろ今後も体を前に伸ばしてただ捕えんとする永遠の未成年、足取り軽い永遠の求道者であり続けたいと思っています。
いずれにしても、この小説は多くの「否」を持ちながら、「この方においては『然り』だけが実現した」ことを、表に露骨に現わしたり押し付けたりしない形でいみじくも暗示するだけなので、安心して、誰もが気軽に永遠の未成年や求道者として読めるのでしょう。そうした度量の大きな、多数の支流を集めて悠然と流れる大河の姿をした作品と見ています。まさに、「文学という精神的作業の最高のもの。……聖書だけがこの作品を越える」(荒 正人)という気がします。 (2021.7)
6・27読書会報告
ドストエフスキー生誕200周年の今年、読書会としてもおおいに盛り上げたいところだったのですが、コロナ禍のため、開催が危ぶまれる状況や開催できても参加者が極端に少ないさびしい状況を余儀なくされています。6月27日の参加者は特別参加1名を含め9名でした。そんな中でも、読書会の取材があったことはうれしい出来事でした。
共同通信社の鈴木記者が自らも読書会に参加しながら取材した記事が、以下の新聞に当日読書会の写真入りで掲載されました。
☆信濃毎日新聞 2021年8月4日
ドストエフスキーを読み継ぐ 生誕200年日本でも魅力発信
☆南日本新聞 2021年8月2日
古典を読み継ぐ重要性 ドストエフスキー生誕200年
☆岩手日報
☆福島民有新聞
読書会について、以下のように紹介されています。
6月末、東京池袋の会議室で、「ドストエーフスキイ全作品を読む会」の304回目の読書会が開催された。有志で読み続け、“5巡目”も終わりが近い。この日は「ドストエフスキーの現代性について」というテーマで自由討論が行われた。参加者の熱っぽい語りに耳を傾けていると、多弁な人物が多いドストエフスキー作品に紛れ込んだ気分になる。「ドストエフスキーこそが、隠された自分に語りかけてくる唯一の声だと感じる人が熱狂的読者になる」と太田香子さん。初期から参加する下原康子さんは「何遍読んでも発見がある。新しい現代文学をいくつも読むよりドストエフスキーを100回読む方がいい」と話す。
鈴木記者の感想および参加者2名のコメントが“読書会らしさ”をよく伝えていると思います。(編集室)
連 載 ドストエフスキー体験」をめぐる群像
(第96回)三島没後50年が廻り、ドストエフスキー生誕200年の「感想」
② 小林秀雄の「三島君の事」(s.46) と『金閣寺』対談(s.32)など
福井勝也
前回は、丸二年(s.46-47)に亘り記された保田輿重郎の三島由紀夫追悼文「天の時雨」を紹介した。三島没後50年(2020年)を契機にした新刊書にも印象に残るものがあった。『の人 三島由紀夫』(井上隆史著、2020.10)『金閣寺を焼かなければならぬ 林養賢と三島由紀夫 』(内海 健著、2020.6)『天皇論 江藤淳と三島由紀夫』(富岡幸一郎著、2020.5)『三島由紀夫と死んだ男 森田必勝の生涯』(犬塚清著、2020.11.1)などがあげられる。
それに現在『新潮』に短期集中として、平野啓一郎氏が『豊饒の海』論を連載中である。既筆の『金閣寺』論と並ぶ小説家の作品論だが、自死と隣合わせの遺作による三島論として注目した。連載の第三回(2月号『新潮』)では、三島と日本浪漫派(保田輿重郎・蓮田善明)との関係についての言及があった。しかしその内容は、日本浪漫派のイメージを戦後固着的なものとした橋川文三の『日本浪漫派批判序説』(1960)を踏襲する内容で落胆した。そもそも平野氏は、保田の文章を直接読み込むことなく、これまで通有の保田理解で済ましていないか。保田へのそれとは対照的とされる、三島晩年の蓮田善明に対する評価も、これまでの資料の域を出るものではなかった。三島の日本浪漫派への思いであるが、最後に一体どうだったのか。この点でむしろ、三島が自死直前に保田への思いを語った平野氏の下記引用文が気になった。それ自体を、三島の遺言として率直に受けとめるべきでないか。
「『最後の言葉』(三島の自死一週間前における文芸評論家古林尚との対談記録、筆者注)の冒頭、三島は、自己の文学的来歴を語る件で、戦中に保田から強い影響を受けたにも拘らず、戦後はそのことを隠してきたという自身にまつわる噂について、「非常に心外」と拒絶に近い口調で否定している。橋川に限らず、三島に対するそのような見方は、晩年に至るまで根強くあったのであろう。」(太字は、筆者)
但し平野にとって、後段下線部分には別途文脈的意図があるので、誤解を避けるために、ここで前提になる平野(橋川)の直前の文章も引用しておく。
「この『日本浪漫派批判序説』で、橋川がこうした保田=日本浪漫派から飛び出してき「真の耽美主義者」の「純粋型ニヒリズム」として、戦後作家の中で例外的に度々言及するのが、三島だった」。
このような「晩年に至るまで根強くあった」とされる三島像まで含めて、日本浪漫派による三島理解を平野も肯定したいのだろう。しかし三島自身、さすがにそこまでの証言を残していない。むしろこのような理解まで含めて『日本浪漫派批判序説』による帰結だとしたら、今日までの橋川の影響の大きさに驚く。改めて、保田の真率な今日的読解が待たれる。
ただ今回これから取り上げようと思うのは、直接的に三島に焦点をあてた書物ではない。『小林秀雄 江藤淳全対話』(中公文庫、2019.7)である。しかしやはり、後書きの平山周吉氏の解説「三島由紀夫の死をめぐる小林秀雄と江藤淳」に注目した。さらに、この二人の全対談五編を柱に再編集された本書には、両著者数篇の随筆があり、それには三島関連の文章も含まれている。当方本著の眼目は、三島由紀夫と二人の批評家との関係を辿り直すこと、その要点は、平山氏解説の「三島の死」に纏わる小林との接点への着目だと思った。
その前提になる短文が、小林秀雄の『三島君の事』(初出、昭和46年1月 新潮臨時増刊 三島由紀夫読本)である。この文章には元々談話形式の下書きがあり、「新潮」三島追悼号を編集した菅原國隆氏(当時「週刊新潮」編集次長、その前職「新潮」編集部時代には小林、三島(江藤も)の長らくの担当編集者であった)が、予めそれを持参して小林に了解を得ようとしたらしい。小林はそれまで、報道機関等からの事件への問合せを一切断ってきていた。結局、菅原という「キーパーソン」持参の元原稿に手を入れることになったたわけだが、小林は元々、三島の自死に対するジャーナリスティックな受け止め方を強く拒絶していた。この点で「三島事件」への態度としては、前回の保田と軌を一にしていて印象的だ。
そして以下の菅原との遣り取りから浮上して来たのが、小林と三島との晩年における接触の経緯だ。これは、三島没後50年目に再浮上した重要な歴史的事実と思える。この対面は、発端になる二人の「対談」から既に10年以上が経過していた。そのことは、後に触れることにしたい。ここでは、まず平山のこれまでの経緯を記した「解説」を引用する。
「小林の談話を菅原はまとめて持参したのだが、「なんだ、こんなもの」と怒って、ポイっと捨てられた。そのままじっと黙っていると、小林が「じゃ書いてやるよ」と言って筆を執ったのが「三島君の事」(本書所収)である。小林はそこでは「ジャーナリスティックには、どうしても扱う事の出来ない、何か大変孤独なものが、この事件の本質に在る」とし、「涙が出て来た」こと、事件が「孤独でもある私を動か」したことを述べている。
小林が三島の「孤独」に焦点をあてているのは、多くのコメントとはかなり異質である。識者たちが三島事件の不意打ちに対応しかねたのに比べ、小林には三島の「孤独」を知悉する機会が四年近く前にあった。昭和四十二年(一九六七)年四月に、三島は初めて自衛隊に体験入隊した。その時に三島に反対したのが当時「新潮」編集部にいた菅原國隆だった。三島はテロリストを主人公とした『奔馬』を「新潮」に連載中だった。菅原は三島に「あなたは作品だけを書いて下さい。(略)ご自分で創りあげた主人公になりきる習性があるから、注意してくださいよ」と危惧を洩らした。「一方菅原氏はさっそく小林秀雄に会って事情をはなし、五月に一度帰宅した三島を誘って鎌倉に行った。小林さんは三島に、あせってはいけないという意味のことをいわれたそうである」(村松剛『三島由紀夫の世界』)。小林から説得を受けたことを、三島は中村光夫との『対談・人間と文学』でそれとなく語っている。」(前掲書、「解説」 p.242-3)
ここでの平山氏による、三島と小林との決定的な接触に関する情報が、三島が最後まで信頼した友人村松剛によるものだったことが分かる。そして平山氏は、さらにその事実を三島が中村との対談で洩らしていたことを記している。それは現在『対談・人間と文学 中村光夫/三島由紀夫』(「講談社文芸文庫 2003」)所収Ⅰの「市民と芸術家」の項目で確かめられる。この「対談」には、最後日付(1967・7・10)があり、村松(平山)の証言の時期とこの対談の日付が確かに近接し符号している。しかしそこで三島は、「もっとも小林さんはぼくに忍耐しろといったから、そうだろうな。しかしこれ以上忍耐かなわぬ(下線は、筆者)」。と語っていて、三島の決心が揺るがなかった事実が分かる。この小林との接触こそ、おそらく三島が最後の決意を動かぬものとしたタイミングでなかったか。それ位、三島にとって、小林との対話は大きい出来事はでなかったかと感じる。とにかく小林秀雄をしても、その三島の決心を覆すことはできなかった。それから数年後三島の自死を知らされた時、小林はこの面談を思い出し、万感迫る思いから三島の「孤独」に「涙」したのだろう。
さらに、この平山の解説が付された本著『小林秀雄 江藤淳全対話』には、当然ながら三島事件の半年後に江藤淳となされた長時間対談「歴史について」(昭和46年7月)も掲載されている。「対談」には、途中「三島事件も日本にしか起きえない悲劇」との見出し部分があり、そこには「三島事件」への二人の評価が決定的に対立した有名な論争場面がある。平山は解説で、この部分を二人の批評家の「真剣勝負の対決」とまで呼んでいる。
小林は表題通り「三島君の悲劇も日本にしかおきえないものでしょうが、外国人にはなかなかわかりにくい事件でしょう。」と述べ、それが論争の口火になる。これに対して江藤は「‥‥三島事件は三島さんに早い老年がきた、というようなものじゃないですか。」と、そっけない感想を返す。これに小林は「いや、それは違うでしょう。」とすかさず切り返してみせる。それに江藤は「じゃあれはなんですか。老年といってあたらなければ一種の病気でしょう。」とまで発言するに到る。この時小林は三島を追想し、四年程前(昭和42年5月)あの「決定的対面」が蘇って来ていたのではなかったか。そして小林は、江藤の言葉を切り捨てるように「あなた、病気というけどな、日本の歴史を病気というか。」とまで言い放つことになる。しかしそれでも江藤は、この場では十分納得しようとしない。話はさらに、吉田松陰と三島由紀夫を同列に論じられるか否かということへ発展して物別れとなる。
但し、江藤の名誉のために付言すれば、平山も解説末尾で触れていることがある。すなわち、晩年江藤は『南洲残影』(平成10年)を書き、西郷隆盛の「思想」を通して、三島の死を歴史的に評価する立場に接近したとされている。
なお、ここで追記しておきたいことがある。すなわち、小林が「三島君の悲劇」に言及する文脈は「(本居)宣長と(荻生)徂徠とは見かけはまるで違った仕事をしたのですが、その思想家としての徹底性と純粋性では実によく似た気象を持った人なのだね。そして二人とも外国の人には大変わかりにくい思想家なのだ。日本人には実にわかりやすいものがある。」という件があり、その直後に「三島君の悲劇も日本にしか起きえない・・・」との言葉が続いていた。つまり、小林の発言には、自死した三島由紀夫を宣長と徂徠のあり方、そして松陰を含めた彼らの文化伝統、歴史的系譜に繋がる日本人に位置づけたいとの思いがあった。そしてこのことは、前回「天の時雨」の追悼文の保田輿重郎の三島評価にも基本的に通ずるものだろう。この点で、保田與重郎と小林秀雄は、三島由紀夫の晩年から自死に到るまでの印象について、日本人として元々あたりまえの共感力を発揮していた。しかし江藤には、それが直ぐには発揮できなかった。江藤の三島に対する同時代的ライバル意識の為せるわざであったろうか。小林の江藤への怒りは、江藤への信頼もあって、勢いの強い口調になったのかもしれない。しかし江藤は、三島死後しばらく生きて、それに気付く廻り合わせを得た。それでは、その日本人であれば共感し気付くべき肝心のその前提とは何か。小林は、江藤との対談でこんなことを言い残していた。「ああいうことは、わざわざいろんなこと思うことはないんじゃないの。歴史というものは、あんなものの連続ですよ。子供だって、女の子だって、くやしくて、つらいことだって、みんなやっていることですよ。みんな、腹切ってますよ。」「二人(徂徠・宣長、筆者注)ともやっぱり憤死なんですよ。」「そうです。全然二人(徂徠・宣長、筆者注)とも孤独だったんです。」
さらに、以前から気になっていた小林秀雄と三島由紀夫の因縁の「対談」がある。三島が『金閣寺』を刊行したのは昭和31年10月だが、翌年昭和32年1月に「美のかたち」と題して『文藝』でなされた作品論である(年月は、吉田煕生編「年譜」)。生前二人に、どれ位会う機会があったかは分からぬが、おそらく前述の自死三年半程前の「面談」(昭和42年5月)とその約十年前の「対談」以外、実質的な接触はほぼなかったのではなかったか。
それでも、おそらくこの「対談」の印象にお互い強烈なものがあって、その後の文学人生に何らかの影響(特に三島においては)があったかと推測している。小林と三島はそれぞれが「対談集」を残しており、お互いが「美のかたち」を収録している。その三島の『対談集 源泉の感情』初版本は、1970年10月30日の自死一ヶ月前刊行された。三島由紀夫の生前最後の刊行本となったとの注釈もある(同書、河出文庫版「解説」2006)。注意すべきは、この「遺書」とも言える「対談集」巻頭に、小林との「対談・美のかたち」(『金閣寺』論)を据えていることだ。これは、掲載の対談が行われた単なる年月順でもなさそうに思う。
当方がこの「対談」に注目する前提になる要点が、既に指摘の文庫本「解説」に記されていた。以下、河出書房の元編集者であった藤田三男氏の文章である。「小林秀雄は、『金閣寺』の劈頭、「あれは小説というよりむしろ抒情詩だな。」と三島さんの度肝を抜く。『金閣寺』は、寺を「なぜ焼くか」という動機小説であるが、本来小説は焼いてからを書くことから始まるものである。また『金閣寺』の登場人物はすべて主人公のコンフェッション(告白)から生み出された人間であり、そこにドラマは成立しない、抒情詩という由縁である――と小林秀雄は断言する。(改行)この評価に三島さんは激しく震撼したはずであり、以下の対話は小林秀雄の独壇場となる。(‥‥)『源泉の感情』は三島さんの思いがけない衝撃を起点として編成された一見奇妙な対談集である。いかに小林秀雄とはいえ、自信作の完全否定を巻頭に据えたのはなぜだろうか。」(太字部分は、筆者注)
藤田氏は、ここで最後に投げかけた疑問に答えていない。当方小林の『金閣寺』=動機小説、抒情詩説を最初に読んだ時、咄嗟に「小林秀雄、畏るべし」との思いが先に立った。そしてその直後、三島に深く同情した。『仮面の告白』(s.24)でやや遅い戦後デビューを果たした三島が、その作家としての地歩を固めたと評判の高い『金閣寺』(s.31)を「小説にあらず」と宣告されたのだから‥‥。しかしこの「対談」を何度か読み返した時、この「対談」とは、三島が自分の天分を小林に見抜かれ、そしてそれを三島が痛切に自覚した瞬間でもあったろうと思えた。この衝撃は、三島にとって生涯の出来事になったのではなかったか。そして三島はそれ以後、最終作『豊饒の海』に辿り着くまで渾身の力で「小説」を書くことに献身した。結局藤田氏の問いへの答えも、既に死ぬ決意をしていた三島が、自身小説家として深く覚醒するきっかけとなった「対談」を巻頭に置こうとしたのであったかと。
ここからは当方の勝手な推測になるが、三島事件数年前の決定的「対面」(s.42)では、その時から十年程前に交わされた、あの「対談」(s.32)がおそらく話題になったのではなかったか。その際、三島はあの有名な哄笑と共に、自身が小林の予言通りにその掌の内での運命を歩んでいることを語ったのではないか。それに対して小林は‥‥‥。 (2021.8.2)
ドストエフスキ―情報
新刊・新著
亀山郁夫著『ドストエフスキー 黒い言葉』(集英社新書2021.7.21)
「生誕200年、ドストエフスキーが贈る言葉」「黒は、豊饒の証である」
高橋誠一郎著 「堀田善衛とドストエフスキ―」
ロシア文化通信「群GUN第58号」2021.7.31 群像社発行
「危機の時代に対する作家の向きあい方」
新刊雑誌
江古田文学 第107号 特集・ドストエフスキ―生誕200周年(2021.7.25)
ドストエフスキ―特集を組むにあたって(主な執筆者)
「ドストエフスキ―と私と日大芸術学部」 清水 正
「サンクトペテルブルク~美しく、切ない、芸術の街~」ソコロワ山下聖美
「理想の人生を降りても」齋藤真由香
「ドストエフスキ―とマンガ手塚治虫版『罪と罰』を中心にして」伊藤 景
「『悪霊』における〈豆〉」坂下将人
「寺山修司とドストエフスキ― ~星読みをそろえて~」五十嵐綾野
「三島由紀夫とドストエフスキ― ~原罪」猫蔵
「ドストエフスキ―全作品を読む会」50周年に想う」下原敏彦
「ドストエフスキ―文学の翻訳とメディア化」牛田あや美
「ドストエフスキ―とニーチェ ―対面なき協働者―」岩崎純一
「ソーニャの部屋 リザヴエータを巡って―」清水 正
広 場
旧刊・名著紹介
☆江川卓が語るドストエフスキ―の魅力
(『ロシア文学への招待』三省堂選書54 1978)
ドストエフスキ―は確かに面白く、読んでいて夢中になるんですけども、果たしてどうしてそうなるのか、その辺の結論を出すことは、非常に難しい。最初は推理小説的興味で読んだかもしれません。
☆工藤精一郎と中山省三郎
(『ロシア文学への招待』三省堂選書54 1978)
工藤精一郎(1927-2008)は、中山省三郎(1904-1945)との偶然の出あいをこのように記している。原子爆弾投下直後の広島。
八月十五日に現地解散ということになった。やっと乗った汽車が広島止まりです。広島に降りて驚いたことは、周りの山が赤茶色に焦げ、何もない。ただ馬がごろごろ死んでいる。プラットホームの台だけが残っているんです。そんな瓦礫の中に降ろされて、どうしょうかと思っていたら、二時間ばかり経って福岡発東京行きという汽車が入ってきた。あの頃の汽車はどれも満員です。どうにも乗りようがない。諦めかけていたらたまたま私の前に止まった車両に、私の本隊は福岡にありましたので、そこの兵隊たちが乗っているのです。私たち10人ばかりは同じ隊の、派遣された連中ですから、いつまで待っていてもだめだ、とにかく乗りなさいと言われて窓から引上げられ、通路に荷物を積み重ねて、いろいろ整理したら、当時の車両は三人掛ですが、座席が一つ余った。私は甚だ申し訳ないがそこに座らせてもらいました。すると私の前に座った人が、火野葦平がどうしたという話をしているものですから、尋ねると「私は中山省三郎です」と言う答えです。※この出会いが縁で工藤精一郎は原久一郎の孫弟子となる。
読書会メンバーの新刊
梶原公子著『コミュニティユニオン』2021.8.1 あっぷる出版社
副題《沈黙する労働者とほくそ笑む企業》は思想的だが内容は、職場で困っている人たちについてのルポ。ドストエフスキ―『作家の日記』の人生相談を想起させる。形骸化した組合に変わって、会社の理不尽を裁く。現代の必殺仕事人たちの記録。
資 料
小酒井不木とドストエフスキー
下原康子
2021年3月。コロナ禍2年目の春。小酒井不木という作家と出合いました。「小酒井不木全集引用文献データベース」(https://fuboku-citation.jp/)のインターネット無料公開がきっかけです。「小酒井不木文庫」を所蔵する愛知医科大学図書館が『小酒井不木全集 全17巻』におけるすべての引用文献を抽出し、それらをデータベース化して一般公開したものです。さっそくアクセスして「ドストエフスキー」と入れて検索してみると61件がヒットしました。個々の作品名では「罪と罰」39件、「白痴」14件、「カラマーゾフの兄弟」4件、「死の家の記録」4件がヒット。大半が随筆の中での引用でした(言及箇所の大半は短いものです)。
不木は『医学及医政』(大正12年1月号)の小特集「古今東西の歴史中好める人物5名」にドストエフスキーを上げて、次のように書いています。「生れてこれ位強い印象を与へられた書物(『罪と罰』)はその前後に読んだことがない。とても人間業ではないと思ふ。私は今、聖書以上の聖書としてこの書を愛読して居る。気が塞いだときなどこの書の何処の一頁でも読みかけると、すっかり気が変って、人間に生れた有難さをしみじみゞゝ喜ぶ。ドストエフスキーの顔も、性格も私は大好きだ。貧に苦しめられ乍ら、一文の金でもあるとそれを町の貧民に恵む所などの姿を想像して、たまらなく懐かしい」。(ちなみに他の4人は親鸞、ファラデー、リンカーン、ナポレオン)
現在、不木の著作でよく読まれるのは、全集全17巻のうち全7巻を占める「医学的探偵小説」です。「青空文庫」には69点もの不木の作品(大半が短編小説)が収録されています。(2021年8月現在)。そのいくつかはインターネットで“聞く”ことができます。コロナ自粛のなか、この「朗読配信」は、私の楽しみの一つになっています。ちなみに『カラマーゾフの兄弟』(全文)と『罪と罰』(配信中)の朗読が配信されています。
ところで、「ドストエフスキー全集引用文献データベース」のようなものがあるのかどうか、ご存じの方がおられたらご教示ください。
小酒井不木について (Wikipediaによる)
小酒井不木(こさかい ふぼく)(1890年10月8日 - 1929年4月1日)愛知県蟹江町生まれ。医学者(生理学・血清学)、随筆家、探偵小説家、犯罪研究家。20代から結核を病み、留学から帰国したのち、東北帝国大学医学部衛生学教授の辞令を受けたが、病のため退職。以後、犯罪研究、随筆、探偵小説、海外探偵小説の翻訳などの著作を旺盛に発表。江戸川乱歩を見出したことでも知られる。一般市民向けに「闘病術」という本を執筆しており、「闘病」という言葉が一般に広まるきっかけとなったとも言われている。1924年には少年探偵小説『紅色ダイヤ』、『犯罪文学研究』を連載。医学研究への情熱も衰えることなく、1928年には、自宅隣地に研究室を建て、血清学の研究を始めていた。2029年、39歳で急性肺炎のため死去。その死はラジオや新聞で大々的に報じられ、4月4日の葬儀には多数の参会者が詰めかけたという。
[小酒井不木、ドストエフスキーとの出会い]
典拠:小酒井不木全集』全17巻 改造社 昭和4(1929)第8巻(闘病禄及日記)P.28-29
病間随筆 読書
大正七年の三月から大正八年までのニューヨーク滞在中、毎夜午後十時から十二時までの間、私はベッドの上で週刊の探偵小説雑誌Detective Story Magazineを読むことに決めて居た。それから英国に渡って半年の間、ロンドンで、実験室内の研究の傍ら、英国の医学史の研究を思い立ったため、暫く探偵小説から遠ざかって居たが、大正八年の冬から、持病が再発しかけたので、ブライトン(英国南部海岸の一市)に翌年の三月まで滞在静養し、その間またコナン・ドイルやオーチン・フリーマンの探偵小説を読みは始めた。日本に居て読んだときは地名などが少しも見当がつかなかったが、その時はロンドンの地理にも多少委しくなって居たので、一入の興味を覚えた。
海岸の空気を吸ひ、日光に思うま々浴しても、頭をあげる持病は一向去る様子もなかった。けれど留学の予定もあったので三月の末パリに移ったが、パリは結核に取りては昔から世界で一番悪いと言はれて居るだけ、私の病気は見る見る悪くなって行った。今から思えば甚だ乱暴であったが、一と月ばかりの間熱心にパリ見物をやると四月の末になって、一日置き位に二十グラムから三十グラムづつ喀血するようになったので、同じホテルに滞在中のKという熟練な医学者に相談したところ、そんな乱暴なことをしてはいかぬ、絶対に外出は止めて、ベッドに居たまえとの事に。私も何だか近い内に大きなカタストロフィーに出逢うような気持がしたので、外出は止めて一室に閉じ籠ることにし、小説類は皆英国から郷里に郵送してしまったので、K氏所有のドストエフスキー作『罪と罰』(内田魯庵氏訳)を借りて読み始めた。
ドストエフスキーの作を読んだのは、その時、生まれて初めてであった。かねてからその偉大な芸術に就いてはよく聞いて居たが、何気なしにベッドで仰向きになり乍ら頁を読み進んで行くと、どうだろう。上巻の三分の一にも達しない内に、心臓の鼓動が非常に劇しくなって。胸が圧迫されるように感じ、今にもおかしくなって血を喀きさうになったので、どうしても読み続くることが出来なかった。それ程私はこの小説に感動してしまったのである。書物を伏せても暫くの間は心臓の音が耳に響き、二三時間は血を喀きそうな感が胸を充たして居た。が、先を読みたい心は抑ふることが出来ず、それかといって血を喀くのは怖いので、大汗になって床に悶ゆるという有様であった。終ひには決心して一章か二章宛を必ず二時間置きくらいに読むことにして、三、四日かかって終に読み了ったが、その二、三日後とうとう大喀血をした。
勿論大喀血は『罪と罰』を読んだためではないが、私は生まれてから、これ程強い感動を受けた書物にはまだ接したことがなかった。ローラン夫人が初めてテレマクスを読み「私の呼吸は劇しくなり、私の顔はほてり、私の声は変った」と書いたことや、マルブランシュがデカルトを読んで「心臓が激しく鼓動した」といったことなどは予て聞いては居たが、私は初めて『罪と罰』によってその境地を得たのである。爾来私は『罪と罰』を身辺から離すことが出来なくなり、パリを去ってフランスの南部、大西洋岸の一小市アルカションに二ケ月ばかり煙霞療養をして居たときも、私の孤独の淋しさを慰めてくれるものは、コンスタンス・ガーネット女史の英訳本Crime and Punishmentであった。私はその間この書を何度繰返して読んだか知れない。而も読む度毎に私の心臓は高鳴った。その後故国に帰って、今に至るもこの状態は同様である。
一時は、この書を読むことによって、血を喀くような気持となるため、身体に害がありはしないかと思ったが、よく考えてみればこの書は、私を恐ろしい病から救ってくれたとも言うことが出来る。何となればこの書さえ手にして居れば、その間は少しも病気のことを考えないからである。即ちともすれば胸に集まり勝ちの精神をディヴェートして、その間病気を忘る々ことが出来たからである。
この書と同時に、私は過去二ケ年間の大病中随分沢山の探偵小説を読んだ。探偵小説は私を完全に病の手から奪ってくれる。即ち探偵小説を読んでいる間は、病を顧みる遑が少しもないのである。そのせいか、私は兎に角近来著しく健康を恢復した。(中略)
闘病に於ける過去三ケ年の悪戦苦闘により、私は尊い何ものかを得たように思ふ。それが私の今後の研究に若し現れてくれれば望外の幸福である。漸く昨今強敵を却け得て小康を得た快さは何に譬えようもない。紺清の空に光る太陽は私のために輝き、野に庭に、咲く程の菊花は私のため匂って居るような気がする。そうだ、今日はこれから庭に出て、私のバイブルなる『罪と罰』を読もう。
お知らせ
シンポジウム
第18回国際ドストエフスキー協会(IDS)シンポジウム
https://www.ids2022n.jp/
開催日時;2022年3月4日~3月8日
開催場所;名古屋外国語大学
演劇公演
TOKYO NOVYI・ART(トウキョウ ノーヴイ・アート)
ゴーゴリの『検察官』上演します
月 日 2021年12月4日(土)、5日(日)
会 場 東中野梅若能楽堂
連絡:中村恵子 090-1530-7490
編集室
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