ドストエーフスキイ全作品を読む会 読書会通信 No.154
 発行:2016.2.16


第273回2月読書会のお知らせ


月 日 : 2016年2月27日(土)
場 所 : 池袋・東京芸術劇場小会議室5(池袋西口徒歩3分)
開 場 : 午後1時30分 
開 始 : 午後2時00分 ~ 4時45分(時間厳守)
作 品 : 『白痴』 第2回
報告者 : S.I.さん
会 費 : 1000円(学生500円)

4月読書会は、16日、東京芸術劇場第7会議室です。作品『白痴』3回目
開催日 : 2016年4月16日(土) 午後2時~4時45分迄です。

第31回大阪「読書会」案内 2・20『罪と罰』第5編、第6編
ドストエーフスキイ全作品を読む会・大阪読書会の第31回例会は、以下の日程で開催します。
2月20日(土)14:00~16:00、・会場:まちライブラリー大阪府立大学 参加費無料 
URL: http://www.bunkasozo.com



2016.2読書会

報告者 S.I.

私とドストエフスキー、『白痴』と周縁的なものへの私見 

きっと、多くの熱心なドストエフスキー読者がそうであるのと同じように、自分も思春期に彼の毒を受け、その地下室のとりこになってしまったティーンエイジャーだった。キリーロフの「身の毛もよだつような自由」やミーチャの「マドンナの理想とソドムの理想」は、人心の広大さへの希望と絶望を十代の誇大妄想気味な心に植え付けた。とにもかくにも夢中になった。とりわけ、彼の著作にたびたび見られる敵対者としての自然、「暗愚で図々しく無意味な力」としての自然という題材を、私は自分の問題として繰り返し考えるようになった。それでも、若かった私は、なぜだか『白痴』にだけは惹かれることがなかった。むしろ、なんとなく不快な印象をもってこの作品を体験したことを覚えている。ムイシュキンは癲癇、いわば暴虐な自然に殴り倒される男である。スイスで滝を見ながら、心地よいと感じると同時に激しい不安に襲われるというきわめて印象的な描写もある。ある視点から見れば、彼はまるで自然から虐待され、疎隔される存在である、と読むこともできそうだ。それなのにいったい、どうしてだろうか。

今回の読書会を機に、初めてきちんと『白痴』を読んでいる。背伸びをして読んでいた大昔にはわからなかった、小説としてのずば抜けた面白さや、心理描写の緻密さに圧倒される。とても充実した読書体験である。それでも相変わらず、自分は『白痴』を、この敬愛する作家の他の作品たちのように気に入ることができずにいる。三つ子の魂百までというのは本当らしい。こんなに素晴らしいのに好きになれないということは、おそらくはこの作品の主要なテーマこそが、私のその三つ(?)の頃からの個性の部分とそりが合わないからなのかも知れないと考えた。

『白痴』執筆に際して、「無条件に美しい人」を創造したいのだと意気込むドストエフスキーの書簡は有名である。つまり『白痴』の目的、およびテーマは、少なくともその半分以上がムイシュキンだった、と言ってしまってもいいのではないだろうか。だがこのムイシュキン、あまりにも周縁的な存在で「ありすぎる」、私にはどうしてもそう思えてしまう。それは、キリスト公爵というキャラクター造形が、その目的からしてどうしても周縁的な要素の取り合わせにならざるをえないからなのだろう。キリストは己をむなしくする、たとえばその生誕は厩である。キリスト教神学におけるケノーシス(神性放棄)という言葉を思い出す。それは狭隘化のプロセスである。キリストは傷付く。ときおり、女性のように見えることすらある。それゆえの尊さ、そこにいまいち感動することのできない私は、異教徒だからなのだろうか。 

ムイシュキンはへりくだる。周縁に留まり続ける。かわいそうな女の不自由さを愛しているように見える。『白痴』の息苦しさはそこだ。そもそもが、傷に依拠して生きるというあり方を、私は尊敬しない。鞭打たれたがるナスターシャなんてとんでもない。少なくとも、子供が大好き、のみならず大人といると気が重くなって逃げ出したくなるとまでいう彼を、私はあまり微笑ましいと思うことができない。その気持ちはちょっとわかる、だが肯んじがたい……ようやく、おぼろげにあの最初の不快な印象の正体が見えてきたように思う。『白痴』の読書は、自己の中の弱さを探られる体験であるのかもしれない。あの意地っ張りのガーニャですら、ムイシュキンの前では純情な脆さを開陳させられた。弱さが弱さを誘い出す。とはいえ、自分の弱さを直視しないと強くなれないだとか、そんな常套句もまず浮かぶ。もしくは、これは聖なるものへの隘路だろうか。一度狭くなること、弱くなること。でも、一度そんなことをしたら、弱くなったっきりになるんじゃないかと私は訝る。どのみち、私にはその一か八かの隘路を通る覚悟がない。これ以上の弱さなんて御免である。このまま「百までも」蒙いままなのだとしても。



『白痴』の評判 


1868年1月「ロシア報知」に『白痴』連載が開始された。当時の評判はどうだったか。

サルティコフ・シチェドリーン(1826-1889)風刺作家 『現代人』の共同編集者

構想の深さにおいても、掘り起こして来る精神世界の問題の広さにおいても、この作家はわが国の作家たちの中でまったく群を抜いている。彼は、現代社会を湧き立たせているさまざまな問題にはそれなりの理由があるということを認めている。しかし、そこで留まってはいない。彼は既に進んで、人類の、目前の目的ではなく、遥か未来の目的であるところのものを予見し予感するという分野にまで踏み入っている。たとえば、この作家が、完全な平等の精神と魂を有する人間のタイプを描きだそうとする試みを見るがよい。その試みが彼の小説『白痴』の基礎にある…

A・N・マイコフのドストエフスキー宛の手紙 1868年3月14日

『白痴』の第一編の後半を読み終えました…印象はこうです。力はものすごくあり、天才的な稲光りも所々にある。(たとえば白痴が平手打ちをくらうところ、彼のいうこと、その他いろいろ)しかし、全体としては、真実よりはありうべき可能性と真実まがいの方が多い。どれがと尋ねられるならば、最もリアルな人物は、白痴です。(こういうと奇妙にお思いになるでしょうか?)他の人物たちは皆、いわばファンタスチックな世界に生きています。どの人物にも、強烈だがファンタスチックな、何やら異例な輝きといったものがあります。読んでいるときはすっかり引きこまれてしまいますが、同時に、どうも信じられない、という感じがします。…しかし、それにしても大変な力です!素晴らしい個所もたくさんあります!白痴は実にいい!…

※A・N・マイコフ(1821-1897)詩人 ドストエフスキーの生涯の友




12・5読書会報告
 
               
参加者23名ナスターシャを中心に熱い論議が交わされました。 この日の報告者は菅原純子さん、司会進行は江原あき子さん。



寄稿

さようなら、世界一美しいドストエフスキーファン! 

江原あき子

久しぶりに『東京物語』を見た。胸がドキッとした。原節子演じるヒロイン紀子の涙に、である。
紀子は夫を戦争で亡くした女性である。東京で一人暮らしをしていて、そこに亡き夫の両親が訪ねてくる。ふたりは実の息子と娘に邪魔扱いされ仕方なく、嫁の紀子を頼って来たのだ。紀子はふたりを心からもてなし、亡くなった夫を皆で偲び、両親は広島に帰っていく。広島に帰ってすぐ、義理の母は亡くなる。葬儀が済み、紀子が東京へ帰る日、義理の父は妻の形見を紀子に手渡し、もう、死んだ息子のことは忘れるように勧める。紀子は「お父様が考えていらっしゃるほどいつも(亡き夫のことを)考えているわけじゃありません。忘れていることもあるんです。私はずるいんです」と言って目を伏せる。それを聞いた義理の父は「あんたはやっぱり、いい人だよ、正直で」と答える。「とんでもない」そう言った紀子は号泣する。ドキッとした。紀子の涙が、号泣が衝撃だった。そもそも号泣、という行為は小津監督にとって、美しい行為ではなかったはずである。「泣かないで悲しみの風格を出す」ことを旨としていた監督がなぜ、この号泣を許したのか。
私は考える。紀子のこの涙は亡き夫のためでも、義理の母のためでもない。紀子は亡き夫、母の向こうに人類を見ていた。人類が抱える悲劇、悲しみを見ていた。紀子はすべての人のために泣いたのだ。その悲しみの大きさが号泣になったのだ。その涙は監督も共演者もそして、見る者すべてを圧倒した。女優、原節子はなぜ、こんな大きな悲しみを表現できたのか。

原節子は大変な読書家だった。中村メイ子さんによると、いつも本を読んでいる人だった、という。彼女はドストエフスキーのファンだった。目の手術をして、医師から読書を禁じられている時でもドストエフスキーを読んでいた。まさに白痴のナスターシャのように彼女は読書する女だったのだ。ドストエフスキーほど、人間の悲劇、その悲しみの深さを表現した作家がいただろうか。人の運命は複雑怪奇だ。しかも、人間は自分で自分の運命をなかなか受け入れられない。ナスターシャの悲劇は、運命を受け入れられず、自分の悲しみを素直に表現できないことにあったように思う。

原節子という女優は読書、とりわけドストエフスキーによってその表現を磨いてきた、と私は断言する。彼女はいつも、ひとりの人間の悲しみの中に人類すべての悲劇を見た。その理解力の深さはドストエフスキーの作品から学んだ、とまた、断言してしまおう。黒澤明監督の『白痴』の原節子の演技は、その悲しみをたたえた瞳を見るだけで、完璧であったと思う。

原節子が亡くなった。それはひとりのドストエフスキーファンが失われたということだ。この不安な世界で、その世界を正しく表現できる数少ない女優が失われたということだ。さようなら、世界一美しいドストエフスキーファン!




『白痴』の世界 -ナスターシヤを中心として- ①

2015年12月5日 読書会 第1回目の『白痴』報告を終えて

菅原純子

あるアルコール中毒の老人がいた。二、三年前に亡くなったのではあるが。老人は戦時中、学徒出陣において出征した。東京には、老人の許婚が存在していたが、東京大空襲の中を逃げまどう最中、命をおとした。戦後、かろうじて復員した老人は、許婚の死を知る事となる。老人は許婚の写真を身に付けていた。私は幼い時に見せてもらった記憶があるのではあるが、もうその時点で、写真はセピア色に染まり、四方のすみはぼろぼろになっていた。老人は許婚が亡くなったことを忘れられずに、毎日お酒をあびるほど飲み、身体を壊した。そのおもかげを忘れられない老人は、死にぎわまで写真を肌身離さず、持っていたという。写真には、未来がない。その時点でとどまったままである。

ムイシュキンがナスターシヤの顔を見るのは写真がはじめてである。
「なるほど、これがナスターシヤ・フィリッポヴナですか?」彼は一心に好奇の目を光らせつつ、写真をながめてつぶやいた。「すばらしい美人ですね!」
写真には事実おどろくばかり美しい女の姿が写し出されていた。彼女は思いきって単純な、しかも優美な型の黒い絹服をつけている。見たところ髪は暗色らしく、無造作に内輪らしく束ねてあった。目は暗く奥深く、額はもの思わしげに、顔の表情は熱情的で、そしてなんとなく人を見くだすようであった。いくぶんやせの見える顔立ちで、どうやら色も青そうである・・・

『白痴』という小説は、顔が重要な要素となってくる。ムイシュキン自身も、ぼくこのごろいっしょうけんめいに人の顔を見てるんです、と言う。大澤真幸は『自由という牢獄』の中で次の事を述べている。
エマニュエル・レヴィナスは、他者の顔に直面するとき、人は、その他者を殺すことはできない、と論じている。つまり、顔は、「殺すなかれ」という戒律を語りかけてくるというのである。果してそうであろうか。

ナスターシヤの顔の描写は、
「すばらしい顔ですよ!」(略)「この人の運命はなみはずれたものだとぼくは信じますね。顔はなんだか楽しそうに見えますが、じっさいは非常に苦労したんでしょう、え?それは目がちゃんと物をいっています。それから二つの小さな骨、―――目の下、頬の上に見えるこの二つの点でもわかります。この顔はプライドに満ちた顔ですね、おそろしくプライドに満ちてますね。しかし、いい人でしょうか?ああ、もしいい人だったらなあ!それなら救われるんだけど!」

ムイシュキンが写真にくちびるを持っていって接吻する場面では、まるで量りしれぬ矜持と侮蔑――ほとんど憎悪に近い――の色が、この顔の中にあるように思われた。が、またそれと同時に、なんとなく人を信じやすいような、驚くばかり醇朴な何ものかがあった。この二つのもののコントラストは、見る人の胸になんとなく憐憫の情をそそるように思われる。 

また、「この顔の中には・・・じつに多くの苦悩があります・・・」
ナスターシヤの写真を見るだけで、憐憫、苦悩という思いをムイシュキンにもたらせた、ナスターシヤ本人の変革、葛藤とはどのようなものだったのか。

トーツキイがやって来て、年にふた月ずつ泊まっていって、けがらわしい、恥ずかしい、腹の立つ、みだらなことをして帰って行くんです。トーツキイに辱められていたナスターシヤは、何度池に身を投げようとしたかわからなかった。そのトーツキイがペテルブルグで、ある財産家で家柄のいい美人と結婚しようとしている。それを知ったナスターシヤは田舎の家を捨てて、突如、ペテルブルグのトーツキイのもとへ、単身おしかけるのである。ナスターシヤの運命は一大変化を起こした。ナスターシヤの変革とは次のような事である。

今まできわめて有効に使用することのできたいいまわし、声の調子、愉快で優美な会話の題目、以前のような論理、―――もう何から何までいっさい変改しなければならなかった。彼の前にはまるっきり別な女がすわっている。彼が今まで熟知しており、そしてついこの七月に慰楽村で別れたものとは、まるで似ても似つかぬ女がすわっていたのである。新しい女ナスターシヤになったのである。だが、ナスターシヤの葛藤は、トーツキイの結婚話や、お金で身売りされることから起きるのではない。それはムイシュキンとナスターシヤの関係性からくるものである。

ラゴージンが、ガーニャからナスターシヤを引き離す前の場面で、
「あなたもまたそれでちっとも恥ずかしくないんですか!あなたはもとからそんなかたなんですか。いいえ、そんなはずはありません!」とムイシュキンが叫ぶと、ナスターシヤは、
「わたしはね、まったくのところこんな女ではありません、あの人のいったとおりですの」とささやく。 ムイシュキンが「純潔なあなた」というと、 「まあ、わたしが純潔ですって?」
また、 「(前略)あなたには誇りがあります、ナスターシヤさん、けれどあなたは不幸のあまり、じっさい、自分が悪いと思っていらっしゃるかもしれません。あなたは、よほど親切に介抱する人がなくちゃなりません、ナスターシヤさん、ぼくがその介抱をします。(略)ぼくは・・・ぼくは、生涯あなたを尊敬します、ナスターシヤさん」 「ありがとう、公爵、今までだれもわたしにそういってくれるものはなかったわ」

ラゴージンの十万ルーブリを暖炉の中に投げる前、ナスターシヤは、
「わたしだってあんたのことを空想しなかったわけでもないの。それはあんたのいうとおりなの。わたしがまだあの男に養われて、五年のあいだほんとのひとりぼっちで田舎で暮らしていたころ、わたしよくあんたのことを空想したわ。考えて考えて考え抜き、空想して空想し抜くことがあるでしょう。すると、正直で、人のいい、親切な、そしてやっぱり少々のろまな人を想像するの。そんな人がやって来て『ナスターシヤさん、あなたには罪なんかない、ぼくはあなたを尊敬します』といいそうな気がしてならなかった。」など、純朴で無垢なムイシュキンから発っせられる言葉に対して、ナスターシヤは一旦は自分自身認めたいが、自分が辱められている、トーツキイの妾であるという自己卑下から、また、ムイシュキンがナスターシャが以前から自分自身について思っていたことばを、ナスターシャより前にムイシュキンが先どりしてまう反撥から、ナスターシヤの心の中に葛藤がうずまいてくるのである。葛藤が生じると、しだいに精神に分裂をきたし、自殺、殺意、狂乱に至る。ナスターシヤの十万ルーブリを暖炉に投げいれる事件は、ナスターシヤの葛藤からくる精神狂乱なのであるが、
「ラゴージン、出かけましょう!さようなら、公爵、生まれてはじめて人間を見ました!」
ここに、ナスターシヤの救いの言葉がある。 (以下、次号につづく)




ドストエフスキー文献情報
  2016・1・30着分            

提供=佐藤徹夫さん

〈作品〉

・『白痴』1/ドストエフスキー 亀山郁夫訳 光文社 2015.11.20 ¥860 466p 15.3㎝ 巻末:読書ガイド/亀山郁夫(p441-466)〈光文社古典新訳文庫 〉
・『新カラマーゾフの兄弟』上/亀山郁夫著 河出書房新社 2015.1122 ¥1900 664p 19.7㎝ ※初出:第1部は『文芸』2014・秋号.他は書き下ろし.
・『新カラマーゾフの兄弟』下/亀山郁夫著 河出書房新社 2015.11.22 ¥2100  769+3p 19.7㎝巻末:参考・引用文献一覧(2p)

〈図書〉

・〈新潮ムック〉原節子のすべて/『新潮45』特別編集  新潮社 2012.11.8 ¥1400 223p 21㎝ ※付録:DVD「七色の花」(昭和25年東横映画京都作品)巻末:原節子フィルムモグラフィ/内藤和之(p201-221);原節子(会田昌江)年譜(p222-223)
・ペテルブルク・ロシア 文学図書の神話学/近藤昌夫著 未知谷 2014.1.30 ¥5000 461p 19.6㎝ ※19世紀三〇年代から二〇世紀初頭の作品をとりあげ、都市と人間の文学的表象にロシアを探り、その普遍的力動性を明らかにする試みである。
・マリリン・モンローと原節子/田村千穂著 筑摩書房 2015.6.15 ¥1600 279p 18.8㎝ 〈筑摩選書〉内容:第2章 原節子の意外な顔 ・3 悪女としての原節子―『白痴』(1951)p085-099
・叡知の詩学 小林秀雄と井筒俊彦/若松英輔著 慶応義塾大学出版会 2015.10.28¥2000 185p 内容:五 ロシア的霊性 p77-91
・ソコヴィヨフ 生の変容を求めて/谷寿美著 慶応義塾大学出版会 2015.10.30 \4500 296 五章 全―的総合に向けて・ドストエフスキーとソロヴィヨフp233-238
・世界文学論集/J.M.クッシェー 田尻芳樹訳 みすず書房 2015.11.20 ¥5500 396p  内容:告白と二重思考――トルストイ、ルソー、ドストエフスキー ・ドストエフスキー p114-140
・文学の再生へ 野間宏から現代を読む/富岡幸一郎、紅野謙介編 藤原書店 2015.11.30¥8200 779p 2303㎝ 内容:野間宏主要作品論 ・暗い想像力――野間宏とドストエフスキー/亀山郁夫 p490-504
・散策探訪コロムナ ペテルブルク文学の源流/近藤昌夫著 知谷 2015.12.10 ¥2500 内容:14 ドストエフスキーの孫ドミートリィさん p188-198
・ドストエフスキー/山城むつみ著 講談社 2015.12.10 ¥2500 661p 15.1㎝ <講談社文芸文庫 N2>巻末:参考文献(p619-644);ドストエフスキーをただ読むために 者から読者へ/山城むつみ(p647-649);年譜・山城むつみ(p650-659);著者目録・山城むつみ(p660-661)
・シニアのための反読書論/鷲田小彌太著 文芸社 2015.12.15 <文芸社文庫> 内容Ⅰ部 青春時代を生きる読書案内 1「青い時代にしか読めない本/熱に浮かされる(p27-29)2 青春との訣別 『罪と罰』との訣別 (p29-32)
・『罪と罰』を読まない/岸本佐知子、三浦しをん、吉田篤弘、吉田浩美著 文藝春秋 2015.12.15 ¥1550 291p 19.1㎝
・わが魂の『罪と罰』読書ノート/坂根武著 (大阪)編集工房ノア 2015.12.20 ¥1600 139p ※初出:「文芸日女道」に1年連載、帯文:下原敏彦
・小林秀雄の流儀/山本七平著 文藝春秋 2015.12.20 ¥1220 351p 15.3㎝ 〈文藝春秋ライブラリー 雑・22〉※初版:1986.5.20 新潮社 ¥1240;文庫版・〈PHP文庫>1994.6.15 ¥660 ・〈新潮文庫 也・46.2〉20015.1 ¥514 内容:三 小林秀雄とラスコーリニコフ(p121-175);四 小林秀雄と『悪霊』の世界(p177-234)

〈逐次刊行物〉

・〈文化・文芸〉「無限の視覚」得た悲劇 『新カラマーゾフの兄弟』亀山郁夫さん ネット普及「父・支配者」力失い混迷/柏崎歓「朝日新聞」2015.12.17 p35
・〈エディターの注目本ガイド〉『新カラマーゾフの兄弟』もし人生であと一冊しか本を読めないとしたら この本を/吉田久恭 「新刊展望」60(1)=842(平.28.1.1=2016Jam.)p22 ※著者は河出書房新社編集部
・〈書評〉混沌の時代 「父殺し」の今を問う 新カラマーゾフの兄弟(上・下)亀山郁夫著/島田雅彦 「朝日新聞」2016.1.19 p12 ・刊行記念特別企画 『新カラマーゾフの兄弟』の秘密(p453-465) [論考]『新カラマーゾフの兄弟』に寄せて/白井聡 p454-458 [インタビュー]『新カラマーゾフの兄弟』から『カラマーゾフの兄弟』を読み解く! /亀山郁夫 聞き手・編集部 p459-465 「文藝」65(1)2016.2.1=2016・春
・<書評> 『新カラマーゾフの兄弟 上下 』亀山郁夫著 現代の思索と知性の意味を提起/横尾和博 「しんぶん 赤旗」2016.1.10 p9
・<書評> 『新カラマーゾフの兄弟』亀山郁夫著 問われる欲望の罪深さ/清水良典 「山梨日々新聞」2016.1.10

・<図書> ドストエフスキー カラマーゾフの予言/河出書房新社 2016.1.30 内容:『新カラマーゾフの兄弟』を読む 他 ¥1800+ 4+253p 21㎝                  
[インタビュー] 亀山郁夫 『新カラマーゾフの兄弟』と『カラマーゾフの兄弟』一気に楽しむための完全マニュアル 2
[対談] 亀山郁夫×中村文則 背後にドストエフスキーを感じながら 12
[論考] 杉田俊介 老い衰えていく神の信徒として 42
陣野俊史 自己ガリバー化する商店街の欲望 58
友常勉 『新カラマーゾフの兄弟』のメタ・クリティーク 67
エッセイ 三田誠広 続編を書くということ 96
上田岳弘 ドストエフスキーの予言、その出口 100
論考 望月哲男 古儀式派信徒の肖像 157 田島正樹 『白痴』の謎 209 他
[主要作品解説] 福井勝也 247




評論・連載

「ドストエフスキー体験」をめぐる群像
(第63 回)ドストエフスキーとポストモダン、その文学の射程(再論)    
     
小説『新カラマーゾフの兄弟』に関連して                     
 
福井勝也

本誌前号でも予告的に触れたが、亀山郁夫氏の処女小説が昨秋発刊(11/22、河出書房新社)された。上下巻で1400頁を越える書籍は、現在書店の書棚にあって異様な存在感(ボリュームも含め)を放っている。この「新小説」の出版を今どう読み解くべきか。

当方、出版後程なく行われた小説家の中村文則氏と亀山氏との刊行記念対談(12/1、青山ブックセンター)に足を運んだ。タイトルは「ドストエフスキー超入門対談:父なき国の「父殺しミステリー」の謎を解く」というものであった。若手実力派作家である中村氏が『教団X』という話題作を出版したタイミングと、さらにドストエフスキーの影響の強い現代作家と亀山氏との対談ということで興味深く拝聴した。そしてつい先日(1/30)、この対談が掲載された『ドストエフスキー、カラマーゾフの預言』が出版(河出書房新社)された。この対談記録は、巻頭の亀山氏のインタビュー(「『新カラマーゾフの兄弟』と『カラマーゾフの兄弟』を一気に楽しむための完全マニュアル」)と並んで本書の目玉と言える。ただし、こちらは「背後にドストエフスキーを感じながら」というややインパクトが薄いタイトルに変更され、その内容もライブ版とは微妙に違っていた。どちらにしても、お二人のやり取りは「ドストエフスキー超入門対談」と言うにはコアな内容で「新小説」に深く切り込んだものだ。それでいながら、その中身は予告された「父なき国の「父殺しミステリー」の謎を解く」という核心的テーマまで十分に届いていないと感じた。

ここでさらにタイトルに拘れば、昨年『すばる』(12月号)の「ロシア的ミステリー私小説への挑戦」と同様、どうも出版サイドの意向が先行しているように思う。言い換えれば、抑も「新小説」がどのようなジャンル(ミステリー?エンターテインメント?私小説?)の作品であるかをあえて特定しない販売戦略が透けて見えないか。このことは、亀山氏自身のスタンスの問題でもある。そう言えば、出版元の別のインタビュー(『文藝』(春季号)が、ほぼ本書と同内容でありながら、「総合小説」「全体小説」を目指したという亀山氏の冒頭部分の発言が消えていて、発行媒体による「インタビュー」の使い分け?が気になった。

実はこの対談後の会場で、お二人に投げかけた当方の質問があった。それは本誌前号でも触れたことだが、「新小説」刊行直前(11/13)に起きたパリでの同時多発テロにも関連して、ドストエフスキーという作家が21世紀の今日まで影響を持ち続けている「現代性」、そのことに含まれる「危険性」をどう感じておられるかというものであった。そんな質問をあえてしてみたくなったのは、世界が日常的に「テロ」と向かい合う今日、ドストエフスキー文学が孕む「負の側面」への言及もありだろうと思ったからである。抑も、亀山氏がオウム地下鉄サリン事件の1995年と『カラマーゾフの兄弟』を刊行後、ドストエフスキーが死去した直後の皇帝暗殺事件の1881年との時代背景(「テロ」事件)の重なりを「新小説」の核とした意味もそこにあったはずだ。『カラマーゾフの兄弟』の続編あるいは完結編を目指した「新小説」の刊行が、パリのテロ事件と同調する事態へのアップデイトな意見を聞きたかった。勿論「新小説」とフランスでの同時多発テロ、過激派組織ISと短絡的に結びつけるつもりはない。そしてそれを歴史的なドストエフスキーに即して論じるのもおかしな話に決まっている。しかしそれでは、今日この「新小説」を論じたことにならないだろうと思った。ただしこの議論を成立させるには、幾つかの「ハードル越え」が必要なのだろう。

この点で、当方が勝手に考えている「障壁」とは、「モダン」と「ポストモダン」の切離し難い歴史的関係だ。「新小説」には、その「モダン」と「ポストモダン」の問題が当然に混在している。必要なのは、その「障壁」の中身を丁寧に突き詰め、越え出ることなのだろう。実は、今回の「新小説」を単なる「エンタメ小説」と読むか『カラマーゾフの兄弟』に匹敵した「総合・全体小説」として読むかの分水嶺はこの辺の突き詰めにかかっている。

この点で亀山氏の「新小説」刊行後の朝日新聞のインタビュー(「「無限の視覚」を得た悲劇/ネット普及「父=支配者」力失い混迷、12/17)は、率直な興味深い説明であったと思う。亀山氏は「テロの時代と世界のグローバル化」の時代背景と「新小説」との関係について質問され、1995年の地下鉄サリン事件こそ「世界がテロの時代に突入する予兆の年とみることができるのです」と語り出す。同時に「『カラマーゾフ』は父殺しの物語。だが1995年を境に、父殺しという行為は意味を失った」「かつての父は、家庭という閉鎖空間の支配者だった。子供は父を『殺す』しか自立の道ない。でもネットの普及で、子供は家にいながら外の世界と自由に行き来できるようになった」と言う本質的テーマがここで語られる。1995年に何故亀山氏が注目したのか、それがインターネットの普及で得られた「無限の視覚」を我々が手に入れた契機であり、同時に「父=支配者」の失墜が同時的に生起した歴史的タイミングであったからなのだと。

さらにこの議論は、島田雅彦氏の「新小説」書評(1/17/朝日)によって延長的に代弁されている。「アメリカの傀儡でしかない日本の父親はもはや殺すに値しないが、世界の厳父たらんとするアメリカに牙をむく者たちこそがアリョーシャの末裔にふさわしいのかもしれない。このような歴史の反復を嫌う者は父殺しの欲望自体を葬るしかない。オイディプスやドストエフスキーの呪いは家族や国家、そして若者が滅びない限り消えないはずだが、どうやらそれも滅びつつある現在、66歳の若者である亀山氏がこれを書かずにいられなかった事情はよくわかる」。

ここまで亀山氏と島田氏の言葉を辿って来て、現代世界が直面する「テロリズム」がドストエフスキーの「父殺しの文学」(『カラマーゾフの兄弟』)とどう結びつくのか、その「モダンの回路」が少しは繋がった。そしてその同時代の問題を「他人事」として「黙過」して来た我々の悲劇(「罪」)が何を淵源としているのかも見えてきた。そこには「ポストモダンの回路」へと繋がり、あるいはその両方(「モダンとポストモダンの回路」)が「ウロボロス」のように咬み合っている現代があるのだと感じた。そして実は今回の亀山郁夫氏の『新カラマーゾフの兄弟』とは、この「ウロボロス」「モダンとポストモダンの回路」を描くために、『カラマーゾフの兄弟』を下敷きにする必然があった。ここにはドストエフスキー文学の現代性が孕む危険性も射程に入って来る。 (2016.2.4)



広  場 


高橋誠一郎著『新聞への思い――正岡子規と「坂の上の雲」』(人文書館、2015)を推挙する

長瀬 隆

十数年前のドストエーフスキイの会の例会だった。報告者6人全員が前方に一列に並んで座り、順に報告したことがあった。左端の人と右端の高橋氏とが論争となり、高橋氏が「(私は)ドストエフスキーだけをやっているのではありません」と応ずる一幕があった。氏は全国でも珍しい東海大の文明学科の出身で、ロシア文学研究もその立場からのもので、ドストエフスキーは重要だが、しかし一構成要素であることを言ったのだった。その基底にあるのは日本とロシアの比較文明論であり、それに豊饒な材料を提供しているのが黒澤明(映画「白痴」その他)と司馬遼太郎(日露戦争を主題とした長編小説『坂の上の雲』その他)なのである。ともにかなり以前から取り組んできた主題であり、何冊もの先行関連著書があるのだが、2011・3・11に福島で大規模な原発事故があってその論点が煮詰められることとなった。前作の『黒澤明と小林秀雄――『罪と罰』をめぐる静かなる決闘』と同様、最新のこの書もフクシマ以前のものよりはるかに深くかつ明快なものとなっている。

ドストエフスキーは一度死刑を宣告されて減刑・流刑となり、以後生涯検閲を意識しつつしばしば筆を抑えまた逆説的に執筆した。そのことを「二枚舌」といったひと聞きの悪い言葉でいう人もいるが、高橋氏は上品にイソップの言葉と言ってきた。どこがイソップの言葉でどこが衷心の言葉であるかを見極めるのが、ドストエフスキー読解の要諦である。

60年代に設置が始まり54基に達したウラン原発を、フクシマ後、満州事変から敗戦に至る昭和日本の歴史と酷似するとなす言説が現れた。過去の誤りから学ばずに繰り返された誤りであると指摘するもので、もっともだった。またそれを遡って、明治維新に端を発するとする見解もまた提出された。その一つに梅原猛のものがあり、明治元年の「廃仏毀釈」が端緒だったとされた。絶対主義的天皇制の富国強兵国家をつくるためには、仏教の平和主義は「外来思想」として排除されねばならなかったのであって、欧米帝国主義の後を追う国づくりがなされ、明治国家が成立した。日露戦争後鞏固になったこの国家は、司馬史観によれば、80年後の1945年に終息崩壊した。しかし反省不足の者たちが、秘かに日本国家の近い将来の核武装を想定しつつ、その原料であるプルトニウムを産する核エネルギーサイクルを導入し、安全を高唱しつつフクシマをもたらしたのである。

司馬遼太郎(1923~96)は徴兵された戦中世代に属し、いわゆる15年戦争の日本の否定面を知る人である。しかし戦国時代に題材をとった娯楽もの的な時代小説の作家として出発しており、私などは、第一次戦後派の作家とは共通点のない異質の直木賞作家と見てきた。明治維新に筆が及ぶように至って、関心をもつことになったのであり、高橋氏が学び評価しているのもこの時代以降を扱った作品群である。昭和時代の誤謬に至る道が奇兵隊出身の山県有朋によって用意されたことが特記されている。中野重治が戦時下に『鴎外その側面』で論じていた問題であるが、司馬作品で分かりやすく書かれることになった。司馬フアンであってもかなりの部分が見過ごしている箇所を高橋氏は丹念に取り上げ注意を喚起しており傾聴にあたいする。

必要があって1922年のアインシュタインの来日を調べたが、大正の開かれた明るい国際主義的歓迎は、そのすぐ後の昭和の日本人の暗さとは別人の観がある。明治憲法、教育勅語、「国体の本義」等々にがんじがらめに縛られて死への暴走を始め、1945・8・15に至った。この時代はあまりにも悪すぎて書けなかったと司馬氏は述べており、それに較べれば「戦後は良い時代だった」と告白される。苦難の体験を強いられて日本人の多くは目覚め、1955年の米水爆実験を期に原水爆禁止の国民運動が起こった。ある場所に書いたのであるが、これは日本人が史上初めて人類の名で己を語った運動であった。しかしほとんど同じ時期に原発建設をふくむ核エネルギーサイクルの導入が始まっている。推進者は朝鮮戦争によって戦犯を解除された内務官僚(後に新聞社社主)、旧憲法に郷愁を抱く保守政治家たちだった。彼らは反対者たち(湯川秀樹ら物理学者)を排除し、このサイクルを国策として決定、ムラと呼ばれたが実態は強力な集団を形成した。銀行が加わったこの政産官複合体が、それなりの「危機感」から安倍政権をつくり出したのである。

現行サイクルを温存し原発の再稼働を目論む現政権は、安全関連法を強行採決し、戦争犠牲者たちが残してくれた貴重な非戦の憲法を改悪しようとしている。かくて高橋氏は、司馬作品を踏まえてのことであるが、帝政ロシアにおける憲法問題にまで言及する。その体制にも「教育勅語」は在って、それは「正教・専制・国民性」の「三位一体」を強調するものだった。ドストエフスキー文学の背景を明らかにする指摘であり、これを閑却すると理解は「孤独感」(小林秀雄)やたんなる「父殺し」の強調といった具合に矮小化する。

「(今日)日本や世界が『文明の岐路』」に差し掛かっている」と著者は述べ、私もまた同感である。『坂の上の雲』が戦争を肯定しているかのような把握を斥け、著者の真意にそった正しい読解のために本書は執筆された。副題にあるように、三人の主要登場人物のうち正岡子規が新聞『日本』との係わりにおいて今回とくに重視された。『岐路』を過たずに生き抜こうとする人々にとって本書はおおきな励ましである。

明治という激動と革新の時代のなかで 山茶花に新聞遅き場末哉(子規、明治32年、日本新聞記者として)司馬遼太郎の代表的な歴史小説、史的文明論でもある『坂の上の雲』等を通して、近代化=欧化とは、文明化とは何であったのかを…問い直す。



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