ドストエーフスキイ全作品を読む会 読書会通信 No.158
 発行:2016.10.6


第277回10月読書会のお知らせ

第3土曜日・「東京芸術劇場」小会議室7です
10月読書会は、下記の要領で行います。
 
月 日 :2016年10月15日(土)
場 所 :池袋・東京芸術劇場小会議室7(池袋西口徒歩3分)
開 場 :午後1時30分 
開 始  : 午後2時00分 ~ 4時45分
作 品  :『永遠の夫』米川正夫訳『ドスト全集10巻(河出書房新社)』 他訳可
報告者  : 近藤靖宏さん & 小山 創さん       
会 費  : 1000円(学生500円)

12月読書会は、10日、東京芸術劇場第7会議室です。作品『悪霊』1回目
開催日 : 2016年12月10日(土) 午後2時~4時45分迄です



第35回大阪「読書会」案内 10・8(土)『白痴』第4編
ドストエーフスキイ全作品を読む会・大阪読書会の第35回例会は、以下の日程で開催します。
10月8日(土)14:00~16:00、・会場:まちライブラリー大阪府立大学 参加費無料 作品は『鰐』
〒556-0012 大阪市浪速区敷津東2丁目1番41号南海なんば第一ビル3FTel 06-7656-0441(代表)地下鉄御堂筋線・四つ橋線大国町駅①番出口東へ約450m(徒歩約7分)
小野URL: http://www.bunkasozo.com 



K・Kさんコンビに期待

K・Kコンビさんは、6月読書会で『白痴』(4回目)の報告をされました。物静けさと辛辣さを併せ持つKさんと、朗らかで賑やかながらも真摯な融和性のあるKさん。息の合った報告と司会進行で楽しい読書会をみせてくれました。今回も、誘惑者ヴェリチャーニノフと寝とられ夫トルソーツキーになりかわって作品に潜む「憎悪と憐憫の絡み合った、奇妙な友情」の報告をみせていただけるのではないかと期待しています。(編集室)

レジメ 報告者・近藤靖宏さん

本当に、好きな方のための作品 でも嫌いな方もどうぞ

『永遠の夫』は、悲劇的結末がいわば約束されていると言える『白痴』とは違い、安心して読める作品です。ハッピーエンドとまでは言えないにせよ、主人公格の登場人物二人は最終的には今まで通りの平穏な日常を取り戻しますし、凄惨な場面も出てきません。この物語を一言で言えば、妻に先立たれた夫が、その妻のかつての浮気相手の男に付きまとい、わざと道化のような態度をとって相手を苛立たせることを繰り返すことによって復讐を遂げたような気になるという話です。
 その進行の仕方はまるで夫をボケ役とし、間男をツッコミ役とする漫才のよう。しかしその裏には大人たちのエゴをよそに、または物語が成立するための都合上、登場してすぐに病死を遂げるかわいそうな子供がいます。したがってこの作品をどのように読むかと考えるとき、漫才を聞くようにただ面白がって楽しむというのは不謹慎な気がしますし、だからといって浮気をする男が復讐される様を見て勧善懲悪のドラマを観るような爽快感を得るということも出来ないでしょう。しかもこの物語はいい意味でも、悪い意味でも「ドストエフスキー的なもの」が溢れています。したがって、この作品は本当にドストエフスキーが好きな人のためにある作品であると言えるでしょう。
 今回の読書会では、「ドストエフスキー的なものとは何か」をテーマとすることを提案します。これについては、語りの特徴、ドストエフスキー作品ならではの登場人物、など人それぞれの答えがあるでしょう。報告では、『永遠の夫』に登場し、かつ他の作品にも共通して登場する要素を可能な限り多く抽出し、それらの意義について現時点での私なりの意見を述べることにします。説明しやすくするため、漫画を例にとって話すことも考えています。心からドストエフスキーが大好きな方、あるいは大嫌いな方の参加をお待ちしています。



ドキュメント「永遠の夫」発表の頃


1868年(47歳)1月、『ロシア報知』に『白痴』連載開始(3月号を除き1月号~12月号)、
2月22日 長女ソフィア誕生
3月 ゲルツェンと邂逅
5月12日 長女ソフィア肺炎で死亡。ドストエフスキーの悲嘆その極に達する
5月末 ジュネーヴから引っ越す
8月  続『罪と罰』論(生活のための闘い)を『事業』誌発表
9月初め ウヴェーからミラノに至る。ミラノの大寺院に嘆賞。天候不順、ロシアの新聞類がないのに不満不自由
11月 フローレンスに移る。美術館、ピッティ宮など見学
12月 『白痴』完結。『カラマーゾフの兄弟』の原型、『無神論者』着想
1869年(48歳)2月~3月、プーシキン封の作品に挑戦するも断念
7月 フローレンス出立。ヴェニス4日、プラハ3日逗留で8月ドレスデンに帰る
9月14日 次女リュポーフィ(エーメ)誕生。
11月21日ネチャーエフ事件、つよい関心を抱く。
12月、 旧友ドゥロフ死去。『偉大な罪人の生涯』を構想、べつに『悪霊』のノートをとり始める
1870年(49歳)1月~2月『永遠の夫』を『黎明』誌に発表『悪霊』起稿
7月 普仏戦争
10月 『ロシア報知』編集部に『悪霊』送付 
1871年(50歳)1月『悪霊』を『ロシア報知』に連載開始



『永遠の夫』の訳について


この作品は、「良人」、「夫」、「亭主」と訳されている。
1938年 米川正夫訳『永遠の夫』(岩波書店)
1952年 神西 清訳『永遠の夫』(岩波書店)
1951年 米川正夫訳『永遠の良人』(角川書店)
1955年 米川正夫訳『永遠の良人』(新潮文庫)・『永遠の夫』(新潮文庫の千種堅の新訳、小沼文彦訳、米川正夫訳(全集の分、新潮文庫の1938年~1955年の版の分)) 
『永遠の良人』(新潮文庫の米川正夫の訳(1955年~79年の版の分、角川文庫(1951年初版)の分)、大正6年の「全集」の原白光訳、昭和11年の「全集」の神西清訳) 『永遠の亭主』(中村健之介訳) 



プレイバック読書会
 (1987年4月読書会)

『永遠の夫』を読む   
伊東佐紀子

 白夜のペテルブルグに夢のように現れる帽子に喪章をつけた男、それは現実か、あるいは40歳を前にして異常な神経に悩むヴェリチャーニノフの幻想か。それは何度もくりかえされ、彼は「分身」のゴリャートキン氏と同じ運命をたどるのかと、私は読み進んだ。しかしそうでもなさそうだ。現実のトルソーツキイが話し、動き出し物語は奇妙な方向に展開していく。二人の関係は、二重、三重に入り組んで、いかにもドストエーフスキイ的で面白いのであるが、一方で私は何ともつかみどころのない落ち着きのなさを感じた。作品中、トルソーツキイの話す、ツルゲーネフの「田舎夫人」が何かの暗示を与えてくれないかと私は考えた。
 この作品は一幕の戯曲で、小心の田舎官吏の妻、ダリアのもとに、少女の頃に求愛されたことのあるペテルブルグの伯爵がたち寄る。ダリアは首都に移りたいために、必死で伯爵の気をひく。二人が部屋にこもっている間、夫はそのまわりをうえろうろする。ダリアを想う年若い男もいる。という喜劇である。「田舎婦人」のダリアも、「永遠の夫」のナタリヤも共に28歳である。ドストエーフスキイはツルゲーネフを非常に意識して「永遠の夫」を書いたのではないか。この「永遠の夫」が発表されたのは、1870年であり、ドストエーフスキイは1867年に、バーデン・バーデンで、ツルゲーネフと論争の末に絶交している。作品中に別の作品に言及するのはめずらしい事ではないかもしれないが、何かの意図があったのではないか。ツルゲーネフが単なる、よくある話の喜劇で終わらせた、そこを出発点として、何倍もの面白さで、心理探求、展開を読者にしてみせた。ツルゲーネフに舌を出してみたと考えるのは、考えすぎだろうか。 
 この作品の中で”永遠の夫”なる言葉をドストエーフスキイは随所に散りばめ、「永遠の夫」なる章まである。”分析批判”という章では、作者は全部を解説している。ここまで種あかしをして、これ以上、何をかいわんやですが、それでいて、すっきりした回答が得られない。読者により、いかようにも読めるのが文学だといえるが、ひとつにはこの作品の構成にもよるのではないか。悪夢のようなペテルブルグの夜、夫と情夫の関係が、一転して若い娘に求婚する気弱な三枚目と、その庇護者のような友人になってしまう。そして結末は、美しい妻と、その情夫らしき男をともなうトルソーツキイと、ドンファンにもどったヴェリチャーニノフの停車場の遭遇となる。 つまり、物語の発端と何ら変わらないのである。読者は、かっての夫と情夫の、過去にとらわれて、どうしょうもなくあがく力関係に非常に興味をそそられ、その一面に集中していくと、はぐらかされたような気分になる。
 ドストエーフスキイの作品は一般的に、縦糸はあまり気にされず、作者が意識せずに、登場人物が一人歩きして、無限に緻密な横糸を織り、その集合が、自然と縦糸を作るという場合が多いように思われるが、この『永遠の夫』では、ちょっとちがうように感じられた。そこが、”永遠の”というテーマかもしれないが。いずれにしても、何度読んでも一行一行にひきつけられる作品である。

★1987年当時、伊東佐紀子さんは読書会開催に尽力されていました。この報告が書かれた夏、読書会参加者の新谷敬三郎先生が第92回例会で「ステパン氏が行く」を報告されました。お二人ともお元気でした。が、8年後の1995年、相次いで急逝されました。行く川の流れは絶えずして。今日、読書会も例会もあの頃と同じようにつづいています。人も時代も変わりましたが、ドストエフスキー作品だけは永遠です。



ドストエフスキイ研究会便り(3)


〈主催・芦川進一〉
 
 河合文化教育研究所HPに掲載する「ドストエフスキイ研究会便り」は、この春に出版したカラマーゾフ論の「後産」的な考察をしばらく続けています。前回のフョードル論に続き、今回(3)は改めてイワンに焦点を絞る予定です。 まずは『カラマーゾフの兄弟』冒頭に置かれたヨハネ福音書の「一粒の麦」の死の譬え(十二章24節)を取り上げ、この一句がヨハネ福音書の中で持つ位置と意味とを検討しておきたいと思います。ここに含まれる問題を突き詰めると、イエスの十字架磔殺と、ユダやペテロら弟子たちの裏切りの問題が浮かび上がって来ます。これ ら「ユダたち」は、師を裏切り十字架上の死に追いやった後、彼ら自身如何なる道を辿ったのか? 師イエスの死と復活に対して、彼ら弟子たちの死と復活のドラマは如何に展開したのか?  実はこの「ユダたち」のその後のドラマについて、ヨハネ福音書は正面から扱うことなく、重心は専ら救世主イエス復活の「喜ばしき知らせ」の方に置かれたように思われます。この点では他の福音書も同じで、それらの関心は全て基本的にキリスト論の方向に傾いていると言うべきでしょう。しかし裏切りのユダやペテロたちの死と復活の問題、言い換えればユダ的人間論の問題こそが、「不信と懐疑の子」たる我々現代人が福音書において最も知りたいと願い、また知ることを必要とする問題ではないでしょうか。 
 福音書が曖昧なままに残すこの「ユダたち」の問題を正面から取り上げ、最大限の振幅と深みを以って追及したのがドストエフスキイ文学であり『カラマーゾフの兄弟』であったこと、そしてここに現代文学としてのドストエフスキイ文学の位置と意味も大きくあることを、今回はイワンの思索と行動に即して論じてみたいと思います。つまりイワンもまた19世紀ロシアにおいて福音書的磁場のドラマを生きた一人のユダであり、彼の思索と行動を見つめることの中からは、他ならぬ我々現代人が今もなおユダとして辿り続ける姿も浮かび上がってくるように思われるのです。

【ドストエフスキイ研究会について】
 日本の若者がドストエフスキイ世界に親しみ、そこから原理的な思索を試みることは今では殆ど皆無となりました。しかし現実を嘆くよりも、新しいドストエフスキイの時代を準備すべく、当研究会はドストエフスキイのテキストにひたすら向かい、彼が土台としたキリスト教を理解するために聖書テキストも並行して読み進めています。1987年の開始以来、河合塾出身の若者1000人以上が、それぞれの感受性でドストエフスキイと聖書世界を受けとめ、社会に旅立ちました。将来はこの延長線上に、ドストエフスキイ理解を広く人間と世界と歴史の理解へと繋げる学問の場として、単科的な「塾大学」の立ち上げも視野に入れています。研究成果としては、単行本で『隕ちた「苦艾」の星─ドストエフスキイと福澤諭吉─』(1997)、『「罪と罰」における復活─ドストエフスキイと聖書─』(2007)を河合文化教育研究所から、『ゴルゴタへの道─ドストエフスキイと十人の日本人─』(2011)を新教出版社から刊行し、今年は『カラマーゾフの兄弟論』を河合文化教育研究所から発行しました。(芦川)



8・13読書会報告 

               
お盆初日に参加者17名。抽選会場がお盆時期は、とり易いので、毎年、8月の読書会は、この頃になってしまいます。帰省、墓参り、法事と家庭の行事もあり、心配されたが17名の参加者がありました。

ナスターシャは可哀そうか
幼くして両親を亡くし孤児となった彼女は16歳で地主トーツキーの妾となった。25歳になったとき彼女は、美しい女性になって君臨する。彼女のことを可哀そうに思うかどうかの議論があった。「可哀そう」「可哀そうでない」半々。

ムイシキンはドンキホーテかキリストか
ムイシキンは、美しい人、白痴、キリスト、バカ、正常な人か。三角関係の破綻、自己分裂、破滅的物語だが、悲劇的感想がもてないのはなぜかの感想がでた。



「ドストエーフスキイの会」情報


ドストエーフスキイの会の第235回例会は、9月17日(土)午後2時から千駄ヶ谷区民会館第一会議室で開催されました。
報告者:金沢友緒氏(東京大学大学院博士課程修了、現在日本学術振興会特別研究員)専門は18、19世紀のロシア文学、文化。
題 目:ドストエフスキーと「気球」
※第236回例会は、11月19日(土)2時 千駄ヶ谷区民会館



ドストエフスキー文献情報
 2016・9/27      
提供=ド翁文庫 佐藤徹夫さん

<図書>

『日本映画について私が学んだ、二、三の事柄 Ⅰ』/山田宏一著 ワイズ出版 2015.10.15 ¥1400+ 517p 14.5㎝ 〈ワイズ出版映画文庫・11〉第二章 完全主義と間に合わせ ・黒澤明 ・4 ロシア文学への一途な想い~ 『白痴』p376-378 ※p394に「「虐げられたられた人々」のドストエフスキー的世界を描いた『赤ひげ』(一九六五)があり、・・・」との記述。

『名スピーチで学ぶロシア語』/阿部昇吉著 IBCパブリッシング 
2015.12.29 ¥2800+ 158p 21㎝ ※CD付 プーシキンに関するドストエフスキーのスピーチ p16-19

『世界のクロサワをプロデュースした男 本木荘二郎』/鈴木義昭著 山川出版社 2016.7.19 ¥1800+ 311p 19.3㎝ 第8章 問題作『白痴』『生きものの記録』は失敗作か p180-181;・黒澤の「最も好きな作品 p181-183;本木の堂々たる『製作宣言』p183-186;フイルムを縦に切れ p186-188;・行方不明の黒澤オリジナル版 p188-191

『私のロシア文学』/渡辺京三著 文藝春秋 2016.8.20 ¥1250+ 282p 15.3㎝〈文春学藝ライブラリー雑英30〉第一講 プーシキン『エヴゲーニイ・オネーギン』を読む。ドストエフスキーの一方的なプーシキン論 p61-65

『世界の名作を読む 海外文学講義』/工藤庸子ほか著 KADOKAWA 2016.8.25 ¥1000+ 334p 15㎝〈角川文庫19932=角川ソフィア文庫C・152・1・5. ドストエフスキー『罪と罰』/沼野充義 p89-106

『世界の文豪の家』/阿部公彦ほか著 エクスナレッジ 2016.8.31 ¥1600+ 127p 23.5㎝ Part 5 ロシアの文豪 ・転居をくり返したサンクト・ペテルブルグの家 p106-107 ;・CoIumn《文豪の描いた街》サンクト・ペテルブルグ p114

『ドストエフスキーとキリスト教 イエス主義・大地信仰・社会主義』/清眞人(きよし・まひと)著 藤原書店 2016.10.10 ¥5500 471p 21.6㎝ 第一章 社会主義とドストエフスキー p33-99 第二章 ドストエフスキー的キリスト教の諸特徴 p101-146 第三章 「少女凌辱」という比重と問題位置 p147-180 第四章 汎神論的大地信仰とドストエフスキー、そして、ニーチェ p181-253 第五「カラマーゾフ的天性」とは何か?――悪魔と天使、その分身の力学 p255-335 第六章 ドストエフスキーの小説構成方法論 p337-38 終章ドストエフスキーと私の聖書論 p385-423 注 p424-445;人名・事項・文献名牽引 p471-450 ※付録の「月刊 機」294(2016.9.15)12.著者の一文「ドストエフスキーとキリスト教――『罪と罰』『白痴』『悪霊』『未成年』『カラマーゾフの兄弟』『作家の日記』を読む― p16-17(本書「はじめに」の一部を転載している)。

<逐次刊行物>

※今シーズンのNHKラジオ・テキストに望月先生の連載があるのを見落としていたので4月号~10月号までまとめて掲載する。かつて1972年度の「NHKロシア語入門」に新谷敬三郎先生が「ドストエフスキー・ノート」連載していたのを後日把握したが現物を入手できなかった記憶がある。

名場面からたどる『罪と罰』/原作Ф.Мドストエフスキー訳・解説 望月哲男
「NHKラジオ まいにちロシア語」54(1-7)(4月号―10月号)※毎号18日発行、毎回、3節の原文・語句と表現の解説・訳・読解のポイント、そして今月の場面を読むの9~10頁構成。第1回ラスコーリニコフ登場;第2回計画の下見;第3回酒場のマルメラードフ;第4回 恐ろしい夢;第5回不思議な符合:殺人と善行をめぐる算術;第6回決行の火の省察:決疑論と犯罪の病理学;第7回決行

<書評>

「神と不死」の問題を徹底的に考察 新約聖書を手引書としてテキストの丁寧な読みと想像・創造批評を駆使して挑んでいる。「図書新聞」3268(2016.8.27)p4芦川進一著 カラマーゾフの兄弟論 砕かれし魂の記録/下原敏彦

<村上作品の源流①>「カラマーゾフの兄弟」を読む/亀山郁夫 「PRESIDEIIT・NEXT」19(2016.9.15)p48-49 ※「プレジデント」54(30)=956(2016.10.1号別冊)



評論・連載

「ドストエフスキー体験」をめぐる群像

(第67 回)堀田善衛とドストエフスキーについて    
                      
福井勝也
 
 多摩の読書会に参加して既に20年以上が経過した。随分沢山の日本近現代文学の作品に廻り会い、講師(小森陽一先生)から毎回出される課題に呻吟しながら、仲間と一緒に長年議論して来た。自分にとって、こちらの会のドストエフスキーの問題を日本文学の視点から考えるうえで貴重な機会となっている。言わば、この二つの文学サークルは当方を培ってくれる温床だと今更に感謝している次第だ。そんななかで、今回あちらの読書会に触れようと思うのは、本連載の主題<「ドストエフスキー体験」をめぐる群像>とも符号する興味深い作品に現在廻り合っていると思うからだ。
 話題にしようと思うのは、堀田善衛著『若き日の詩人たちの肖像』(1968.9)という「自伝小説」なのだが、既にこれまで堀田作品は『上海にて』(1959)・『方丈記私記』(1971)・『定家明月記私抄』(1986)『同 続篇』(1988)を二年近くかけて読んできている。現在、上下二巻の終盤にかかっている本書(集英社文庫版)も、今年いっぱいで読了するはずだ。当方本作は高校生位の時に教科書?で一部齧った程度で、タイトルから得られる位の感想しか当初持ち合わせていなかった。しかし堀田善衛については、作品講読に入る直前安岡章太郎の『果てもない道中記』(1995)で紹介された「「大菩薩峠」とその周辺」(1959)という長い論考を読む機会があった。そこで堀田への強い関心が喚起された。堀田作品が読書会の俎上に上ってからも、この論考が時折話題になり関心を強めた。
 堀田はこの論文で、ドストエフスキーの主要作品を幾つか取りあげて、主人公机竜之助の日本的ニヒリズム、その「罪と罰」について突っ込んだ議論をしている。内容は、60年安保の直前、『日本文化研究』(新潮社)という固い研究誌に掲載された「日本民衆論」とも言える。
 実は本欄で「『大菩薩峠』と『罪と罰』」というテーマを当方が論じようとしたことがあった(「通信」150号)。それは安岡の『大菩薩峠』論である『果てもない道中記』と併せてこの論考を紹介したいと考えたからであった。その後テーマが二転三転しそのままになった。そこで急の思い着きだが、以後議論がいつできるか不明なので、堀田が列挙した論考最終部の要約文をまず紹介しておきたい。実は、これ以降の堀田作品の基点と言える重要な論考の要点だと思うからだ。『若き日の詩人たちの肖像』はその後に触れてゆきたい。以下、堀田の論考から抜粋引用する。ドストエフスキーと日本近代というテーマを考えるうえでも、読んでおいて良い文献だと思っている(「堀田善衛全集」vol.13、筑摩書房、1994)。
 ここで私(堀田、注)自身が、はみ出し形式でもって語って来たことを要約してみれば、(一)、それの(作品『大菩薩峠』の、注)の基調低音になっているものが「間の山節」(竜之助が道中、伊勢に立ち寄った際に被差別の芸人のお玉(本名お君)が謡うご詠歌のような哀歌で「死出の旅」を謡っている。実はこの歌謡は、『若き日の詩人たちの肖像』のなかでも、主要人物のバーのマダム(マドンナ)が左翼思想で勾留され留置場で口ずさむ、転向問題と絡んで来る、注)という、無気味でいやらしい、やりきれぬ唄にあるということ、そしてそれはそれなりに美しいということ、(二)、机竜之助は、殺人者であっても、犯罪者ではないという特異なことになっていること。従ってここには「罪と罰」はないということ、(三)、彼が家族制度、社会からの擬似的な被解放、被追放者として成立しているということ、(四)、政治や社会に対しては、アナーキズム、「不得要領」(要領を得ないこと。趣意を徹底しないこと。広辞苑、注)ということになっているということ、(五)、彼の武器は剣一筋であって、ラスコーリニコフやイワンなどの場合のように、思想思索というものではないということ、それでいてなおかつ魅力をもち得、女が次から次へとひっかかって来ても不思議とは思われないかたちになっているということ、(六)、加えて民衆の側に長きにわたる武装解除という事情がつづいていること、(七)、従ってそこに無力きわまりない受身の体制でありながら、決して負けることはないという現実が成立しているということ、(八)、以上もろもろの要素が加わって、愛される貴種流離譚の主人公になりえているということ、(九)、かくて究極的には、一種の信仰者、シャマニズムの巫者、呪師という土俗民族と結びつくこと、(十)、神がないにもかかわらず一向に悲惨でも気の毒でもないことになっているということ、まず個条書きにしてみれば、こんな風な、十ほどのものに要約されるということになろう。(途中の括弧書きの注と太字は筆者によるもの、出典は前掲の「全集」)

 以上が堀田の『大菩薩峠』の主人公机竜之助の要点だが、同時に作品の核となる問題の総覧ともなっている。論考のなかでは、ドストエフスキーの主要作品の登場人物との対比も部分的になされていて興味深い。上記(五)で名のあがったラスコーリニコフやイワンの他、『白痴』ムイシュキンも出てくる。実は、作品名としては『悪霊』も出て来るのだが、その主人公を勘違いしていて気になった(単なる誤植?)。いずれにしても、上記要約を各々吟味する時、机竜之助の人物造型にあたって、ドストエフスキーを読んでいた中里介山がラスコーリニコフやイワンの他、ムイシュキンやスタヴローギンまで思い浮かべていた可能性は十分にあったと思う。丁度太平洋戦争が開始される直前まで30年近く書き継がれたこの未完の大長編(全41巻)は、日本近代が抱えた宿痾に正面から挑んでいる。その彼我の差異を含めて考えることが大切で、ドストエフスキーの代表作との比較検討も可能だろう。一般に大衆文学に分類される『大菩薩峠』だが、逆にこの時期の純文学がどこまでドストエフスキーに迫り得たかをむしろ考えるべきかもしれない。堀田と同じ戦後派作家でドストエフスキー批評のエキスパートであった埴谷雄高にも主人公を論じた文章があった(「机龍之助」『新潮日本文学アルバム・中里介山』1994所収)。いずれにしても堀田の論考は、比較思想文学的興味から両者を論ずるものではなく、戦争という大きな犠牲を強いた近代日本の根幹を突き詰めようとする気迫が伺い知れる。そのことがぎりぎりあからさまになった、と言えそうな本論考末尾の文章も併せて引用しておきたい。

 ともあれ、この机竜之助という人物は、実にいろいろなものを連想させる。あるときには私は、彼の、生活(労働)というものをいっさい自らしないこと、一種の貴種であることなどからして、中里介山は、日本にたった一人しかいない特異な人物をモデルにしたのではなかったか、と妄想したりすることもあった。しかし、これは要するに妄想である。(太字は筆者によるもの、注)

 堀田は、最後まで意味深長にぼかしているが、ここでは机竜之助が時の昭和天皇に特定可能かは別にして、天皇陛下を持ち出していることは明らかだ。執筆の後に起きた深沢七郎の「風流夢譚事件」等時代背景を考慮すると無理からぬ用心かとも思われる。いずれにしても、堀田にとっての『大菩薩峠』は、日本歴史文化の根幹にある天皇(制)を問題とすることであったのだ。ここでこれ以上の問題には深入りしないが、堀田氏の問題意識はこれ以降の作品でも基本的に変わらない。この後取りあげる『若き日の詩人たちの肖像』という作品も、自分たちが青春期を送った大戦争前夜から招集令状が来るまでの歴史的情況を虚構を交えて自伝的に書き残した小説であった。そこで詩人たちの前に、立ち塞がるように現れて来る歴史現実の根幹にあるものが天皇(制)であることになる。当方は、何もそのような議論だけのためにこの作品を論じるつもりもないが、これは避けられない課題としてあるのも確かなことだろう。

 ここで折角だから前にも少し触れた、安岡章太郎が『果てもない道中記』で書いた机竜之助とラスコーリニコフとを比較した議論の中身を紹介しておこう。これは、読書会講師の小森氏が安岡氏と対談した内容による(『座談会昭和文学史』vol.3、2003.11集英社)。安岡氏は、両作品が「動機なき衝動的殺人」として出発しながら、「ラスコーリニコフには『罪と罰』で老婆殺しをしたことの報いを受けることが書かれていないけれども、ラスコーリニコフはその報いを必ず受けているのだろうと思う」と語り始める。これに対して、小森氏は「そうすると、安岡さんはこの小説は、ドストエフスキーが『罪と罰』で全く触れなかった問題から始まっているとおっしゃるわけですね」と受けている。これに対して安岡は、「(『大菩薩峠』には、注)そういう報いの部分があると思うんだな」と応じている。さらに小森氏はそれを受けて「『大菩薩峠』は、他の剣豪小説と違い机竜之助は報いを受け続けている。つまり、この小説は、その報いを主人公が受け続け、それを引き受けていく話だとも言えます」と、ここでの議論を締め括っている(同著、p.191)。
 これくらい両者は確かに違うと思うのだが、同時にこのような指摘は、各々の小説の本質をあぶり出すことになっていて興味深く感じるのだ。そして小森氏はそんなことを考えていないだろうが、もしここでの議論に先程の堀田善衛の論考の結末を結びつけたらどうなるか。すなわち、日本の天皇は(ヨーロッパ・ロシアの皇帝と違い)、その権力?を行使すること(時に殺人)の報いを受け続け、それを引き受けているから殺されず(革命が起こらずに)貴種として生き続けていると。これは、堀田と異なる当方の「妄想」でもあるのだが‥‥。それと気になる問題がもうひとつある。実は安岡の著作が95年11月に刊行されていて、この年の3月にオウムの地下鉄サリン事件が起きている。安岡は、『大菩薩峠』を「輪廻転生」を主題とした小説と捉えていて机竜之助にとっての「殺人」が、「人の生まれ替わり」に係わる生死の「置き換え」であるように介山が説明していることを本著で指摘していた。さらにこのことは変に誤解して欲しくないが、実はオウム事件の首謀者にして宗教指導者であった麻原彰光が人間の「カルマ」を説き、そこから解脱する手段としての殺人(=「ポア」)を語った者であったことだ。その両者をどう結びつけ考えるべきなのか。安岡氏は対談でオウム事件に言及していて、その辺を興味深く読んだ記憶がある。麻原はその後の情報では、日本国家転覆をも目的にして、結果的には日本国の王(天皇)を目指した事件でもあったという事実が明らかになっている。そんなことを言うと、『大菩薩峠』はドストエフスキーの作品から少しずつ遠ざかってゆくようにも見えて来るが、同時に、その射程は逆に現代まで近づいて来るように感じる。今度の世界大戦では、多くの大衆が戦場で無辜の人々を殺さねばならなかった体験があって、そんな時代をくぐりぬけて、『大菩薩峠』は日本の近現代史にどんな意味を持ったのか。堀田と安岡がこの小説に拘った意味は意外に深く大きい。
 結局、今回は以前論じようとした『大菩薩峠』に終始したような恰好になったが、残りのスペースで『若き日の詩人たちの肖像』について、次回に論じようと思っているさわりだけでも語っておきたい。堀田善衛は、元々ドストエフスキーに拘りを持った作家であった。例えば上海での武田泰淳との文学的交流では、むしろ堀田の方が武田にドストエフスキー指南をしている関係があって意外な発見(武田と堀田の「ドストエフスキー体験」に纏わる)をした覚えがある。そして本題の『若き日の詩人たちの肖像』では、『白夜』の冒頭部分を第一部開始のエピ
グラフとしていることは重要だと思う。そればかりか、第四部まで含めたドストエフスキーへの言及は、かなり長い文章を含めて物語展開の随所要所にある。圧巻は、成宗の先生(堀辰雄がモデル)との立ち話で語られる「ランボオとドストエフスキーを比較した謎の言葉」の件だろう。そこでは『白
痴』の冒頭が引用され、英訳と仏訳と米川訳を含む三冊の翻訳で毎日『白痴』(冒頭)を読み返したことが語られる(下巻p.94)。大戦を目前にしたこの時期、必死にドストエフスキーをバイブルのように読んだ若者が何人もいたことが証言されている。実は、本作は何人もの文学(詩人)関係者が仮名で登場する。実は、その各々にモデルがいて、その「謎解き」も本書を読む楽しみの一つだろう。しかしどうも特定出来ぬフィクション的人物も居る。「アリョーシャ」という人物はその一人か。実は当方、この人物の描かれ方が気になっている。太宰治の近く居る作家(志望)の彼は、元々熱烈なドストエフスキーファンであった。しかし物語の進行(戦局の悪化)とともに時代の影響を受けて「愛国者」として描かれてゆく。このことは、堀田が、抑も何故ドストエフスキーの作品から『白夜』をエピグラフに選んできたかという問題とも関係しているようだ。堀田には、この時期『カラマーゾフの兄弟』より『白夜』に寄り沿いたい思いがあったのか。この作品には日本が滅びようとした時期、その時を必死に生きようとした若者(詩人たち)がドストエフスキーをどう受容したかを考える歴史的ヒントがある。 (2016.9.23)



広  場
 

翻訳在り方にも一石 
新聞 東京新聞 2016年10月1日(土)夕刊(転載)

『ドストエフスキーの作家像』を出版 木下豊房さん(ロシア文学者)

 ここ十年ほど日本で一大ブームとなっているドストエフスキー。ロシア文学者で千葉大名誉教授の木下豊房(とよふさ)さん(79)は、八月刊行の『ドストエフスキーの作家像』(鳥影社)で、十九世紀の文豪へのひとかたならぬ思い入れを示した。
 二葉亭四迷にさかのぼって日本でいかにドストエフスキーが受け入れられたかの歴史をたどり、椎名麟三らと比較し、作家像に迫った。「ドストエフスキー文学は家庭崩壊や動機なき殺人、記憶、思い出の大切さ、自意識など、現代に通じるテーマが魅力。再読されるのは、作者が一義的な答えを提供しないから」「人間は単純でなく、いろんな善悪の要素を持つ。自分が謎。ドストエフスキーは人と向かい合い、問いかけ答え合う関係の中に人間の真実があると教えてくれる」
 長崎市出身。早稲田大第一文学部在学中に学生運動に参加し、「組織から要求される義務と、個人の自由や自立との間で悩み、『地下生活者の手記』を悪夢にうなされるように読んだ」のがドストエフスキーとの出会い。同大大学院でロシア文学者の米川正夫から指導を受けた。旧ソ連の通信社の東京支局に五年間ほど勤務し、国内の新聞社に配信するニュースの邦訳を担当。三十代で千葉大に職を得た。退官する二年前の二〇〇〇年には同大での国際的なドストエフスキーの研究集会開催に奔走。全国の研究者や愛読者でつくる「ドストエーフスキイの会」を主導、一九九五年からは国際ドストエフスキー協会の副会長の一人でもある。
 ドストエフスキー文学は多くが邦訳され、複数の出版社から全集も出ている。木下さんが新著を出した狙いの一つが、翻訳の在り方に問題提起するためだ。とくにブームの火付け役となった亀山郁夫さん(名古屋外国語大学長)の光文社古典新訳文庫『カラマーゾフの兄弟』(全五巻)を挙げ、「読みやすさを強調するあまり、プロが素人を裏切る結果になっていないか」と指摘した。
 「翻訳には原文がある。ロシア語のルールがある。私はロシア語の教師でもあり、黙っていられなかった」と手厳しい。知人らとともに亀山さんの新訳『カラマーゾフ』のうち第一巻を対象にネット上で検証。「初歩的な誤訳」「段落をぶつぶつと切っている」「テキストを歪曲(わいきょく)している」などと原文や先行訳と比較しつつ批判してきた。過去の邦訳に誤りがなかったわけではないし改行も行われてきたが、「程度が違う」と問題視する。
 一方の亀山さん。『カラマーゾフ』新訳は「読者がこれまで挫折したのは直訳主義のため。日本の作家がこれを書いた場合には、どのような日本語になるだろうか、という観点から翻訳した」という。木下さんの指摘について取材すると「自分の解釈を通すためにテキストを意図的に改ざんすることは一切ない」「基本的な文法ミスはすでに修正した」などと答えた。読者からは「初めて読み通せた」「リズム感がある」「新しいドストエフスキー像を感じさせられる」と評価され、販売部数は全五巻で百万部超。二〇〇八年、亀山さんはロシア政府からプーシキン賞を受けた。
 木下さんは「ドストエフスキーに『深刻』『難解』とレッテルを貼り、それを一新する名目で素朴な読者に売り込むための意匠づくりをしたのでは」ともいぶかる。これに対して亀山訳を出した光文社は「『いま、息をしている言葉で』をキャッチコピーに、無用な難解さを排した分かりやすい翻訳を目指した。旧来とは一線を画す」とし、議論はかみ合いにくい。
 かように翻訳は難しい。翻訳間の酷似が批判されたこともあった。訳文は進化する。ネッ
ト上ではブームを背景に亀山訳への批評もあれば、先行訳や木下さんらの「検証」への「検証」を銘打つ記述も見られる。複数の邦訳を突き合わせて読めば、ドストエフスキーの本質が、より分かるのかもしれない。
 没後百三十五年にして、この影響力。木下さんによると、ロシアではテレビドラマでのドストエフスキーの描かれ方をめぐって研究者らが論争になったという。(谷知佳)



寄稿

『白夜』に於ける恋愛の偶然性について

野澤隆一

 前回の読書会(『白痴』のフリートーク)の後半では、ムイシュキンの体験したであろう観念の「外部」について、いくつかの興味深い意見交換が見られた。
 初めにこの「外部」との関連について、日本でもこの2~3年、ポスト構造主義後に位置付けている最新(?)の現代思想として話題のメイヤスー『有限性の後で- 偶然性の必然性についての試論』(*1)の骨子を標題の前提として整理したい。読書会において自分は小林秀雄の批評方法として超越論的主観の立場を提示したが、大雑把に括ればこの哲学思潮はカント以降、それまでの近代哲学に対しコペルニクス的転回として、以降、現象学・構造主義等様々な立場に展開され、現在まで継続されてき来たと言えよう。それをあえて現象学的に述べると下記のことである。「認識論において主客は一致せず、主観が客観とみなす事物・事実は、主観の知覚とそれとの間の相関作用(現象学的還元)のうちに一つの確信・信憑として成立している」
 メイヤスーはこうした超越論的哲学を「相関主義」と一括し、その批判として「外部」を置く。それを「先祖以前性」と定義し、人類の誕生以前(意識や生命の到来に先立つ出来事に関する言明)の科学的事実が「真」として示されていることを指す。それを従来の相関主義に対する思弁的実在論(speculative realism: SR)として提示し、その現代での有効性を説いている。批評家の東浩樹氏は理系(思弁的実在論)と文系(相関主義)との対立として比喩しているが(*2)、自分としては従来からの「政治と文学」問題としても、その内実を同じくしたものと捉えている。
 また、現代の問題としてメイヤスーはこの相関主義と外部との「真」の受け止め方が、無視できない格差を生み、さらにそのことが、絶対者を否定する相関主義の有限性自体が、その外で信仰的言説と共存していることを指摘している。ポイントは「絶対者」を神とするカントの形而上学批判を継承しながら、相関主義での内なる「絶対者」からも外に出る立場を
主張する。それは世界の存在の必然性を支える物事の理由律を排除し、自然法則や物理理論に必然性はなく、世界は偶然性であると主張することである。3,11以降、想定外な事象が現実となっている現代では、そうした主張の有効性は無意識でも偶然性が日常化した現実と照らし合わせて考えていくことができるだろう。ちなみに今年の大ヒット映画『シン・ゴジラ』での災厄としての突然のゴジラの出現、大ヒットアニメ『君の名は。』での彗星の地球衝突による村の消失等(*3)、偶然性をガジェットとした災後文学としてのサブカルの台頭は現代を考える上で肯定的に評価したい。また、『君の名は。』は一部セカイ系を復古した恋愛劇だが、作者の新海誠監督の「出逢う前の二人の物語を描きたかった」というコメントに対し、東浩樹氏は自身のツイッターでこの作品を次のように語っている。

「あの作品は運命の相手と結ばれる作品では【なく】、なぜ人々が運命の相手がいると思い込んでしまうのか、その理由こそが語られた作品だということです。・・・・運命の相手なんていないんですよ。ただ「運命の相手がいるはずだ」という感覚だけがある(これはもっている人ともっていない人がいる)。そこから遡行的に見いだされるファンタジーがセカイ系の本質です。」
 世界の偶然性の日常的な現前は、男女の出逢いなのではないだろうか?人を好きになることこそ理由律に縛られない、意味不明なことである。ただ、その出逢いの偶然性を「運命」と考える時、それをテーマとした物語の構造としてファンタジックに展開するロマンチックな作品が多々ある中で、そのロマン性を独特に作品化したのが『白夜』と言えよう。
 27歳の『白夜』の主人公は「運命の相手がいるはずだ」と考えている空想家であり、孤独な生活を送っているが、それを客観視できる平衡感覚を持っている。偶然、街で17歳のナースチェンカに出逢い、それまでの空想をよりどころとした生活から抜け出す契機を与えられる。ナースチェンカ自身も空想家である主人公の実存は自らの境遇に照らし理解の上、愛を育みつつあるが、方や離れている恋人の帰還を待つ現実に根ざした愛情に揺れ動く。そうしたナースチェンカの幸福をあくまでも願い、最後にやっと男性としての愛情を告白をする主人公の感情の変遷を、二人の会話の中にのみ語らせて展開していく手法は出色である。白夜の街の情景や、社会性の欠如、最後まで帰還後の登場が無いナースチェンカの恋人の謎めいた存在等々、セカイ系に通ずるガシェットを配置していることも興味深い。ただし、あくまでもリアリズムからロマンを立ち上げ、出逢いの偶然性から二人の関係の意味をあからさまに背後に設定せず、4日という短い期間で、理由律に縛られない二人の感情の変遷のみを捉えていることに、現代にも通じる恋愛の不可思議さの普遍性が読み取れるだろう。
 さて上述のようにメイヤスーの「偶然性」のみ取り出すと予定調和的な物語はあてはめられず、あまりにもニヒリスティックな響きしか感受できないと思われがちだが、彼の本意には別論の『亡霊のジレンマ』(*4)でこの概念を「神と正義」の問題として論を進めている。そこでの問いは『カラマーゾフの兄弟』におけるイワンとアリョーシャの神を巡る対話に通ずる内容である。メイヤスーの言う亡霊とは「不幸な死・非業な死を遂げた人々」であるが、そうした人々の真の喪を実現するための神の存在に言及している。彼の言う神の在・不在は「神はまだ存在しない」として提示しているが、この内容については今後読書会で論評していく『カラマーゾフの兄弟』の機会にて、詳細を紹介できればと考えている。

出典・参考図書
* ドストエーフスキイ『白夜』小沼文彦訳 角川文庫
*1 カンタス・メイヤスー『有限性の後で-偶然性の必然性についての試論』
  千葉雅也・大橋完太郎・星野太訳 人文書院 2016年
*2 千葉雅也+東浩樹『神は偶然にやって来る-思弁的実在論の展開について』ゲンロン2 2016年
*3 渡邊大輔『彗星の流れる「風景」『君の名は。』試論』ユリイカ 2016年9月号
渡邊氏は彗星の落下を予期せぬ偶然変化と捉え、メイヤスーの「偶然の必然性」を注において絶滅の問題系として引用もしている。
*4 カンタス・メイヤスー『亡霊のジレンマ-来るべき喪、来るべき神』 岡島隆佑訳「現代思想」2015年1月号



エッセイ
 

突然の電話

下原敏彦

 「突然」はドストエフスキーが好む言葉だ。作品によくでてくるが、日常で実際に起きたりすると、しばし混乱することがある。
 なんともスッキリしない、今年の夏であったが、それでもよいことを一つあげるとすれば、ある朝、かかってきた突然の電話のことである。見ず知らずの人とかわした2~3分の会話。他者との交信、インターネットの今の時代にあって、珍しいことではないかも。だが、その電話は、私にとってうれしいことであった。私の70年の人生のなかで、記憶に残る出来事の一つになるといえる。大げさに言えばそんな電話だった。
 8月半ばだった。昼近い、ある朝、我が家の電話が鳴った。この時間、電話をかけてくるのは、たいてい息子の嫁さんか、保険勧誘か墓地・墓石売り込みである。近くにいる息子夫婦は、急な用事のとき、孫の子守りを頼みに電話してくる。このときも、てっきりそれらのうちのどれかと思った。1歳半になる孫は、くれば疲れるが、来ないと寂しい。この一週間、顔をみてない。
「はい、もしもし」威勢よく受話器をとった。
「○△□×」男性の声だった。はじめなにをいっているのかわからなかった。はっきりした力強い声だが、いわゆるカタカナ言葉で理解できなかった。なんだろうと思いながら不安がよぎった。もしかしてオレオレ詐欺。我が家には、最近2度、息子を名乗る若い男から電話がかかっていた。かすれ声で「ノドが痛い」と訴えるのだが、最初のときは信じて暫く会話してしまった。あのときの男か、確かめようと思っているあいだにも、受話器からモシモシと呼びかける声がきこえてくる。聞いてみると
「シモハラトシヒコサンノオタクデスカ」こう言っているように聞こえた。
カタカナ言葉は、春先、アメリカ人の英語教師が柔道を習いたいと電話してきたことがある。が、それとも違う。もしかしたら英会話教室の誘いか。いろんなことが思いめぐった。こんなときたいていは、受話器を置いてしまうのだが、このときはなぜかそうしなかった。不安のなか、返事した。
「はい、私ですが」
「アッ、シツレイシマシタ」
相手は驚き声で謝った。礼儀正しい。自分のことを名乗っているようだった。
なれてきたせいか、言っている意味がわかった。しかし、そこは、私にはまったく無縁の公的な場所だった。そんなところから何用か。不審に思っていると、いきなり
「カノウジゴロウトドストエフスキイヨミマシタ」と、言った。
予想外の言葉に私は、驚いた。
 嘉納治五郎とドストエフスキーの比較論、創作半分だが確かに書いたことがある。まだ未完だがドストエフスキー全作品を読む会HPにアップしてある。数年前に出版した『ドストエフスキーを読みつづけて』(D文学研究会)の「千帆閣の海」でもふれている。
しかし、これまで見たという人も読んだという人もいなかった。それだけに、びっくりした。しかも、その人が、外国人で、高官らしい人で驚きも倍増した。その人は「嘉納治五郎とドストエフスキー」について何か話したそうであった。が、私の拙い英語力とカタカナ語では、どうにもならなかった。しかし、心は通じた気がした。
土壌主義と自他共栄精神。その理念は、国籍も語学も身分も翻訳さえ超えたところにある。突然の見知らぬ人からの電話で改めてそのことを知った。     



架空文豪秘話
土壌館主

嘉納治五郎と突然の電話で、頭に浮かんだ光景がある。

深夜の報告(前)

 一回しかない自分の人生、どうするか。既に腹は決まっていたが、この一大事、まずは誰に打ち明けるか。彼は、そのことでこの半月、病んだ精神さえ忘れるほどに悩みに悩んでいた。友人、知人、親族、いろんな人の顔が思い浮かんだ。だが、やはり義理と道理を通すなら、あの人しかいない。そのことは最初からわかってはいる。が、どうにも気が重かった。それというのも、勝れぬ精神の気分転換に書いたネコの話。これが世の中に多いに受けたことで、その余波をかってつづいて書いた痛快もの。これも大当たりとなった。このモデルは、あの人だ。決してふざけたつもりではない。自分としては、尊敬するあの人にお礼の気持ちで書いたのだ。いつか打ち明けるつもりだった。が、人気がでて話しそびれた。
 だが、あの人はどう思っただろう。読んでいないかもしれない。カーライルは読むだろうが、小説などと縁がないしろものそのように思っているかも。この決断、世間に発表するまで黙っていようか。そんな弱気も頭をもたげた。
 しかし自分としては、いまある自分の人生最大の決断を、まず最初に、あの人に話さないわけにはいかなかった。高等師範学校も、第五高等学校の講師も、あの人に強く求められてはじめたのだ。あの人は私のなかに良質な教育者の資質を見て推薦してくれた。が、私はそれに答えることができない。でも、ハーンや中国留学生魯迅のことを思うと文学がまったく嫌いなわけではないと思う。自分とは畑違いな人だけ。会うとなにか固苦しく感じた。だが、あの人ならきっと理解してくれる。そんな確信があった。
彼は、意を決して立ち上がると玄関に出て行って台にある電話から受話器をとった。その人は、新聞でいま、我孫子の別荘にいることを知っている。
電話口にでるのはだれだろうか。お手伝いさんか、夫人か、ちらっとそんなことが頭を過ぎった。自分としは、電話することを妻はむろん女中にも知られたくなかった。受話器にでたのは、その人、本人だった。彼は、緊張した。いまや新進気鋭の流行作家への道を登りかけている彼ではあったが、どうもあの人には弱い。
「あ、先生ですか。夜更けにすみません」行会釈して名乗った。
「ああ、君か」
相変わらずの落ちついた声がかえってきた。
「はい」
「だいぶ活躍をしておるようだね」
「は、はい――」冷や汗が体中から噴き出るのがわかった。
「その後、日本で柔道はみにいったかね」
彼は、ロンドン留学中、柔道を楽しみにしていた。が、興行者の都合で相撲とレスリングの勝負をみせられて、はなはだ落胆したことがあった彼は、そのときの気持ちを友人正岡子規に手紙に書いている。
「いえ、まだ見に行っておりません」
「君のやまあらし君の活躍はしっているよ」カラカラと笑い声がきこえてきた。
 読んでいる。汗がまた噴き出した。
「で、なにかね」
「はい、教師をやめる決心をいたしました」
「気にしているのか、まだ日光のことを」

(後半は次号)



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