ドストエーフスキイ全作品を読む会 読書会通信 No.166
 発行:2018.2.1


2月読書会は、下記の要領で行います。
 
月 日: 2018年2月10日(土)
場 所: 池袋・東京芸術劇場小会議室7(池袋西口徒歩3分)
開 場: 午後1時30分 
開 始: 午後2時00分 ~ 4時45分
作 品: 『おかしな人間の夢 ―空想的な物語―』
     米川正夫訳『ドスト全集15巻 作家の日記(下巻)』(河出書房新社)
報告者: 梶原公子さん  司会進行=太田香子さん     
会 費: 1000円(学生500円


ドストエーフスキイ全作品を読む会・大阪読書会の第44回例会
2月3日(土)14:00~16:00 会場:まちライブラリー大阪府立大学 参加費無料 作品は『未成年』3編 〒556-0012 大阪市浪速区敷津東2丁目1番41号南海なんば第一ビル3FTel 06-7656-0441(代表) 地下鉄御堂筋線・四つ橋線大国町駅①番出口東へ約450m(徒歩約7分) 小野URL: http://www.bunkasozo.com    



2018年 本年もよろしくお願い申し上げます 
5サイクルもいよいよ大詰めです。宇宙は膨張しているといいますが、時間においては収縮している。そのように感じるこの頃です。平成20年にスタートした全作品を読む会、5サイクルは、まさに光陰矢のごとし。あっという間の10年でした。時間旅行はますます速さを増すばかりです。が、人間の心は遅々として進みません。140年も前にドストエフスキーは小説のなかで、その謎を追っている。1839年8月16日 兄ミハイルへの手紙 「人間は神秘です。それは解き当てなければならないものです。もし生涯それを解きつづけたなら、時を空費したとはいえません。ぼくはこの神秘と取り組んでいます。なぜなら人間になりたいからです。」(以後、ドストエフスキーは生涯、作品・論文・作家の日記などで人間探究をつづけた)。

人間とは何か どこから来て、どこに行くのか 映像世界で挑戦した2監督がいる。
『2001年宇宙の旅』(にせんいちねんうちゅうのたび、原題:2001: A Space Odyssey)は、アーサー・C・クラークとスタンリー・キューブリックのアイデアをまとめたストーリーに基いて製作された、SF映画およびSF小説である。映画版はキューブリックが監督・脚本を担当し、1968年4月6日にアメリカで公開された。小説版は同年6月にハードカバー版としてアメリカで出版されている。
『惑星ソラリス』(原題ロシア語:Солярис、サリャーリス、英語:Solaris)は、アンドレイ・タルコフスキーの監督による、1972年の旧ソ連の映画である。ポーランドのSF作家、スタニスワフ・レムの小説『ソラリス』(早川書房版での邦題は、『ソラリスの陽のもとに』) を原作としているが、映画自体はレムの原作にはない概念が持ち込まれており、また構成も大きく異なっている。1972年カンヌ国際映画祭審査員特別賞受賞。1978年、第9回星雲賞映画演劇部門賞受賞。 (編集室)



2月10日(土)読書会
報告者 梶原公子さん  司会進行 太田香子さん
『おかしな人間の夢―空想的な物語』(1877)

―ドストエフスキー作品に頻出する人間のタイプについて―


梶原公子

1、「おかしな人間」と呼ばれる人について
はじめに「おかしな人間」に焦点を当てる。というのも学校、教員という狭い世界からというカッコつきだが、「奇妙な人」「変わった人」「変な人」が生きづらくなり、学校や社会の少数派になっている。だが、90年代中ごろまでいわゆる「おかしな人間」と呼ばれる教員は多かったと思うからだ。私が出会った二人の教員、さらに「ニート」の若者を紹介しつつ「おかしな人間」の話しの糸口としたい。
① インド先生
・ シングル、もうすぐ40歳の男性教員。夏休みなどの長期休暇は必ずというほどインドに行き、そこがどんなに素晴らしい国かを話すことから、生徒はそう呼んでいた。生徒も教員もある種の尊敬をもって接していた。
・ 学校の近くの一軒家を借り、電気はつけずにろうそくなどで灯りを取っていた。
・ 縁側のあるその家は戸をいつも開け広げていて、落ち葉などが舞い込んでも「自然」に任せていた。お風呂はめったに入らないらしい。
・ 服装は紺色のコール天ジャケットとズボン、学校内では卒業生が捨てて行った上履きや体育館シューズを拾って履いていた(特に体育館シューズはほとんど履いていないものが多く、卒業式のあとそれが山ほど捨てられていた)。靴は左右別々でも平気で履いていた。「まだ十分使えてもったいない」という理由なのだが、私もまねて何足か拾って愛用した。
・ 髪は自分で「夜、月を眺めながら刈るんです」と言っていた。
・ ある時昼食風景に出くわしたが、机の引き出しから生のピーマンをまず取り出し、そのまま丸かじりし「新鮮でおいしいですねえ」。次にパックごと豆腐を取り出し、スプーンですくって食べた。
・ 住み方も、食べ物も、生き方も「自然」「あるがままの姿」を重んじる。そこに真実があると考えていた。
・ 年金権を獲得したのち退職(多分42歳)、100万円で山間部の農家を買い取ってくらすようになり、かつての教員仲間がよく訪問していた。

② 「笑うせえるすまん」氏
・ 30代前半、シングルの男性教員。前任校はその地域の二番手の進学校。「一番校に追いつけ、追い越せという馬鹿げた進路指導についていけなかった」。その学校になじめず、自分の準備室を確保し、机を段ボールで囲んでそのなかにいつもこもっていた。「前任校は孤独だった」
・ かなり親しくなってからの自己紹介。「自分の両親はかつての帝大と有名音大の出身、だから自分はサラブレッドなんです。一つだけ親に引け目がある。それは数学が苦手でどうしても私大しか行けなかったこと。でも、一流私大です」。自分の頭脳に対する尊大ともいえる自尊心がある。
・ 外貌はアニメ「笑うせえるすまん(喪黒福造」)によく似ている。笑うせえるすまんは、大橋巨泉がモデルといわれるが顔も身体つきも彼によく似ている。私は密かに彼をそう呼んでいた。
・ 服装は毎日同じ。白のワイシャツ、グレーのベストとズボン、グレーのジャンバー。「毎日同じ服装といわれるけど、そうではない。これらは何着か買って替えがいくつもある、3日くらいで必ず変えているから清潔」。外見に対する劣等意識が感じられる。
・ 結婚への願望が強い。「結婚したい」と「もてない自分」という意識が同居し、お見合いを繰り返している。「結婚は大根を買うのとはわけが違う」。
・ いろいろなことを知っていて博識。「人間というものをよく知らない教員が多い」「科学や実証主義だけではダメ」というように自身の主義を持っている。

2、「おかしな人間」の特質を考える
私は数年前「ひきこもり」「ニート」と呼ばれる10~20代男性と付き合う機会があった(若者支援NPOとの関係で)。なかには11歳から21歳までずっと家にいたという自称「ニート」もいた。その時彼らがよく言っていたことを思い起こすと次のようである。
・ 小学生の時からずっと働きたくなかった。
・ あくせく働きたくない。
・ 自堕落に適当に生きたい。
・ テキトーな人になりたい〈寅さん、裸の大将〉。
・ ニートを肯定的に、ポジティブにやっている。
・ 周囲から自分がどう思われているか気にしすぎないようにしたい。
・ 適当に生きている自分を自分でもうちょっと認めてあげるようにしたい。
・ われわれニートは今の社会を生きるのに向いていない。
・ 幸せじゃなくていいと思えれば、それで幸せ。
・ だけど自分で自分を責めることがある「楽しんだらいけない」と。

インド先生、「笑うせえるすまん」氏は自分だけのかけがえのない「真実」「思想」というものをもっている。その「思想」「真実」は他の人から見たら「異常」「奇妙」、あるいはある部分がデフォルメされた生活、性格からきているように思われる。例えば「どこまでも自然態でありたい」「どうしても結婚したい、モテたい」。「ニート」の若者の「学校に馴染めない」「学校に行かない、働きたくない」もそれに類したものがある。それがために社会規範、常識論に乗れない自分というものをどこかで意識し、引け目を感じている。と同時に「認められたい、他とつながりたい」「みんなと同じように安楽な気持ちで生きていたい」という思い、意識の二重性、分裂を抱いているとも感じられる。「自分は自分、人は人」とは考えないのである。

90年代半ばくらいまでは、このような「おかしな教員」と呼ばれる人が教員集団の中にいた(その後、社会規範などがタイトになり、教員への締め付けも厳しくなった。彼らはより生きづらさを感じるようになったと思われる)。「ひきこもり」「ニート」の若者の言葉はその心情と重なってくる。「ひきこもる」「ニート」として生きることは世間的には「ダメ人間」であり、当人もそれを知っている。だが、彼らに近寄ってみると彼らはある種の誇りを持って「ニート」をやっている者もいる(ちなみに2月10日はニートの日。「ニートは幸せであるべき」といわれるようになった)。

3、『プロハルチン氏』(1846年)について
ドストエフスキーは奇妙な人間、病者への異常な関心があった。『プロハルチン氏』はその一つだが、これを読んだときインド先生やニートのことを思い起こした。プロハルチンは誰からも顧みられない老下級官吏。使うことのない金を必死でためている。彼が死んで垢で汚れたベッドを片付けようという段階になったとき、彼の秘密が明るみに出る。マットレスの裂け目からびっくりするような額の金貨、銀貨が出てきたからである。プロハルチンは使うことのないお金をなぜ貯めたのだろうか。この問いに対して、中村健之助は以下のように評している(『ドストエフスキー人物事典』2001 講談社学術文庫)。「ひとは自慢できる勲章を持っている必要がある。物であれ、空想であれ、それぞれ自己発揮の願望を受け止めてくれる器だけはなければならない。決して他から認められることのない者、愛情をかけてもらえる望みのない者が、なお自分を発揮し、自分の存在に意味を見いだそうとして、純粋な守銭奴になったのである」

プロハルチンは、金を貯めることに自分を支える誇りと生きる喜びを見いだした人間であった。思うに、奇妙なところ、おかしな性行、滑稽な側面、逸脱し、埒を超えるような考え、標準からすればはずれているようなところというものをいくばくかの人間(もしかしたらもっと多くの人間)は生来持っているものではないだろうか。ふつうは社会生活の中で、世間のルールに則って生きる中でそれらは覆い隠され、カモフラージュされ見えない状態になっている。カモフラージュするものがなくなった時、なくなるような場面でそれらの本性はくっきりと見えてくるものと思われる。『プロハルチン氏』を読んだとき、この人間の滑稽さと悲惨さと同時に、自分が癒されているという思いを抱き、ほっとしたのを覚えている。

4、『おかしな人間の夢』の「夢」について
この作品は『作家の日記』1877年4月のなかに納められている。『プロハルチン氏』から31年が過ぎている。作品は「おれはおかしな人間だ。やつらはおれをいま気ちがいだと言っている」という文ではじまる。その後「おれは自分がおかしな人間に見えるというので、ひどくくよくよしたものだ。見えたのではない、そうだったのだ。おれはいつもおかしな人間だった。(略)これはおそらく生まれたときからのことに違いない。どうやらおれはもう七つのときから、自分がおかしな人間だということを知っていたらしい」と続く。主人公自身が自分を「おかしな人間」と規定し、強く苦しい厭世感と自殺願望、同時に「思想」を持っている。自殺しようと考えているとき、ある「夢」を見る。彼は夢の中で次のような感覚を抱く。
「してみると死後にも生活があるのだな」
「おれは愛さんがために苦闘を欲するのだ」
「科学はわれわれに叡智を授け、叡智は法則を啓示する。一人一人が誰よりも自分を一番愛するようになった。自分の個性にかまけるようになった」
「夢」によって「おかしな人間」は情欲、嫉妬、残忍という感情から分裂と孤独が生まれ、個性のための闘争が始まった…ということを知る。さらに「夢」は「エデンの園」から人間が堕落していく経緯とその淵源について、主人公に俯瞰させる。
「夢」から覚めたのち主人公は、希望の回復と生存感覚を持つようになり、生活と「真理」の伝道を人々に解くことに目覚める。「真理」とは「おのれみずからのごとく他を愛せよ(ルカによる福音書)」というキリストの言葉の実践である。このキリストの教えは重要な実践だが、「ふつう」ではできないことである。しかし、「おかしな人間」はそれを実践しようと考える。彼は「他は他、自分は自分」「世の中どうなっても構わない」とは思う人間ではなく、「他とつながって生きていたい」という「思想」を持つ者である。伝道はそれを行っていく方法として示されている。 

5、「おかしな」ということについて
ドストエフスキー作品にはプロハルチンだけでなくジェヴ―シキン、地下室の人間、あるいはムイシュキン、スメルジャコフなどなど数多くの「おかしな人間」が登場する。彼らはあるところが異常に突出し、デフォルメして描かれている。そのため世間一般の規範、常識から外れ、世俗に適合しない、出来ない人のように見える。世俗的価値を踏み越えた、埒を超えた人間といいってよいかもしれない。それが「おかしな」といわれる理由だ。同時に「おかしな」というそこには人間の普遍性、あるいは誰もが潜在的に持っている意識が隠されている。『おかしな人間の夢』という作品の主人公の「おかしな」ところは、「孤立は苦しいものだ、だから孤立したくない、他とつながっていたい」という強い思いがある。この思いは多くの人が抱くものだ(だが現代では多くの人は「つながる」ことを実行しなくなっているようにも思われるが)。「おかしな人間」は「自分を愛するように他人を愛する」「他とつながりたい」という「真理」を実行し、「伝導」しようとする。それを実行することは世間一般、常識から外れた行為というよりほかない。

先に『プロハルチン氏』を読んだとき、私は「癒された」と書いた。これはどのようなことだったのだろうか。「癒される」ということは、慰めの言葉をかけられたり、同情されたりすることで感じることである。しかし、より深い「慰め」はおそらく自分のおかれている惨めな状況、悲惨な状況とよく似たあるいは同種の思いを持つ人が現れて、その姿を見せられ、その人の痛みや思いが自分に迫ってきて、その痛みを分かち合えた時に感じるものではないだろうか。『おかしな人間の夢』を読むと、彼が私(たち)と同じような思いを持っていることがわかり、その痛みが伝わってくるのである(つまり、他とつながりたい、孤独になりたくない‥‥)。自分の中には「おかしな人間」に通じる性行があって、作品を読むことでそれを共有する。共有によってある種の解放感、「癒し」を感じるのではないだろうか。



寄稿
 
『おかしな男の夢』と「永遠回帰」

野澤高峯

進歩主義者を自認する主人公ですが、「世の中のことはどこへいっても、何もかも同じという確信」を持ち、「俺に身についているものは何もない」というニヒリストで、「今では世界も俺一人の為に造られたものだ」と考えている点で、彼は『悪霊』のスタヴローギンを経由したキリーロフの分身と言えるでしょう。ここでも『悪霊』の二人の会話で挿入された「月の喩話」を彼は語ります。ここでは遊星での悪行を地球にいる自分は無関心でいられるか、という問いとしていますが、このたとえ話の背景とは「地球=私(主観)」は「月・火星=世界(客観)」という設定の下に、「主客一致(主観は客観を認識できるか)」という認識の謎を問う近代哲学での基本問題です。ただ、ここでの認識問題の中心課題は単に客観認識の可能性の問題ではなく、ドストエフスキー文学では、これは人間的価値審級の普遍的な根拠の問い「果たして人間には「善」や「正義」に普遍的な根拠があるのかないの」という問いを意味します。つまり、主人公は自殺を前にして、ここでは倫理の成立根拠についての懐疑を投げかけていますが、彼の前に登場した女の子の存在を認知するように、導入部ではキリーロフから一歩踏み込んだ、独立した主人公の人物像が浮上します。(*1)
 
自殺前に見た夢で彼は「真理」を告げ知らせられたと確信しますが、この「真理」については、私が多大な影響を受けたニーチェの哲学を基に読み解きますが、あくまでも作品が先行し、その印象を解読したらニーチェに行きついたということに他なりません。主人公があたかも臨死体験のように語る夢の情景で、「深い嫌悪の念さえも覚えた」程の存在物に宇宙に誘われ、そこで「反復」を見ます。この描写はいかにもSF的で、アーサー・C・クラーク『2001年宇宙の旅』のキューブリック映画版後半の映像モチーフでもあるこの「反復」とは、ニーチェの説いた「永遠回帰」(*2)であると私は捉えました。ドストエフスキーが作品で或る回答を提示することは珍しいと考えますが、この「永遠回帰」を基調とすることにより、私は『悪霊』で語れなかった方向性を、この短編がそのスピンオフ的な位置付で、前に進めたような印象を持ちました。

「永遠回帰」の世界像を打ち出したニーチェとドストエフスキーとでは時代的には大きく被っていませんし、二人の「無神論」の解釈には表象としては違いが見られます。しかし、私は、二人が向かっていた土台は大きく違うとは思っていません。ニーチェはキリスト教批判のみならず、その世界像に変わる近代主義も同じルサンチマンを根源に持つと批判しました。その点についてこの短編で最初に揶揄されているのは、夢の中で展開されるユートピア社会主義とも解釈できる近代主義的世界です。これは『悪霊』や『未成年』に挿入される「黄金時代」と近似していますが、ここでも、主人公が進歩主義者であることから、この世界を「ほんとうの世界」と受け止め、生の充実感を味わいます。しかし、作家はそうしたロマネスクを排除し、作品の出色な場面として、主人公にこの世界を堕落に追いこませます。様々な状況描写は人類の歴史ともいうべき展開となり、最後には宗教まで成立させてしまうという歴史の「反復」を見ますが、その帰結に人々は下記の通り主人公に言い放ちます。
 
「われわれには科学があるから、それによって、われわれはふたたび真理をさがし出すが、今度はもう意識的にそれを受け入れるのだ。知識は感情よりも尊く、生の知識は生よりも尊い。科学はわれわれに英知を授け、英知は法則を啓示する。幸福の法則の知識は幸福以上だ」(*3)つまり結局は、ユートピア社会主義に代わり近代合理主義への進み行きを肯定した世界として帰結させ、主人公に今ある現実を見せています。作家はニーチェのように正面から近代主義を批判していませんが、明らかにこの世界像を相対化している事を読み解くことが出来るでしょう。

人が生きる意味と価値を哲学の主題としたニーチェは、それまでの主客図式の認識論に力の思想を打ち出し、哲学的な大転換を図りましたが、人間的価値審級の源泉を人間の外側に置かず、「~を欲す」とした自己中心性をその起源に置き、力相関性による世界像を構築しました。世界は常に永遠に回帰するとした世界認識でも、自らの生を肯定できると主張しました。私にとってこの作品は、ニヒリストの主人公が夢の中での「永遠回帰」を体験することで、ニヒリズムの克服としての契機を描いていると受け取りました。注目した場面は次の通りです。

上記の引用の記述の後、「彼らの一人一人が、だれよりも一番、自分自身を愛するようになった」という記述があります。この自覚は「自己中心性」の負の側面として、これを契機に、この世界の歴史は近代での国民国家が歩んだ戦争の歴史等をたどり、人々も近代合理(科学)主義としての世界像を描いていく展開に至りますが、主人公は彼らに「穢された地球を楽園の頃よりも愛するようになった」と言い、彼らも「主人公から欲しいものを受け取り、今日ある全てを肯定した」と言い放った後に、夢が覚めます。覚めた現実世界は客観的には何も変化がなく立ち現れていますが、主人公にはここで大きな変化が起きていると読めます。それは、自らの存在が世界の堕落を惹き起こしたとしても、そのことにより自分と世界が密接に結びついているという実感を主人公が回復したことです。これはキリーロフの「人神論」の顕現化ともとれますが、そのことの罪に対し世界はその変化を肯定したことです。それが目の前の矛盾や悲惨を伴う現実であるとしても、それを肯定しているということです。

つまりこの世界に現れた「自己中心性」は、決して負の側面ではなく、各々の価値審級を持つことの起源である事、自らを愛する根拠である事。ニヒリズムの克服としての自己回復と世界回復の源泉であるという事です。これは『悪霊』で、人間性の回復を求めて叶わず自殺に至ったスタヴローギンへの作家としてのある回答ではないでしょうか。導入に登場し、結末でも主人公が念頭に置いている女の子とは、自殺したマトリョーシャ(不在としての神)なのではないかとも思い至ります。主人公のニヒリズムの克服は次の世界認識として表現されています。

「おお、今こそ生きているのだ。あくまでも生きているのだ!おれは諸手を挙げて、永遠の真理に呼びかけた。呼びかけたのではない、泣き出したのだ」
「人間は地上に住む能力(ちから)を失うことなしに、美しく幸福なものとなりえるのだ。・・・・頭で考えだしたものやなんかと違って、おれは見たのだ。しかと見たのだ。そして、その生ける形象(かたち)が永遠におれの魂をみたしたのだ。おれはそれをばあまりにも充実した完全さで見たものだから、そういうことが人間にありえないことは、信じられないのである」(*3)

この生きているという実感。また、ここでの「能力(ちから)」とは自己中心性を起源とするも、権力と解すべきではなく、ニーチェの言う「力」です。それは世界との相関の根拠となり、その相関(エロス)としての対象である「生ける形象(かたち)」という認識は、まさにニーチェ的な力相関性による世界認識の具現化と見ることができます。冒頭で何故、主人公は「月の喩話」を語ったかという意味は、その世界認識が主客図式から、力相関図式へと明らかに変化した、彼のニヒリズム克服の過程を浮上させたかったからに他なりません。過去に繰り返した古臭い真理としての「おのれみずからのごとく他を愛せよということ」も、利他的、禁欲主義的キリスト教の反措定解釈と読み解けるでしょう。勿論、「生命の意識は生命よりも上のものだ。幸福の法則の知識は幸福よりも貴い」事に対抗するのは、前述に引用した近代合理主義を無化することではなく、従来の認識論で導かれたこの理想に対し、自分が自覚した大きな変更を遂げた世界視線で対抗していくことだと解すべきだと私は考えます。それはまさしく、ニーチェの哲学的大転回と同じ世界視線の獲得と考えられ、この作品は作家として一歩踏み込んだ方向性を主人公に託した観がありますが、作家の「無神論」解釈からすれば、最後に探し出した女の子は彼にとっての「不在の神」なのかもしれません。ただ、私は他の作品を読み解く上で、ドストエフスキー文学が提出している「問い」について、一つの方向性を打ち出しているこの短編は、作家の核となる作品であると記憶に留め続けると思います。
 
(出典・参考)
1, この喩話は、『悪霊』に於いては笠井潔も下記で言及しています。
  「ラディカルな自由主義の哲学的前提」『テロルとゴジラ』(作品社 2016年)
  「現象学的小説論へ-外部」『探偵小説論序説』(光文社 2002年)
2, 「永遠回帰」については、様々な解釈がありますが、私は下記の解釈を参考にしました。
 竹田青嗣『ニーチェ入門』(ちくま新書 1994年)での「永遠回帰」の4つのポイント
① 機械論的思考の極限形式としての「永遠回帰」
② ニヒリズムの極限化としての「永遠回帰」
③ 育成の、理想形式としての「永遠回帰」
④ ルサンチマン克服の、生の肯定としての「永遠回帰」
今回の考察ではこの(ルサンチマン克服の、生の肯定としての「永遠回帰」)に重きを置きました。
3, 『おかしな人間の夢 空想的な物語』『ドストエフスキイ後期短編集 米川正夫訳』(福武文庫 1987年)