ドストエーフスキイ全作品を読む会 読書会通信 No.174
 発行:2019.6.6


第293回6月読書会のお知らせ


6月読書会は、下記の要領で行います。
 
月 日 : 2019年6月15日(土)
場 所 : 池袋・東京芸術劇場小会議室7(池袋西口徒歩3分)
開 場 : 午後1時30分 
開 始  :  午後2時00分 ~ 4時45分
作 品  : 『カラマーゾフの兄弟』 3回目
報告者  :  菅原純子さん  司会進行 熊谷暢芳さん       
会 費  : 1000円(学生500円)


ドストエーフスキイ全作品を読む会・大阪読書会第51回例会『カラマーゾフの兄弟』第8編、以下の日時で開催しました。6月15日(土)14:00~16:00・会場:まちライブラリー大阪府立大学 参加費無料 〒556-0012 大阪市浪速区敷津東2丁目1番41号南海なんば第一ビル3FTel 06-7656-0441(代表)地下鉄御堂筋線・四つ橋線大国町駅①番出口東へ約450m(徒歩約7分)お問い合わせ 小野URL: http://www.bunkasozo.com



『カラマーゾフの兄弟』読書会20年間の報告記録
   
      
2000年「イワン・カラマーゾフの座標」 釘本秀雄(読書会通信No.61) 
2000年「『カラマーゾフの兄弟』における作中作家と悪魔について」長瀬隆(読書会通信No.112)
2009年「『カラマーゾフの兄弟』の魅力」長野正(読書会通信No.113) 
2009年「『未成年』から『カラマーゾフの兄弟』へ」長瀬隆( 読書会通信No.114)
2009年「はたして『カラマーゾフの兄弟』におけるアリョーシャの人物像とは」菅原純子(読書会通信No.115)
2009年「『カラマーゾフ』又は『ドストエフスキーと私』」・新美しづ子・江原あき子・今井直子・鈴木寛子・平 哲夫・石井郷二・土屋正敏・長谷川研 (読書会通信No.116) 
2009年「スメルジャコフとアリョーシャの時代」長谷川研 (読書会通信No.117)
2009年「『大審問官』ヴィジョンとしての世界」北岡淳也(読書会通信No.118)
2010年『カラマーゾフの兄弟』金村繁(読書会通信No.119)
2010年「『カラマーゾフの兄弟』『おとなしい女』」フリートーク(読書会通信No.120)
2010年『カラマーゾフの兄弟』フリートーク(読書会通信No.121)
2010年「カラマーゾフのこどもたち」山城むつみ評論をめぐって 福井勝也/「詩人田村隆一とミーチャ垂直的人間の系譜」土屋正敏(読書会通信No.172)
2019年「大審問官」1回目 野澤高峯(読書会通信No.173)
2019年「アリョーシャの学校」2回目 江原あき子(読書会通信No.174)
2019年「『カラマーゾフの兄弟』の世界」菅原純子 



6・15読書会
 
『カラマーゾフの兄弟』3回目
報告者 菅原純子さん  司会進行 熊谷のぶよしさん

『カラマーゾフの兄弟』の世界
                              
菅原純子

1. 中村勘三郎と、ドストエフスキーの原点である人間の謎に関して
2. ロシアの『カンディード』を書くことというメモと、3.11ならびにリスボンの大震災
3. 『カラマーゾフの兄弟』の中にあるヴォルテールに関する点
4. 第五編の章と、第六編との関連性
5. 受難した子供
6. 真の父親とは
7. 受難した子供スメルジャコフのたどる道
8. アリョーシャにとって、スメルジャコフは何だったのか
9. 反逆の章の子供の受難の問題、現代日本における幼児虐待の問題も含めて
10. 神義論―弁神論と反逆の章の関連性

これらの点の中で、5・6・7・8・9を中心として報告することとし、詳細につきましては、報告当日レジメとして配布いたします。



4・20読書会報告 


2019年4月読書会、参加者16名
平成最後の読書会は『カラマーゾフの兄弟』2回目は桜は散り、新芽がではじめた季節。新学期、新年度がはじまって、毎年、どこか忙しい晩春です。ことしは、5月1日発表の新元号が待たれるということもあって、落ち着かない日々がつづきました。そんななかでの『カラマーゾフの兄弟』2回目の報告。16名の皆さんの参加がありました。初参加の人は二人(HPを見て)でした。
このところ嫌な、悲惨な事件事故が相次ぐ令和元年です。そんななか『カラマーゾフ』の結末に安堵させられます。アリョーシャは、なぜ心優しき博愛主義者に成長できたのか。虐待、イジメ、パワハラが毎日のように報じられています。こどもたちの悲劇に発表者の江原あき子さんは、悲しみと憤りをもちながらもアリョーシャの言葉に希望をよせました。

【質疑応答での意見・感想、その他の言葉】

・アリョーシャの人物像を造形した黄金時代
・「アリョーシャの本能の形成」母の死後=思い出美しかった。幼いころの母の思い出。
・子供時代の「最後の思い出を大切にしている」
・嫌な思い出をいい思い出として残す。
・イワンの言葉「こういう人生の活動を」
・傷ついた心があっても生きていたい。少年たちとアリョーシャ。
・コーリャ=母の愛情があるから活躍できる。
・犯罪―どうしてこうなるのか。
・改めて母親の大切さ、重要性を知った。が、東大でいまも女性差別があると知って驚いた(入学式の祝辞が話題になり新聞記事になった)

東日本大地震の時の大川小学校、どこに問題があったかで議論白熱
・教師の指導下で108名中74任の尊い命が犠牲になった。
・大川小の教育は正しかったのか。被害は不可抗力とみるか。
・コーリャのその後、これからの読み。



連載      

ドストエフスキー体験」をめぐる群像
(第83回)堀田義衞のドストエフスキー、小説『時間』(1955)について

福井勝也

前回は堀田善衞の上海時代の 新発見文書「文学の立場」(1946.3)に触れて、そこには
「ドストエフスキー以上のものが出なければ到底間に合わないのだ」「ドストエフスキイ以上の無気味な作品」の切望が説かれ、さらに「まことの苦悩に鍛え抜かれた人間像を我々は生まなければならぬ。近代の超剋はそこに完成する」。とまで堀田が述べていたことを引用した。そして現在当方読書中の『時間』(1955)という小説が、その「文学の立場」の延長に書かれた小説であろうと指摘した。以下重複するが前回のその部分に戻って、補足修正しながら書き継いでみたい。

この『時間』は、南京事件(1937.12)という、今日なお日中両国間の「棘」のような歴史事実、それのほぼ一年間の時間経過(1937.11/30~1938.10/3)を「日記体」で書き記した小説である。無論読みながら、読者は酷い場面に直面させられる。しかし、その日記には、12月13日(Xデー、南京陥落占領)前後についての直接的な描写はなく、半年位経ってから身内の悲惨な出来事が中国人主人公に告知されるかたちをとっている。この場面の一読後、『時間』は所謂「戦場小説/反戦小説」の類いとはおよそ異なる印象を抱いた。

筆者は、本欄執筆後石川達三の『生きている兵隊』(中公文庫、1999年、伏字復刻版)を読んでみた。こちらは元々、昭和13(1938)年3月号「中央公論」に発表され、すぐに発禁処分となり、国民の眼に触れたのは敗戦後間もなく(昭和20年末)であった。新進作家の石川(当時32歳)は、従軍記者として昭和13年1月5日に南京に入り、なまなましい事件後の状況を取材して、間もなくそれを「ルポルタージュ/小説」として発表した。それがすぐに回収され、石川は裁判にもかけられ刑事処分まで科せられる経緯を辿った。

この小説の当方の感想としては、半藤一利氏の本文庫解説文を一部引用しておきたい。
「いま読めば、とりわけ反戦小説とか、反軍小説と言うわけでもないことが分かる。べつに「皇軍」内部の非人道的な残虐・不法を暴き立てているわけではない。内部告発なんかではないのである。誤った読み方をすれば、たとえば敵味方の観点からだけでみれば、逆に戦意と士気を鼓舞されるような人もあるかも知れない。公平にみて、日本軍の戦闘下の実態がリアルに、そして幾分かニヒリスティックに描写されている作品なのである」

なお、文士石川の名誉のために、同解説から公判時の石川の意見陳述も引用しておく。
「国民は出征兵士を神様の様に思い、我が軍が占領した土地にはたちまちにして楽土が建設され、支那民衆もこれに協力しているが如く考えているが、戦争とは左様な長閑なものではなく、戦争というものの真実を国民に知らせることが、真に国民をして非常時を認識せしめ、この時局に対して確乎たる態度を採らしめる為に本当に必要だと信じておりました。殊に南京陥落の際は提灯行列をやりお祭り騒ぎをしていたので、憤慨に堪えませんでした」と記されている。戦後には社会派作家として名を馳せた作家魂が、戦場兵士の生の現実に触れた言葉となってここに露出していると思った。さらに、これは半藤の解説にはないことだが、戦後の東京裁判(昭和23年11月判決)にあって、「南京虐殺」の事実が初めて国民に知らされることになるわけだが、石川はその裁判での証人出頭を拒否し、東京裁判に加担しなかった事実があることにも触れておく(なおここでの文章は、半藤氏の解説に多く負っていることを記しておく)。

やや長く横道に逸れるように石川の『生きている兵隊』について言及したが、それは堀田の『時間』との差異を考えたかったからである。正直に言って、『生きている兵隊』は、予想よりも新鮮に価値ある作品として読めた。何より『生きている兵隊』が当時の時代環境にあって、速攻で書かれた「ルポ・小説」で今日においてこそ貴重な歴史資料的作品であると感じた。むしろ、堀田の『時間』との併読を広く奨めたいと思った。

おそらく堀田は、この石川の作品を読んでいただろう。そのうえで、堀田が中国人の主人公に「日記体」小説を認めさせるについて、
「わたしの心掛けていることは、ただ一つである。それは、事を戦争の話術、文学小説の話術で語らぬこと、ということだ。」(岩波現代文庫、p.47)と宣言させていることは意味深だ。おそらく、堀田は『生きている兵隊』を意識し、さらに、「ドストエフスキイ以上の作品」をここで書こうとしたのだと思う。堀田はドストエフスキー文学の何に着目し、それをどう超えようと試みたのか?

実は『時間』という作品は、その取り上げた題材(「南京虐殺」)の程に、そして本人が危惧(「不吉な予感」)した割には、これまでそれ程多くが論じられて来なかった経緯がある。岩波文庫解説(2015)を書いた作家の辺見庸氏もこの問題に触れている。辺見は「
『時間』の単行本と文庫は多くの読者に読まれた。がなぜかこれがマスコミや文壇で大きな話題になったという記録はない。世論のはげしい攻撃にさらされることもなく、やんやの賞賛をあびることもありはしなかった」と書いている。そしてその事態が示す因果として、「堀田善衞の「不吉な予感」とは、いまも宙づりになったまま終わることができないでいることのできごとの絶望のふかみを、『時間』を書くことで知ってしまうことだったのではないだろうか。戦争はそのじっさいの連続的時間に継起する「全景」を、だれの肉眼によってもいまだしかとはみられたことのない、おそらくは人間社会固有の普遍的な現象である」と説明している。ここには『時間』によって辺見が読み取った「戦争の時間」の捉え難さが語られていよう。やはり堀田がこの小説のタイトルを『時間』とした意味は大きいと思う。そしてそれは、その従来の小説的叙述の意識的忌避の宣言となり、そこにはドストエフスキーの文学が陰に陽に影響していたと思われる。

とにかく発表当時(1955)、『時間』はほぼ理解されなかった。その小説表現が、観念的、形而上学的であると評され(佐々木基一の解説等)読み難い作品として片付けられた。結果その主題(「時間」)が十分論じられぬまま、その題材(「南京事件」)も左程問題にならなかったというのが真実ではなかったか。いずれにしても『時間』は、堀田文学全体にあっても特筆すべき重要な作品で、今日やっと再発見されようとしていると感じる。その際に拠り所となるのが、ドストエフスキー文学なのだと思う。確かに堀田はそれを参照していた。前回触れた『地下室の手記』を踏まえ、なおそれを越えようとした「メタ小説」との当方の見立てはその趣旨であった。『時間』には、堀田の時代を先取りした文学ジャンルへの思いもおそらく潜んでいた。堀田は、
「それ(『時間』)なんかもぼく自身は、これは小説かな、エッセイじゃないかな、というふうに考えています。小説、あるいは、ロマン――強いて在来風に、小説であるかどうか、疑う気持もあるんですね」(「私の創作体験」、全集2巻解題、p.654)と何気なく語っていた言葉が印象的だ。

『地下室の手記』は「形而上学的小説」とも称されるが、『時間』には「南京虐殺」を経た人類の主人公、アンチ・ヒーロー(「死産児」)の日記体独白における「形而上学的告白」を含み、アンチ・ロマンの小説形式を指向している。無論、ヨーロッパ近代が仮想した理性的人間像の徹底した崩壊が前提されている。堀田は「地下室」のその先に、何を模索しようとしたのか?

堀田は、小説の主人公に欧州に留学経験のある中国知識人を当てている。これは、被害者の中国人の側から主題を描こうとした堀田の創意が伺える。しかしその主人公は、単に被害者であるに止まらず、同じ中国人を<見殺し>にしたことによる罪の意識を持つ加害者でもあって、その「存在」は幾重にも「地下室人」の如く「分裂」を強いられている。すなわち、その語り手の陳英諦は、現在37歳で10年前の1927年(4/12)国民革命/上海暴動の際、蒋介石の弾圧に抗して学生として闘った過去も持つ(生年には、「太平天国の乱」が生起)。彼の愛する妻(莫愁、本名清雪)も息子(英武)も「日軍」に既に殺された事実を伝聞的に知らされる。奇跡的に生き延びた主人公(身分は、南京中華民国政府の海軍に属する文官)は、南京陥落後接収された邸宅で、特務機関の桐野大尉の「下僕兼門番兼料理人」として仕えている。と同時に、その地下室の無電機から機密情報を友軍に打電する者で、部下五人を指揮監督する上級諜報員でもある。そしてその打電の傍ら、ノートに私的に書き印す「日記」の中身が『時間』という本小説なわけだが、その総体が「地下室の手記」という言い方もできるだろう。

ここで最近の、『時間』のもう一人の評者である四方田犬彦氏の言葉を引用してみよう。
以前にも紹介した、上海での新発見文書「上海・南京」の解説「エッセイ 時間の外側にある眼差し」(『すばる』」2018.9月号)のほぼ末尾の一節である。
「『時間』を南京大虐殺を描いた、先駆的な文学作品として評価することは容易である。<中略> とはいうものの、作品を表象されている歴史的素材に還元するだけでは、『時間』という作品の意義を単純化してしまうことになるだろう。『時間』において本質的なことは、歴史の悲惨を単に表象することではない。歴史という観念の外部に屹立している絶対的な基軸に向き合うことだ。基軸の一見して非人間的な相貌の奥に、人間を悲惨から解放する契機を見出すことだ。南京を訪れた堀田善衞は、歴史の終焉の後の風景を紫金山に見た。 『時間』の主人公は、地下室で書き続ける。
「夜半、たった一人。
 わたしは、たった一人なのだ。
 妻の莫秋も、その腹から生るべくして生れなかった(?)――これもわからない――子
供も、英武も、楊嬢も洪媼も、誰もいない。恐らく、みな、この日記の途絶えたところ
に書いてある、何万人の一人になってしまうだろう。
  そして、このわたしは、殺されて、人間ではなくなった、自然にかえった一人一人の
かさなった何万人よりも、もっと人間ではないものになった自分を、いまここ、地下室
に運び込んでいる‥‥。」
(「文庫」p.64、太字は当方筆者によるもの、注)

四方田氏のエッセーは、「人間の終焉」「歴史の終焉」後の世界を生き延びた主人公(=「地下室人」)を描こうとした小説『時間』の起点が、堀田が上海に渡って間もなく1945年5月に武田泰淳との南京旅行で見た紫金山であったことに触れている。そしてこの「紫金山」は、小説中にあって、それと優に相対しうる黒い「鼎」一個(p.71)の存在と同様な物として語られている。ここでは、『時間』の主題が、この「紫金山」と「鼎」の世界、そこから流れ出す「もう一つの時間」であることが明らかにされている。堀田は、1955年4月、新潮社から刊行された『時間』の帯につぎのような「著者の言葉」を書き記していた。

「思想に右も左もある筈がない。進歩も退歩もあるものか。今日生きてゆくについて、我々を活かしてくれる、母なる思想――それを私は求めた。この作品は、根かぎりの力をそそいで書いた。良くも悪しくも書き切った」
(堀田善衞全集2巻解題、p.654)

素直な執筆意図が語られている言葉だと思う。率直過ぎて読み過ごして来たものではないかとすら感じる。堀田が求めた、今日生きてゆくについて、我々を活かしてくれる、母なる思想とは何か。この小説では、極限状況を生き残りながら「恐かったの、生きているのが恐いの‥‥」。と言って最後まで自殺を繰り返す主人公の従妹、楊柳の「死ぬのは、恐くない、ちっとも。だから飲んだの」との科白に頷きつつも男が思う言葉がある。

「人生は、この時間は、われわれが普通想っているように、生から死へと向うだけのものではなくて、死の方からもひたひたとやって(・・・)来て(・・)いる(・・)、そして現在の瞬間は、いつもこの二つの時間が潮境のように波立ち、鼎の油のように沸き立っているという、そんな風に在るのかもしれぬ。その潮境には最初のものも終末のものも、戦争も虐殺も強姦も、一切が相接合し競合している。だから、」(「文庫」p.251)
と言って、主人公(陳英諦)は、生き残った従妹の楊柳を励まそうとする。この心中の科白を引用しながら、堀田が晩年に述べた「過去と現在が前方にあるものであり、したがって見ることができるものであり、見ることのできない未来は、背後にあるものである」「われわれはすべて背中から未来に入って行く、ということになるであろう」(『未来からの挨拶』、1995)と言う、「時間論」が先取りされていることに気が付かされた。 (2019.5.21)



ドストエフスキー文献情報  提供=佐藤徹夫さん
(2019.4 ド翁文庫)        
           
◎『罪と罰』PhilliP Breen(フイリップ・ブリーン台本・演出)関連
○台本:「悲劇喜劇」72(2)=797増大号(2019.3.1)p199~262 ※翻訳:木内宏昌
○〈指定席〉ドストエフスキーの名作『罪と罰』を舞台化。殺人者となる青年に三浦春馬が挑む/木内弓子「朝日新聞」2018.10.18 夕刊 p8 ※既報
○苦悩する青年 罪の先には/『罪と罰』三浦春馬がラスコリニコフ役/星賀享弘「朝日新聞」2019.1.10 夕刊p3
○〈舞台・音楽 評〉Bunkamura『罪と罰』にじみ出る宗教的 主題/大笹吉雄 「朝日新聞」2019.1.17 夕刊p3
○「fheater cocoon 罪と罰 プログラム」(2019.1.9より)29.3×22.5㎝ 広告込/52p内容:主催者あいさつ/出演者リスト/スタッフ・リスト/※以下、出演者の肖像とコメント、稽古場写真等 詳細は省く
◎『罪と罰』つながりであと2件
○ひとつは、作家・橋本治さんが1月29日に病没したこと。これで以前予告した(「通信169」)「落語世界文学集」の「人情噺 罪と罰」が実際に刊行されるかどうか分からなくなってしまった。出版社(河出)に確認していない。
◎もう1件は、タイトル「手塚治虫、若き日に新劇『罪と罰』に出演!?」となる。『手塚治虫と戦時下メディア理論 文化工作・記録映画・機械芸術』[大塚英志著 星海社(発売:講談社)2018.12.25〈星海社新書・144〉¥1400+]
 を入手。その第3章が、手塚版[罪と罰]は「スト―リーまんがの実験だった」(p133~177)。内容は手塚版の漫画を1935年の映画ピエール・シュナール監督版と比較していて興味深い。ドストエフスキー関係の資料を収集して書誌を作成しているのだが、ほとんど未見のものを用いて論じていることに驚く中で、
「…手塚が学生演劇に参加していた時の回想…」を収録しているというが、本当だろうか。役名もはっきりしない。興味津津。ドスト情報もここまでかと悩んでいる時に天の声!たまたま書店で眺めた。「図書新聞」の3月30日号(3393)に『関西戦後新劇史 1945-1964』(晩成書房2018.11.30 ¥3000+)が永田靖氏によって紹介されていた。新劇史についても多少追跡したことがあるので新資料として入手してみることにした。これが実に大当たり。「第二章 関西戦後新劇の出版(p18-26)」の冒頭、「関西新劇合同公演(p20以下)に記録されているのだ。1947(昭・22)年11月27,28日 大阪朝日会館で、『罪と罰』が公演され、手塚は「ペンキ屋ミトリ」
役で出演している。この公演の記事がさらに2頁記されている。
◎今度は別件。最近好調な頭木弘樹氏の新著、『ミステリー・カット版 カラマーゾフの兄弟』ドストエフスキー著、頭木弘樹編訳 春秋社 2019.3.20 ¥1700+春秋社創業100周年記念出版。あの『カラマーゾフの兄弟』をほぼ1日で読破できてしまう。 (2019.4.4)

広  場 

過去からの号外ビラ (編集室)

デカブリストの悪夢ふたたび 暴動を企むフーリェ主義者一斉検挙!!
(1849年4月23日夕刻版) 

4月23日未明、政府当局(第三課)は、兼ねてよりペテルブルグ市内において国家転覆を共謀する秘密結社金曜会の内偵をすすめていたが、このほどその容疑が固まったことから同会の会員34名をそれぞれの自宅で逮捕した。この会は9等官ペトラシェフスキー(28)が昨年はじめに「友人を迎える日」として発足したもので、毎週金曜日の夜に開かれていた。会員のなかには詩人、大学生、役人ら知識人多数の他に近衛部隊の将校も含まれていた。

皇帝直属第三課が指揮 逮捕者のなかに作家ドストエフスキイ氏の名前が!!

内務省は、昨今の諸外国にみられる不穏な情勢から我が国における秘密結社の活動を危惧し同会の実体を密かに調査してきたが、この度ほぼ、その陰謀計画の全容が把握できたことから一斉逮捕に踏み切った。皇帝直属の第三課が直接、指揮をとった。ニコライ一世は24年前のデカブリストの反乱の悪夢を思いだされて「事態は、重大である。一部には、たわいない部分があるとしても、放ってはおけない」と、憂いておられた。

逮捕者のなかに、『貧しき人々』の作者ドストエフスキイ氏(27)の名前があった。。文壇に衝撃走る。氏は2年前、処女作『貧しき人々』を引っ提げて文壇にデビューした。関係者は一様に「あの青年が、そんな大それたことを…」と驚きをかくせない。氏は、会では、主犯格のペテラシェフスキイに次ぐ重要人物とのこと。
ド氏は毎週ひらかれる金曜会に出席、社会撹乱をはかった文書や小説を朗読、陰謀の早期実行をあおった。彼らの目指す農奴問題、裁判制度、検閲制度の改革をすすめるためにド氏は「そのときは蜂起するしか手がないじゃないか!」と扇動していたという。下記は主な逮捕者。

ペトラシェフスキイ(28)  グリゴーリェフ(20)モンベルリ(28)リウォフ(25)  スペシネフ(28)ドストエフスキイ(27)ヤストルジェムブスキイ(35)ドウロフ(33) トーリ(26)チムコムスキイ(34)他24名

各地で暴動が頻発した。
1846年 民衆蜂起27件・地主殺害12件/1848年 民衆蜂起45件・地主殺害18件


予備校graffiti

ドストエフスキイ研究会で出会った青春(3)
音大生Kさんとバッハと聖書
      
                            
河合文化教育研究所研究員  芦川進一

★Kさんがドストエフスキイ研究会を訪ねてきたのは、彼女が大学を卒業した直後のこと、研究生として専門の声楽に更に打ち込む態勢を整えている時でした。参加を希望する理由として、Kさんが私に語ったのは、次のようなことでした。

「声楽の分野で、私たちがよく取り上げるのは、バッハのカンタータやモテットや受難曲、その他のミサ曲などで、これらは皆キリスト教と密接に結びついた宗教曲です。でも私たちは、クリスチャンの方を除けば、聖書など殆ど読んだことがありません。それなのに神やキリストを讃美する宗教曲を主要なレパートリーに組み入れていて、ラテン語の聖句を用いた歌詞の意味も分からず、それに平仮名のルビを振り、大きな声で歌い続けています。これは正直苦しく、バッハにも申し訳ないと思うのです。」「先生のドストエフスキイ研究会では、ドストエフスキイの作品を読むにあたって、その背景・土台となっている旧約新約聖書も同時に読み進めているとお聞きしました。今までドストエフスキイも聖書も殆ど読んだことがない私ですが、しばらくこちらに参加させて頂き、学ばせて頂けないでしょうか?」

★ドストエフスキイ研究会に参加を希望する人の中で、これほど明確な状況判断力と自己認識力・自己批判力を持ち、これほど学びへの熱い動機を持ち、礼儀正しい人はさすがにそういません。私は喜んでKさんをメンバーとして迎え入れました。
 そしてその後Kさんが聖書と向き合い、そこで学んだことがKさんの心に如何に大きなインパクトを与えたかということは、傍で見ていても明らかでした。その例を以下に二つほど挙げたいと思います。

★新約聖書の冒頭には「マタイ」と「マルコ」と「ルカ」、そして「ヨハネ」という名が冠された「福音書」が四つ連なっています。これらは皆、マタイやマルコなどの福音書記者たちが、それぞれ独自の視点から編集した「イエス伝」です。イエスが十字架上で磔殺されてから四十年以上近くの年月が経っても、その生と死の衝撃はますます強いものとなり、人々はこの人物とは一体誰であったのか、一体彼は何をなしたのか改めて問うに至り、パレスチナ各地で伝承が集められ、次々とその伝記が編纂されることになったのです。それゆえイエスという存在について、その言葉と行動について我々が取り上げて考える際には、それがどの福音書の報告するイエスであり、その言動であるかについて、ある程度の区別をしない限り、曖昧で恣意的なイエス像しか結べないのです。

★新約聖書学とは、このことを様々な角度から厳密に追求し、出来る限り正確な歴史的イエス像の構成を目指す学問ですが、私が注目してきたのは、主観的な感想かも知れませんが、バッハという作曲家が、そしてドストエフスキイという作家が、どの聖書学者にも劣らぬほどに聖書を読み込み、どの聖書学者にも劣らぬほどに深く豊かなイエス像を探り当てた人たちであるということです。バッハの主な受難曲は「マタイ受難曲」と「ヨハネ受難曲」ですが、バッハがこれら受難曲を、如何にそれぞれの福音書の深い理解の上に構成し創り上げたか、ドストエフスキイもまた、それぞれの福音書を如何に的確に深く読み込んだ上で、その作品中に用いているか、これらは驚くべきものがあります。Kさんはこれらの事実を知って、しばらくは呆然としていました。

★もう一つの例はイエスの母マリアのことです。Kさんが何よりも驚いたのは、西洋のキリスト教世界で「聖母マリア」として崇められ、場合によってはイエス・キリストよりも広く熱烈に崇拝されているとさえ思われるマリアが、福音書世界の現実においては、息子イエスの言動を理解し切れぬ母であり、息子イエスから叱責さえされる存在であることを知った時でした。つまり福音書世界の「生母」マリアが、キリスト教世界の「聖母」マリアとなるまで、そこには如何なる歴史があり、人間の宗教的認識のメカニズムが働いているのか、そう容易には説明のつかない問題が存在することをKさんは知ったのです。Kさんは常識の上に胡坐をかく怠惰さの危険について、また「アヴェ・マリア」を始めとして、自分たちが歌う宗教曲についての理解の浅さについて、改めて愕然とさせられたのでした。 

★様々な事情で、Kさんがドストエフスキイ研究会に参加したのは一年足らずの間でした。しかしKさんの聖書との出会いについての報告は、以上で十分と思われます。後はKさん自身が、自らの学びの体験を基に(その後海外留学をしたとの噂も聞きます)、やがて何時の日か、自らの言葉と歌唱とで、報告をしてくれるはずです。
(河合文化教育研究所HP「予備校graffiti?」より、6月末UP予定)

前回に続いて河合文化教育研究所HP、「ドストエフスキイ研究会便り」の新連載「予備校graffiti(グラフィーティ) ― 私が出会った青春 ―」からの一部です。三十年余りの間に、ここで聖書とドストエフスキイとに誤魔化さず対峙し続けた若者たちの中からは、新しい「ドストエフスキイ世代」が確実に生まれつつあることを感じさせられます。半年にわたる連載で、約四十人について報告をする予定ですが、ドストエフスキイの肖像画と肖像写真についての考察・デッサンも掲載中ですので、よろしかったらこれもご覧下さい。(芦川)

芦川進一著 河合文化研究所 2016.4.20
『カラマーゾフの兄弟論 砕かれし魂の記録』

芦川進一著 河合文化研究所刊 2007.12.5
「『罪と罰』における復活 ドストエフスキイと聖書」



青空文庫より

初めて「カラマゾフ兄弟」を読んだ晩のこと
(『感情』大正6年4月)
室生犀星

 私はふと心をすまして
 その晩も椎の実が屋根の上に
 時をおいてはじかれる音をきいた
 まるでこいしを遠くからうったように
 侘しく雨戸をもたたくことがあった

           郊外の夜は靄(もや)が深く
           しめりを帯びた庭の土の上に
           かなり重い静かな音を立てて
           椎の実は
           ぽつりぽつりと落ちてきた
           それは誰でも彼(か)の実のおちる音を
           かって聞いたものがお互いに感じるように
           温かい静かなしかも内気な歩みで
           あたりに忍んで来るもののようであった

 私は書物を閉じて
 雨戸を繰って庭の靄を眺めた
 温かい晩の靄は一つの生き物のように
 その濡れた地と梢とにかかっていた
 自分は彼(か)の愛すべき孤独な小さな音響が
 実に自然に、寂然として
 目の前に落ちるのをきいていた

           都会のはずれにある町の
           しかも奥深い百姓家の離れの一室に
           私は父を亡(うしな)って
           遠く郷里から帰って座っていた
           あたかも自らがその生涯の央(なかば)に立って
           しかも「苦しんだ芸術」に
           あとの生涯にゆだねつくそうと心に決めた
           深い晩のことであった



掲示板


「ドストエーフスキイの会」発起人代表を務められた
「新谷敬三郎先生を偲ぶ会」の録音記録が、この度、編集室に寄せられました。折しもドスト会50周年記念の年、嬉しい贈り物です。制作された佐々木寛様には、御礼申し上げます。(編集室 提供=福井勝也さん)

祝・「ドストエーフスキイの会」発足50周年
ドストエーフスキイ広場 No.28 2019  会発足50周年記念号

NHK文化センター 柏市民講座
講師・下原敏彦 
「ナポレオンになりたかった青年の物語」『罪と罰』を読む
―ドストエーフスキイ全作品を読む会「読書会」で培った市民目線で読み解く―
4つの謎に挑戦        
一、才能ある青年は、なぜ殺人者になったのか。強盗殺人に固守したのか
二、英雄は世界人類を救うことができたか。平和と幸福をもたらしたか。
三、フセイン元大統領は、なぜ『罪と罰』を持っていたのか。
四、この小説が真に伝えたいことは何か。

追悼 読書会通信の読者だった森和朗さんが今年1月25日亡くなられました。享年82歳。森さんは、本を出されるたびに「編集室」に御寄贈くださいました『ドストエフスキー闇からの啓示』(中央公論社1993.11.15)他。最後にお会いしたのは2018年11月23日(金・祝)日本大学芸術学部でひらかれた「清水正・ドストエフスキー論執筆50周年」の会場でした。お元気なご様子でした。最後にいただいたご本は、宗教と政治を題材にした壮大な歴史ドラマ『東西を繋ぐ白い道』(鳥影社2017)でした。ご冥福をお祈り申し上げます。

新刊 
高橋誠一郎著『「罪と罰」の受容と「立憲主義の危機」』2019年2月27日 成文社 定価2000円+税  北村透谷から島崎藤村へ 「明治維新」150年を辿る。
武富謙治『古代戦士ハニワット』1巻4/26、2巻5/27連続発売!『鈴木先生』の作者武富謙治さんのオリジナル新作が発売されました。「久々のオリジナル、全力そそいでいます!!」のコメント/武富謙治原画展開催 マンガナイトBOOKS カフェ&ギャラリー 前期5/10~18 後期5/21~6/1(提供=福井勝也さん)



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