ドストエーフスキイ全作品を読む会 読書会通信 No.132 発行:2012.6.7
6月読書会は、下記の要領で行います。
月 日 : 2012年6月16日(土)
場 所 : 豊島区立勤労福祉会館第7会議室(池袋西口徒歩5分)
開 場 : 午後1時00分
開 催 : 午後1時30分 〜 2時30分
報 告 : 「ペトラシェフスキー事件」について 報告・福井勝也氏
時 間 : 午後2時30分 〜 4時50分
作 品 : 『人妻と寝台の下の夫』 参加者全員 フリートーク
会 費 : 1000円(学生500円)
二次会(近くの居酒屋) 5時10分 〜
東京芸術劇場小会議室での開催は10月読書会からです
8月読書会の会場は「豊島区立勤労福祉会館」第7会議室です。
(東京芸術劇場の近くです。池袋警察署隣り)
開催予定日 : 8月18日(土) 午後2時〜5時迄です
東京芸術劇場は、施設の改修工事のため2012年(平成24年)8月31日まで全面休館中です。このため会場と開催日が変則的になります。ご了承ください。
6・16読書会について
あっというまに今年も半年が過ぎてしまいました。昨年暮れにつづいてオウム指名手配犯人の逮捕には、闇事件解決への糸口を感じます。が、世界も日本も先の見えない政治・経済がつづいています。ユーロ―危機の欧州、中・ロ・米国の大国主義と何処も同じです。
ドストエフスキー初期作品の時代も、同様、混沌混迷の時代でした。若き作家自身にとっても人生を変える運命の時代だった。その意味で、1849年に起きた「ペトラシェフスキー事件」の解明は避けて通れません。と、いうことで読書会の前に、「ペトラシェフスキー事件とは何か」について報告があります。レポーターは福井勝也さんです。
いつもの読書会より30分早く、1時半から開始します。
『ドストエフスキーとペトラシェフスキー事件』原卓也・小泉猛編訳 集英社1971
今回の作品『人妻と寝台の下の夫』は短編なので、読書会の報告者は全員ということにしました。前回につづいて、フリートークとします。
作品紹介 『人妻と寝台の下の夫』
この作品は1848年頃、ドストエフスキー27歳のときの作品。当初『やきもちやきの夫』として書いたが後年、ステローフスキィ版著作集刊行の際、『人妻』と一編に合され『人妻と寝台の下の夫』と改題され、この年の12月、雑誌『祖国の記録』で発表された。
迫り来る嵐の時代
1848年は、ドストエフスキーにとって波乱人生の前触れともなるような不気味な年だった。
前年’48年も大変な年だった。7月に詩人で友人のヴァレリアン・マイコフ(24)が急逝。街頭で発作を起こし友人で医師のヤノーフスキイから「てんかん」と診断された。まさに、この2年間は、ドストエフスキーにとって嵐の前であったのだ。
ちなみに1848年には今後の世界において嵐の元となる出来事があった。以下、そのニュースである。(『歴史新聞』より)
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共産主義者同盟のマルクス『共産党宣言』を発表
親友エンゲルスも協力
「万国のプロレタリアート団結せよ」
【ロンドン発=1848年2月】
ブリュッセルに亡命中のドイツ人思想家、カール・マルクスの『共産党宣言』がロンドンで刊行された。同書は昨年6月にロンドンで結成された国際的革命組織、共産主義者同盟の綱領的文書にあたるもので、昨年からヨーロッパ各地で盛り上がりを見せている自由主義・国民主義運動のひとつの指針になるものと見られ注目を集めている。
〈革命家の素顔〉『共産党宣言』を発表したカール・マルクスさんとはどんな人か
1818年ドイツ生まれ30歳、ジャーナリスト、経済学者、社会主義研究家、哲学者。
ドイツのケルンに生まれたマルクスさんは、早くからヘーゲルの「理性の弁証法」に強くひかれ、青年ヘーゲル派のひとりとして活動を開始した。
「僕の理想はすべてヘーゲルから形成されたといってもいいほど。いまでも革命の根拠はヘーゲルの弁証法にあると思う。」マルクス/親友のフリードリッヒ・エンゲルスは二つ年下。『共産党宣言に大きな役割を果たした。
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1848年、この年、ドストエフスキーに関係した出来事は、以下のようであった。(ド全集・年譜から)
1月 『ポルズンコフ』を『絵入り文集』に発表。『人妻』を「祖国の記録」1月号で発表。
2月『弱い心』を「祖国の記録」で発表
3月ベリンスキイ「現代人」で『主婦』否定評価。
4月『世馴れた男の話』(『正直な泥棒』)を「祖国の記録」4月号で発表
5月ベリンスキイ死去
9月『クリスマスと結婚式』を「祖国の記録」9月号で発表
秋 ドストエフスキー兄弟、文学と音楽のサークル」発足を提案。スペシネス共鳴せず。
12月『白夜』、『やきもちやきの夫』を「祖国の記録」12月号で発表
4・28読書会報告
ゴールデンウィーク直前に14名の参加者
4月28日は、ゴールデンウィーク直前だったが、14名の参加者があった。
『正直な泥棒』について、様々な感想・意見がだされた。
プレイバック読書会
2003.2.8読書会(通信78号)
『正直な泥棒』は、喜劇か?で議論沸騰!! (編集室)
2月8日に開かれた読書会は、13名といつもより少なめの参加者であった。おそらく新年如月気分の抜けない時期であったのと、訳者をして「とくに取り立てていうほどの作品ではない」といった評価が災いしたのかも知れない。 そんなわけで開催当初は、フリー報告も手伝って、司会者手腕に頼るだけのいささか心もとない読書会となってしまった。あげられた感想や意見も巷間評されている「ドストエフスキーの不安な生存感覚を反映している」(中村健之介)といった繊細な人間観や「堕落した者を嫌ってはいけない」といった道徳噺の域をでなかった。 しかし、議論半ばであげられた人見さんの、「わたしの毛皮外套をいとも悠々と外套掛けからはずして、小脇にかかえ込み、ぷいと戸外へ飛び出した」泥棒は、もしかして間借り人アスターフィ・イヴァーヌイチのズボンを盗んだエメリヤン・イリッチではないか。彼は死んだことになっているが、真相は生きていた・・・との発言に喧喧諤諤となった。エメリヤン・イリッチは生きていた!! 荒唐無稽と思われた感想であったが、検証してみると、その推論に符号する個所が結構あって、納得する意見や評が多く寄せられた。 エメリヤンがわたしの外套を盗んだ泥棒であった推理される点。(この作品が、喜劇的小噺とみられる個所及び言葉)・「世馴れた人」という表現。・「つるこけ桃」の言葉。シェークスピアの『空騒ぎ』のドグベリイを彷彿する。・「外套を守るために何一つしょうとしなかった」怪。・「・…」文末の点線の意味。などなどである。ともあれ、エメリヤンが生きていて泥棒だったとすると、この作品の解釈はまったく違うものになってしまう。所謂、感傷的小噺からお笑い漫才話となってしまうのだ。これまでになかった読みだけに今後も注目してゆきたい。
第250会4月読書会 (2012.4.28)
「エメリヤン=泥棒説」を再び検証する
下原康子
そう思って読み直すと・・・
・「わたし」の外套を盗んだ泥棒の登場の仕方(2回も)が奇妙である。もし泥棒が生きていたエメリヤンだったとしたら、探していたアスターフィ・イヴァーヌイチを2年ぶりに訪ねあてたのかも。(前にも引っ越し先に入り込んでいたことがある)
・アスターフィ・イヴァーヌイチはすぐに後を追ったにもかかわらず、泥棒を取り逃がしてもどってくる。その間10分。(二人は再会したのでは?)
・自分の外套が盗まれたわけでもないのに、アスターフィ・イヴァーヌイチのあわて方は度を越している。(泥棒がエメリヤンならさもありなん)
・「正直な泥棒」の語りにはなにやら生きているエメリヤンをかばっているようなニュアンスが感じられる。(そう思って読めば・・・)
・泥棒(エメリヤン)はあえて「わたし」の外套を選んで盗んだのかも(アスターフィ・イヴァーヌイチの外套は見覚えがあったから)
・「旦那、わっしの見ている目の前で、息を引き取ったのでございます・・・」(P335)と語ったあとにエメリヤンとの会話が続くのが奇妙。
・アスターフィ・イヴァーヌイチの語りはエメリヤンがズボンを盗んだことを告白し息を引きとったところで終わっているのだが、その後の・・・が長たらしく思わせぶりな印象を残す。
・この手記を書いたわたし(無名氏:10年間引きこもっていた人物)はすべてをお見通しだったのかも?
・アグラフェーナ(小間使いの女)は何かを知っていたのだろうか?
・この小品におけるドストエフスキーの仕掛けは成功したといえるだろうか。
ドストエフスキー文献情報
提供・≪ド翁文庫・佐藤徹夫≫
<図書>
・『ドストエーフスキー覚書』 森有正著 筑摩書房 2012.4.10 \1400 444p 14.5cm
<ちくま学芸文庫・モ-3-6>
*巻末:解説 ノートゆえの輝き/山城むつみ(p429-444)
・『青春の終焉』 三浦雅士著 講談社 2012.4.10 \1500 539p 14.5cm
<講談社学術文庫・2104>
・三 ドストエフスキーの波紋 p64-93
*初版:2001.9.27 講談社刊
・『西洋文学事典』 桑原武夫監修 黒田憲治・多田道太郎編 筑摩書房 2012.4.10
\1800 625p 14.9cm <ちくま学芸文庫・ン-8-1>
・ドストエフスキー p317-319
*初版:1954.9.1 福音館書店刊 (未確認)
・『ドストエフスキー『悪霊』の衝撃』 亀山郁夫、リュドミラ・サラスキナ著 光文社 2012.4.20
\880 298p 17.3cm <光文社新書・579>
・プロローグ 『悪霊』幻想/亀山郁夫 p5-26;「対話」のはじめに p27-35
・第一部 ダイアローグ/亀山郁夫、リュドミラ・サラスキナ p37-146
・第二部 質問と回答 p147-235; アイスランドのスタヴローギン/リュドミラ・
サラスキナ、郡伸哉訳 p237-266; アウラを求めて/亀山郁夫 p267-293
・おわりに/亀山郁夫 p295-298
・『快楽としての読書 海外篇』 丸谷才一著 筑摩書房 2012.5.10 \1000 466+Ip
14.8cm <ちくま文庫・ま-12-3>
・旧批評への道 ジョージ・スタイナー/中川敏訳 『トルストイかドストエフスキーか』
(白水社) p383-386 *初出:「展望」1969.1 (未確認)
<逐次刊行物>
・「ドストエーフスキイ広場」 21(2012.4.14) 全121p *詳細は省略
<文献>
・「ドストエフスキー書誌」の日本人連の文献 提供=《ド翁文庫。佐藤徹夫》
セルゲイ・ベローフの『ドストエフスキー書誌』に採録されているドストエフスキー関連の日本人の文献・日本人に関する文献をリストアップしている。
連載
「ドストエフスキー体験」をめぐる群像 (第41回)三島由紀夫の生と死、その運命の謎
吉本隆明について(2)
福井勝也
(1)「スメルジャコフ」という問題、富田臥龍氏の例会発表(5/24)を聴いて
前回は、吉本氏死去をうけて彼のドストエフスキーへの言及(「ドストエフスキー断片」、『現代のドストエフスキー』所収、新潮社・1981)について触れた。その中で吉本は「ドストエフスキーが自分の作品の世界に、眼にみえないロシアのアジア的古代的な感性や思想性の枠組みを施している」として、それを「蘇生させようとした結果が、主人公たちの特異な資質になってあらわれた」と指摘した。具体的には、『白痴』のムイシュキン公爵の内面の幼児性、未成熟性(非エロス性)、『罪と罰』のラスコーリニコフの一種の精神の追跡妄想性想が強いる過剰な内面性(パラノイア的精神性)などを例示しながら、さらにドストエフスキー作品の言葉に内在する独自な時間性の特徴にも触れていた。そして前回末尾では、吉本の考えとも通ずるドストエフスキーの美の観念が、アジア的な生の指示、ヨーロッパ人にとって不断の脅威であるところのアジア的混沌の風土を孕むものだという三島由紀夫の見解にも触れた。
実はつい先日、この二人(吉本・三島)の同じ文章を前回例会(5/19)「傍聴記」にも再引用した。例会発表者は読書会参加者でもある富田氏で、タイトルは<悪人論/バラムの驢馬 〜『カラマーゾフの兄弟』における「スメルジャコフ」>というものであった。「傍聴記」の中身はそちら(次号「ニュースレター))に譲るとして、この際話題になった「スメルジャコフ」についてもう少し考えてみたいと思った。スメルジャコフという存在の『カラマーゾフの兄弟』における位置、その担わされている「悪役」が他の三兄弟とはやや異質で、その理解の方向性が吉本や三島が指摘するヨーロッパ的な人格を脅かす異郷性(=異教性)、すなわちアジア的古代的な枠組み、アジア的混沌にあると思えたからだ。スメルジャコフについては、当読書会でも『カラマーゾフの兄弟』をめぐっての菅原純子氏の発言などが発端になって、アリョーシャ的救済の限界性がスメルジャコフの存在によって照射され、同時に本人が自己の出生を徹底して否定的に語る「胎内自殺」という言葉がその光源のようにクローズアップされて来た(「通信」115号拙文(2009.7.30)。
富田氏の発表もはじめ、スメルジャコフを父親フョードルが「バラムの驢馬」と呼んだ意味を旧約聖書(ヨブ記他)に求めながらも、終わりにはキリスト教世界から、その「悪人性」を善悪二元論的な異教的な(私流にはアジア的古代)世界へ移動させるものであったと思う。ただし、その着地点への論拠(「善悪の問題をコインの裏表」とする文明論的比喩や広範囲な思想文学的言説の引用)がやや拡散気味だと感じた。今回そこを、吉本や三島の言葉をヒントにもう少し自分なりに深めてみたいと思った次第である。
(2)オウム真理教事件の真相と吉本隆明の講演録
そう考えていた矢先にいくつかの偶然事が重なった。その一つが、二夜(5/26.27)にわたるオウム真理教事件の真相に迫ろうとするNHK特番の放映であった。番組の目玉は、裁判では「痴呆者」のようになって黙秘を続けたまま結審を迎え、今も東京拘置所で死刑囚として服役している麻原彰晃の教団発足当時からのマル秘録音資料(700本のテープ)の公開であった。結果、実は麻原は教団発足当初(1984?)から教団の武装化を考えていて、その後サリン等の化学兵器製造が実現する過程で、当初からの大量殺人(「ポア」)による日本国家の転覆と新たな宗教国家の建設を企図した事実が明らかになった。この間、今や地下鉄サリン事件等の実行犯として死刑囚となっている教団幹部たちに繰り返しその意図を説き、「ポア」(救済)という名目の殺人を「グル」への忠誠を誓わせる踏み絵にしながら、国家転覆を目指す凶悪な大量殺人教団を現実化させた。結審した裁判では、被告たちの罪名だけが確定したのみで、オウム真理教という教団が何を目指し、何故あそこまでの結果に至り着いたのかが謎のままであったので、今回教祖麻原の肉声がかなり鮮明にその内実を証言したと感じた。地下鉄サリン事件以来17年、オウム真理教団発足から30年近く経って、この教祖麻原彰晃(本名、松本智津夫)という男が何者であったかという原点に引き戻されながら、画面を見つめ麻原の声を聞いていた。そのなかで一番気になったのは、その「グル」が弟子達に説く、「ポア(救済)」という名目の「殺人」を迫る説教の内容であった。実は丁度放映当日(5/26)の午前中、スメルジャコフのことを考えながら、オウム教団が発足した頃(1984)に吉本隆明が語った「親鸞の声」という文章(『超西欧的まで』所収、弓立社1987、実は本書には、前回引用した「ドストエフスキー断片」も「ドストエフスキーのアジア」とタイトル変更して併録されている)を読んでいた。そしてその夜に、麻原の弟子への声を聞きながら、読んだばかりの吉本の講演の言葉を思い出していた。偶然事とは、この引き合わせられた言葉のことであった。少し長くなるが、そのポイント部分を引用してみる。
「いまでも(親鸞の生きた頃の戦乱の世と、筆者注)同じです。いまは平和の息苦しさのなかで、善悪の問題がどんどん身辺に迫ってくるということがあります。それをどう考えたらいいのかが、大きな眼目になってきます。親鸞が当面したのは、まったくおなじ問題だったとおもいます。
親鸞と弟子の会話は、もうひとつ『歎異抄』のなかにあります。あるとき、親鸞がそばにいる唯円にむかって、おまえはわたしの云うことを信じるか、と聞くわけです。唯円は、もちろん、わたしはあなたのおっしゃることは信ずるし、また、あなたのおっしゃることは何でもききます、と答えます。それじゃ、おまえは人を千人殺してみろ、と親鸞はいうわけです。すると、唯円は、じぶんに器量があれば、仰せのとおり千人殺すかもしれないし、殺せるかもしれない、だがじぶんには人を一人殺すだけの器量すらない、つまり、じぶんはそういう器ではないから殺せません、という答え方をします。
唯円の弁明は、じぶんにはそういう器量がない、というものです。しかし、その先は、たぶん唯円にはわからないところです。親鸞にはわかっていました。親鸞は唯円の弁明をきいて何といったかというと、それならどうして、わたしの云いつけにそむかないなどといったのか、それでわかるだろう、人間は、何か因縁(業縁)があれば、人を千人殺せといわれて、じぶんがぜんぜん殺す意志がないとしたって、千人殺しちゃうこともありうるんだ、といいます。それから、業縁がなければ、人一人さえ殺せないのが人間という存在なんだ、というのです。
唯円が「器がないから」といっていることを、親鸞は「因縁がないから」とか「業縁がないから」という云いかたに変えています。親鸞のような云い方をしますと、ふつうの善悪(倫理)が横の方に最大限に広げられることがわかります。たいへん俗な受け取り方をすれば、親鸞という人はおしゃべりの言葉では、とても危いことをいう人だと、思えます。一般論でいえば、人を殺すのは、人間の倫理からいって、絶対に悪いことになります。しかし、業縁(因縁)があると、絶対悪いことだって人間はしてしまう存在なんだ、という云い方で、べつに人を殺すことを肯定しているのではないが、業縁から人間は善悪を超えることがありうる、親鸞はそう云っているのです。
この業縁とか因縁とか親鸞が云っているものは何でしょうか。それはたぶん、親鸞が、人間と人間との関係のなかで出てくる声、善悪の声のなかに、浄土を自然に含ませてしまったときに出てくる声だとおもいます。
たとえば、業縁があれば、倫理的に絶対に悪であることでも、人間というのは、ふっと、しちゃうことはありうる存在なんだ、という云い方で、親鸞は唯円の弁明をどんどん引き伸ばしているのですが、その引き伸ばされた範囲に、とても自然なかたちで、浄土という概念(考え方)が含まれているとおもいます。
人間の世界だけの判断でいえば、親鸞の云っていることは、とんでもないことになりそうですが、浄土という概念を自然に含ませてしまえば、もっと大きな意味で、そのことがありうる、ということが云われているのです。そこまで、人間の善悪は引き伸ばされていくということです。(「親鸞の声」(前掲、『超西欧的まで』p62-64、下線は筆者)
長い引用をしたが、かつて吉本は地下鉄サリン事件の後に教祖麻原彰晃を宗教者として高く評価(1995.8産経新聞)をしてバッシングを受けたことがあった。吉本の麻原評価の背景にあったのは、ここでの親鸞の唯円への説教の言葉ではなかったか。すなわち吉本は、人間の善悪の観念の徹底化によって切り開いた親鸞の信仰の系譜を、宗教家としての麻原のなかに見ようとしたのでなかったか。勿論、吉本はオウム教団の犯罪行為を否定しその評価の二重性(分裂)をも認めざるをえなかったのだが、吉本は死去するまで(麻原が「痴呆者」の如く振る舞い、一切その宗教的信念を語らずにいる状況を認知しつつも)その見解を訂正することもなかった。この講演は勿論、オウム事件が発生するずっと以前、むしろオウムが宗教活動を開始した頃に行われている。そして今回のテレビ放映で驚いたのは、麻原がかなり早い時期から幹部である弟子達に、教団の武装蜂起(無差別殺人)を促す際に「ヴァジラヤーナ」という教義とともに、「業縁から人間は善悪を超えることがありうる」という親鸞の説法を利用していたと思えることだ。吉本は、親鸞ほど信仰と善悪のかかわりを突きつめたひとはほかに考えられないと、親鸞を傑出した宗教思想家として評価していただけに、この麻原の「パクリ」を見破れなかったということか。いや「パクリ」であるとしても、そのカリスマ性の前に教祖麻原に深く帰依する多くの若い信者達が数多く存在したことも確かな事実であった。そして思い出すべきは、オウム真理教が海外での布教に力を入れこれまた多くの信者を獲得したのが、何と当時ソ連邦から歴史的転換を遂げつつあった混乱のロシアであったということだ。さらにこれも吉本が問題にしていることだが、オウム真理教には、親鸞が説き、その悪用を戒めたはずの「悪人正機説」から「造悪論」まで含めその教義として利用したと考えられることだ。一方、麻原彰晃、本名松本智津夫の生い立ちや盲学校の教師や友人の証言(今回の放映)を知る限り、そのコンプレックスから強烈な権力志向に至るその世俗性も明らかだ。バブル全盛期の腐った金満国家日本の精神的堕落、早々とこれに愛想づかしをして、自衛隊に決起を促しクーデターを企図したのが三島由紀夫であった。麻原を三島とダブらせて見るのは大変乱暴な話でしかないが、世直しの思想家吉本はこの時期、麻原が真の宗教革命家であって欲しいという「希望」を抱いたのではなかったか。勿論それでサリン事件の罪が消せるわけでもないが、三島事件とオウム事件は昭和と平成という二世の戦後日本を串刺しにしているのかかもしれない。その違いは麻原が日本の天皇制をも転覆し、「王」たらんとしていたことだろう。そして麻原が、吉本の言うような親鸞の如き高い宗教的確信を得た者でないにせよ、親鸞が究めた善悪の突きつめからの信仰の系譜を生きた(「悪用した」)者のであったかもしれない。
紙数が尽きたので、今回はこれ位に止めようと思う。尻切れトンボ的に語るつもりもないが、吉本が「親鸞の声」を語った丁度この時期に「ドストエフスキーのアジア」も語られていた。すなわち、この親鸞の善悪の突きつめから得られる深い信仰の系譜ということを考えた時、ドストエフスキーも(麻原はともかく)その系譜に連なる者であったと吉本は考えたのではなかったか。例えば「スメルジャコフ」をとりまく『カラマーゾフの兄弟』の人間関係が発する声のなかにそれがこもっている。吉本の言う、「ドストエフスキーが自分の作品の世界に(施した)、眼にみえないロシアのアジア的古代的な感性や思想性の枠組み」の具体例が、スメルジャコフを含む『カラマーゾフの兄弟』の磁場に発見できよう。かつてオウム真理教の引き起こした地下鉄サリン事件にショックを受けて発表した文章があった(「現代における魂の救済」1996、『ドストエフスキーとポストモダン』所収)。あれから16年が経過して、その事件の謎は必ずしも明らかになったとはいえないが、いくつかの偶然事が重なった今日、さらにもう少し拘りたいと思った。 (2012.5.30)
評 論
「罪と罰」読書ノート
坂根 武
はじめに私はこの読書ノートで、ラスコーリニコフの行動と心理の紆余曲折を、できる限り無私の目でみるよう努めながら綴ってみたいと思う。そうすることが、私としてはこの難解な作品が与える感動を伝える最良で唯一の方法であると思ったからである。というのも、一つの小宇宙が、全体の大宇宙によってその存在を支えられながらも、それ自身の時間のリズムと空間の広がりを持っているように、ラスコーリニコフの物語の発端と発展と完結はちょうどそのような小宇宙を作っているからである。
そして人は皆、大宇宙、すなわち人間存在の果てしない広がりのなかに投げ出された小さな点でしかないにしても、その本質的な原理は私たち1人1人の心の中に生きている。この原理についての直感と内省があれば、19世紀、ロシアという地球の片隅で創造されたラスコーリニコフという魂を探検するのに、ほかの装備は何も必要ではない。「罪と罰」はまさしくそのように作られている。そしてこの作品のそうした神的な完成度こそが、読者を、たとえ不充分なからにでもその創造の秘密に参加したい意欲を掻き立てるのである。
さて、私はこの読書ノートを、この長編小説の最も美しい一節、さらに付け加えるならば、青年を主題にした多くの過去の傑作の中でも、おそらく最も美しい描写を引用して始めたいと思う。かねて計画していた老婆殺しの大仕事をやってのけた翌日、思いに沈みながら、交通の妨害になっているのにも気付かないで道路の真ん中を歩いていたラスコーリニコフは、馬車の御者に背中をムチでどやされる。その光景を目撃した商人の女房は、彼の貧しい様子から宿無しの浮浪者と勘違いして、そっと二十コペイカを握らせた。
「彼は二十コペイカ銀貨をてのひらに握りしめて、十歩ばかり歩いてから、宮殿の見えるネヴア河の流れへ顔を向けた。空には一片の雲もなく、水はほとんどコバルト色をしていた。それはネヴア河としてはめずらしいことだった。寺院のドーム(丸屋根)はこの橋の上から眺めるほど、すなわち礼拝堂まで二十歩ばかり隔てたあたりから眺めるほど、鮮やかな輪郭を見せるところはない。それがいま燦爛たる輝を放ちながら、澄んだ空気を透かして、その装飾の一つ一つまではっきりと見せていた。
むちの痛みは薄らぎ、ラスコーリニコフは打たれたことなどけろりと忘れてしまった。ただ一つ不安な、まだよくはっきりしない想念が、彼の心を完全に領したのである。彼はじっと立つたまま、長い間瞳を据えて、はるかかなたを見つめていた。ここは彼にとって格別なじみの深い場所だった。彼が大学に通っている時分、たいていいつもー一一といって、おもに帰り途だったが一一かれこれ百度くらい、ちょううどこの場所に立ち止って、真に壮麗なこのパノラマにじっと見入った。そして、そのたびにある一つの漠とした、解釈のできない印象に驚愕を感じたものである。いつもこの壮麗なパノラマが、なんともいえぬうそ寒さを吹き付けてくるのだった。彼にとっては、このはなやかな画面が、
口もなけれ耳もないような、一種の鬼気に満ちているのであった。・・・・・彼はその都度、我れながら、この執拗ななぞめかしい印象に一驚を喫した。そして自分で自分が信頼できないままに、その解釈を将来に残しておいた。ところが、いま彼は急にこうした古い疑問と疑惑の念を、くっきりと鮮やかに思い起こした。そして、今それを思い起こしたのも偶然ではないような気がした。自分が以前と同じこの場所に立ち止ったという、ただその一事だけでも、奇怪なありうべからざることに思われた。まるで、以前と同じように思索したり、ついさきごろまで興味を持っていたのと同じ題目や光景に、興味をもつことができるものと、心から考えたかのように‥‥彼はほとんどおかしいくらいな気もしたが、同時に痛いほど胸が締め付けられるのであった.どこか深いこの下の水底に、彼の足もとに、こうした過去一一いっさいが一以前の思想も、以前の問題も、以前のテーマも、以前の印象も、目の前にあるパノラマ全体も、彼自身も、何もかもが見え隠れに現れたように感じられた‥‥彼は自分がどこか遠いところへ飛んで行って、凡百のものがみるみるうちに消えていくような気がした・‥彼は思わず無意識に手をちょっと動かしたはずみに、ふとこぶしの中に握りしめていた二十コペイカを手のひらに感じた。彼はこぶしを開いて、じっと銀貨を見つめていたが、大きく手を一振りして、水のへ投げ込んでしまった。それから踵を転じて、帰途についた、彼はこの瞬間、ナイフか何かで、自分というものを一切の人と物から、ぶっつりきりはなしたような気がした」
ここには凶行前と凶行後の、ラスコーリニコフの内部に生じた埋めようのない心の落差が奏でる悲愴曲が鳴っているが、それは読者の胸を貫いて、青春時代の回顧へと誘うかのようである・・・・・人類の生活の歴史上の最も大きな変化の一つは、18世紀イギリスを中心に起きた産業革命であったろう。これは大人ばかりか、若者と子供たちの生活をも根本的に変えてしまった。産業革命以前、子供たちはいまの小学校へ入る年齢になれば、すぐに労働力に組み込まれていた。彼らは父祖伝来の仕事に従事して、堅固な伝統と風習に守られて、一足飛びに大人の世界の住民になっていた。しかし産業革命の到来とともに、高度な知識と技術が求められるようになると、子供たちは学校へ通うようになった。社会の複雑化と技術革新とともに、彼らが学校で過ごす時間は長くなっていった。そこには全く新しい人間関係の空間と自由な時間かあった。こうしてそれまでは存在しなかった青春という不思議な人生の一時期が誕生することになったのである。思うに、若者に降りかかったこの運命は、あたかもアダムとイヴの楽園追放にさも似ていたであろう。人類社会は、それまで知らなかった青春という人生の特権的な一時期を作り出したが、それは同時に孤独と不安の交錯する近代病の幕開けでもあった。
『罪と罰』に描かれたラスコーリニコフの孤独な魂は、近代世界の最も純粋な青春像である。華やかな歴史に彩られた首都ペテルブルグの壮麗な建築物が、ラスコーリニコフにはうそ寒い未知の怪物に見えるとすれば、それは過去と伝統への断絶感であり、既存価値への不信 疑惑であろうか。自負と懐疑がないまぜになった自己存在への不可思議な感情。作者は、19世紀のロシアの首都のネヴア河の上で、ラスコーリニコフという強烈な個性を描いているのだが、私たちはいねば時空を超えて、ある普遍的な感情を前にしているのを見出すのである。天才の力とは不思議なものだ。ラスコーリニコフの眺めたネヴア河の水がやがて大海に流れいるように、彼が壮麗なパノラマから体験した疎外感は、時が移り場所が変わっても、
多感な若者の心に流れる感情なのだろうか。私はこの一節を読むたびに、ラスコーリニコフの魂から発した訣別の葬送曲が、じっと耳を澄ませば、私の心の底にも、かすかながらも鳴っているのが聴きとれるのである。 (続く)
(引用文は河出書房新社・米川正夫訳。「罪と罰」を使った)
板根 武さんは、兵庫県在住。これまで一人で読みつづけてこられたそうです。ドストエフスキーに寄せる熱き思いを本号から少しづつ、発信していきます。ご愛読よろしく。
追 悼
さようなら、ダリヤさん 小山田チカエさんを悼む
小山田チカエさんが4月9日に亡くなられた。4月18日(水)府中の森市民聖苑にて荼毘に。大きな体でいつもバイタリティーに溢れていたチカエさん。その迫力にときには辟易させられることもあった。が、懐かしい・・・。酔ったとき口ずさむ美空ひばりの「悲しい酒」は圧巻だった。
夫、小山田二郎と共にあることを望み、絵画に生き、孫の成長に生き、そしてドストエフスキーに生きた人生だった。もう読書会では会えないのは残念です。いまごろは天国で、ご主人小山田二郎さんと再会し、ドストエフスキーの話をされているかも知れません。二郎さんもドストエフスキーの人でした。
ご冥福をお祈りします。
掲示板
☆提起 表記について
このところ表記の「ドストエーフスキイ」を改名できないか、そんな声がときどきでています。検索の折り、不備を感じるようです。抽選会場でも、間違って書いたと勘違いしてご丁寧に書き直してくれるときも間々あります。現在、日本では、新聞、雑誌などマスメディアで見る限りだいたいのところ
「ドストエフスキー」で統一されているように思います。そんな理由から拘りがなければ通信では読者獲得の為にも「ドストエフスキー」でもいいのではと思っていますが・・・。
☆《ド翁文庫。佐藤徹夫》提供のセルゲイ・ベローフの『ドストエフスキー書誌』に採録されているドストエフスキー関連の日本人の文献・日本人に関する文献(10頁)、ご希望の方は「読書会通信」編集室まで(日本名以外はほとんどロシア語です)
☆土壌館下原道場、船橋市体育協会平成23年度体育功労者表彰受賞に決定
編集室
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