ドストエーフスキイ全作品を読む会 読書会通信 No.179 発行:2020.4.20
『読書会通信』ご愛読の皆様、いかがお過ごしでしょうか。いまだ猛威をふるう新型コロナウイルスです。長い自粛で精神的はもとより、経済、身体的など多方面にわたって被害にあわれているかと思います。一日も早いコロナ終息を祈り、お見舞い申し上げます。
既にHPでもお知らせした通り4月25日(土)の「4月読書会」は中止します。皆さまにはからだに気をつけてお過ごしください。なお、2月の中止については中止決定が急だったため、連絡不備がありました。当日、会場に行かれた方には、お詫び申しあげます。
6月読書会は、6月27日(土)に下記のとおり開催予定です。
月 日: 2020年6月27日(土)
場 所: 池袋・東京芸術劇場小会議室7(池袋西口徒歩3分)
開 場: 午後1時30分
開 始 : 午後2時00分 ~ 4時45分
作 品 : 『カラマーゾフの兄弟』 6回目
報告者 : 報告者 冨田陽一郎さん 司会 太田香子さん
会 費 : 1000円(学生500円)
大阪「読書会」のお知らせ
第55回大阪「読書会」は4月11日開催予定でしたが、コロナ対策で中止しました。
6月読書会は、開催できれば下記の要領で行います。
6月13日(土)14:00~16:00、・会場:まちライブラリー大阪府立大学 参加費無料
『カラマーゾフの兄弟』第13編
お問い合わせ 小野URL: http://www.bunkasozo.com
原稿募集 ドストエフスキー生誕200周年記念の原稿を募集しています。
2021年はドストエフスキー(1821~1881)生誕200周年です。
この節目を記念して読書会の皆さまの一言やエッセイを募集します。
テーマ「私は、なぜドストエフスキーを読むのか、読みつづけるのか」
400~800字程度(短くても可)2021年末まで常時受け付けます。
到着順に「読書会通信」に掲載・公開します。
(多数の場合は、次号掲載となります。)
【土壌雑感】(編集室)
新型コロナの猛威がつづく。平和の祭典オリンピアさえ延期させた。◆「これは戦争だ!」為政者は叫ぶ。◆だが、コロナは、本当に敵なのか。彼らはアジアの山奥深く、獣のなかで眠っていた。◆我欲のため彼らを目覚めさせたのは誰か。世界中にバラまいたのは誰か。◆彼らは、元の居場所に帰りたがっている。ただそれだけかも。◆作戦は、簡単だ。ただ、ひたすら一人でいること。そうすれば彼らは消えるしかない。宇宙飛行士の訓練で一番むずかしいのは、孤独に耐えることだという。◆文明を発展させ利便を謳歌してきた人類だが、はたしてそれができるかどうか。できれば新しい人間の誕生がある。
読書会 発足時を振り返る
ドストエーフスキイ全作品を読む会へのおさそい(1971年3月)
第1回「全作品を読む会」読書会が開かれたのは49年前。1971年4月14日(早稲田大学校友会館)スタートした。それから今日まで297回を数える。現在5サイクル最後の作品『カラマーゾフの兄弟』の読みをすすめている。生誕200周年前夜祭を記念して発足時の呼びかけを振り返ってみたい。(1971年「会報 No.13 」に掲載された誘いの紹介です)
【読書会へのおさそい】
私達の会(ドストエーフスキイの会))も、今年で3年目を迎えましたが、最近、例会以外にも小グループの集まりをもって、お互いの話し合いを深めていきたいという声をあちこちで聞きます。これまでの報告をふりかえってみますと、例会の性質上、その対象はどうしてもドストエーフスキイの全体、あるいは『罪と罰』『カラマーゾフの兄弟』などの後期の長編に集中しがちで、初期の作品といえば、わずかに処女作『貧しき人々』がとり上げられたくらいのものです。しかし、一般的にはあまりとり上げて論じられることのない作品のなかにもドストエーフスキイ独自の注目すべき作品は少なくありません。
そこで私達は、今度『貧しき人々』から初期の作品を経て、『カラマーゾフの兄弟』『作家の日記』にいたる、ドストエーフスキイの全作品を読む会をつくり、そのなかでひとつひとつ作品を検討していくことにしました。ドストエーフスキイの全作品を継続して読むとなれば、相当の期間を必要とすることでしょうが最後の作品までねばり強く読み進んでいくつもりです。参加者に特別な資格はありませんが、このグループの趣旨からいって原則として欠席することなく最後まで継続する意志のある方に限りたいと思います。読書会に参加する人は、その会でとり上げられる作品を予め読み終えてから出席することを条件とします。(世話人 野田吉之助 佐々木美代子 岩浅武久)第1回参加者12名。
◆時代の流れのなかで条件は弛んだが、読書会はつづいている。人生の澪つくしとなって。
資 料
カラマーゾフ一族の前史
下原康子
三兄弟が父とスメルジャコフの住んでいる町に集まって、物語が始まったときの彼らの年齢とそれまでの生い立ちを「第一編:ある家族の歴史」から、簡単にまとめておく。
フョードル・パーヴロヴィッチ・カラマーゾフ 55歳
ドミートリイ・フョードロヴィッチ・カラマーゾフ 28歳
イワン・フョードロヴィッチ・カラマーゾフ 24歳
アレクセイ・フョードロヴィッチ・カラマーゾフ 20歳
パーヴェル・フョードロヴィッチ・スメルジャコフ 24歳
フョードル 55歳
フョードルは無一物から出発して名ばかりの小地主になった。村では鼻つまみの放蕩者、でたらめきわまる常識はずれの人物で通っていた。しかし、自分の財産を増やす能力には長けており、死んだときには10万ルーブリもの金を残していた。結婚して3人の息子がいた。最初の妻、アデライーダ・イワーノヴナ・ミウーソフは、郡の地主で裕福な名門の貴族ミウーソフ家の美貌の娘で、一時のロマンチックな衝動からフョードルと駆け落ちした。ドミートリイが生まれたが、二人の間に愛情はなくけんかが絶えなかった。ドミートリイが3歳になったとき、アデライーダは貧しい教師と駆け落ちした。足取りをみつける間もなく彼女はペテルブルグの屋根裏部屋で死ぬ。フョードルの懐には2万5000ルーブリの持参金が入った。ドミートリイはまる一年、召使のグリゴーリイの手もとに置かれた後にアデライーダの従弟のミウーソフに引き取られた。フョードルはそれからすぐに結婚した。2度目の妻ソフィア・イワーノヴナはまだ16歳の天涯孤独の孤児で、ある将軍未亡人の養女になっていた。将軍未亡人が結婚を許さなかったので、フョードルはソフィアに駆け落ちすすめた。首つり自殺を図るほどやりきれない状態にあった彼女は、恩人よりもフョードルを選んだ。結婚してからも、フョードルは妻の前でさえ、あいかわらずの乱痴気さわぎをやってのけた。結婚は8年間続いた。ソフィアは二人の男の子を残した。
ドミートリイ(ミーチャ)28歳
母に捨てられ父にほったらかしにされたドミートリイの面倒をみたのは忠僕のグリゴーリイだった。まる1年たったころ、パリから帰っていたアデライーダの従兄にあたるミウーソフがドミートリイを引き取ったが、すぐに従姉にあたるモスクワのさる夫人に託す。やがてこの婦人も死に、こんどはすでに嫁いでいた娘の一人に引き取られた。さらにその後にも一度、落ち着き場所を変えたようだが不明である。彼の少年時代と青年時代は乱脈に流れ去った。中学もしまいまでは終えず、そのあと陸軍のさる幼年学校に入り、やがて飄然とコーカサスにあらわれると、軍務について将校に昇進した。放蕩の限りをつくしたが、遺産を当てにしていたせいか金には無頓着だった。乱脈なくらしぶり、粗暴なふるまいにもかかわらず、人好きのするところがあり、女性に好かれた。成人に達してからフョードルから金を受け取るようになった。領地からの収益の取り分をはっきりさせるために町にやってきたがあてがはずれ、さらグルーシェンカをめぐって父子で争うことになる。
イワン 24歳
ソフィアとの結婚の1年目にイワンが、それから3年後にアレクセイが生まれた。この結婚は8年つづいた。母の死後、二人はドミートリイの時のようにほっておかれ、やはりグリゴーリイに引き取られた。ソフィアの死後3か月して、突然将軍未亡人がフョードルの元に乗り込み、あっという間に二人の子供を馬車にのせて自分の町に連れ帰った。その後まもなく将軍夫人もこの世を去った。そのあと、二人の子どもは夫人の筆頭相続人のポレノフに引き取られた。この人物はまれにみる高潔で慈悲深い篤志家だった。イワンは成長するにつれて、自分の殻に閉じこもったような気むづかしい少年に育った。しかし、勉強には並外れた才能を見せたので、ポレノフは彼を当時名声の高かった教育家の全寮制学校に入れた。しかしイワンが中学を終えて大学に入ったときには、ポレノフも教育家もこの世にいなかった。将軍夫人が残してくれた遺産の払い戻しが遅れたため、イワンは大学の最初の2年間、自分で生活費を稼ぎながら勉学した。「目撃者」という署名で雑誌社に売り込んだ記事が好評で、雑誌編集者たちに知られるようになり、専門の理系にかぎらずさまざまな分野の論文や書評を書くようになった。大新聞にのった「教会裁判をめぐる問題」に関する論文は、文壇でも話題になり、ゾシマの修道院でも読まれていた。彼はモスクワにいたころから手紙でドミートリイの相談にのっていた。町にきた理由は、父と兄の仲裁やカチェリーナとのかかわりが考えられたが、他にも理由がありそうだった。彼は父の家に同居し、はた目にはなかよく暮らしているように見えた。
アレクセイ(アリョーシャ)20歳
彼は4歳のとき死にわかれた母の顔立ちや愛撫を目の前に浮かべられるほどありありと憶えていた。イワンといっしょに引き取られたポレノフ家ではみんなに愛された。物静かな落ち着いた子どもで、決してめだつふるまいはしないのに全校の人気者だった。ごく幼いころから他人の情にすがって生きていることに苦しんだイワンとは違って、自分が誰の金でくらしているのかに心をくばったことがなかった。彼は中学を残り1年残して、だしぬけに父の家に帰ってきた。ほどなく母の墓をさがしはじめたが、フョードルはその場所を知らず、教えてくれたのはグリゴーリイで、その墓は彼が寄進したものだった。アリョーシャがこの町にきたのは兄たちよりも1年はやく、ゾシマ長老の元で修道僧として暮らしていた。父親を批判することはなかった。フョードルの方もアリョーシャが好きだった。ドミートリイとはすぐに打ち解けたが、幼いころ一緒に育ったイワンはアリョーシャにとって謎だった。
スメルジャコフ(24歳くらい)
スメルジャコフの父親はフョードルであるとうわさされている。フョードルもあえて否定していない。母親はリザヴェータ・スメルジャーシチャヤという白痴の神がかりだった。彼女は町中の人から愛されていた。裕福な商科の未亡人が、身重になった彼女を家に引き取っていたが、5月のある夜こっそり抜け出してフョードルの家の庭園にあった風呂場で出産する。みつけたのはグリゴーリイだった。その日はマルファとの間に初めてできた子ども─6本指だった─の葬式の日だった。リザヴェータの生んだ子供はマルファが育てることになり、ピョートルがスメルジャコフという苗字を与えた。彼はいつも隅の方からあたりをうかがうような陰気な少年に育った。12歳になり聖書の勉強をさせようとしたが、せせらわらったため、怒ったグリゴーリイが頬をなぐりつけた。それから一週間ほど片隅にもぐりこんでいたが、その間に初めてのてんかん発作が起きた。その後も平均して、程度はさまざまだったが、月に一度程度の発作が起こった。やがて、彼のひどい潔癖癖に目をつけたフョードルは、モスクワに料理の勉強に出した。数年後、町に帰ってきたときは、年に似合わず老け込み、去勢されたように見えた一方で、身だしなみのよい都会的な服装をしていた。料理の腕は確かだったのでフョードルはコックとしてやとった。人に対する態度はおしなべて軽蔑的で不遜だったが、イワンだけは尊敬しているらしい。
2019年、読書会と「読書会通信」発行の記録
2019年は、平成から令和の祝事がありましたが、記憶に残ったのは、炎暑と台風被害でした。
二月十六日(土)第291回読書会・小会議室7、作品『カラマ―ゾフの兄弟』一回目「大審問官」報告者・野澤高峯さん。司会進行・梶原公子さん。参加23名。
「読書会通信172」2/7発行
四月二十日日(土)第292回読書会・小会議室7 作品『カラマ―ゾフの兄弟』二回目「アリョーシャの学校」報告者・江原あき子さん、司会進行・熊谷のぶよしさん。参加16名。
「読書会通信173」4/10発行
六月十五日(土)第293回読書会・小会議室7、作品『カラマーゾフの兄弟』三回目「カラマーゾフの兄弟の世界」、報告者・菅原純子さん、司会進行・熊谷のぶよしさん。参加21名。
「読書会通信174」6/6発行
八月十日(土)第294回読書会・小会議室7、作品『カラマーゾフの兄弟』四回目「イワン・カラマゾーフその思想と論理構造を探る」,報告者・石田民雄さん、司会進行・太田香子さん。参加22名。「読書会通信175」8/1発行。
十月十二日(土)第295回読書会・小会議室7、作品『カラマーゾフの兄弟』五回目、報告者・全員参加、司会進行・江原あき子さん&梶原公子さん。台風19号首都直撃で会場休館、読書会中止。
「読書会通信176」10/5発行 (抽選ハズレ令和二年にズレる)
一月十一日(土)第296回読書会、小会議室5、作品『カラマーゾフの兄弟』五回目「気になるペア―」、報告者・参加者全員、司会進行・梶原公子さん。参加者21名。
「読書会通信177」1/1発行
連 載
ドストエフスキー体験」をめぐる群像
(第88回)新型コロナウイルス禍の危機的今日に思うこと
福井勝也
読書会開催不能の異常事態が続いている。二ヶ月前に本欄で危惧した、中国・武漢発の新型コロナウイルスによる「パンデミック(世界的大流行)」が現実化し、約一ヶ月が経つ。「宣言」(2020.3/11)が何故もっと早期に出されなかったのか。結果、本日(4/2)WHOは「(世界で)数日内に感染者100万人、死者5万人を超えるだろう」と発表、なお勢いの衰えが見通せないとの認識を表明するに至っている(4/6、感染者127万人、死者7万人)
これまで欧米等と比べ感染者数が少なかった日本も、小池都知事の「何もしなければ都市封鎖(ロックダウン)を招いてしまう」との重大局面発言(3/25)から、やっと世界危機の切迫感が共有され始めた。そして一日の都内発症者急増(4/2-97人.4/3-89人.4/4-118人)の事態により、「医療崩壊」「感染爆発」の瀬戸際感が強まり、速やかな国家的「緊急事態宣言」が必要との意見が鮮明になってきた。しかし全般的に、この間の危機的認識への反応が鈍かったと感じる。原因は、東京オリンピック開催断念(延期)までの時間がかかりすぎたからだろう。憶測を含むが、今回の安倍首相、小池都知事のコロナウイルス対応には、WHOにも見られた中国への配慮(習近平主席国賓招待)と東京オリンピック本年開催への拘り(結局、経済効果の配慮)が足枷になって、緊急性の判断に遅れがもたらされた。
しかしこんな今日的結果分析をいくらしていても、これから数週間後には予想をはるかに超えた危機に遭遇している恐怖と無力感が襲ってくる。同時にこれらの危機感には、既視感が伴っている。それは、9年前の東日本大地震(2011.3/11)と大津波が襲った福島原発の放射能拡散時に襲われた恐怖感であった。震災直後の時期、当方は今回同様に本連載に「特別稿」(「通信No.125)を書き記していた。その際、何を考えていたか。思い出されるのは、事態が天災から人災禍へと考えられるに及んで、その災害の背景にある根本問題への反省であった。すなわち、無原則的な科学技術の発達受容、人命尊重を唱えながら高度経済成長を優先してきた戦後一貫した国策、安易なグローバル化推進、それらを支える資本主義的欲望・奢りを当然視する近代的人間観へのアンチの思いであった。
今回「国難」とも「第二次世界大戦以降最大の困難」とも呼ばれる「新型コロナウイルス禍」が戦後日本人にとって、如何に未経験の人類的危機かということが分かって来た。そして唯一それに重なる経験があるとしたら、やはり東日本大震災時の思いであろう。
この時機、未来を生きるために吾々が糧にすべきは、やはり長年愛読して来たドストエフスキー文学ではないか。あの時もそうだったが、確かに今回もそう思えるのだ。
来年、奇しくも生誕200年を迎えるドストエフスキーは「危機の作家」(河上徹太郎)とも呼ばれて来た。それに相応しい名作、叙述を多く残してきたからだろう。考えてみれば、彼の小説は、どれも人間平常時の物語ではなく、犯罪に手を染めるとか、自殺するとか、あるいは生き直すとか、言わば異常時-危機の時間を生きる人間が主人公のほとんどだと言える。そうとすれば、現在思い起こすべき表現が発見できるのは当然かもしれない。
例えば「ドストエフスキーとウイルス(疫病)」という今日的切り口で考えても、幾つかの場面が思い浮かぶ。その代表が『罪と罰』のエピローグ、シベリアへ流刑されたラスコーリニコフが、最後「更生/復活」する直前に見る「悪夢」だろう。ここには、言わば今回の「新型コロナウイルス」とも目される「新しい旋毛虫のようなもの」(工藤精一郎訳)がズバリ登場する。何度も映像で見させられている「ウイルス」の形状は、なるほど「虫」のようにも見える。改めてこの部分を読み返して、今回の事態に重ねられるものがあると感じた。まずは、今回手近にあった工藤訳の新潮文庫の当該箇所で読んでみたのだが、併せて亀山郁夫訳(光文社古典新訳文庫)を参考に対照してみた。(引用翻訳文は基本的に工藤訳、下線は筆者。途中の( )内の対訳部分は亀山訳)
彼は大斎期の終りから復活祭週いっぱい病院に寝ていた。もうよくなりかけた頃、彼は熱にうか(工藤訳ママ、亀山訳うな)されていた頃に見た夢を思い出した。彼は病気の間にこんな夢を見たのである。全世界が、アジアの奥地からヨーロッパにひろがっていくある恐ろしい、見たことも聞いたこともないの犠牲になる運命になった。ごく少数のある選ばれた人々を除いては、全部死ななければならなかった。それは人体にとりつく微生物(顕微鏡レベルの、亀山訳は説明付加)で、新しい旋毛虫(寄生虫、亀山訳)のようなものだった。しかもこれらの微生物は知恵と意志を与えられた(霊的な存在、亀山訳)だった。これにとりつかれた人々は、たちまち凶暴な狂人になった(悪魔に憑かれたように気を狂わせていった。亀山訳)。しかも感染すると、かつて人々が一度も決して抱いたことがないほどの強烈な自信をもって、自分は聡明で、自分は正しいと思いこむようになるのである。(一部略)全村、全都市、全民族が感染して、狂人になった。すべての人々が不安におののき、互いに相手が理解できず、一人一人が自分だけが真理を知っていると考えて、他の人々を見ては苦しみ、自分の胸を殴りつけ、手をもみしだきながら泣いた。誰をどう裁いていいのか、わからなかったし、何を悪とし、何を善とするか、意見が一致しなかった。誰を有罪とし、誰を無罪とするか、わからなかった。人々はつまらないうらみで互いに殺し合った。互いに軍隊を集めたが、軍隊は行軍の途中で、とつぜん内輪もめが起った。列は乱れ、兵士たちは互いに踊りかかって、斬り合い殴り合いをはじめ、噛みつき、互いに相手の肉を食い合った。(一部略)めいめいが勝手な考えや改良案を持ち出して、意見がまとまらないので、ごくありふれた日常の手工業まで放棄されてしまって、農業だけがのこった。(ごくありふれた仕事からさきに、人は去っていった。それぞれが自分の意見や改革を提案し、意見がまとまらなかったからだ。農業にも手をつけなくなった。亀山訳)そちこちに人々がかたまり合って、何かで意見を合わせて、分裂しないことを誓い合ったが、―― たちまち何かいま申し合わせたこととまったくちがうことが持ち上がり、罪のなすり合いをはじめて、つかみ合ったり、斬り合ったりするのだった。火事が起り、飢饉がはじまった。人も物ものこらず亡びてしまった。疫病は成長し、ますますひろがっていった。全世界でこの災厄を逃れることができたのは、わずか数人だった。それは新しい生活を創り、地上を更新し浄化する使命をおびた純粋な選ばれた人々だった(それは汚れない、選ばれた人々で、彼等の使命は、新しい人類をつくり、新しい生活をはじめること、大地を刷新し、浄化することにあった。亀山訳)が、誰もどこにもそれらの人々をみたことがなかったし、誰もそれらの人々の声や言葉を聞いた者はなかった。(工藤訳-1987、亀山訳-2009初版)
ラスコーリニコフはこの後も、復活祭が終わった一週目までは熱病の悪夢に苦しめられるが、間もなく回復し河岸の作業場に復帰する。そして河岸の丸太に腰を下ろし荒涼としたシベリアの大河の流れを見ながら、あたかも時間が停止したような旧約的風景の中で、観照と憂愁の世界に沈潜する。この印象深いシーン直後、突然その傍らに緑色のショールを被ったソーニャが現れて二人に邂逅が訪れ、お互いが手を握り合う。この後は、言わば作家の独壇場で、二人の新生活へ希望「更生/復活」がハイトーンで語られ物語が閉じる。
まずは、このややロマンティックな結末とその前段の疫病(悪夢)を一緒に考えてみるべきだろう。そこでは、疫病(全世界が犠牲になるまで猛威を振った感染症)が、ラスコーリニコフの転生、生き直しにあたって決定的な契機としての病(=夢)だったことが重要だろう。読みようだが、ここでラスコーリニコフは、この疫病により「旧人類」として一旦死んだ者のように考えられる。あるいは、生き残ってソーニャとの新生活の可能性が語られるのであれば、一旦死んだ彼は、その後更生/復活した「新人類」の一員とも見られよう。しかし物語を素直に言えば、彼はその一員であるか否かは、このエピローグでは未だ不確定な者として描かれていると見るべきだろう。何故なら、その「新人類」が顕れたことは不分明であると断っているからだ。それが、引用文の最後の箇所の表現なのだろう。そのうえで、作家は『罪と罰』の最終フレーズで、主人公のこれからの更生/復活こそ、次に語られる「新しい物語」だと言い残したわけだ。小林秀雄が言うように『白痴』のムイシュキンこそ、その「成れの果て」で、『罪と罰』で物語は終わっているとの解釈も成り立つかもしれない。
ここまで書いて来て、「新型コロナウイルス」が世界的猛威を振るっている現状とドストエフスキーの『罪と罰』に登場する「新しい旋毛虫」を更にリンクして考えてみたい。勝手な「感想」をアトランダムに記してみよう。まず、「旋毛虫」はラスコーリニコフの一応「悪夢」でしかない。しかし考えてみると、吾々も「日々更新される大量の電子映像」として「見えない敵(=コロナ)」を見せられているが、「悪夢」を見せられているようにも思えないか。さらに確かな現実である「死(体)」すらも、「感染死」は隠蔽してしまう。「コロナウイルス」は、「旋毛虫」に匹敵する<イマージュ>として現存している。
「新型コロナウイルス」は、果たして「旋毛虫」のように全世界の人間を犠牲にするだろうか。おそらく「コロナ」感染が飽和状態になる大量死によって終息するだろうが、現在の時点ではその到達点が何時で、どのような内容になるか、そして終息以後の世界がどうなっているかは見通せない。ドストエフスキーの『罪と罰』は近代小説であるが、そのエピローグは、作家の強いメッセージを孕む神話(聖書)的物語だと思う。そこでは、旧世界が一度リセットされ、その後の新しい世界に相応しい「新人類」が登場してくる。主人公ラスコーリニコフとはその一人で、エピローグの「更生/復活」とはその可能性の序曲と言える。その反面、「旋毛虫」によって滅ぼされた「旧人類」は「ノアの箱船」に乗り遅れた生物と同じ運命を辿る。何故、亡びねばならなかったか。「旋毛虫」に感染し「悪魔」に取り憑かれ、お互い同士が憎み合い、殺し合うことで滅びたのだ。現在「新型コロナウイルス」の感染が多くの死者を生んでいるが、吾々が生き延びるということは、果たしてどのような者として新しい世界で生きることを要請されているのか。
こんな感想を書き連ねて思うことは、これも生存が脅かされている今日だからかもしれない。目前の現実的危機のなかでこそ、ドストエフスキー文学は初めてその本来の姿が顕れて来るものなのだろうか。今まで、おそらく「他人事」のようにしか読んで来なかったということか。人類は、ペストやコレラ等の疫病に大量の犠牲を払って、ここまで生き延びて来た。そしてその知性によって、化学兵器(例えば、ウイルス細菌兵器)も核兵器も創り出し、そして原発事故も起こし、地球を何度でも破壊できる進化を遂げて来た。「新型コロナウイルス」は、確かに自然界の変異から生まれた微生物なのだろう。その害毒は、自然力そのものであって「害意」はない。これまでの多くの悪性ウイルスは、その解毒薬とワクチンの医学的知見によって押さえ込まれて来た。おそらく今回も、そのような経過を辿る期待を知性動物たる人間は抱きながら大量の犠牲を払うしかないだろう。
この点でドストエフスキー文学は、小説家として異なる観点に立って「物語」を吾々に伝えようとしている。作家は、人間の「知性」に呼びかけているのではない。反対に人間の「生命」そのものに呼びかけているのだ。彼の描いた「旋毛虫」とは、微生物という「自然力」であるが、同時に「神秘的な力」≒「神/悪魔」にも比せられるものなのだろう。「老婆殺し」によって、自分がナポレオンであることを自らに証明しようとしたラスコーリニコフは、「我意の人/倨傲の人」として一旦滅ぼされる凡人として描かれた。しかし検事ポルフィーリーが見抜いたように、ラスコーリニコフは流刑地での「悪夢」に耐えることで「太陽の人」として生まれ変わる天性を付与された者だった。
人類は今日、近代化による科学技術という知性の最先端の力を悪用して、この地球の無辜の生命を大量殺戮して来た。そのような「奢り」を貪って来た。今回の「新型コロナウイルス」とは、そのような現代人類の「倨傲」が産み出した<神的なイマージュ>ではないか。今、その反作用的打撃を受けていると考えるべきかもしれない。とすれば、吾々は、ラスコーリニコフが「新人類」として「更生/復活」に向かったように、新たに生まれ変わることを目指すことなしに「コロナウイルス」以後の「新世界」を生きられないかもしれない。それが無理なら、例えば「キリスト」のような<特権的魂の義人>を信じ、その<福音>に従わない限り、滅びの道を辿るほかないのかもしれない。人類は今、文字通りの「瀬戸際」に立っていることを自覚すべきなのだろう。(2020.4.6)
広 場
ドストエフスキー生誕200周年記念、前夜祭
2021年はドストエフスキー生誕200周年です。この節目を記念して「私は、なぜドストエフスキーを読むのか、読みつづけるのか」を連載します。投稿は、到着順に掲載します。(多数の場合は、次号掲載となります。)
テーマ 「私は、なぜドストエフスキーを読むのか」
投稿と併せて、ドストエフスキーに言及した世界の著名人の想いを紹介します。
【彼らは、なぜドストエフスキーを読んだのか】世界の著名人の想い
魯迅 「人間の心の偉大な探究者だ」から。
アインシュタイン「どんな思想家が与えてくれるよりも多くのものを私に与えてくれる」から。
フォークナー「彼の作品を読むと私は深い満足感を覚える。私は毎年彼の作品を読み返している」
トーマス・マン「この人の生涯ほど、我々の持っている伝記的常識を混乱させるものは他にあるまい」
アンリ・バリビュス「彼は人間をばらばらにすることができたが、その人間を立たせて、劇的な行動の主人公にしてやることもできた」
ヘンリー・ミラー(『南回帰線』)
「ある晩、私は、はじめてドストエフスキーを読んだ。その経験は、私の生涯で、もっとも重大なできごと、初恋よりも重大なできごとであった。それは私にとって最初の自発的、意識的な行為であった。それは世界の相貌を一変させた。私が最初に深い吐息をついて顔をあげた瞬間、実際に時計がとまっていたかどうか、それは知らない。だが、その一瞬、世界が停止したという事実だけは、はっきりと知っている。私は人間の魂の奥底を、はじめて瞥見したのだ。いや、もっと単純に、ドストエフスキーこそ、自己の魂を切り開いて見せてくれた最初の人間であった。/ まるで私は、あまりにも長年月にわたって塹壕のなかにおり、あまりにも長年月にわたって砲火の下をくぐってきた人間のようであった。日常的な人間の苦悩、日常的な人間の嫉妬、日常的な人間の野心――そんなものは、もはやガラクタの山も同然と思われてきたのである。/ 彼がどういうつもりで、ああいう本を書いたか」理解しているのは、アメリカじゅうで、たぶん私ひとりである…。
椎名麟三(『私のドストエフスキー体験』)
人間にとって、だれかにほんとうの意味で「出会う」ということは、何年も前の旧友に銀座でばったり出会ったり、恋人とデートの約束をして出会ったりするようなことではなく、その人に会うことによって、自分の思想や生き方が変わってしまうという、当人の歴史にとって出来事となるような人と出会うということだと思います。…
…そのころニーチェを読みなおしていたとき、ひょいとニーチェのほめている三人の作家の作品を読んでみようという気になったのであります。シュティフター。ゲーテ、とくにゲーテの『エッケルマンとの対話』、それからドストエフスキーだったんですが、その順序で読みました。…それからやっとドストエフスキーを本屋からみつけてきて読んだのでありますが、非常に強いショックを受けたのであります。それは『悪霊』という作品でしたが、自分の魂がふるえるといった感じがしたものであります。…同時に私は、その作品によって文学への目をひらかされたのであります」
武者小路実篤
大正6年にはいろいろのものがでた。自分の読んだものはごく少しだが、その内で一番感心したものは高村君によって訳し集められた『ロダンの言葉』と『カラマーゾフの兄弟』だ。/ 米川君の『カラマーゾフの兄弟』は上と中切りがまだでていないが、これは又、驚くべき本だ。世界に、こんな本が又とあるかと云ひたい。ないにきまっている。これに匹敵する小説は、世界に10とあるまい。5つもあるまい。そんな気のする本だ。驚く、驚く。ドストエフスキーは、ここで自分が一生で得たものを、のこりなく表現した。情熱と愛と信仰をもって。この本が書ければ人類は救われる、一人のこらず救ってみせる。そう思って書かれたものにちがいない。/それからついでに一寸云うが、ドストエフスキーは誰でも人間を愛していると思っている人があればまちがひだ。ドストエフスキーにも愛することができない人がある。それは俗人だ。金の為にはどんな賤しいことも平気でやる、他人のことはまるで考えない人間だ。ドストエフスキーは、世間から軽蔑され、賤し芽られている人間は愛し尊敬する癖があるが、心の賤しい、金にキタナイ、ずるく、こびへつらう、思いやりのない世渡りのうまい人間は愛していない。云うまでもないことだが。(「手帳の内より」 1917年11月29日)
◆奇しくも、この年、ロシアでは『悪霊』の嵐が吹き荒れていた。日本のインテリアはドス
トエフスキーよりトルストイの『復活』に心を奪われ革命を支持した。
酒井シジ 心の書 アリョーシャの存在
無垢で、素直で、だれからも愛されるが、人からひどく傷つけられても仕返そうとしないアリョーシャにいらだった。しかしひかれた。なぜだろう。競争社会に生き学問があり、社会的地位の高い人が偉いという価値観を根底から揺さぶったからである。だが、アリョーシャのような無垢の人は現代社会では落ちこぼれる。それはこの小説が書かれた1880年でも同じであった。著者はこのころすでに浸透していた西ヨーロッパの科学的で合理主義的社会に、普遍的意義を見いだすのではなく、この変人にこそ全体の確信を見いだしている。同時代のその他の人間が何かの風の吹き回しで、一時、この変人から離れたにすぎないという。小説でのアリョーシャは本来、神と人とのつながりを語る重い存在であろう。だが、私には、真の優しさが何かを教えてくれる存在なのである。(1994年3月22日(火)朝日新聞 夕刊 「心の書」欄)
W・シューバルト (『ドストエフスキーとニーチェ』)
「数週間前には、私はドストエフスキーの名前さえ知らなかった。私は『新聞・雑誌』などを読まない無教養の人間なのだ ! 本屋で偶然に手にとってみるとちょうどフランス語に翻訳されたばかりの『地下的精神』(レスプリ・スウテラン)が私の眼に入ったのだ。(21歳の時のショーペンハゥアーも、35歳の時のスタンダールも、全く次のような偶然であった!)血縁の本能(それとも、これを何といったらいいだろう?)が直ちに語りかけたのだ。私は喜びの極みだった」( ニーチェからフランツ・オーファーベク宛。ニース、1887年2月23日)
特集「私は、なぜドストエフスキーを読むのか」
あの伝説は真実か 下原敏彦
私は、ある文庫本の「あとがき」からドストエフスキーを知った。25歳だった。文庫本は椎名麟三の作品集。普段はSF、歴史、冒険ものを愛読していたが、石川達三の『蒼氓』がインパクトあったので、そんな本をと古本屋の日本文学コーナーをながめていたら『深夜の酒宴』が目にとまった。知らない作家だったが、気まぐれで買った。が、部屋の隅に置いたままだった。ある晩、退屈しのぎに手にとった。はじめての作家は、なんとなく「あとがき」をみる癖がついていた。読むともなくめくっていたら、ドストエフスキーの名前があった。ロシアの文豪、それぐらいは知っていたが、読んだことはなかった。しかし、これが運命の出会いだった。文豪の作家デビュー秘話が書かれていた。なぜか興味をもって読んだ。静かな春の夜だった。こんな光景がスクリーンのように脳裏に思い浮かんだ。
1845年5月6日未明、ロシアの首都ペテルブルグ。真昼のように明るい白夜の街を二人の青年が興奮した様子で駆けてゆく。一人は若手作家のグリゴローヴィチ。もう一人は当時ロシアを代表す若手詩人で編集出版人のネクラーソフ。二人は、息をきらせて大通り11番にある下宿屋に飛び込んでいった。部屋には、一人の青年が、ベットに横になって眠ろうとしていた。二人は、同時に叫んだ。「寝てる場合か !! 」ベットの青年は、吃驚して飛び起きた。走ってきた青年二人は、数時間前の夕方、ベットの青年が1年かがりで書き上げたという小説を交替で朗読した。はじめは、退屈な物語と思ったようだ。なんだ、こんな小説、2、3枚でやめようと思った。しかし二人は読みつづけた。そのうち我を忘れ、時間を忘れた。読みおわったとき二人は、感動のあまり外に飛び出した。作者に一刻も早くその感動を知らせたかったのだ。
私は知らなかったが、有名な話らしい。文豪ドストエフスキー(24)誕生の衝撃デビュー秘話である。(このエピソードは文豪が『作家の日記』のなかに書いている)この紹介文を読んだとき私が思ったのは、疑念だった。若手とはいえ新進作家と詩人が、読み終えたすぐ感動のあまり、未明の街を作者に知らせに駆けて行く。いくらすばらしい作品でも話し半分だろう。仮に感動したとしても、徹夜した明け方、二人して駆けて行くことなどあり得るだろうか。これまで読んだ小説のなかからは想起でなかった。ハラハラドキドキのストーリーはいくらでも読んできた。が、これは大げさすぎる。笑うしかなかった。だが、この衝撃エピソードには、まだつづきがあった。こんなだめ押しも紹介されていた。
友人二人は、その日のうちに作品をロシア随一の評論家のところにもちこんだ。評論家は、苦笑して「君たちによると、ゴーゴリはまるで茸みたいにやたら生えてくるんだな」と揶揄した。しかし、評論家も同じだった。読みはじめるとやめることは、できなかった。…評論家は、感激して無名の若者に言った。「まったく、君は、君の書いたものがどういうものなのか、自分で分かっているのだろうか!」(ドストエフスキー『作家の日記』)
この話は、本当だろうか…。いったい、この世にそんな小説があるだろうか…。こんな疑問が頭について離れなかった。真相は、騙されたと思って読んでみるしかないと思った。で、なぜかわからないが古本でなく新本を買った。『貧しき人々』新潮社1969年6月20日刊行 木村浩訳 定価110円。ひろげて舌打ちした。なんと手紙小説ではないか。『あしながおじさん』は、面白かったが、2度読むのはちょっとの気分だ。買って失敗したと悔いたが後の祭り。当時、私は業界紙の記者をしていた。業界紙記者は、時間を自由に使える気楽な商売だ。朝、出勤すると記者連中は、駅前の喫茶店にたむろするのが日常だ。スポーツ紙や一般紙をみたあと適時に自分の取材地区に散っていく。私は三多摩地区担当だった。当時、都下は再開発ブームだったので、記事はいくらでもあった。武蔵野、三鷹など入札発表のありそうな各市役所を回って2時までに整理部がある御徒町にもどり記事を書く。それが済めば一日は終わり。麻雀、飲み会に付き合わなければ読書時間はたっぷりあった。しかし文豪の処女作という、その物語を読むのは気が重かった。とにかく読めるところまで読んでみよう。気合いを入れて近くの喫茶店で読みはじめた。湯島の天神様の白梅が咲きはじめたころだった。
物語は、なんだかわけのわからない前振りがあり、登場人物の名前も長い。じつに読みずらい小説だ。それに、くどくどと同じ言葉の繰り返しもある。こんな手紙小説が二人の青年を感動させ。走らせたのか? ウソだろ…。いったい何なんだ ?! 2頁でやめようと思ったが、せめて10頁は我慢しよう。そんな意地で、読み進めた。ところが、気がつくと、20頁30頁が過ぎていた。いつのまに店内は、夕方の混雑のなかにあった。外は、宵の帳がおりていた。
だが私は、物語から離れることができなかった。何が面白いというのでもない。歴史や冒険小説のように血沸き肉躍るというのでもない。ひたすら手紙、手紙のやりとりなのだ。だが、ただの小説とも違った。私がこれまで読んできたフィクション、ノンフィクションの書物を超えた何かが私の心をとらえて放さなかった。私は、なにもかも忘れて読み耽った。終盤、頁を繰るのが惜しかった。最後のⅠ行を読み終えたとき、私は、これまで味わったことがないものが、胸の奥から湧き上がってくるのを感じた。 白夜の街を駆けて行く二人の若い詩人と作家。絶賛した評論家。あの伝説は、本当だった。真実だった。そのことに感動した。そして、いますぐにドストエフスキーを読まなければ。そんな強い意志を感じた。私はこんなきっかけからドストエフスキーを読み始めた。
それは面白いからです 富岡太郎
それは面白いからです。ラスコーリニコフを追いつめるポルフィーリィ予審判事や、シャートフを殺害したピョートルの組織の人々のでたらめな発言、切りー魯不の自殺、スタビローギンの告白でのチホンとのやりとり、そしてカラマーゾフの兄弟の仲の少年たち。何十年たってもその場面の「カオス」は記憶に残り、理性的学問を超えた芸術的文学の輝きに頭が下がります。物理学者の頭脳は、現実の中のコスモスだけに注目し、自分の頭脳のコスモス(思考形式)に一致した部分だけは精密に語れますが、現実の大きさは、物理学者の頭脳を「はみ出し」ていて、フクシマ原発事故のような「想定外」に驚くことになります。現実(リアル)の中のカオスは、主に人間関係のトラブル、事件、金銭などに現れ、その生々しいドラマを描き出す才能は、特に若い人たちに刺激的でしょう。
私は聖書研究会に十年以上参加し、特に貧病争災の問題(悪の問題)に悩みました。しかし「そもそも髪を信じない者にとって、それは全く問題にならない」ことは明白です。結局は死後の生以外に答えはありません。ヨブ記は道徳的に立派なヨブのうぬぼれをしかりつける髪が登場します。イエスの真の敵は婚前交渉を禁止する道徳主義者(パリサイ派)でした。そもそもアダムとイヴの犯した罪は「善悪二元論の罪」すなわち人間を善人と悪人に二分する罪です。万人愛に反し白黒つけて白い人が黒い人を滅ぼす差別の罪こそが、「知恵の実」の正体です。アブラハムは部族全体を全滅させないために、最愛のイサクを殺して神に取り入ろうとします。(大審問官みたいに)。そしてホモサピエンス(ヒト)はそれ以外の類人猿を「けがらわしい者」として「神の名のもとにおいて」殺りくします。これは「聖絶」と言い、オウムの「ボア」や植松の障害者殺しに通じる正義の殺意です。
アダムとイブの罪(原罪)を精密に理解すべきです。それは文明の罪だからです。その知恵の実は今日、キノコ雲となって私たちを破滅させるかもしれません。アブラハムのイサク殺し(未スイ)や、聖絶思想(それは白人の植民地支配に通じるものです)、パリサイ派のイエス処刑(十字架)をどこまでも考えぬき、軽べつされ、見下される救世主(イザヤ書53章)にたどりつく時、私達は生来の人間らしさ、当たり前の人間性にもどることでしょう。
「ペンキ用しすぎるとな、バカになっちゃうんだよ」というセリフは『男はつらいよ』のトラさんの名ゼリフです。そうです。私は面白いからドストエフスキーを読みました。面白くてたまらない本、一ページ一ページが夢中になってめくられてゆく読書の楽しさ。私は教育により失った何かを、文学によって回復したかのようでした。文学は不滅です。知恵の実を食べた者には。
〈若いころのドストエフスキー読書〉
『罪と罰』を読んで、すっかりドストエフスキーにとりつかれた。ナポレオン的人間が出世のために一線を超える設定は、52になった今の私には「ゲームで最強キャラになってる中高生」と見えるが、当時は血沸き肉おどる気分になった。リンチというテーマは『悪霊』にひきつがれ、虚無主義の自殺行為に結着するが、現実のロシア革命も何千万もの自国民を犠牲にしている。『カラマーゾフの兄弟』の父親殺しは、あたかも君主暗殺を象徴しており、続編のアリョーシャの革命家としての姿が浮かび上がっている。21世紀のテロ事件や虚無主義殺人事件を先取りしており、「そうか、このうぬぼれた若者たちの問題は永遠のテーマなのか」とも考える。ソーニャやゾシマが対極に示され、差別をしない愛こそが病める若者たちを救っている。今日でも「若いころのドストエフスキー読書」があるのだろう。
新 刊 紹 介
レスコフ作品集1、2 (群像社 2020年2月 岩浅武久・中村喜和 訳)
北海道在住の岩浅武久氏から、レスコフ作品集をいただきました。この場をお借りして厚くお礼申しあげます。
レスコフ作品集1(岩浅武久訳)「じゃこう牛」「ニヒリストとの旅」「老いたる天才」「左利き」を収録。
ある日突然現れたかと思えばふいに姿を消してまた帰ってくる「じゃこう牛」というあだ名の男。世の中をさかなでするような遍歴を繰り返すこの不思議な男はどこへ向かうのか…。ロシアの皇帝から与えられた課題を「左利き」の職人が見事な腕前で成し遂げて先進国イギリスの鼻をあかしたと思いきや、その技巧が思いがけない展開を呼び込んで/…。ロシアにはこんな人間が必ずいる、そんな主人公を次々と生み出すレスコフの実話と見まがう物語。
レスコフ作品集2 (中村喜和・岩浅武久 訳)
岩浅訳「アレクサンドライト」「哨兵」「自然の声」解説「物語作家ニコライ・レスコフ」
中村訳「ジャンリス夫人の霊魂」「小さな過ち」「髪結いの芸術家」
【レスコフ(1831-1895)】
ロシア・オリョール県生まれ。ロシア各地を回って最初は新聞・雑誌に社会評論を執筆、その後、首都ペテルブルグでジャーナリストとして活動。『ムツェンスク郡のマクベス夫人』、『僧院の人々』など数多くのすぐれた短編を書き、作家としての地位を確立した。生前は政治的、宗教的な見地から批判されることもあったが、ロシア革命後にゴーリキイが「言葉の芸術家」としてレスコフを高く評価し、いまやロシア文学を語るうえで欠かせない作家であることは広く認められている。
◆レスコフは、懐かしい作家である。日本でいえば大衆文学の領域にはいる。面白く、肩肘張らずに読める。新聞記事や世相を題材にしたような物語が多い。『ムツェンスク郡のマクベス夫人』が代表作か。今回、岩浅氏が訳した『哨兵』にみる物語の展開は、ストーリー作りのお手本ともなる作品である。
◆岩浅氏は、「ドストエーフスキイの会」「全作品を読む会・読書会」草創期に尽力されたドストエフスキー研究者のお一人です。例会での発表、「読書会」発足時の報告で支えました。以下は、岩浅氏の例会・読書会での当初の記録です。
【ドストエーフスキイの会発足時の例会での発表】
第11回例会 1970年10月27日『カラマーゾフの世界』
第28回例会 1973年11月22日『カラマーゾフの世界について』
【全作品を読む会での報告】
第2回読書会 『分身』1971年5月15日
第9回読書会 『クリスマス・ツリーと結婚式』『白夜』1972年1月
第11回読書会 『流刑以前の全書簡』1972年
掲 示 板
編集室から一言。 ジャーナリズムと文学
ドストエフスキーは、時代のなかに未来図を反映させることで作品によりリアリティをもたせた。レスコフは、社会面の記事を創作に転じることで作家になった。ふたりに共通するのは、ジャーナリズム的ということだろう。この言葉(ジャーナリズム的)で、思いだした本がある。『ロビンソン・クルーソー』の作者として知られるダニエル・デフォー(1660-1731)の『ペスト』である。このたびのコロナ騒動でカミュの「ペスト」が爆発的に読まれているという。だが、ノンフィクション風といえばデフォーの『ペスト』(正確には『ペスト年代記』)だろう。ペストが流行した1665年のロンドンの人口は約46万人。ペストでの死亡者数は7万5千人約6分の1の市民が亡くなったという。(行き倒れは不明)、 デフォーは、当時5歳だったが、危機意識をもち1722年に『魂と肉体を保つためのペスト対策論』というパンフレットを1カ月後に匿名で『ペスト』を出版した。
編 集 室
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