ドストエーフスキイ全作品を読む会 読書会通信 No.153
 発行:2015.11.26


第272回12月読書会のお知らせ



月 日 : 2015年12月5日(土)
場 所 : 池袋・東京芸術劇場小会議室7(池袋西口徒歩3分)
開 場 : 午後1時30分 
開 始 : 午後2時00分 ~ 4時45分(時間厳守)
作 品 : 『白痴』1回目
報告者 :  菅原純子さん       
会  費 : 1000円(学生500円)


第31回大阪「読書会」案内 2・20『罪と罰』第5編、第6編
ドストエーフスキイ全作品を読む会・大阪読書会の第31回例会は、以下の日程で開催します。
2月20日(土)14:00~16:00、・会場:まちライブラリー大阪府立大学 参加費無料 
〒556-0012 大阪市浪速区敷津東2丁目1番41号南海なんば第一ビル3FTel 06-7656-0441(代表)地下鉄御堂筋線・四つ橋線大国町駅①番出口東へ約450m(徒歩約7分)
小野URL: http://www.bunkasozo.com




12月読書会・『白痴』報告は、菅原純子さんです。司会進行は、江原あき子さんです。菅原さんはドストエフスキーの他に日本文学も愛読されています。いつも丁寧な読みと考察で明確な報告があります。愛と哀が錯綜しながら悲劇に向かう美の世界、どのような読み解きがあるのか楽しみです。

『白痴』の世界 ― ナスターシヤを中心として ―
菅原純子

こころ フォト
ナスターシヤの変革と、葛藤
毎日のように田舎で、ムイシュキンとナスターシヤが会っていた1?月間ののち、ムイシュキンに起きた事。
六十コペイカ相当のナイフと、ムイシュキンのデーモン
ラゴージンとナスターシヤの肉体関係
アグラーヤ対ナスターシヤ
結末が意味するものとは、いったい何か。

ナスターシャ・フィリーボヴナ 幼い時に孤児となったナスターシャは、色好みの金持ちトーツキイの囲いものとして成長する。大人になるにつれ「汚れた女」の運命を呪い、自分をなぐさめものにした男に挑戦する。

そのポートレートに写っていたのは、確かに、はっとするほどの美しさの女性だった。その女性は実に簡素で優雅なスタイルの黒い絹の服を着て写っていた。髪はどうやら黒身がかった亜麻色で、どことなく高慢そうだった。彼女は顔は少しやせ気味で、顔色も青白いのであったかもしれなかった…「これほどまでの美しさになると、力だわ」とアデライーダが熱烈な口調で言った。「これだけの美しさがあったら、世界をひっくり返すことだって出来るわ」

詳細につきましては、報告当日レジメとして配布いたします。よろしくお願いいたします。また、引用する文の訳は、『白痴』ドストエーフスキイ作 米川正夫訳、岩波文庫をもちいます。




ドキュメント『白痴』
 (編集室)

1866年(45歳)
6月末 ドストエフスキー(45歳)モスクワ郊外の別荘で『賭博者』の構想。
9月末 モスクワから帰る。
10月1日 ミリュコフを訪問、速記をすすめられ受入る。3日 速記学校長オリヒンはアンナを推薦。4日 アンナ(20)ドストエフスキー宅訪問。『賭博者』速記を開始。 5日 正午~4時まで、速記。29日 連日 正午から4時まで口述筆記終了
11月1日 ステロフスキー宅訪問、『賭博者』渡す。8日 アンナに結婚を申し込む。
1867年46歳)
4月14日 ドストエフスキー夫妻、債権者を逃れて外国旅行に出立。以後、4年間帰国せず。
2月15日午後7時、トロイツキイ・イズマイロフスキイ大寺院でアンナと挙式。    
4月14日、ド夫妻外国旅行に出発。以後4年間外国放浪。(債権者逃れも一因)17日、ベルリン着。 19日、ドレスデンへ向け出発。  
5月1日、ドレスデン美術館でホルバイン、ラファエル、レンブラント等鑑賞。    
6月22日、フランクフルト着、即日バーデンに向けて出発。ゴンチャロフと会う。     
7月10日、ツルゲーネフを訪問。論争、絶交を決意。       
夏~秋、ルーレットに熱中、
8月12日、バーゼル博物館でホルバインの「イエス・キリストの屍」鑑賞。13日、ジュネーブ着、オガリョーフと度々会う。 
9月中旬、「ベリンスキイとの交遊」完成。『白痴』起稿。
11月下旬、『白痴』第1稿破棄。構想をたてなおす。     
12月、『白痴』の最終プラン決定
1868年(47歳)
5月12日 長女ソフィア肺炎で死亡
11月フローレンスに移る。『白痴』の第四部執筆。
12月 『白痴』完結。『無神論者』着想(『カラマーゾフの兄弟』)



映像で読む『白痴』

1946年のジョルジュ・ランパン監督によるフランス映画。
1951年の黒澤明監督による日本映画→白痴 (1951年の映画) 参照。
1958年のイワン・プィリエフ監督によるソ連映画。
1994年のアンジェイ・ワイダ監督によるポーランド・日本合作映画。
2003年のウラジーミル・ボルトコ監督によるロシアのテレビドラマシリーズ



書簡・覚書・アンナ『回想』から 『白痴』に関する記述の抜粋(中村訳)
 
ドストエフスキー → ソフィヤ・イワーノワ(姪)1866年1月1日

この小説の中心思想は、本当に美しい人間を描くことです。この世にこれ以上難しいことは、とりわけ現代では、ありません…なぜなら、この課題はあまりにも大き過ぎるからです。

ドストエフスキー → A・N・マイコフ 1867年12月31日

もう随分前から、私は一つの構想にとり憑かれて苦しんでいたのですが、それを小説にする勇気がありませんでした。というのは、その構想は、実に誘惑に満ちていて私は大好きなのですが、あまりにも手強くて、それに取りかかる備えが出来ていからなのです。その中心のイデーは、「完全に美しい人間を描く」ということです。私に言わせれば、これ以上難しいことは、とりわけ現代では、他にありえません・・・・。 このイデーは、確かにこれまでにもある程度は芸術的イメージとして時々ちらりと現れはしたのですが、しかし、あくまである程度に過ぎなくて、完全な姿で現される必要があるのです・・・ 大体のプランは出来上がりました。まだまだ先の部分の細部がちらりと見えたりして、それが私を惹きつけて私の中の熱を保ってくれます。だが全体の統一は?主人公は?というのは、私の場合全体の統一は主人公の形で決まってくるのです。そういう風になってしまっているのです。私はどうしてもその人物像を作らねばならぬわけです。ペンを動かすうちにその像が育っていってくれるかどうか?しかもなんたることでしょうとんでもないことがひとりでに起きてしまいました。主人公の他に女主人公まで存在する、ということが判明しました。つまり主人公が二人いるのです!!しかもその他にさらに二人の人物がいて、これがどう見ても主要な人物で、つまりほとんど主人公に近いのです(脇役的人物たちはといえば、かなり書き込まねばならない人物が数えきれないほどたくさんいるのです。小説自体も八篇からなる長編です)四人の中心人物のうち二人は私の心の中でしっかりと形をとったのですが、一人はまだ全然形をなしていないし、四人目の、つまり最も重要な第一の主人公は、はなはだ弱々しいのです。私の心の中のイメージとしては弱々しくはないかもしれないのですが、実に難しいのです。

ドストエフスキー → ソフィヤ・イワーノワ(姪)1868年1月1日

この長編の核心となる考えは、私が昔から懐いていた秘蔵のものなのですが、とても難しくて、長い間それに取り組む勇気が出なかったのです・・・本当に美しい人間を描こうと企てた作家はすべて、わが国のみならずヨーロッパの作家でもそうなのですが、常に、力及ばず引き退ってきたのです・・・美しいもの、それは理想です。しかしその理想は、わがロシアの場合も、文明化されたヨーロッパの場合も、確かな形に作り上げられてきたとは到底言えないのです・・・
この長編は『白痴』と題されて、あなたに、すなわちソフィヤ・アレクサンドロヴナ・イワーノワに捧げられています。 親愛なる友ソフィヤ、私は、この小説がいささかなりともその献辞に値するものになってくれるようにと、心から願っているのです。

ヴェーラ・イワーノフ(妹)1868年2月24日 

今度の長編は、これまでのどの小説とも比べものにならぬほど私を苦しめている。私は、この小説に、あまりにも大きな期待をかけている。・・・


アンナ夫人の『回想』

フョードル・ミハイロヴィチは小説のアイディアに有頂天になってしまうことがよくあった。彼は小説のアイディアを自分の頭の中で長いこと温めていることが好きだった。しかし、それが実際の作品となって現れると、極まれな例外はあったが、満族がいかないのだった。今も覚えているが、1867年の冬、フョードル・ミハイロヴィチは、当時世間を騒がせたウメーツカヤ裁判の詳報に興味を抱いていた。彼は、この事件にすっかり惹きつけられて、裁判の主役オリガ・ウメーツカヤを自分の新しい長編のヒロインに(最初のプランでは)しょうと考えた。それで、小説のヒロインの名を、『創作ノート』では、この苗字になっている。
※ウメーツカヤ裁判 両親に虐待された14歳の少女オリガ・ウメーツカヤが自宅に火を放った事件。裁判でオリガは無罪となった。




米川正夫の白痴論


ラスコーリニコフ=ムイシュキン説 断然、否定する!!
米川正夫

『白痴』の主人公ムイシュキン公爵は、ドストエーフスキイが『罪と罰』で約束した、更生せるラスコーリニコフの具体化された形象である、というような説が、二三の批評家によって提唱された。これは『白痴』が『罪と罰』の直後に書かれたという事実によっても、その中間に『賭博者』が介在するけれども、この中編がすでに1863年に更生されたものであることは、同年9月18日ローマから出したストラーホフ宛の手紙によって明確である。しかし、その説の根拠ははたしてどこにあるのか?ラスコーリニコフがソーニャ的なクリスチャンになったということは、『罪と罰』のエピローグによって、われわれは作者の口から告げ知らされている。一方『白痴』のムイシュキン公爵も、まさしくソーニャと同じ謙抑と、ギリシャ正教的親交の典型である。というものの両者の間には、大きな相違がある。ムイシュキンが生まれながらのクリスチャンであるのに反して、ラスコーリニコフは反逆児としての要素を多分にもって生れ、大胆不敵な懐疑と否定と苦痛の相場をくぐった後に、はじめて神の世界に入ることができたのである。したがって、更生せるラスコーリニコフの性格は、根本において小児のごとき単純素朴さを備えたムイシュキンとは、きわめて大きなニュアンスの相違をもっていなければならぬ。この意味においてわたしはムイシュキンいこーるエピローグに約束されたラスコーリニコフという説を、断然否定するものである。(全集別巻)



『白痴』論関連図書

「白痴」を読む
新谷敬三郎著 白水社 1979 1500円

清水正・ドストエフスキー全集第8巻:『白痴』の世界
D文学研究会 2015年10月31日 新生社 7000円
(上記の新刊『ド全集8巻』を、読書会会員限定半額の3500円で購入できます。
ご希望の方は通信編集室までご連絡ください)

黒澤明で『白痴』を読み解く
高橋誠一郎著 成文社 2011 2800円

美の悲劇 ―ドストエフスキイ「白痴」研究― 
ウオルィンスキイ著 大島かおり訳 みすず書房 1974 950円




10・17読書会報告
 
               
24名参加で大盛会 賭博場的熱気に湧いた小7会議室
ほぼ満席だった10・17読書会は、賭博場的熱気に湧いた。司会進行の黒野優菜さんは、自身のドストエフスキーに対する思いを述べた後、参加者一人一人からだされた『賭博者』感想をボードに書き連ねた。「音読した」ではじまり「面白かった」「辛かった」「アレクセイの視点」「振込詐欺的」など様々な意見・感想があった。
遠方からの参加者の自己紹介で、「ドストエフスキーを語るほど読んでいないので、自分のことを話します」と話した言葉が印象的でした。「ドストエフスキーを読んでいくと、やがて自分につきあたる」たしか東欧の作家もそんな言葉を残していた。
司会進行の黒野さんは、『賭博者』を6時間かけて音読。この日も、ボードに会場の声をすべて記載する奮闘ぶりでした。ご苦労さまでした。




寄 稿

『賭博者』を読んで ―観念の発生過程を追って―
野澤隆一

この小説の印象は、映画に例えるなら前半(第1章~第8章)はモノクロ画像で淡々と流れていく感じに対し、後半(第9章~最終章)はカラー画像に突然切り替わり人物が生き生きと躍動しているという感じでした。後半での物語の展開の起伏もその要因ですが、キャラクターの造形には前半は全体的に内面や外見も含め細かい描写が無いのに対し、後半は同じ人物(ブランシュ)にしても生き生きとその人物像が印象に残る記述になっています。第9章に登場する祖母のアントニーダ・ヴァシーリエヴナは外見だけではなく、その性向まで細かな説明があらかじめ語られています。前半の登場人物には主人公のアレクセイ・イワーノビッチとその会話が多いポリーナ以外には、そうした記述が比較的にありません。モノクロ画像で物語が展開する前半はそうしたリアル感が希薄であるという印象です。それはある種の「不安」というベールが前半には覆われている感じですが、なぜ、そのような印象を受けたのでしょか?それは次のことと考えています。

1. 小説の構造は主人公の意識に現れたキャラクターや情景のみで描かれている。

タイトルの副題に『一青年の手記より』とある通り、これはあくまでもアレクセイの意識に浮かび上がった事物と人物のみで物語が構成されています。そこにはアレクセイが登場しないエピソードの記述がありますが、その内容を後日語っているのはアレクセイであり作者ではありません。作者がキャラクターについてアレクセイを飛び越えて造形していることがないのです。第6章の冒頭には「告白」という形で主人公のポリーナに対する心情の記述や、第13章の「手記」として物語の主人公である自らを事後的に記述する場面は、そうした構成上の作者の緻密な使い分けの特徴が見えます。
ミハエル・バフチンは作者の創作の独創性としてこの構造を取り出しています。(*1)『賭博者』に関しては具体的記述がありませんが、バプチンは「真実とはこの人物にとっての意識の真実に過ぎない」と語っています。では、それぞれの場面でアレクセイにとっての真実としての他者をどのように受け止めているのでしょうか?

2.主人公にとって他者とは何か?また、他者とどのように関係しているのか?

人間にとって「他者」とはどのような存在でしょうか?哲学者の竹田青嗣さんは他者について次のようにその本質を取り出しています。(*2)
エロスの源泉としての他者
驚異の源泉としての他者
Aは「生のあじわいの源泉としての他者」(菅野仁(*3))としても定義でき、人間が生きる上で他者から認められたり、注目されたり、ほめられたりした場合、うれしいこととして自分自身を肯定(ロマン化推進)できる感情の源泉としての他者という側面です。また、逆にBは人間が生きる上で、自分を無視したり、評価したり、馬鹿にしたり、暴力で危害を加えたりすることがあるということで、そのことより自分のアイデンティティーを不安にさせる源泉である他者を意味しています。
では、アルクセイにとって関係している他者はどのように映っているのでしょうか?
小説の冒頭には三週間留守にした将軍の家族のところへ帰宅した際、本人はみんながどんなにか待ちわびているかと期待したのにも関わらず、それは各人とのやり取りの結果、既に見込み違いだったこととして物語が展開します。将軍の家族(ポリーナを除く)にとって主人公はそれほど存在意義が明確になるような現れ方をしません。何かよそよそしいという印象で推移します。また、アレクセイにとって関わるキャラクターはBとしての他者としてではありませんが、Aとしての他者としても主人公は感受していません。人物像も明確に記述されないのは、そうした希薄な関係性としてしか本人の意識に現れないという登場の仕方をしているわけです。ただし、そうした「よそよそしさ=不安感」を本人は自覚的には感受していないように、モノクロ画像として物語は推移します。また、将軍の家族は借金の埋め合わせに祖母の死後の遺産を当てにするという時間的な焦燥感が「不安」の通奏低音として流れていますが、祖母の死を期待する内容をアレクセイは冒頭では知りません。そうした家族のアレクセイに対する態度は謎めいた形となり、意識には一種の疎外感を少なからず感じます。

人間のアイデンティティー(自己同一性)を確保するには、他者に「認められたい」という他者承認という条件は不可欠ではないでしょうか?
承認欲求の本質を取り出す条件として、竹田さんが提示された他者の本質をもとに、心理学者の山竹伸二さんは社会の中で人間が生きていく他者との関係性として下記のような他者の分類を提示されていす。(*4)ただし、状況により他者の役割は多少変化すると考えられます。( )内は小説に即した具体的な例を追記してみました。
A 親和的他者(家族や親戚:愛情や信頼で支えられている)
B 集団的他者(集団的価値の共有、一定の仲間意識、役割関係、ライバル関係で支えられている)
C 一般的他者(「誰もが」という不特定多数の匿名の他者:社会のモラルで支えられている。国民、民族)

他者承認は上記の3つに、下記のように対応します。
A 親和的承認(ありのままの自分が承認されるが、獲得自由度は低い)
B 集団的承認(自らの努力で勝ち取る承認)
C 一般的承認(一般性のある価値評価、社会的承認)

他者承認とは、承認されたことで「自分が他者から必要とされている」という自己了解ができることです。自己了解とは自分の生きている意味を見出します。一般的に人間はこの3つのバランスの中で生きていますが、アレクセイの場合、ポリーナ以外のAとBに自己承認を導くにはあまりにも薄い状況です。ここではBとCが被さり合う形で、作品に登場しいている他者にとしての外国人がいます。
人間の精神の発達過程ではA→B→Cというプロセスで自己承認していくことが望ましく、自己のルール(モラル:価値基準)はCを基準に修正されていきますが、普遍性のある価値基準が明確ではない(神の不在)当時のロシア人がおかれた社会的な環境(後述)ではおのずと、自己承認に自らをロマン化する(よりよい人間を目指そうとする)決定的な条件が欠けているという困難がここにもあらわれていないでしょうか?小説には「神」という言葉は一切出てきません。アレクセイには信仰の対象として普遍性のある価値基準である「神」は既に失われていると考えたほうが良いでしょう。
さて、外国人との他者関係はどうでしょうか?
舞台はロシアではない外国の架空の都市として設定しており、ロシア人であることの存在不安はここでの関係にもあらわれています。
 
作品には直接的な言及はありませんが、訳者注として、「政治的には1863年のポーランド反乱とロシアその鎮圧には、反ロシア感情を起こさせた」背景があります。上述のCの定義に関する、外国にいるロシア人としてのレクセイには負荷としてのしかかっていることは疑いのないことで、ポーランド人やフランス人に対応するロイア人に対する差別的なエピソードが記述されています。ただし、対応手段の根拠となるロシア人のナショナリズムとして「形式」と表現されているような明確な理由を表出することができません。そこには他の作品にみられるような近代主義に対するスラブ主義というような対立構図が見えません。文化的に遅れていることは自覚しており、それは将軍一家についても、外国にいるロシア人として自分では解決可能性が途切れたコンプレックスとして、自己肯定としては不利な状況に位置していることに不安を感じている状況として確かなことと受け止めざるを得ません。つまりアレクセイの意識の中には自覚的であろうと無意識であろうとB・Cを条件とした自己承認の契機が前半では失われている展開進んでいるということです。むしろ、ヨーロッパ的な近代主義に対抗するという形で呼び込まれたニヒリズムがアレクセイの意識の中に低通していると考えたほうがよいかもしれません。Cの背景は彼のみならず、将軍一家の自己肯定についても借金という負荷に二重な不安感情を醸し出す情景設定が見て取れるのではないでしょうか?その際、将軍一家は祖母の死による遺産の相続としての生の可能性として、アレクセイにとっては次に述べるポリーナとの関係性に、自己のアイデンティティーを確保する契機に、自らを全面的に投企せざるを得ない意識のありようを感じざるを得ません。それに対し後半に登場するキャラクターはアレクセイにとって親和的なつながりがあり、生き生きとした動きに見えるのかもしれません。

3.アレクセイとポリーナの不確かな関係。特別な他者

前述した他者の定義からすれば愛するポリーナは「エロスの源泉としての他者」ですが、恋愛においての対象は特別な存在として立ち現れます。恋愛の特徴の二大範型はプラトニック(ロマン的純愛:プラトン・スタンダール)とエロティシズム(サド・トルストイ・ラクロ)と言えます。プラトニック派のアレクセイにとってのポリーナは自分の命を賭してかまわない愛すべき人物として現れています。ポリーナは、その日常的な存在不安もしくはニヒリズムから超え出るような「力」の源泉であり、そのことを指し示す「意味」とは日常を超え出るような「可能性」として特別な存在として現れますが、逆に小説での両者の会話には主奴関係の仮構もあり(エロティシズム派にも読める設定)、ポリーナはアレクセイを大いに振りまわす「驚異の源泉としての他者」としても立ち現れます。ポリーナの心をつかみきれない感情はむなしく空回りし、その存在は謎めき、懐疑心を生むまでに至ります。

一般的に恋人の承認を得る(恋愛の成就)ためには「自分が自分であること」だけで、段階的な様々なしがらみを乗り越えることが無い点で、超越へのダイレクトな希求ということでは恋愛はギャンブル(賭博)と似ています。(日本でもゼロ年代にサブカルチャーで流行した「セカイ系」というジャンルの作品には「方法的に社会領域を消去した物語」として設定されていることに恋愛の本質が見極められているのかもしれません)

プラトニックな恋愛で「絶対感情」が生成される過程には愛する人の「美」に自己のロマン性を仮構し、「美」の背景に自分にとっての至高な幻想が形づけられ、相手の心を獲得(恋愛の成就)した際には、そうした自己のロマン性(真善美)の完成として全世界がそれこそモノクロがカラーに変わったような意識の大転換が訪れますが、アレクセイの恋愛は挫折に終わります。

ポリーナにとってもアレクセイはそばにいてほしい存在だと考えていました。しかし、自らのロマン性や自己のルール(モラル:価値基準)に揺れていたアレクセイのアンビバレントな言動はポリーナ自身のロマン性を確立させなかったのでしょうし、ポリーナのさまざまな常軌を超えた要求も彼女のロマン性の不確立性が現れたと考えざるを得ません。命令としてのさまざまな要求は、アレクセイの「自己」を探し出す手段だったように思いますが、ポリーナのアンビバレントな要求にアレクセイはまた、自分を見失うというように、その感情は両者で作り出す鏡のような関係として、無限循環として響き合ってしまいました。『罪と罰』にて世界喪失した場所から自己肯定の手段として独自の思想を立ち上げたラスコーリニコフと違い、ほぼ同じような場所に立っていたアレクセイの意識にはポリーナという同類のロシア人が相手だったというのが不幸であり、そこには賭博という違う観念が舞い込むことになりました。アレクセイは自身のロマン性を立ち上げられなかった人間なのです。

4. ロマンとモラルの根拠について

推理小説家の笠井潔さんは文学作品や政治的な事件を題材に、人間が「自己観念」を発生させるその生成過程を理論化しています。(*5)そこでは、そもそもロシアのインテリとは、階層ではなく現実的な世界喪失を観念的投企によって自己回復しようと企てる実存的なカテゴリーであるとしています。最初にあるのは自己喪失であって、そこからの回復の可能性を観念的投企(革命・暗殺)に見ていますが、アレクセイの賭博に魅せられた意識は投企するような主体的な意志がありません。

アントニーダ・ヴァシーリエヴナの賭博の場に連れ添い、賭博の魅力に圧倒されますが、アレクセイのアンビバレントな意識に絶対的な観念として、賭博が舞い込みます。それはあたかもアントニーダという導師に導かれ、ゲームでの結果の「奇跡」を目にした宗教体験のように思われます。賭博という倒錯した観念に自らのロマン性を見出したアレクセイは、恋愛とは違う世界感受が発生しました。後半の賭博シーンのリアルな記述はそうしたアレクセイの意識の反映かもしれません。ポリーナからの拒絶を契機に、その転回した世界像はアレクセイを支えて行くことになりますが、ロマンとモラルの関係で次のことを押さえておくポイントです。第15章には次のような告白があります。
 
しかし、奇妙なことに、ゆうべ賭博台に触れて札束をかきあつめはじめたあの瞬間から、わたしの恋はなにか二義的な線に後退したかのようだ。今だからこう言えるのだが、その当時はそれらすべてを明確に気づいてはいなかった。はたして本当に私は賭博狂なのだろうか、はたして本当に・・・・ポリーナをそんな奇妙なふうに愛していたのだろうか?いや、わたしは今でも彼女を愛している、本当にだ!

作者は他の作品で強烈に個性的な人物設定をしますが、アレクセイはあまり魅力的な人物ではありません。しかし、彼はごく見かけるロシアのインテリの一典型として描かれたのではないでしょうか?そこでは外国に暮らすロシア人という「被投性(ハイデガー(*6))」を押さえておくべきです。ここでの告白は「神」とか「真理」とかの目指すべき超越項が外側にない状態で、はたして自らの「真:本当なこと」「善:良いこと」「美:美しいこと」というロマン性を他者や社会に投げかけて自己肯定(自己確立)していく時に、自己のルール(モラル:価値基準)の根拠ははたしてどこにあるかという、他の作品にも見られる作者のテーマがここにも顔を出しているのではないかと考えたのが、この作品から受けた最大の印象でした。ただし、その答えは現代に照らし、自ら考えていかなければなりません。

*出典・参考図書

『賭博者』ドストエフスキー著 江川卓訳 新潮文庫 
(1)『ドストエーフスキイの詩学』第2章「ドストエーフスキイの創作における主人公および主人公に対する作者の位置」ミハエル・バフチン著 望月哲男訳 ちくま学芸文庫
(2)『人生を生きるための思想入門―人生は欲望ゲームの舞台である』竹田青嗣著芸文
(3)『「認められたい」の正体―承認不安の時代』山竹伸二著 講談社現代新書
(4)『友だち幻想―人と人の“つながり”を考える』菅野仁著 ちくまプリマー新書
(5)『テロルの現象学―観念批判論序説』笠井潔著 ちくま学芸文庫
(6)『存在と時間』マルティン・ハイデガー著 細谷貞雄訳 ちくま学芸文庫



「ドストエーフスキイの会」情報


ドストエーフスキイの会の第230回例会は、11月21日(土)午後2時から千駄ヶ谷区民会館で開催されました。
報告者:長瀬 隆 氏   
題 目:アインシュタインとドストエフスキー




ドストエフスキー情報
 (2015・11・15着分)            

提供=佐藤徹夫さん

〈作品〉

『やさしいロシア語で読む「罪と罰」』原作ドストエフスキー
リライト ユーリア・ストノーギナ IBCパブリッシング 2015.9.5 ¥1500+ 141p  18.8㎝

〈作品・漫画〉

『カフカの「城」他三篇』森泉岳士著 河田書房新社 2015.3.30 ¥1500+ 81p 27.9㎝
・ドストエフスキーの「鰐」 p59-76

〈収載書〉

『1冊でわかる村上春樹』村上春樹を読み解く会 著 神山睦美 監修 KADOKAWA 2015.9.22 ¥1300+ 223p 18.8㎝
・第4章村上文学の源流がわかる ・村上春樹とドストエフスキー p160-161

『人生に効く名著名作の読み方』齋藤孝著 東京堂出版 2015.10.25 ¥1500+ 253p  
・2章 仕事で悩んだとき Qくだらない仕事につきたくない p62-66(※A:「罪と罰」)
・4章 生きるのがつらい Q:人生には意味があるのかp181-185(※A:「カラマーゾフの兄弟」)

〈逐次刊行物〉

《贋地下室》という工房――後藤明生論/高澤秀次 「すばる」37(11)(2015.11.6)p230-257
・〈保守人権派宣言〉ドストエフスキーの「ネチャーエフ事件」考/三浦小太郎 「表現者」63(2015.11.1)p014-015

※9月30日(水)「朝日新聞」32面の全面広告に伊藤計劃×円城塔の『屍者の帝國』が10月2日よりロードショーと伝えている。同じく10月29日の10面広告は〈ハーモニー〉を伝えているが、『屍者の帝國』は絶賛公開中としている。劇場アニメ化がどうなっているのか情報なし。
※光文社広告10月9日 亀山郁夫訳『白痴 1 』 11月11日頃発表か




評論・連載

「ドストエフスキー体験」をめぐる群像
(第62 回)ドストエフスキー文学の射程距離の永遠性について    
今年を回顧し、来たる年の平穏を祈りながら
 
福井勝也

11/13(金)パリでまた同時多発テロが起き、現在129名の死者が出て世界を震撼させている。犯行はイスラム過激派のISによるものらしい。今回も従来の自爆テロによる銃乱射という手口は変わらぬが、システィマチックな冷酷さが加わり「組織された軍事集団」によるものとの情報が伝えられている。仏大統領は事態を「戦争」だと規定し、連日ISが支配するシリア地域への大規模な空爆で反撃している。同時に仏政府は、さらなるテロ発生の危険性も発信している。ここ数日で事態は仏・米・露の共同軍事作戦へと発展し、世界(宗教)戦争の様相さえ呈し始めている。予断を許さぬ緊張がいつまで続くか分からない。

今回は、実行犯が特別仕様の軍事ベストを着用し、AK47自動小銃を使用しているが、この無差別殺人は大都市の無辜の市民を標的とした戦争行為そのものである。さらに犯人達は、隣国ベルギーに在住するフランス国籍者が含まれていて、テロリスト達が市民のなかに紛れ込みながら犯行を狙っている。「テロとの闘い」が日常的になる恐怖を孕みながら世界(日本を含めて)に拡散する危険性が現実化しつつある。

事態から頭に浮かんだのは、『罪と罰』のエピローグで、ラスコーリニコフがシベリアで見る旋毛虫が蔓延し人類を滅ぼす世紀末的な悪夢である。病原菌による「パンデミック」の恐怖も今日絵空事ではなくなって久しいが、『悪霊』でドストエフスキーが政治小説化した人間の内心に巣くう「観念という旋毛虫」の増殖こそ、21世紀今日的世界の恐怖の正体ではないか。果たして人類はこれを克服して「新しきエルサレム」を目指すことができるのか。「21世紀、ドストエフスキーは救済原理たり得るか?」と標題に何度か掲げた今年、その切実さが募る年末が到来している。

今年本欄でドストエフスキー文学について語りながら話題にしたのは、年明けに同じフランスで起きた「シャルリー・エブド事件」(1/7)であり、邦人二人がISに「処刑」されるという惨劇(2/1)であった(「通信」149号)。そしてそこから連想させられたのが、東京でかつて発生し、今年で丁度20年を迎えた地下鉄サリン事件(1995.3/20)での無差別大規模テロであった(同、150号)。今回のパリ・テロ事件とは、背景が大きく違っているのは明らかだが、何故か20年前の地下鉄サリン事件と細い糸で繋がっていることを直観させられた。オウム真理教という犯罪集団を構成した個々の実行犯は、決して特別な人間ではなく、むしろナイーブな者どもであったことがその後判明した。今回のテロリスト達もおそらく元々は普通の生活を営んでいたナイーブな若者どもでなかったか。ただ彼らは貧困や差別等の社会的条件にそのナイーブさが結合して、邪悪な観念の「旋毛虫」に感染する可能性を高めたのだろう。

当方、21世紀の「テロリスト」の原型は「ラスコーリニコフ」だと思っている。ドストエフスキーの小説では『罪と罰』の「ラスコーリニコフ」が『悪霊』の「ピョートル」へ変貌し「スタヴローギン」まで到り着き、その成れの果てが今日の「テロリスト」ではないか。その中身もより冷酷なものに昂進し続けていて、ドストエフスキーの文学はなおそれを捉え、その表現の射程距離を今もなお伸ばしつつあると感じるのだ。但し、ドストエフスキーはそれに対する処方箋も書き残していることが重要だろう。そんな文脈から今年、批評家の東浩紀氏の「実は僕は、今こそドストエフスキーの小説を生産的に読み返せるのではないかと考えています。というのも、21世紀はテロの時代で、そしてドストエフスキーというのは一貫してテロリストの心を描き続けていた作家だからです」との発言を紹介したのであった(同、150号)。

この東氏の発言は、前年末(2014.12)作家亀山郁夫氏と対談(『カラマーゾフの兄弟』からチェルノブイリへ-ロシア文学と日本社会)でオウム事件に話題が及び、それに触発されたものだった。最近、お二人は対談(「ロシア的ミステリー私小説への挑戦」)を『すばる』(12月号)でさらに重ねられている。これは、近日刊行予定の亀山氏の小説『新カラマーゾフの兄弟』(河出書房新社)の予告(PR)対談と言える。東氏は亀山氏の新著刊行を”文学的事件”とまで評している。すでに当方も新小説の第一部が『文藝』(2014.7)に掲載された時点で、本欄でも紹介させて頂いた(同、145号)。実はその直後に亀山氏から詳細な新小説の各パートのプロット、各登場人物の緻密な物語進行表をファイル添付で何枚も送信して頂き驚いた。おそらく、今回その展開は当初のものとかなり違って来ているような予感もあって、実際そのストーリー全体の通読が待ち遠しいところである。

同時に、当方の興味は当初から絞られていた。すなわち新小説が19世紀ロシアの『カラマーゾフの兄弟』の物語を大枠としながら、それをどこまで現代日本に引き写し、そのための時代背景になぜ1995年の日本(東京・中野)がピンポイントされたか、その辺りがどう書き込まれているかが焦点だと思ってきた。それらのことがらの達成如何では、東氏の言う〝文学的事件〟と言う表現も決して誇張ではなくなるだろう。今回の対談でも触れられているが、新小説が明治以降今日まで、陰に陽にその影響を日本近代文学に及ぼしたドストエフスキー文学への応答、その一帰結点になるかもしれないとの期待もある。それにしても、何故今日なのかという気持ちも湧いて来ている。

やや気になるのは今回対談のタイトル「ロシア的ミステリー私小説への挑戦」というコンセプト盛り沢山のPR表現か。村上春樹の『海辺のカフカ』を意識したこと、さらに「カフカ体験」まで亀山氏は語られている。かなり大分の新小説のボリューム(上下で1400頁超)が焦点を拡散させ、あれもこれものエンターテイメント化を招くことへの危惧が無きにしもあらずというところか。

しかし同時に、刊行直前に今回のパリでテロ事件が起きたことの偶然が新小説の読みに何らかの影響を及ぼすだろうとのタイミングも感じている。『文藝』に一部が掲載された時点でも書いたが、この小説のキイワードは「同期・同機」(シンクロナイズ)だと直観していて、これまでドストエフスキーの研究・翻訳を重ねて来た亀山氏がその作家的感性を冷静に「同期・同機」(シンクロナイズ)し尽くせるかが作品の鍵だと思っている。その意味では、確かに不思議なタイミングが重なって来ていて、僕には新小説が今回テロ事件とすでに「ハウリング」していると感ずる。

何を言いたいかというと、今回タイトルに掲げた、ドストエフスキー文学の射程距離の永遠性という問題と関係している。その点では、新小説のバックグラウンドが地下鉄サリン事件の起きた1995年であることを、読者はより大きく意識することになるだろう。これ自体、亀山氏が作家としての鋭い嗅覚を時代に注いできた証左だと思うが、同時にそれがドストエフスキーの研究と翻訳から得た大きな果実なのかもしれない。但し、これは実は怖しい事態の「同期・同機」でもあることを指摘しておきたい。この点についてさらに言葉を費やしてみれば、元々19世紀の一小説家(ドストエフスキー)の頭脳のなかで生成されたフィクショナルなイマージュが、徐々に現実化して人間の歴史を駆動させているという今日の世界的事態の問題と言えないか。これは説明が逆転しているとも「錯覚」とも呼ぶことは可能だが、その「錯覚」をリアルなものに変質させてしまうのが人間の心の闇なのだろう。ドストエフスキーとは、終生その心の闇を探求し表現し続けた作家であったことを胆に命ずべきだろう。そこに問題を突破する鍵も隠されているはずだとも思う。ドストエフスキーの文学を深く読むことは、危険な深淵を覗き込む所為でもあることを覚悟しつつ、乗り越えるべき「同期・同機」に身を賭けることになろう。

飛躍するようだが、今年、元少年Aの『絶歌』が刊行されて、当欄でも言及させてもらった(151号)。『絶歌』出版の経緯から大方の非難は無理のないことだとしても、当方が『絶歌』を読んで感じた本質的なことは、元来フィクショナルな人間の「心の闇」を生々しく実在するもの(バイオモドキ?)として感じてしまうAの心的傾向の特異であった。おそらく彼にとって必要なのは、そのことを何らかのかたち(小説に限らず)を通して表現し続けることであろう。そのことの達成が、彼の真の更正に繋がるのではないか。実はドストエフスキーもそのような意味での創作を継続することで生き延び、更正し続けた作家であったと思うのだ。いずれにしても彼は、その「心の闇」を伝えようとして今でも藻掻き続けていている。ラスコーリニコフを更正させたソーニャの見守りが我々に求められているのかもしれない。

そしてさらに思うのは、ドストエフスキーが描いた「旋毛虫」「増殖する邪悪な観念」とは、その「心の闇」に巣くうリアルなものであって、彼はその「病原体」の正体と真剣に対峙し、その解毒を目指して小説の強度をレベルアップさせて行ったのだと思う。そして今回、そのような感覚が亀山氏に「同期・同機」(シンクロナイズ)することで、新小説が構想され、作品化されたのだと思っている。そこには今日的不安を克服する処方箋がどのように表現されているのか。いずれにしても、それはドストエフスキーの文学を読み続けることでしか描きようのない世界の達成であったのだろう。まだ手に取ってもいない新小説への期待を語りながら、本年の締めくくりとしたい。そして当方のドストエフスキーへの言及も、その小説の射程距離が永遠である限りにおいて終わることはないだろう。今年も紙面を提供して頂いた本誌編集の下原夫妻、お付き合い頂いた読書会の皆さん、そして拙文を読み続けてくれた諸氏に感謝しつつ筆を擱くこととしたいと思う。来る年の世界の平穏を祈りながら(2015.11.17)



広  場 

連載9
『罪と罰』の世界―人間性の深みをめぐる優越感と負い目

渡辺 圭子

しかし、いったんしらみとみなしたら、自問自答などせず、つっぱしるという条件は満たせなかったため、英雄にはなれなかった。(英雄になる条件はほかにもいろいろあるが)つっぱしるのを妨げ、たいした悪党にもなれない小者にしてしまった、くだらない考えとは何なのか。スヴィドリガイロフはラスコーリニコフの犯罪を、誇りと虚栄心の問題ととらえていた。

お金さえあれば、という思い、空腹、狭い下宿、ぼろ服、社会的地位のみすぼらしさの明瞭な自覚などからくるいら立ち、ナポレオンに夢中になり、自分も天才的な人間と思ったが、そうでないことを思い知らされて悩んでいる。自負心のある青年にとって、屈辱的な結果である。(抜粋)(36)

では、その誇りと虚栄心を、なぜ、くだらない、と思えたのか。ラスコーリニコフのもっていた英雄観は、相手をしらみとみなし、自問自答することなく、つっぱしることのできる人間であった。しかし、こうした行為は、確かに英雄になれる一因ではあるが、同時に、失脚の原因でもある、という裏面を考えつかず、ナポレオンに夢中になり、自分も天才的と思い込み、ちがいを思い知らされて悩む。裏を考えつかない、ということは、それだけ視野がせまい、ということになり、それだけ大物から遠ざかることになる。スヴィドリガイロフが、ラスコーリニコフの誇りと虚栄心を、くだらない、と思えたのは、前置きでとりあげた、賢治童話の主人公のもつ能天気さが感じられたからである。『自分を正義と善の側において、深層に潜む卑劣さをみようとしない』『誰も反対できないスローガンのために、どれだけの流血があったか。そこを少しも考えず、軽々しく、みんなの幸福のためなら…などという』

これまで、悪、卑劣を凝視し、昇華することができない、人間や人生を広く深くみる力、精神面の高さにおける、優越感と負い目からいい関係を築けない、そんな人間の姿は、そのまま、『罪と罰』の人物達の姿に重なり、ラスコーリニコフの犯罪、スヴィドリガイロフとドゥーニャ、ポルフイーリーの態度、ソーニャの信仰について、検討してきた。検討していく中で、優越感と負い目から自由になるヒントが、ちりばめられている、と思えた。高潔さが、正義感が、不義や淫蕩を生んでしまう。高潔な卑劣も、優越願望でつながっている。どんな人間も存在していいのだから、他者の弾劾を恐れることはないし、他者を弾劾する必要もない。人間の力で理解できない人間や人生の深遠さ、解けない謎を前にしては、皆同じである。神とよべなるものをみつけられたら、追求したい物事と少し距離をおけば、追い目につぶされ、追い詰められることもなかったかもしれない。しかし、強すぎる優越願望ゆえに神をみつけられず、裏面を考えられないゆえに、悪、卑劣を凝視し、昇華することができないでいる。ラスコーリニコフが、ソーニャと自分を同じ、といったように、被害者も同じ、と考えられるようになるのはいつなのか。高潔も卑劣も、精神面における優越願望でつながっている。自分の中の卑劣に気づくことが、高潔につながる道となる。その道をみつけられるのはいつなのか。スヴィドリガイロフのように、物事の偽善性、欺瞞性、表裏に気づくことができるのはいつなのか。スヴィドリガイロフと同じ年になるまで、待たなければいけないのか、案外近いか、それとも、一生わからないままか…。  完 

【引用文献】・辻中剛「偽キリスト論」・清水正『ケンジ・コードの神秘』・ドストエフスキー『地下室の手記』『罪と罰』『おかしな人間の夢』『悪霊』 

渡辺圭子さんの「『罪と罰』の世界」論連載、本号で完了です。



新谷敬三郎先生(1922-1995)没後20年記念 (編集室)

黒沢明『白痴』を観る 育った小樽を思い出した
新谷敬三郎     
ドストエーフスキイの会 会報 No.39 (1975年9月23日発行)

12月8日黒沢の映画『白痴』をみた。これは確か1951年の作で、そのときみて以来である。黒沢の映画はどれもこれも大抵好きだが、とりわけこれは忘れがたい。初めてみたときの驚き、ドストエフスキイの小説の世界が見事に映像化されている。でも記憶というものはいい加減なもので、まるで忘れていた。芸術作品から受けた感動というものは、その表現の正確な記憶を伴わないで、持続していくものらしい。そして二度目には、また新しい発見がさせられる。この映画が青函連絡船の船室から始まり、長い字幕の説明が続くということを忘れていた。そして今は消えてしまった札幌の駅前の光景、雪に埋もれた街の家並、こうした映像は私には連絡船とともになつかしい風景である。三船敏郎扮するところの、彼はなんと若いのだろう。ロゴージンの奇妙な家、ああいう作りの家、といっても見たことのない人には想像つかないだろうが、ああいう家はたしかに私が育った頃の小樽などにはあった。それから、夜のスケート場の場面。巨きな奇妙な雪の像、あの頃にもう今の雪まつりの催しがあったのかと思ったりしたが、そこで奇怪なお面を冠ってスケートする人々の乱舞、この場面も私は忘れていたけれども、黒沢という人はとっくに知っていたのか、と驚かされた。こうした舞台設定、それは原作にはなかったはずだが、そこでの人物の出し入れはバフチンのいわゆるカーニバル化の見事な表現である。これはおそらく映画の、そして映画でなければできない、すぐれた場面であろう。そればかりでない。物語は原作を忠実になぞりながら、その展開の時間を雪の季節、おそらく一月から三月初め頃までのあいだに圧縮し、そのあいだ絶えず雪を降らせている。シナリオは久坂栄二郎作ときいたが、こうしたこともドストエフスキイ的世界を表現するのに、見事な効果をあげている。森雅之のムイシュキンにまた感銘したけれども、私は長く原節子のナスターシャはミスキャストだと信じていた。というのも、この女優はそもそも大根だと思っていたせいもあるのだろうが、このナスターシャは悪くないと考えを改めた。むしろ久我美子、今のテレビドラマでは創造もつかないアグラーヤ役は、あの鼻にかかった声のイメージが合わない感じだった。『白痴』の映画は、このまえに1946年フランスで作ったそうだが、黒沢はごらんになっていただろうか。ロシアでは1910年、22分の無声映画、説明の字幕と、おそらく状景の断片で作られている。その後は、1958年の御存知のもの、小説でいえば第一篇だけで終わっている。
(映画『白痴』 黒澤明監督 1951年、松竹)



最後のナスターシャ 原節子さん死去
 (2015・11・26 読売新聞)

黒澤明映画「白痴」にナスターシャ役(那須妙子)で出演した銀幕のトップスター原節子さんが9月5日になくなっていたことが、11月25日にわかった。享年95歳。合掌  
所用が重なって「読書会通信」発行が遅れてしまった。なんとか25日までには作成完了しようと焦った。帰宅した25日夜、原節子さん死去のニュース。遅れていることで、このニュース掲載が間に合った。奇しくも『白痴』前夜である。不思議な因縁を思う。(編集室)


出版情報 
 
姫路の坂根武さん『罪と罰』論、12月末に刊行予定

新たな視点から読み解く『罪と罰』論、才能ある青年を「陰惨な思想に突き動かしたのは何か」。ナポレオンの英雄主義、キリスト教信心など数々の読み解き、考察があった。本論は、とおく白鷺の姫路にあって一人『罪と罰』を読みつづけてきた孤高の読者が放つ新しい視点からの『罪と罰』論である。
多くの方に読んでいただきたいとの著者のご好意で贈呈していただけます。ご希望の方は通信編集室にご連絡ください。




編集室


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