ドストエーフスキイ全作品を読む会 読書会通信 No.155
 発行:2016.4.8


第273回4月読書会のお知らせ


場 所 : 池袋・東京芸術劇場小会議室7(池袋西口徒歩3分)
開 場 : 午後1時30分 
開 始 : 午後2時00分 ~ 4時45分(時間厳守)
作 品 : 『白痴』3回目
報告者 : 尾嶋義之氏 司会進行 國枝幹生さん       
会 費 : 1000円(学生500円)

6月読書会は、18日、東京芸術劇場第5会議室です。作品『白痴』4回目
開催日 : 2016年6月18日(土) 午後2時~4時45分迄。報告:近藤氏

第32回大阪「読書会」案内 4・9『白痴』第1編、第2編
ドストエーフスキイ全作品を読む会・大阪読書会の第32回例会は、以下の日程で開催します
。4月9日(土)14:00~16:00、・会場:まちライブラリー大阪府立大学 参加費無料 
〒556-0012 大阪市浪速区敷津東2丁目1番41号南海なんば第一ビル3F Tel 06-7656-0441 小野URL: http://www.bunkasozo.com



ゆく春のなか読書会の皆様には、如何お過ごしでしょうか。早くも葉桜の季節になっております。年度をまたぐ気ぜわしい時期ですが、『白痴』作品3回目となります。1、2回とも女性報告者でしたが今回は、尾嶋義之さんです。男性視座から捉えた『白痴』作品。どのような風景になるか楽しみです。なお、司会進行は、國枝幹生さんです。年代の違うコンビによる4月読書会劇場こちらも期待されます。

「白痴」レポートのメモ風レジュメ

尾嶋義之

・謎解き小説
「白痴」は読み難い。その一原因は、ことに肝要な場面に関して、伏線となるべき文句やエピソードが欠けている点にある。(孤児ナスターシャの突然の変貌。ロゴージンとナスターシャの生活、モスクワでのムイシュキンとナスターシャの数か月。ナスターシャ殺害の動機など)その代わり、暗示、ほのめかしは多々あって、謎解きの面白さはある。
・ムイシュキンの言動は少しも白痴(脳の発達障害、知恵遅れ)らしくない。性格的には、白痴ではなく子供。
「ムイシュキンは、年齢にもかかわらず、本質的に子供である」(ドイツの精神科医テレンバッハ)
・てんかん者の気質的特徴―天真爛漫。すべての人に対してオープン。人懐っこさ。他人との間に距離を置かない。人を素直に信じる。裏表がない。子供がそのまま大人になった。打算がなく、駆け引きができない。恋愛が苦手(木村敏、荻野恒一などの精神医学者)
・美しい人間=純粋な人=?透明人間?
「この人物の手の施しようもない純粋性」(小林秀雄「白痴について」)
・純粋とは混じり気のないこと。そんな人間は存在しない。純粋になろうと努力するだけだが、大方は敗北する。
・聖と俗。「純粋、純粋―それによって神に到達する」(アルチュール・ランボー)
・<透明人間>の宿命「ムイシュキンは、主人公と呼ぶよりむしろ一個の意識あるいは精神であって、筋のきっかけになるような性格上の諸規定が、この人物には欠けているから、一度この人物に事件が発生すれば、彼はいわば事件の重みに耐えられず破滅する」(小林秀雄)
・観察者、認識者≠生活者。
・透明人間は、相手からは見られないまま、他人の秘められた物事までいくらでも観察できる。他人と容易に共感できる才能、それが人を惹きつける能力も透明性と無関係ではない。ただし観察するだけで参加はできない。永久に孤独。
・正体を見破られる恐怖に常に脅かされている(幻覚のように現れる二つの眼)
・自己が非在なので、自分の言動によって誰かが傷ついたり、誤解したり、嬉しがったりすることに鈍感である。自己反省することがない。体験から学ばない。成長がない。
・控えめな、ドギマギした、慎み深い、へりくだった態度、本心に反して笑ったりする。ひっぱたかれても怒らない。自分からはコトを起こさない。嫉妬しない。
・時に、情熱に任せて長弁舌を振るい、我を忘れ、貴重な花瓶を割ってしまったりする(これを見たリザヴェータ夫人やアグラーヤが、ムイシュキンの人間的な面を発見して新たな好意を抱く)また何度か、傍観者でなかった時もある。(ガーニャがワーリャを殴ろうとした時、とっさに二人の間に入って止める場面。ナスターシャに聞かれて「嫁に行くな」と即座に言う。停車場前広場でナスターシャが杖で男の顔を打ち、怒った男が彼女に飛びかかろうとした際、背後から両腕を押さえて止めさせる)。
・彼に行動原理があるとすれば、その核になるものは、女性をいつくしむ感情であろう(美に対する感受性の強さが、もっぱら女性に向かう)
・最後のナスターシャ殺害のシーンは、それまでの上流社交界の乱痴気騒ぎなどとはまったくトーンが異なり、まるでアラン・ポーの怪奇小説のような陰惨な世界に一変する(むろん、ドストエフスキーの方にリアリズムがある)多くの画家による栄光に包まれたキリスト像と、ホルバインが描いた十字架から降ろされたキリストのゾッとする姿のような違いと言えばよいか。
・ナスターシャの死に接して、ムイシュキン公爵は「すべては自分のせいだ」と悟って悔悟し、人間的な成長をするわけではなく、さらに自分の殻に、無の世界に閉じこもってスイスに戻る。
・ナスターシャを殺すに至ったロゴージンの苦悩が読者に伝わってこない。そのために殺人の動機についていろいろな解釈が出ている。単純に考えれば、絶世の美女へのロゴージンの愛(もしくは所有欲)を永遠なものにしたかった(二度とムイシュキンの許へは返さない)ということだろう。
・この小説は、花嫁がムイシュキンとの結婚式場.から逃げ出し、「助けて」と叫んでロゴージンの馬車に飛び込む場面で幕を引いてもよかった。筋書としてはすっきりする。
・小説の結末部分、スイスで「白痴」を見舞ったリザヴェータ夫人の言葉がよい。「物事に熱中するのはもういいかげんにして、そろそろ理性を働かせてもいい時分ですね。それに、こんなものはみんな、こんな外国や、あなたがたのヨーロッパなんてものは、何もかもみんな幻影にすぎませんよ。外国に来ているわたしたちにしても、幻影にすぎないんですよ」



『白痴』アラカルト
(編集室)

当時の『白痴』の評判 1868年1月「ロシア報知」に『白痴』連載開始
(典拠:『ドストエフスキー 写真と記録』代表編者・V・ネチャーエワ 編訳・中村健之介 論創社 1986) 

1869年2月26日 N・N・ストラーホフ宛の手紙

私は現実(芸術における)というものについて私独自の見解を持っています。大多数の人が、ほとんどファンタジーに近い、異例だとよぶものが、私にとっては、時として、現実的なるもののまさに本質をなしていることがあります。さまざまな現象のありふれた顔、それらの現象に対する決まりきった見方、それは、私に言わせれば、まだリアリズムではないのです。いやむしろ、その反対でさえあるのです。――毎日の新聞をみれば、まったく現実的な、そしてまったく奇怪な事実の報道に接します。わが国の作家たちにとって、そうした事実はファンタスチックなのです。そして彼らはそのような事実に取り組もうとしません。しかし、それらは現実なのです。なぜなら事実なのですから、いったい誰がそうした事実に注目し解明し、書きとめてくれるのでしょうか。それらは絶え間なく、毎日、起こっているのであって、異例ではないのです。

1868年2月26日 A・N・マイコフからの手紙

大変うれしいニュースをお知らせしましょう。好評です。読者の好奇心をかきたてています。作者自身が体験したさまざまなさまざまな恐るべき体験の面白さもあります。主人公に与えられている課題の独創性もあります…将軍夫人もいい、ナスターシャ・フィリーボヴナは何か力強いものを予感させます。その他諸々のことですが、私の話あった人たちすべての関心を惹きつけています。

1869年2月26日 N・N・ストラーホフ宛の手紙

果たして、私の『白痴』は現実的ではないでしょうか。しかも極めてありふれた現実ではないでしょうか!わが国の、大地から引き抜かれてしまった社会層、それは実際にファンタジーのようなものになりつつありますが、その社会層には、まさに現在、あのような人物たちが存在せねばならぬはずです。しかし、何もくどくどしゃべることは要らないのです。あの小説は大あわてで書いたところや、だらだらと間のびした所やらがたくさんあって、失敗だったのです。しかし、成功したところも少しはあります。出来上がった小説のことではなく、私の着想を擁護してこう申しているのです。

1868年3月30日 A・N・マイコフ宛の手紙

でも、ナスターシャ・フィリーボヴナの性格描写が完全に正確であるということには、私はいまだに自信をもっているのです。ついでに申し上げますが、第一編の最後に出てくるいろんなものは、実際にあるものの写生なのであって、幾人かの人物は肖像画そのままなのです。たとえばイヴォルギン将軍、コーリャです。

映像の『白痴』  

『白痴』作品を映画化したものは多い。下記にあげたものが全てかどうかは知らないが、ロシアのテレビドラマシリーズ以外は、観たことがある。(「読書会通信」編集室)
1946年のジョルジュ・ランパン監督によるフランス映画。
1951年の黒澤明監督による日本映画→白痴 (1951年の映画) 参照。
1958年のイワン・プィリエフ監督によるソ連映画。
1994年のアンジェイ・ワイダ監督によるポーランド・日本合作映画。
2003年のウラジーミル・ボルトコ監督によるロシアのテレビドラマシリーズ。
他に玉三郎の「ナスターシャ」
映像化するにおいて筋立て、人物設定、演技などに差はあるがどれも、よくできていた。黒澤の「白痴」のように喧々諤々のものもあったが、映画評もよかった。
しかし、映画化のドストエフスキー作品全部にいえることだが、何かが足らない。最初に作品を読んだときの感動がないのだ。「この世にこんな作品があったのか!」はじめて読んだときの興奮と覚醒。映像にはそれがないのだ。『白痴』も例外ではない。ただ物語をなぞっただけ。真に美しい人のイメージが、伝わってこない。映像と原作の差、まだはるかである。

『白痴』の翻訳

木村浩訳 『白痴』 新潮文庫(上下)/『全集 9・10』(新潮社)
米川正夫訳 『白痴』 岩波文庫(上下)/『全集 7・8』(河出書房新社)
望月哲男訳 『白痴』 河出文庫(全3巻)、2010年7-9月
北垣信行訳 『ドストエフスキイ 白痴』 〈世界文学全集42.43〉講談社
小沼文彦訳 『ドストエフスキー全集(7) 白痴』 筑摩書房



2・27読書会報告 
              
27名参加で大盛会。報告者のS.I.さん 北欧から帰国したばかりの司会進行のU.K.さん

「周縁」をめぐる視点に白熱

この日の読書会は、若く華やいだ報告者と司会進行者で、まさにナスターシャの開いた夜会を思わせるにぎやかさとなった。久しぶりの人、常連の人、若い人、高齢の人、参加者は、世代を超えて『白痴』の世界を話し合った。報告は次の4項目について言及された。①ムイシュキンと周縁 ②眺める目(ロゴージンの彷徨う視線)③ナスターシャと病 ④イノセント 

報告者、『白痴』のエロスを指摘 (編集室)

ドストエフスキーの作品は、エロスが基盤となっている。特に『白痴』は、エロスで貫いた作品、物語といえる――として報告者のS・Iさんは最後の場面にあるエロスの生々しさをあげた。脱いだあと、丸められて捨てられたパンティーらしきもの。なんとも悩ましい光景である。これまで何度も読んできているのに、この場面は、なぜか読み飛ばしていた。物語の長丁場で疲れてきたせいもあるが・・・今回、S・Iさんの指摘で、あらためてこの1行が強烈なエロスとして表現されていることがわかった。

…足もとには何かレースらしきものが、まるめられて捨ててあったが…木村浩訳
…足もとにはなにかレースらしいものが、ひとかたまりにしてちぎってあったが…米川訳

報告者は、これを「柔らかなパンティではないか」と推理した。稀代の美女ナスターシャが最後に身につけていた衣装。シーツの下には全裸のナスターシャが想像される。生命を失う前、この部屋で何があったのか。彼女は、なぜ殺されなければならなかったのか。激しいセックスのはての行状か。それとも、性的不能者に陥ったラゴージンの絶望のはてか。人間美しいだけではどうにもならない。この作品は、さまざまな問題をつきつける。『エロイーズ』にみる愛と性の問題が、この作品でも展開されている。



『白痴』の世界 -ナスターシヤを中心として- ②

(2015年12月5日 読書会第1回『白痴』報告資料)
               
菅原純子

小林秀雄は「白痴」についてⅠの中で、田舎で一と月の間、毎日の様にナスタアシャに会っていたムイシュキンについて、作者は何物も語っていない。と述べている。が、ムイシュキンに何が起ったかという事は、ドストエフスキーは書いているのである。ほとんど毎日のようにこの女に会っていた田舎のひと月が、彼の心に恐ろしい作用を及ぼしていたので、この時分に関する単なる追想すらも、なるべく自分の脳裡から追い出すようにしていた。
ああ、この恐怖をいい表わすには、人間の言葉はあまりに貧しい。そうだ、恐怖である!彼は今、この瞬間にそれを完全に直覚した。彼は特別な理由によって、この女が気ちがいだと信じた。ムイシュキンから、気ちがい、狂人という言葉は、はしばしに出てくる。ムイシュキンは何を恐れたのであろうか。
ぼく・・・・ぼくはあれの顔が恐ろしいのです!彼は、ナスターシヤその人を恐れているのであった。ナスターシヤの顔、白痴という小説は顔の重要性ということを前述したが、ムイシュキンという人物は、必要以上に顔にこだわる。アデライーダに「ギロチンの落ちて来る一分前の死刑囚の顔をお描きになっては。」アデライーダ、アレクサンドラ、エパンチン将軍夫人の顔の観察、アグラーヤにいたっては、
 「ほとんどナスターシヤ・フィリッポヴナと同じです。もっとも顔のたちはまるで別ですが・・・」
 「ですが、どうしてわたしだってことがわかりました?以前どこでわたしをごらんになったんですの?どういうわけかしら、わたしもなんだかほんとにこの人をどこかで見たような気がするわ。」
 「ぼくはなんだかあなたの目を、どこかで見たような気がするんですが・・・しかし、そんなことのあろうはずがありません!これはぼくがただ・・・・ぼくはだいいち、一度もここへ来たことがなかったんですもの。もしかしたら夢にでも・・・」
 「ほんとだ!わたしどこかで、この人の顔を見たことがある!」
気ちがいだとムイシュキンに言わせるナスターシヤは、どんな状態だったのだろう。あの人はからだも精神も、ことに脳がひどく錯乱しているから、ぼくの考えでは、よほど親切に介抱してやる人間が必要だよ。これは田舎での生活の経験がなければ、ムイシュキンの言葉として出てこないことである。
ラゴージンも、おめえも見て知ってるだろう、泣く、笑う、熱に浮かされて騒ぐ、めちゃめちゃだあ。錯乱だけでならまだしも、「きみは知らないかもしれんが、女ってものは惨忍な行為と冷笑で男を苦しめて、それですこしも良心の呵責を受けずにいられるんだよ。そのわけは、いつも男を見ながら心の中で、『今こそわたしは、この人を死ぬほど苦しめているけれど、そのかわりあとで愛をもって取り返しをつけるからいい』とこう考えるからだよ・・・」
 ナスターシヤがムイシュキンにあたえた惨忍な行為とはなんだったのだろうか。評論家のなかには、想像をたくましくして、この行為がなんだったかを考察しているが、ここでは記述しないこととする。
 惨忍な行為を受けたムイシュキンはどうなったかというと、
 「いいえ、すこしも愛してはいません。おお、ぼくがあの女といっしょに暮らした時分のことを追想して、どんな恐怖を感じるか、それがあなたにわかったら!」
 「つまり、ぼくがあの女を憐れんでるだけで、もう・・・愛してはいないことを」
 「いいえ、あの女は面あてに冷笑しました。おお、あの時分は腹立ちまぎれに、おそろしくぼくに食ってかかって―――そして自分でも苦しんでいました!けれど・・・あとで・・・ああ、もうあのことを思い出させないでください、思い出させないで!」
 「しかし・・・・ぼくはもうあの女を愛するわけに行きません。あの女もそれをよく承知しています!」
 確かに、書かれていない事から類推するのは困難ではあるが、ムイシュキンに強迫観念をうえつけたというのは事実である。先へ急ぐとしよう。次の論点は山城むつみが指摘している所ではあるが、山城むつみの前に先行する著作、『ドストエフスキイ』ウォルィンスキイの中の「美の悲劇」から、山城むつみはヒントを得たのではないかと思ったからである。
 「じっさい、あの人はもちろん、きみのいうように、きみのことを悪く思ってやしないよ。でなかったら、あの人がきみと結婚するのは、意識的に水の中へ飛びこむか、白刃の下をくぐると同じことになるじゃないか。いったいそんなことがあるものかね?だれが意識しながら水の中へ飛びこんだり、白刃の下をくぐったりするものか!」ラゴージンは苦い嘲笑を浮かべながら、熱誠にあふれる公爵の言葉を聞き終わった。彼の信念はもはや揺るがすことのできぬほど、しっかり決まってしまったようであった。
 「なんだってきみはそんないやあな目つきをしてぼくをにらむの?」公爵は重苦しい心持ちで覚えずこうきいた。
 「水の中か白刃の下!」とこちらはやっとのことで口をきった。「へっ!あの女がおれんとこへ来ようってのは、つまり、おれのうしろに白刃が待ち伏せてるからなんだ!公爵、おめえは今まで、ことの入りわけをほんとうに気がつかなかったのかい?」
 「ぼくはきみのいうことがわからない」
  (中略)
 「それはみんな嫉妬だよ、パルフェン、それはみんな病気のせいだよ、それはみんなきみがやたらに誇張して考えてるんだよ・・・」と公爵は度はずれにわくわくしてつぶやいた。
 「きみどうしたの?」
 「よしなよ」とラゴージンがいって、手早く公爵の手からナイフを取り、もとの場所へ置いた。ナイフはもとの本のそばにあったのを、公爵が何ごころなくテーブルの上から取りあげたのである。
 「ぼくはさっきペテルブルグに入る時から、なんだか虫が知らせるような気がした・・」と公爵は言葉をついだ。「それでぼくはここへ来るのに気が進まなかったんだ。ぼくはこの土地であったことをすっかり忘れてしまいたかった、胸の中からむしり取ってしまいたかった。
じゃ、失敬・・おや、きみはどうしたんだい!」
気の落ちつかぬような調子でこんなことをいいながら、公爵はまたしても例のナイフを取り上げようとした。すると、ラゴージンはまたそれを彼の手からもぎ取って、テーブルの上へほうり出した。それはありふれた形をしたナイフで、折り畳みのできない鹿角の柄が付けてあり、身は長さ三ヴェルショーク半(約十五センチ)ばかり、幅もそれに相当している。公爵が二度までもこのナイフをもぎ取られたのに特殊の注意を払っているのを見たラゴージンは、毒々しい憤懣の色を現わしてそれを引っつかみ、本のあいだへ挾んで、ぽんとほかのテーブルへほうり出した。
山城むつみは次のように論じる。心理家は注釈するだろう、≪ナスターシャがロゴージンのもとに来れば、彼はこのナイフで彼女を殺すだろうとムイシュキンは直覚している。だから、それを何としてでも阻止したいが、そう思ってふたりの間に入ろうとする自分をまずロゴージンは嫉妬心からやはりこのナイフで殺そうとするだろうとも公爵は感じている。だから、無意識のうちにナイフを取り上げたのだが、純粋な彼はそう感じている自分を恥じてもいる≫と。じじつ、この後、ロゴージンはこのナイフを公爵に振り上げる。のみならず、その瞬間に至るまで自由間接話法で延々と第二編第五章のほとんど全部を割いて叙述されるムイシュキンの懐疑と自問自答と内的葛藤はたしかに右の心理をほぼ裏書きしていると言っていい。しかし、ドストエフスキーがその程度の心理を描写するために仄めかしに仄めかしを重ねてあれだけの紙数を費やしたと考えるのではこの作家を見くびっていることにはならないか。
第二編第五章の六十コペイカ相当の鹿角の柄のナイフが重要なものになっていく。山城むつみのいう罪は同一、(第三編第三章)でムイシュキンは≪ナイフを振り上げるのがわたしの手であったとしても不思議ではないと思っているんだから≫と言ってしまっているのだ。
次の、じっさい、ナスターシャを殺しかねない者の「二つの眼」とは、それをひしひしと背中に感じている公爵自身の眼なのではないか。そうでなければ、どうしてその眼をもう一度見たいと考えてまるでロゴージンを挑発するようにナスターシャの住まいを訪ねたりするだろうか。それも発作的に、なのである。ここの論点は、ウオルィンスキイの「美の悲劇」ムイシュキンの狂気から、山城むつみがヒントをえたものである。 (次号につづく)



2015年 ドストエーフスキイ全作品を読む会「読書会」の記録


2015年の読書会は、予定通り年6回、池袋・東京芸術劇場コミュニティールーム(小会議室)で偶数月に開催することができた。作品は、昨年末に突入した長編大作『罪と罰』を2月読書会から8月読書会まで計5回読んだ。回数的には多かったが、「充分にできてよかった」との声が多かった。10月読書会は一休みの感じで『賭博者』。12月は、次の大作『白痴』に突入した。読書会について「フリートークが多い」「報告内容、方法について」など意見や感想があったが、一年を通しては順調に開催できた。

参加者は、十数年ぶりの参加で懐かしい顔もあった。全体的には若い女性が増えたことで新鮮さが増した。新しい参加者は、主にインターネットで知り合った人たちが多く、時代のすう勢を感じた。参加人数は、平均24名前後で増加傾向。二次会は、十数名で通常。地方の人で参加できないかわりに作品感想や作品論を送ってきた人たちがいた。原稿は通信に連載して完結をみた。途中で打ち切り出版した人もいた。

読書会に参加する人たちは様々です。作品を何回も読んでいる人、昔、読んだ人、初めて読んだ人、これから読もうと思っている人、ドストエフスキーに興味をもった人。それだけに報告内容はいろいろです。読書会は、海で言えば、ときどき波が打ち寄せる砂場です。その意味で、より学問的・研究的なものを求める人たちには物足らない感もあるかも。そうした人たちには「読書会」の母体であるドストエーフスキイの会開催の例会への参加をおススメします。深化ある研究を聴くことができます。奇数月に千駄ヶ谷区民会館で。ドストエーフスキイの会・会費4000円、お知らせの「ニュースレター」会誌『広場』

2015年の活動内容は次の通り。開催時間午後2~4時45分

・2月21日(土) 会場・池袋東京芸術劇場小7会議室、報告者・前島省吾氏。作品『罪と罰』2回目、24名参加。『読書会通信148』(発行2/10)
・4月18日(土)  会場・池袋東京芸術劇場小7会議室、報告者・小柳定次郎氏。作品『罪と罰』3回目、25名参加。『読書会通信149』(発行4/4)
・6月20日(土)  会場・池袋東京芸術劇場小7会議室。報告者・フリートーク。進行・女子会 作品『罪と罰』4回目、28名参加。『読書会通信150』(発行6/12)
・8月23日(土)  会場・池袋東京芸術劇場小7会議室、報告者・参加者全員。進行・小野口 作品『罪と罰』5回目、最終回、24名参加。『読書会通信151』(発行8/4)
・10月17日(土) 会場・池袋東京芸術劇場小7会議室、報告者・ドストエフスキー@女子会。作品『賭博者』、24名参加。『読書会通信152』(発行10/5)
・12月5日(土) 会場・池袋東京芸術劇場小7会議室、報告者・菅原純子氏。進行・江原あき子 作品『白痴』1回目、23名参加。『読書会通信153』(発行11/26)

☆大阪の全作品を読む会・読書会情報
2010年10月にスタートした「大阪読書会」(小野元裕氏主催)も東京読書会を追って順調に開催。開催時間2時~4時45分、2015年12月で31回を数える。会場は、まちライブラリー大阪府立大学 連絡先℡072-5432-2795 小野 



ドストエフスキー文献情報
 2016・4・4着分            
提供=佐藤徹夫さん

・小林秀雄の後の二十一章 // 小川榮太郎著 幻冬舎 2015.8.30 542p 21.6㎝ \5500
Ⅱ:ドストエフスキー『死の家の記録』強靭な生命の発露 P.140-159   
・シベリア最深旅行 知られざる大地への七つの旅 // 中村逸郎著 岩波書店
2016.2.18 265p 19.4㎝ \2400
第三章 極北の遊牧民を訪ねて ―― ネネツ人を呑みこむ大国ロシア P65-97のうち・極北シベリアの原風景(p65-66)で『罪と罰』のエビローグ、シベリアを語る。※3月27日朝日新聞の書評、島田雅彦著がある。
・カラマーゾフの兄弟論 砕かれし魂の記録 // 芦川進一著 河合文化教育研究所より 河合出版発売 2016.4.20 336p  21.6㎝ \4500
※待望の本格的研究図書 !近年の『続カラマーゾフの兄弟』とは異なる力作です。

※近年の感懐から(佐藤)
大学図書館をほぼ定年で退職して15年程になる。新聞や出版社PR誌で情報を得て新刊書店に出掛けて、図書や雑誌記事を入手していた。出版界の状況に加えて書店の方針等で、新聞で得た情報が容易に現物確認ができにくくなってしまった。(住居である東京都下ということにもよる)多摩地区初のジュンク堂(立川店)の出店で多少改善されるのだろうか。そろそろ何方かにバトンタッチをしなければと考えている。そんな中で下記の文献が出版から2年を経過して確認できた。

・比較文学事典 増訂版 // 松田穣編 東京堂出版 2013.12.20 465p  21.7㎝ \4600+
下記2件、私的労作が収録されているので抽出した。
★p276-277 ドストエフスキーの項 〔参考文献〕に佐藤徹夫編「日本におけるドストエフスキー書誌――著者索引編」 (平 ―四・四 ド翁文庫)・p430 米川正夫の項 文末。「文献目録」に、ふじとおる編「米川正夫・ドストエフスキー関係・著作 // 翻訳」 (『文献探索2001』平 ―四・七 金沢文圃閣)があるこれは、ふじとおる = 藤徹 ⇒ 佐藤徹夫の編集

文献情報の収集は、常に注意力と観察眼を必要とします。本欄は、佐藤氏の日頃の真摯な努力の賜物です。厚くお礼申しあげます。(「読書会通信」編集室)



評論・連載

「ドストエフスキー体験」をめぐる群像
(第64 回)芦川進一氏の『カラマーゾフの兄弟論』について
例会発表を傍聴し新著を読んでの感想
                                          
福井勝也

おそらく多くの参加者にとって待望の例会発表だったのだろう。先月(3/19)に開催された芦川進一氏の講演は、途中座席が不足しないか心配になる程の盛況であった。すぐ当方が思い出したのが芦川氏の前回発表(2008.3)で、著作『「罪と罰」における復活-ドストエフスキイと聖書』刊行(2007.12)の翌年で、やはり予備の椅子が持ち出される程であった(こちらについては、「通信」107号と108号での感想・ネット版を参照して欲しい)。満席には今回も理由があって、芦川氏主催のもう一つのドストエフスキーの研究会の熱心な会員が大勢で参加されたからで、さながら当会との合同研究会の様であった。しかし盛会の真の理由は、発表者が現代にドストエフスキーを語る者として最高の叡知を提供しうる人物だとの多くの参加者の熱い期待によるものだろう。そして予想に違わず、おそらく翻訳の問題は残るにしても、世界のドストエフスキー研究において確実に高く評価される著書刊行と充実した発表内容であった。当欄においても改めて新著刊行を祝福しながら、感想などをここで述べてみたい。

それにしても年月の経過は早いもので、前回講演から何と8年が経過したことになる。今回の発表は、これまた待望の『カラマーゾフの兄弟論-砕かれし魂の記録』、河合文化教育研究所(2016.4)の刊行に先立ち、「悪魔が明かすモスクワのイワン」-「ロシアの小僧っ子」が辿った「神と不死」探求の足跡-と題するものであった。芦川氏は、大学紛争期の学生時代にドストエフスキーに邂逅した時からその問題意識を美事に今日まで一貫しておられる。それは氏の歩みが、元々単なる研究者を目指したというよりも、むしろ求道者的な道筋を辿られたものであることによっている。実は、この辺のことは前回例会後の「広場」18号(2009.4)で、少年期の酷薄な原光景にまで遡って、その後のドストエフスキー体験を自身で述べられている貴重な文章がある(『罪と罰』論を書き終えて-「個人的な体験」、そして「復活」の問題-)。当方その文章を読ませて頂いた時の粛然とした感動が忘れられない。今回も講演を聴きながらその記憶が甦ってきた。

考えてみれば、芦川氏にとってのドストエフスキー研究とは、今回発表の主題「ロシアの小僧っ子」のイワンが目指した「神と不死の熱烈な探求」そのものであったのだ。これは、本欄が主題としてきた明治維新以降の日本近代化に深く絡むかたちで行われたドストエフスキー文学の受容史において、その核心的内容を実践されてきた一人が芦川氏であったと今更に思う。ただし問題はポストモダンが叫ばれる時期から変容を蒙り、その中身がむしろ歴史的事実と化してきたことも否めない。しかしさらに今日、近代が抱える問題はそんなに簡単にドストエフスキー文学を葬り去ることはできないように、真摯な日本人のドストエフスキー体験も改めて語られるべきタイミングにあると感じる。そんな折り、今回の芦川氏の「カラマーゾフの兄弟論」が刊行された現代的意義は十分に吟味すべき内容を孕んでいる。前回の「罪と罰論」以後8年を費やされた「カラマーゾフの兄弟論」の刊行は、何よりも芦川氏自らが課せられた人生の課題の自身への回答書でもある。そこに日本人のドストエフスキー体験が21世紀に延長的に語られていると見た。

さらに正直な感想を述べれば、お話を伺ってさらに新著を手に取らせて頂いて感じたのは、第三次大戦が開始されているとまで囁かれる今日の危機的世界情勢にあって、実は本著ほど意義ある書物の刊行はないだろうと改めて感じたのだった。昨年から当方は本欄で、頻発する自爆テロに触れながら危機的な21世紀の救済理念としてドストエフスキーが切り札となりうるかということを語ってきた。大げさだと感じた方々も多いだろう。しかし今年になってISや北朝鮮の核兵器利用の可能性も言われ始め、ワシントンでの国際会議も急遽開催されたりしている。昨年初めのパリテロ事件から、これだけ多くの人命が中東のみならずヨーロッパの中心でも失われていながら、それを情報としてしか受け取れないポストモダンの世界に生きる我々の感覚はほぼ麻痺しているのだろう。そのことは亀山郁夫氏が「黙過」という言葉で語っているように、ドストエフスキーを介在させての人間の「罪悪」と考えた方が正しい。

そんなことを考えながら、先日ご恵存頂いた新著を手にした時、そこには丁寧なお手紙が添えられていた。早速、お礼のメールに余計な?言葉を付して返信させて頂いた。実はそれにはもう一つ理由があって、例会で出た質問にも関係している。質問はこちらも尊敬する会員のN氏からのもので、その発言はルネ・ジラールの表現を借りたものであったようだが、当方の記憶から要約的に言えば(日本人を含む)キリスト教徒ではない異教徒(端的にはISのテロリスト、筆者)にとって、ドストエフスキーの作品を聖書テキストと厳密に対照させて読み解く方法、ドストエフスキー研究と聖書学を両立させた考察が、テロの時代の今日どのような意義があるのかというものではなかったかと理解した。残念ながら質問は十分に意が伝わらずに終わったようだ。しかし実は、返信にはその質問には触れず、「気係りなのは、昨秋のパリや先日のブリュッセルのテロ事件が第三次世界大戦?の世紀末的様相を呈し始めていることです。イスラム教の根っこはユダヤ・キリスト教と同じものだとしたら、ドストエフスキーの聖書理解、イエス・キリストへの深いシンパシーがその21世紀的救済の根拠になってくれるように思うのですが。しかし現実はその前にテロリストがラスコーリニコフ的旋毛虫に侵されているようにも感じています。ドストエフスキー文学への新たな読み込みこそ現代世界の喫緊の課題だと考えています」と書き添えた。

実は、当方がN氏の質問が気になったのは、芦川氏の前著『「罪と罰」における復活-ドストエフスキイと聖書』(2007.12)刊行に際し、その「おわりに」付された以下の文言を思い出したからでもあった。それは、2001.9.11のニューヨーク貿易センタービルのテロ事件に触れてのものだった。こちらは、その後当方が編纂(アンソロジー)した『現代思想ドストエフスキー総特集』(2010.3)の「古今東西のドストエフスキー(日本編)」にも収録させて頂いた。

「ドストエフスキイの聖書的磁場における思索のラディカルさとアクチュアリティを知る上でも、本書はこのアメリカにおける9.11事件に対する一つの注解書という角度から読んでいただいてもよいのではないかと思う。ドストエフスキイの思索とは人間一人一人の「世界が粉々に打ち砕かれてしまった」ところから初めて開始される復活への希求と探求である点、この9.11事件はそのままドストエフスキイ的世界に起こった事件と言っても間違いはないであろう」と述べられていた。

当方にしてみると、今回の「カラマーゾフの兄弟論」には、あえて触れている文言はなくとも、この前著の言葉から芦川氏の問題意識は明らかだと思ったが、あえて質問をさせて頂いた。回答の返信メールをすぐに頂いた。真に真摯な長文の内容で、改めて芦川氏の議論が机上の狭隘なアカデミズムとは全く無縁で、その思いがドストエフスキー的危機意識と黙示録的世界に根ざすその深さを痛感した。私信でもあり、ここに詳らかにできないのが残念な程だ。そして例会会場では正確に当方も理解ができなかったことが、今回著書「カラマーゾフの兄弟論」を読みながら(完読せずに摘まみ読みを繰り返している)、本著がモダンとポストモダンが混交する現代世界の問題を孕む「作品」の読み直しの手立てになり得ることを直観した。例えば、今まで余り焦点が当てられなかった14歳の「ドアで指をつぶす少女リーザ」やその母親ホフラコワ夫人が前後編にわたってかなりの頁数で論じられている章立ての鋭さ。さらにもう一人の焦点はやはりスメルジャコフか。そして「ロシアの小僧っ子」の時代に遡ってのイワンが、その後如何にその「神と不死」探求に真剣に取り組んで行ったかを明らかにしてゆく<構成>にも説得力を感じた。今まで何を読んで来たのかとの思いにすら囚われた。もっと細かく言うと、「ナドルィフ」(激情の奔出)というロシア語に一章を割いていること、イワンのニヒリズムを語るキーワードが「常識」であること。さらに形式論理的構築性が目立つイワンの「人神論」が、三島由紀夫の至り着いた自死(武人的結末)の謎解きを見るような感覚を覚えた。そしてもう一人の「ロシアの小僧っ子」アリョーシャとその師ゾシマが、イワンの繰り出す難問に対峙しての対話的応答、それらが聖書の言葉と厳密にどう係わるかの論証、その全体を含む<構造的章立て>の圧巻等々。

結局、本著にキリスト教(同根のユダヤ・イスラム教を含めて)の教えをイエス・キリストの原初的な言葉から読み解くことの「ラディカルさとアクチュアリティ」を改めて感じた。そこには、ドストエフスキーが21世紀の人類を救済する処方箋が埋め込まれていると見た。私はここ数回の連載のなかで、コーランの日本語訳を完成させた井筒俊彦について触れたりしてきたが、若い頃にドストエフスキー文学から深い影響を受けたこのイスラムの碩学は、ムハマドについての伝記も書いている。日本人がドストエフスキー体験を媒介にして、片や聖書とイエス・キリストに通じ片やコーランとムハマドに通じ、両者がそれについての深い思索を巡らした成果を残してきている。芦川進一氏の今回の満を持した著作も、単に狭いドストエフスキー研究という範疇で語られるべき対象でなく世界人類が今こそ必要としている預言者ドストエフスキーを招喚する強力な手立てとして熟読すべきだと思う。そして芦川氏には、『ゴルゴタへの道-ドストエフスキイと十人の日本人』(2011.10)という好著もある。この著作については、「広場」21号(2012.4)で木下豊房氏が十人の一人に取り上げられた小林秀雄の「『罪と罰』論」から「『白痴』論」に跨がる芦川氏の「ソーニャ論」に触れて貴重な指摘も一読すべきだ。芦川氏の識見は単に聖書・キリスト教とドストエフスキー文学を対照させるだけの狭隘なものでないことは、本著からも十分に伺い知れる。芦川氏の批評の核心には、ドストエフスキー文学と聖書の普遍性と日本人が体験してきた歴史的近代の現代的変容も射程にある。ドストエフスキーとイエス・キリストに足場を深く築いた根拠地からの芦川氏の言説が、喫緊の黙示録的課題に「ラディカルさとアクチュアリティ」を発揮し続けることが要請され期待される。 (2016.4.5)



「ドストエーフスキイの会」ニュース


ドストエーフスキイの会の会誌『広場 25号』刊行 4月9日発送の運びに。
 (希望者は、「読書会通信」編集室まで、1200円)

第16回国際ドストエフスキーシンポジュウム開催
 月 日 6月7日 ~ 6月10日
 会 場 スペイン グラナダ大学
 報告者には世界のドストエフスキー研究者156名がノミネート 日本からの参加者は9名。



広 場


ルキノ・ヴィスコンティ『若者のすべて』
(1960年 イタリア・フランス合作)
野澤隆一

前回の読書会では原節子が他界し、黒沢明『白痴』の話も出たことから、二次会でも一部、映画の話題となりました。参加されたドストエーフスキイ@女子会のお一人に最も好きな映画についてお聞きしたら、ヴィスコンティの『地獄に落ちた勇者ども』を挙げられ、ヘルムート・バーガーが演じたマルティンはまさにスタブローギンであると語られていたことがとても印象的でした。ヴィスコンティは『白夜』も映像化していますが、現在、『白痴』を読書会のテーマとしていることから、この作品を一部ベースにしている『若者のすべて』をご紹介します。

原題は「ロッコと彼の兄弟たち」ですが、ムイシュキンに相当するのがロッコ(アラン・ドロン)、ロゴージンはその兄シモーネ(レナート・サルヴァトーリ)、そしてナスターシャに当たるのがナディア(アニー・ジラルド)です。ロッコは病的な白痴としては設定されていないため、その分、無垢な純粋さが現実的な人物として際立っていますが、作品の時代背景(1955年)や状況設定はプロレタリアートの家族の物語として展開するため、当時はロッコの人物像に対しマルキシズム的な背景での批判もあり、当時の労働者は弟のチーロの人物像に革命的意識を喚起されたようです。

貧困により故郷を捨てた家族の物語であり、プロットは中心となる4人の兄弟を章立てて展開されています。当時アラン・ドロンは同年の『太陽がいっぱい』が代表作になりますが、ここでの抑制された演技も好印象であるとともに、それぞれの兄弟の演技も素晴らしいものがあります。ヴィスコンティの方法論であるシネマ・アンスロポモーフィック(擬人映画)がいかんなく発揮された作品と思われます。

あくまでも『白痴』を離れた独立した映像作品として鑑賞することがこの作品への鑑賞態度だとは思いますが、物語の最終章で悲劇のあと、チーロが語る次の場面は印象的でした。
「ロッコは聖者だ。でもわれわれの住んでいる世界には、ロッコのような聖者のいる場所はないんだ。聖者の同情がかえって破滅を招くんだ」



ドストエフスキーと犯罪者
 (編集室) 

ドストエフスキーと犯罪者
(『死刑と無期の間 山中湖畔連続殺人事件』(佐藤友之著 三一書房 1991)

図書館のリサイクル本のなかに、上記の本があった。裁判の所にドストエフスキーの名前が見えたので持ち帰った。ドストエフスキーと犯罪者を扱った作品は、珍しくない。井上ひさしの『合牢者』は小説だが、手記やルポのなかに多く見られる。なぜか、犯罪とドストエフスキーを結びつけたがる。
本書も、そうした一冊だ。が、ただ一点、これまでのものと異なっているのは、被告人がドストエフスキー作品は、犯罪を誘う書。犯罪者のバイブルとして明確に捉えているところである。犯罪者は、どのようにドストエフスキーを利用するのか、東京地裁で行われた公判で被告が『罪と罰』について述べているので、紹介する。

事件概要 元警察官澤地和夫被告は、借金返済のため仲間2人と共謀してブローカーの男性と金融業者の女社長を山中湖畔の別荘に誘いだして殺害した。以下はその裁判記録である。
1985年10月24日 山中湖畔連続殺人事件第10回公判
弁護人:あなたは「人を殺しても金を手に入れたい」と、共犯者に、いつごろから話すようになりましたか。
被告:84年の8月半ば頃からだと思います。
弁護人:金を手に入れるには、なにも人殺しをしなくたって強盗でもいいわけでしょう。
被告 いま考えてみればたいへんばかなことをした、やはりまともではなかったと自分では思うんです。殺さなくともどろぼうしたって、どちらも悪いに決まってますけれど、私は調書のなかで「洗脳」ということばを使っていますが、ドストエフスキーの『罪と罰』が頭にこびりついていたのです。主人公のラスコーリニコフの犯罪哲学のなかに、高利貸しの老婆…汗水流して働く弱い人間の汁を吸って私腹を肥やしている人間を殺して金を奪い、ほかに有効に使うのは悪いことじゃあないというのがあります。私はこれを正当化するわけじゃあないですけれども、感化されたわけでもないんですが、そう言う発想がありました。自分が一生懸命稼いで、ときには、一日一割の金利を取られたこともありましたから。
弁護人:あなたは『罪と罰』をいつ読んだのですか。
被告:高校時代にも読んだことはありますけど、84年3月、指を詰めたあと、痛くて何もできないとき、相原のところで読みました。そして「朴さん、洗脳しなさいよ」と話したような気がします。
弁護人:『罪と罰』を読んだのは3月でしょう。
被告:そうです。
弁護人:そのころすでに洗脳されて、人を殺してもいいんだと考えたわけじゃあないんでしょう。
被告:ええ、ずっと後になってからです。…こんな考えにとらわれてはいけないと、一時期信仰の道に入ったりしました。
弁護人:しかし、(借金が)もうどうにもならないということで、また考えるようになつたのですね。
被告:そうです。

※殺された女社長について1984年11月28日「東京新聞」朝刊コラムに被害者は常日頃「お金もうけが私の生きがいなの」と話していたという。アリョーナ・イワノヴィチを例に・・・。



美しい兄と我欲の父 新聞の訃報記事から
 (編集室)

2月19日の新聞で作家の津島佑子さんが亡くなったことを知った。『山を走る女』『山のある家 井戸のある家』『ヤマネコ・ドーム』などの作品があるという。残念ながら、この女流作家の作品は、ほとんど読んだことがない。父親があまりに有名で、冠に必ず――の娘とつくからだ。彼女の責任ではないが、不運もまた世の常である。しかし、今回、訃報記事を読んでいつか読んでみようと思った。生前、父親のことは、よくわからない。まだ認めていない。そのようなことを言っていたと書いてあったからだ。
この記事から、謎解けたことがあった。彼女の父親の代表作『人間失格』が理解できなかった。実家は、東北の大地主で代々政治家一家。長女の夫も政治家。父親本人は、若くして流行作家。一緒に死んでくれる女も次々いた。手にできなかったのは芥川賞だけ。が、信奉者はいまもって後を絶たない。その作品を『地下生活者の手記』より優れているとまで絶賛した作家仲間もいた。才にも名声にもめぐまれた輝かしい人生。まさに、生れてきてよかった、である。いったい何が人間失格なのか、ピンとこなかった。

それが今回の訃報記事から謎解けた。記事から彼女に3歳上の兄がいたことを、はじめて知った。彼女が父親をみとめたくない理由は、おそらくその兄の存在にあったと想像する。15で亡くなった兄は、「美しい人間」だった。皆を幸せにするために神が使わせた子。「天の配在」と書いたジャーナリスもいたが、そんな子どもだった。しかし、父親は、我欲だけに生きた。信奉者は、その我欲を称える。が、短い兄の生涯を見守った彼女には、母や姉や自分を裏切ってもいい。だが、兄を見棄てたことだけは許せない。そんな思いが幼心にあったかも。訃報記事に想ったことである。
※我欲の追及に作家・長篠康一郎著『七里ケ浜心中』『水上心中』『武蔵野心中』がある。



新  刊 


芦川進一著『カラマーゾフの兄弟論』
河合文化教育研究所 2016年4月20日 定価4500+税

「死と再生」の究極のドラマに光をあてる 砕かれし魂の記録
生涯をかけて新約聖書のイエスと向き合い続けてきたドストエフスキイという作家の思想の独自性に着目した著者が、彼の作品がもつ「聖と俗」の二重構造を鮮やかに開きながら、満を持して著した画期的な『カラマーゾフの兄弟』論。ゾシマ長老と兄弟の父フョードルの二つの死を軸に展開される人間の愛と葛藤、罪と裁き、そして没落と甦りを、新訳聖書の「一粒の麦」と「ゲラサの豚群」の二つに焦点を絞りつつ考察し、自らの内面に思考の錘鉛を下ろしながら、作品の底を流れる「死と再生」の物語を浮き彫りにしていった希有な作品論。



編集室


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