ドストエーフスキイ全作品を読む会 読書会通信 No.113  発行:2009.4.10


第232回4月読書会のお知らせ


月 日 : 2009年4月18日(土)
場 所 : 東京芸術劇場小1会議室(池袋西口徒歩3分).03-5391-2111
開 場 : 午後1時30分
開 始 : 午後2時00分 〜 4時50分
作 品 : 『未成年』から『カラマーゾフの兄弟』
報告者 : 長瀬 隆 氏
会 費 : 1000円(学生500円)

◎ 終了後は、二次会(懇親会)を予定しています。
会 場 : 予定「養老の瀧」 JR池袋駅西口徒歩3分。お待ちしています
時 間 : 夜5時10分 〜 7時10分頃まで




4・18読書会について


 前回から『カラマーゾフの兄弟』に入りました。が、この大作を理解するには、前作『未成年』にある謎を解決しなければ真に『カラマーゾフ』に入ったことにはならない。そう提唱するのが今回報告者の長瀬隆さんです。想像するに、『カラマーゾフ』という世界文学最高峰の頂には、未踏も含めいくすじの登山ルートがあるのかも知れません。そういったことで、山頂にはフリーダムに目指すこと歓迎します。長瀬さんの『未成年』ルートは、どのように山頂に通じるのか。そこには二重人の介在があるのか。注目されます。

報告者紹介
 
 報告者の長瀬さんは、樺太で生まれ育った。終戦で引揚げたが、14歳まで住んだ故郷樺太への想いは強く『樺太よ遠く孤独な』や『日露領土紛争の根源』など、サハリンに関する著書が多い。ドストエフスキーはペレヴェルゼフの『ドストエフスキーの創造』翻訳はじめ『ドストエフスキーとは何か』などがある。とくに二重人に造詣が深い。
報告に関して(長瀬氏)
 参考文献として拙著『ドストエフスキーとは何か』および『広場の』前年度号掲載のこの要約形、その他「江古田文学」・「ドストエフスキー曼荼羅」などに執筆したものの表題を挙げるだけの短いものになると思われます。


一本の赤い糸   ―報告「『未成年』から『カラマーゾフの兄弟』へ」の要旨―

長瀬 隆

 ドストエフスキーの全作品の米川正夫に続く個人訳の完成者に小沼文彦がいる。この人はかつてドストを読んでいると、「深い森に迷い込んだ状態になる」と記したことがある。磁石なしには出口が定かではなくなるのである。もっとも翻訳は原文を正しく邦語に移してゆけば良いわけだから、間違いなく結末にたどり着く。だからといって訳者はかならずしも当該作品の意味を理解したとは言えない。優れた翻訳者が「迷い込んだ」まま生涯を終えるということはある。
ドストと読者の関係を巨象と盲人の関係にたとえることができよう。すなわち盲人たちは象の体の一部に手をふれて、それをもって対象を定義する。全体像は不明のままに残される。
 歴史的に言って、批評家・研究者はその文学の強大な独自性を認めることにおいては一致してきたが、評価ということになると相互に鋭く対立してきた。これは彼らが己の主観によって裁断してきたためであり、客観的評価をないがしろにしてきたためであった。
その文学は何をめぐって旋回し、どこから始ってどこに到着しているか。またその現代的意義はなへんにあるか。それはドスト自身が明らかにしている。それは第二作の表題に現われたドヴォイニークという一語に要約される。
 本年1月ドストエーフスキイの会の例会で木下豊房氏は、同時代のツルゲーネフやトルストイとは異なってドストの文体は対話を内に孕んでおり、そこが優れていると正しく指摘した。しかし氏はその原因については述べなかった。彼ら貴族出身の作家たちとは異なって、ドストの人物たちが都市の小市民であり、個々の意識は上層と下層に引き裂かれていたためにそうした文体が形成されたのである。二極対立は極端に達したとき、自己分裂が生じ、分裂した一方に他方が分身(いまひとりの自己)として幻視される。
 ドストの文学は複雑にしてしばしば怪奇であるが、そこには貫いて走っている一本の赤い糸があり、それをたどってゆくならば、読者は確実に深遠な森の出口に到達できる。その糸がドヴォイニークという二重人と分身の両義を有する一語なのである。
知られているように第二作は失敗に終わり、作家は長い混迷の時代に入る。これに転機をもたらし、解決の道を示唆したのが、まことに皮肉なことに、ペトラシェーフスキー会との係わりでなされた死罪判決と流刑の体験であった。数年の中断の後やがて文学活動が再開されるが、失敗に懲りたドストはドヴォイニークの語を絶えて使用しなかった。しかしこの語の意味する二重人と分身の問題は、ありとあらゆるヴァリエーションにおいて一貫して追及されている。それを行なっていない作品は一作も無い。
 『白夜』の主人公、地下(室)人、ラスコーリニコフらはすべて二重人であることによって一本の赤い糸で繋がり、その変貌は二重人の深化と発展の過程である。そして彼はやがて、初期作品においては社会的(階級的)意味合いで把握していたドヴォイニークが、唯一絶対神の有無、神と悪魔の問題に他ならないことに気付く。その記念碑となったのが『悪霊』である。ただしこの作品は「スタヴローギンの告白」の章を欠いて発表せざるを得なかったためにモチーフを十分に伝達できず、それを続く『未成年』において果たすこととなった。
 こうして私たちはこの作品において、第二作より数えて24年の星霜の後、結末においてドヴォイニークの語が15回にわたって噴出するのを見るのである。『未成年』はドストがドヴォイニークの作家であることを自認・告白した作品である。この直後の評論「動詞ストゥシェヴァツアの歴史について」においてドストが第二作を分析し、失敗作だったことを述べているのは偶然ではない。彼はいまやその失敗を『カラマーゾフの兄弟』において償い、完全な芸術的表現を目指すのだ。
 ドストの作品を読み始めてすぐに気付くことの一つに作中の語り手、私の言葉で言えば作中作家の問題がある。しかしこれは「創作方法の一点からの解明」を目指したはずのバフチンによっても解明されなかった問題だった。ドストは『貧しき人々』直後の兄への手紙で、素顔を隠して書いたことを誇っている。これは彼の生涯を貫く作家的矜持だった。それでは第二作の「私」は如何ということになる。しかしこの「私」は分身を描くための必用から登場せしめられており、その証拠に分身の登場とともにそれに変身して消滅している。つまりは虚構化されている。三人称の固有名詞を有する者はもちろんのこと、たんに「私」を名乗っている者も、ドストの語り手はすべて虚構化されており、『カラマーゾフの兄弟』の語り手も同様である。それではなぜ続編があるかのような思わせぶりな序文が書かれたのだろうか。
 『罪と罰』のエピローグを想起せよ。これによれば、この後ラスコーリニコフの更生の物語が書かれるはずなのである。しかし次作の『白痴』はそのようなものとはなっていない。「思わせぶり」はドストが素顔を隠す方便であり、「悪魔。イワンの悪夢」の章を書くための伏線である。すなわちここで「私」は「悪魔」に変身し、イワンを崩壊に導くと、再び現われて、何食わぬ顔で物語を続ける。そのような作為的な私であることを予告するために、この序文は書かれているのである。「私」をドストその人と見誤ってはならない。
 ドヴォイニーク(分身)はここではより正確にパラヴィーナ(半身)と表記されている。そしてイワンの自己分裂は、唯一絶対神を見失った西欧精神の問題として深刻に表現される。彼はこの長編を最後の作品と観念しており、「私」を裁判の場で使い捨てる。しかし小説はまだ続いており、彼は結びにおいて「カラマーゾフ万歳」と書く。彼はよくぞここまで書いたと自讃しているのであり、みずから「ドストエフスキー万歳」と言っているのだ。ドストの全文学活動を貫く一本の赤い糸を知悉する者はこれを信じて疑はない。
 もっとも空想は自由であって、だれもそれを妨げることはできない。しかしそれは現存するものの正確な読解の後になされるべきことである。
 私のドスト把握は私自身が訳者であるペレヴェルゼフ『ドストエフスキーの創造』(みすず書房、1989)に深く負っている。しかし『ドストエフスキーとは何か』770枚(成文社、2008年7月刊)ではこれを大幅に超えており、詳しくはこれに見られたい。またこの公刊に先立つ『江古田文学』07年66号の「ドヴォイニーク(二重人、分身)と作中作家」および『広場』08年17号の「唯一絶対神有無の文学」は、この書の角度を変えた要約をなす。刊行後の『ドストエフスキー曼荼羅』2号の「遅れた到着」も参考になろう。
拙HPに「亀山郁夫を批判する(1)、(2)」を掲載してある。ドストエーフスキイの会のHPの「管理者木下のページ」からも入ることができる。
 また私には作品に『樺太よ遠く孤独な』(1984)、『ヒロシマまでの長い道』(1989)、『微笑の沈黙』(1985)、学的評論に『日露領土紛争の根源』(2003)等がある。同じくHPを覗いていただきたい。http://homepage2.nifty.com/~t-nagase/




長瀬隆著『ヒロシマまでの長い道』とドヴォイニーク
   (編集室)

 ドヴォイニーク(分身、二重人)へのこだわり。長瀬氏を知る人なら、氏が、いかにドヴォイニークという怪物と闘ってきたのか、いま現在も闘いつづけているのかを知っている。
 しかし、何故に氏はドヴォイニークと対峙しつづけるのか。何故に、かくも長きにわたって拘泥し探究しつづけるのか。「ドヴォイニーク」の言葉を発したときの氏は、あきらかにそれまでの氏とは異なる。俄然、生き生きとして語りだす。何故か。大きな謎であった。
 これまでの氏の自伝的著書を何冊か読んできた。おもえばそれら作品のそこかしこにドヴォイニークはいたのだ。が、浅薄な読みのせいで気づくことはなかった。
 しかし、今回、本書『ヒロシマまでの長い道』を読んで、ようやくというか、やっとドヴォイニークの尻尾を目撃することができたような、そんな気がするのである。
 もしかして大いなる間違い。勝手な思い込み、かも知れないが・・・。とたん、謎は氷解した。氏がなぜドヴォイニークに拘るのか想像の域だが推測できたのである。
 本書は、数奇な運命の果てに巡りあった男と女のある愛の物語である。男は、全学連を代表する若きマルクス・レーニン主義者の闘士として、女は、ヒロシマ被爆者を代表する美しい語り部としてソ連モスクワで開かれる大会に向かっていた。男は、ソ連留学という使命が、女には、ヒロシマの悲惨さを伝えるという使命があった。美しい女は、団では女神的存在だった。男は共産主義理念思想に凝固まった活動家とみられていた。鋼鉄の刃と造花の花。いわば二人は、象徴であった。だがしかし、彼らのなかには懐疑の嵐と熱い血潮が渦巻いていた。それがわかったとき、二人はもはやエデンの園の男と女ではいられなかった。
 本書は、楽園からの脱出物語である。が、同時に、男の引き裂かれた魂の告白でもある。ドヴィニークを白日に曝そうとする試み。男は、樺太で生まれ育った。が、戦争で決別を余儀なくされた。愛するロシア、忌むべきスターリン。加えて、樺太を去る日、友人たちから受けた集団暴行。14歳の少年には深いトラウマとなった。懐かしい故郷、憎むべき友たち。男は、その日から二重人としての人生を歩むことになった。愛する妻の病気、幼くして逝ったわが子。それらはみな分身が成せる災いか。男は夜の沈黙に問う。



『カラマーゾフの兄弟』とは何か  (編集室)

 『カラマーゾフの兄弟』とは何か。たくさんの評論や研究書はあります。が、やはり本家本元の米川正夫氏が最高峰です。忘れてしまった人、見逃している人の為にテキスト『ドストエーフスキイ全集 別巻』から氏の解説を何回かに分けて転載します。

第十五章 

A 三兄弟の道、行動・思索・信仰

 しかし、フョードルには正統の子供らのほかに、一人の私生児スメルジャコフがいる。(ここまでが前回)正統の子供らが意識的、無意識的に善を志向しているのにたいして、これは邪悪の具象化である。しかし、スメルジャコフは単に社会的な位置からばかりでなく、この長編の芸術的思想からいっても、陰の存在であるから、正統の三人兄弟が複数的な主人公であることに変わりはない。スメルジャコフはイワンの分身にすぎない。
 『カラマーゾフの兄弟』はその構成の完美さにおいても、ドストエーフスキイ芸術の最高に位する。そこには均衡、比重、シントメトリーの法則が、見事に実現されている。ストーリーの中心におかれているのは、ドミートリイである。彼は三人兄弟のうち唯一の行動者であり、劇的な事件の原動力である。グルーシェンカにたいする情欲、おなじ恋人をめぐる肉親の父との烈しい争い、父の惨死、公判、流刑の判決、――これらが長編の外面的輪郭を形成するものである。その一方には、イヴァンが立っている。彼はその理論によって、父殺しの動因をつくり、ドミートリイの運命に深刻な影響を与える。彼らは性格的にも思想的にも、まったく相反していながら、ともに父を憎悪する点で結び合わされている。いま一方の側に立つアリョーシャは、兄の狂暴と放縦にたいする静穏と清純によって、一見まったく異質な存在のように見えるが、ドミートリイの中に潜んでいる宗教性が、聴法者のアリョーシャと強く結ばれるのである。(作者は、アリョーシャの中にも、カラマーゾフ的な卑しい情欲の虫けらが住んでいることを力説するけれども、実感としてはそれが浮き出て来ない)。イヴァンとアリョーシャを結ぶものは、肉親としての血のつながりのほか、「永久の問題」にたいする二人の関心である。こうして、互いにまったくことなる性格をもった三人の兄弟は、それぞれことなった道を歩みながら、人生探求に全生命を捧げた点において、一体であるということができる。――ドミートリイは行動によって、イヴァンは思索によって、アリョーシャは信仰によって。
 カラマーゾフ一家の統一体としての意義は、女性との関係を通していっそう明瞭になる。フョードルは息子ドミートリイと一人のグルーシェンカを争い、イヴァンはドミートリイの許婚カチェリーナに恋し、カチェリーナはイヴァンを愛しながら、ドミートリイに復讐感のまじった牽引を感じている。なおその上に、グルーシェンカは、自分を淪落の女と感じるコンプレックスから、聴法者のアリョーシャを誘惑しようとする。ただし、解説の中でも一言したとおり、ドストエーフスキイの作品において、女性はただ補助的な役割をつとめるに過ぎない。たとえば、トルストイの『戦争と平和』など、もしナターシャがいなかったら、あの長編の魅力は半減するだろうし、『アンナ・カレーニナ』はまさしく題名の示すとおり、悲劇の唯一の女主人公であり、『復活』ではカチューシャこそトルストイの名に価するけれども、ネフリュードフにいたっては、芸術品と認めることができない。それに比して、ドストエーフスキイにおいては、『罪と罰』のソーニャにしても、人間像としては陰の薄い、なかば抽象的存在の感があるし、『悪霊』にあらわれる四人の主要な女性も、どれが真の女主人公であるかを決定しがたい。                  以下、次号「通信114」に続く



『カラマーゾフの兄弟』まで
 (年譜・書簡から)

ドストエフスキー晩年の10年をみる
■1871年 四年ぶりの帰国。長男も誕生して充実の10年間がはじまった。『悪霊』発表。
「7月8日、明るく晴れた暑い日、私たちは、四年間の外国暮らしを終えて、ペテルブルグへ戻ってきた。・・・仕事に取りかかる前にペローフ(ドの肖像を描いたロシアの画家1833-82)は、一週間にわたって毎日私たちを訪ねて来た。彼は能う限り色々な気分のフョードル・ミハイロヴイナに会うようにし、議論を挑んだりして、ついに夫の顔の最も独特な表情を捉えることに成功した。それは、他でもない、フョードル・ミハイロヴィチが自分の芸術創作の思索に沈潜しているときの表情だった。ペローフは、この肖像画においてドストエフスキーの”創造の瞬間”を捉えた。そう言っていいだろう。」アンナ『回想録』中村健之介訳
■1872年(51歳)ペテルブルグの南方約200`の鉱泉地スターラヤ・ルッサに避暑。生活のために右派雑誌『市民』の編集長を引き受ける。「作家の日記」欄もつ。
 以下は、スターラヤ・ルッサについて描かれたものの抜粋です。
スターラヤ・ルッサについて
P・A・イサーエフ(マリヤの連れ子)への手紙 1874年9月10日
 スターラヤ・ルッサは、気候はいいし、子供たちにとっても良い環境だし、しかも生活費は半分で済む。私は仕事をしなければならないわけで、従って子供たちとは別の離れた広い部屋が必要になる・・・(中村訳)
アンナ『回想』から
 ・・・五年間そこで暮らして、私たちはスターラヤ・ルッサがすっかり好きになった・・・町も好きだったが、グリッペ(陸軍大佐、家主)の別荘も好きだった・・・その別荘は町はずれのコレーメッの近く、ペレルイチツァ川のほとりにあり、アラクチェーエフ時代(19世紀初頭の政治家)に植えられたというにれの大木の林に取り囲まれていた・・・フョードル・ミハイロヴィチは、この私たちのスターラヤ・ルッサの別荘は自分にとって肉体と精神の安息の場だ、と言っていた・・・スターラヤ・ルッサでの私たちの毎日の生活はすべてきちんと時間割に従ったもので、それは厳格に守られていた。夜中に仕事をする夫は、11時前に起きてくることはなかった・・・正午を過ぎてから、フョードル・ミハイロヴィチは私を書斎に呼び、夜に書き上げたものを私に口述した・・・それが終わり、軽く食事すると・・・フョードル・ミハイロヴィチは本を読んだり・・・あるいは手紙を書いたりして、三時半になると、どんな天気の日でも、ルーサの町の人通りの少ない静かな通りへ散歩にでかけた・・・五時には夕食になった・・・七時になるとフョードル・ミハイロヴィチと私は二人で晩の散歩に出かけて、帰り道には必ず郵便局へ立ち寄った。その時間にはペテルブルグからの郵便の仕分けが終わりかけているのだった・・・十時までには、家中が静かになった・・・フョードル・ミハイロヴィチは自分の書斎へ入り、新聞を読んだ・・・十一時を打つと・・・私は自分の部屋へ入り、家中の者たちは眠っており、夫だけが起きていて、朝の三時か四時まで仕事をするのだった。(中村訳) 1872年つづく

 1872年は、幸福な晩年スタートの年。ペテルブルグとスターラヤ・ルッサに腰を据えて作家活動を開始した。『作家の日記』も書き始める。以下の年譜は次号にて紹介。
■1873年(52歳)■1874年(53歳)■1875年(54歳)
■1876年(55歳)■1877年(56歳)■1878年(57歳)■1879年(58歳)
■1880年(59歳)■1881年(60歳)
1872年、世界と日本、どんな出来事があったのか 日本では、福沢諭吉著『学問のすすめ』ベストセラー 70万部に達する見込み。



プレイバック読書会



 全作品の読みは、今年4サイクル目を終了する。過去の読書会の皆さんは、どんな読みをしていたのか。本欄では、主に初期の読書会での様子を紹介してきました。今回は、最後の作品『カラマーゾフの兄弟』です。32年前1977年5月に開かれた報告要旨です。

昭和52年・『カラマーゾフの兄弟』第二回報告「不滅の読書会」

下原康子

 第一回のドストエフスキイ全作品を読む会が開かれたのは昭和46年4月14日のことでした。早稲田大学大隈会館の一室に12名が集まりました。とりあげた作品は当然のことながらかの有名な処女作『貧しき人々』。こうしてこの無期限、無計画、無目的な読書会(発足当初はそうでもなかったようなのですが、次第にそういった雰囲気が濃厚になってきた)の火蓋が切られたのです。

 それから6年。会場も三度ばかり変更して現在は、池袋のコンサート・ホールというクラシック喫茶の三階の片隅に定着したもようです。ここは三階にもかかわらずなぜか地下室じみたムードがただよう場所で、およそ文学とは縁のない散文的な一日をすごしたあとでもここに来てうす暗い片すみにすわると、自然にドストエフスキイじみた気分に包みこまれ、顔つきは深刻になり、目は暗く輝き舌はなめらかになり熱っぽい言葉をはくようになるのです。現状では学問的、研究的な読書会というよりもぶつつけ本番のムード的な読書会という傾向が強すぎるきらいがなくもありませんが、これがこの読書会が無節操にのんびりと続いている原因の一つのような気もします。

 もちろん、学問的研究的要素もとくに私たちのようなシロウトの参加者にとってはめったに耳にすることのできないチャンスなのでたいへんありがたいことです。ドストエフスキイに関することなら学問的であろうとなかろうと一様に興味をひかれます。

 なんとなく続いていたような読書会もいつのまにか『カラマーゾフの兄弟』まで進みました。先回は「カラマーゾフの女性たち」というのがテーマでした。日頃あまり論じられることのないドストエフスキイの女性たちがテーマとあって熱っぽい質問をあびせたり、こむづかしい議論をふっかけたりして男性陣をタジタジとさせました。

 閉会の時刻になると話が最高潮に達するのは例会と同様です。したがって当然、二次会ということになり池袋のネオンの波をぬって次の会場へ。そこで話はますますとりとめのない混沌へとおちこんでゆくのです。ここでは年齢も性別も身分もいっさい関係ありません。ドストエフスキイがお互いの魂と魂とを直接触れ合わせてくれるような、そんな気がしてきます。「ごぶさたしています」なんていう社交辞令は不要です。まっすぐに「神を信じますか」と聞けばいいのです。

 ドストエフスキイほどさまざまな読まれ方をされている作家は数少ないでしょう。くわえてこれほど熱中して読まれる作家もいないでしょう。そしてその熱心な読者は、読み方の向きや角度に違いはあっても誰もがドストエフスキイの真実に確かに触れているように思われます。会に参加しているとしばしば思いがけない意見を耳にします。今までの自分の考えや感じ方とはまるで違うことを聞いたりします。そんな時、ふと心に新しいものを感じることがあるのです。何かとてもうれしくなってそれを言ってくれた人に感謝したいような気持になります。

 読書会は今年いっぱいかけて『カラマーゾフの兄弟』を終え来年は、再び『貧しき人々』にもどってくりかえし読みつづけていきます。無期限、無節操な読書会にはおしまいということがないのです。もちろん参加者の変動はあります。しばらくご無沙汰という参加者もいます。ひどく気ままに出席できるという点も例会と同じです。・・・まことに気楽な集まりです。・・・不滅のドストエフスキイを読む会もまた不滅なのです。 

(「ドストエーフスキイの会会報No.47」1977・7・25発行より )


2・21 読書会報告                 

『カラマーゾフの兄弟』初日満員御礼
 
 2月読書会は、第7会議室28名定員満席の大盛会でした。女性15、男性13。(編集室)

 報告者の長野正さんは、以下の参考資料に沿って、作品関連や当時の宗教事情について簡潔に報告された。


『カラマーゾフの兄弟』第1回 報告の概要
  長野 正

 わたしは昨年の春から夏にかけて、米川正夫訳の『カラマーゾフの兄弟』を初めて読んだ。そして、年の暮れから亀山郁夫訳を読んだ。亀山訳に関して誤訳・超訳の批判も耳にするが、30年ぶりの新訳が放つ清新さによって感銘を受けることができた。
 この長編小説は、フョードル・カラマーゾフという父親と、3人の子供(ドミートリー、イワン、アレクセイ)との間における、1人の女性(グルーシェニカ)をめぐる葛藤の物語で、殺人事件がその中心になっている。この作品には2つの三角関係があって、1つ目がグルーシェニカをめぐる、フョードルとドミートリーの関係。2つ目がカテリーナをめぐる、ドミートリーとイワンの関係である。

『カラマーゾフの兄弟』の魅力とは何か
@ 推理小説を読むようなストーリーの面白さにあると思う。フョードルの殺人事件を
めぐる犯人捜しという点で惹きつけられる。
A ドミートリー、イワン、アレクセイの3人の兄弟が個性的で、ドストエフスキー自
身の資質を3人の分身に託して表現している点に惹かれる。一方で『罪と罰』の主人公ラスコーリニコフは、殺意に駆られるドミートリーと、哲学を構築するイワンと、信仰心を抱くアレクセイの3人を兼ね備えた人間でもある。
B ドストエフスキーの小説家としての技術が『カラマーゾフの兄弟』で円熟した形で
表現されている点にある。主題の追求、長編小説としての構成力、細部にわたる表現力のいずれにおいても、この畢生の大作にその天賦の才能が発揮されたと思う。

『カラマーゾフの兄弟』の執筆に影響を与えたものにはどんなものがあるか
@ プーシキンの劇詩『ボリス・ゴドゥノフ』…摂政ボリスは皇帝に即位したが、先帝の子ドミートリーを死に至らしめたことへの罪悪感から、不安に苛立っている。一方、修道院を脱走した野心に燃える司祭グリーゴリーは、先帝の遺児ドミートリーを詐称し、軍勢を集めてロシアに進軍して来る。皇帝のボリスは心の平衡を失い、その死に際に息子のフョードルを後継の皇帝に指名するが、民衆の暴動が頻発する。偽皇帝ドミートリーの軍がモスクワ目指して進んでいた。
A ジョルジュ・サンドの小説『スピリディオン』…世間から隔絶された、18世紀の修道院を舞台にした神秘主義的哲学小説。堕落し、形骸化した信仰に抵抗し、キリストの福音の真実を継承しようとした修道士スピリディオンの生涯を、孫弟子のアレクシが自らの精神的彷徨と重ねて語る。正統性のなかから生まれた異端的思想こそ未来を担うものであることを、ジョルジュ・サンドは主人公たちの生き方を通して描いた。
B シラーの戯曲『群盗』…18世紀の中ごろ、ドイツのフランケン地方のさる伯爵家に舞台にして、容貌も性格もまったく違う兄弟を登場させ、家督相続や兄カールの婚約者をめぐる争いが繰り広げられる。弟フランツの企みで勘当された兄は、絶望のあまり盗賊団の頭目になるが、懐かしさに耐えず帰郷する。弟は自殺し、弟に幽閉されていた老父は救い出されたものの、息子に現在の身分を明かされると気絶したまま事切れる。婚約者の変わらぬ愛を知ったカールは、彼女とともに生きようと願うが、部下に「女を捨てよ」と迫られる。絶望した婚約者を殺したカールは、盗賊団と袂を分かち、自首を決意する。偉大なものへの感動、素朴で自然なものへの愛惜、悪業にみてとれる人間精神のメカニズムの徹底的な追究、以上の三者が荒々しいまでに力強い筆致で、筋が冗漫に流れるのも厭わずに描き出されている。
C ゲーテの戯曲『ファウスト』…『カラマーゾフの兄弟』なかで、イワンが悪魔と対話する場面があるが、登場した悪魔のイメージが、ゲーテが『ファウスト』のなかで想像したメフィストフェレスの影響を受けているという分析がある。
D ドストエフスキー自身がシベリアのオムスク監獄に流刑中、そこで出会った囚人仲 間のドミートリー・イリインスキーからつぎのような話を聞かされたという。
  悲劇。トボリスクで、約20年前。イリインスキーの物語のようなもの。2人の兄弟、年老いた父親、1人には許婚がいて、その女に弟がひそかに横恋慕している。しかし、彼女は兄を愛している。にもかかわらず、兄の、若い少尉補は放蕩したり、愚考に走ったり、父親と喧嘩したりする。父親が消える。2、3日、何の音沙汰もない兄弟が遺産の話をしているときに、突然、官憲が地下室から死体を探し出して来る。兄の犯行の証拠が挙がる(弟はいっしょに暮らしていなかった)。兄は裁判にかけられ、懲役を言い渡される。
  まさに『カラマーゾフの兄弟』に類似した内容である。アリョーシャ、グルーシェニカ、スメルジャコフを加えて、コーリャたち少年も添えば『カラマーゾフの兄弟』の梗概そのものになるといえる。この内容については、レオニード・グロスマンが著わした『ドストエフスキー』という評伝に書かれている。

 ドストエフスキーが信仰していたロシア正教とは何か? 異端とは何か?キリスト教はカトリック教会・ギリシャ正教会・プロテスタント教会の三種類に大別することができる。ギリシャ正教(東方正教ともいう)から派生したのがロシア正教で、日本の東方正教会を日本ハリストス正教会という。ギリシャ正教の礼拝の特徴は伝統的な典礼様式にある。「神が与えた肉声にこそ魂が宿る」という考え方のため、聖歌は無伴奏で歌われる。会衆席もない。キリストやマリア、諸聖人などの聖画像をイコンという。
 ドストエフスキーは『カラマーゾフの兄弟』のなかで、キリスト教思想の中心問題に触れながらギリシャ正教の理念を的確に代弁しているといわれている。
 そしてドストエフスキーは、若いころ社会主義的分析によって確信を固めていったが、シベリア流刑がこの作家を民衆と突き合わせ、キリスト教的信念を高める役割を果たしたともいわれる。『カラマーゾフの兄弟』のような複眼的な長編小説の場合は、主人公として
ドミートリーの物語としても、イワンの物語としても、アレクセイの物語としても読むことができる。その理由として、ドミートリーは構成を支配し、イワンは思想の中心であり続け、アレクセイは精神的に盛り上げているからである。
 ロシア正教の異端については、『罪と罰』のラスコーリニコフという名前が分離派を意味するラスコーリニキに基づくことや、『白痴』のロゴージンが去勢派の信者で或ることが挙げらる。ロシア正教では16世紀、そして17世紀に至っても礼拝における典礼の様式に統一がなされていなかったので、「1つの教会には1つの礼拝の様式が存在すべきである」という見解が台頭するようになった。ニコンという聖職者は、モスクワ総主教として教会と典礼の改革を行ない、その結果、多数の異端が発生した。
 分離派は、ニコンの典礼改革の施策に抵抗し、古儀式を信奉して分離した。旧教徒とも、古儀式派ともいう。
 異端派は、従来のロシア正教とは異なる、独自の信仰制度を切り開いた異端の諸派で、おもなものに去勢派と鞭身派がある。去勢派は、教会と性を否定し、神との純粋かつ熱狂的な一体化を求めるために、自らの性的器官を焼きごてで切除する一派。鞭身派は、鞭で打たれ、その痛みや苦しみを通して神の懐に抱かれようとする一派で、異端のなかで最大の勢力を誇ったという。
 ロシア正教・異端以外のキリスト教として、ドゥホボール教徒の存在がある。クエーカー(英国ピューリタン系のプロテスタント)の流れを組み、暴力否定・戦争反対に徹し、兵役拒否で知られている一派。カナダ移住のために、文豪トルストイが『復活』で得た印税で援助したことで話題になった。
 
 ドストエフスキーは『カラマーゾフの兄弟』を、第2の小説(続編)を書くことができたのか? もし、書くことが可能であれば、どのようなものを書こうとしたのか?
 ドストエフスキー自身の『カラマーゾフの兄弟』の冒頭の「作者の言葉」や、小説そのものの読後感を考え合わせてみても、第2の小説は、この文豪にもう少し寿命が延びたら、執筆したに違いないと思われる。もし、そうでなかったら、コーリャを中心にした少年たちを第1の小説に登場させたことが余計な感じになってしまう。とくに第4部で、コーリャが社会主義者であることをアリョーシャに語る場面などは、第2部の小説への伏線として書かれたとしか思えない。
 亀山郁夫著「『カラマーゾフの兄弟』続編を空想する」によれば、時代は「作者の言葉」どおり、第1の小説から13年後で、皇帝暗殺、要するに「第2の父親殺し」が主題になる。主人公はアレクセイで、20歳だった彼は33歳になっている。題名は『カラマーゾフの子供たち』で、4部12編とエピローグで構成される点は第1の小説とまったく同様である。コーリャ・クラソートキンによって組織された革命結社の会合で、皇帝暗殺をめぐって議論が続けられる。会員は人望を集めるアレクセイに、皇帝暗殺後の結社の代表となることを求め、「新しい皇帝」として祀り上げる決議をする。最後に、コーリャは秘密警察に逮捕され、アレクサンドル2世暗殺未遂事件の裁判が開かれる。アレクセイが証言台に立ち、コーリャには特赦が下りるという内容である。

 そこで問題になるのが、当時の帝政ロシアの政治状況が、果たしてドストエフスキーに皇帝暗殺を主題とする小説を書かせることが可能だったのかということで、きわめて困難だったと思われる。19世紀後半のロシアはクリミア戦争や露土戦争を経て、アレクサンドル2世による「農奴解放令」が行なわれたが、300年近く続いたロマノフ王朝の歴史に鋭い亀裂が走り始めていた。農奴は領主を襲撃し、女性革命家による首都の市長官狙撃事件が勃発するなど、『悪霊』のモデルになった「ネチャーエフ事件」から8年余りのうちに、時代はドストエフスキーの予想を上回る勢いで、恐怖と不安に満ちた状況に突入していた。そして、ドストエフスキー自身が居住していたサンクト・ペテルブルクの集合住宅の隣室には、皇帝暗殺を目論む「人民の意志」党員が移り住んでいたので、文豪は党員たちと知り合いになっていたともいわれている。
 1881年1月28日にドストエフスキーは死去し、同年3月1日にロシア皇帝アレクサンドル2世が暗殺された。文豪の突然の死からわずか1か月後に、今度は革命家の「人民の意志」党員によって、皇帝暗殺事件が現実に起きてしまったわけである。
 前後するが、ドストエフスキーが想定していた事件が先に起きたことになり、たとえ、文豪が存命であっても、「第2の小説」の構想は根本から変更せざるを得なくなったと考えられる。前年のプーシキン銅像除幕式の際に行なった演説と、畢生の大作『カラマーゾフの兄弟』の完成によって、晩年に至ってようやく社会的に認められてきたときに皇帝暗殺事件が起きて、心が揺れ動いたものを思われる。そこでわたしが思いついたのが、ドストエフスキーは「第2の小説」の執筆のためにアンナ夫人を伴ってロシア国外に出て、懸案の長編小説を書いたという推理である。かつてドイツ、スイス、イタリアを4年半も旅行を続けながら『白痴』や『悪霊』を執筆した作家だから、健康さえ維持できれば「第2の小説」の完成は実現できたものと考えられる。ドストエフスキーの作家的野心は、トルストイやツルゲーネフと比較しても優るとも劣らないものがあるのだから。……

 原久一郎、原卓也、小沼文彦、米川正夫、そして亀山郁夫の翻訳を都合十回ほど読んできたが、今回の報告の準備でさまざまな評論を併せて読んでみて、自分がやっと『カラマーゾフの兄弟』理解の門をくぐって玄関に立つことができたような気がする。このような気持ちにさせる小説はこの作品以外、わたしには考えられない。いまから130年ほど前に書かれたドストエフスキー畢生の大作が、今後も若い人たちを中心に読み継がれることを願ってやまない。
 まとまらない表現で申し訳ないが、今回の報告の要旨は以上である。

■ 活発な質疑応答のあと、自己紹介があった。参加動機は「若いとき読んだが、再挑戦」「インターネットで知って興味を」「友だちに誘われたので」「大学の授業で学んだ」など、様々でした。亀山郁夫氏の新訳を読んでという人もいた。きっかけはなんであれ、この先、ドストエフスキーを読み続けていってほしいものです。人間の未来を知るために。
■「この読書会は、新訳批判なのですか ?」はじめての参加者から、こんなことを質問された、という人がいて、「そうなんですか」と聞かれた。最近こうした質問を、しばしば受ける。そのたびに、「この読書会は、米川正夫訳をテキストにしています。が、訳本は、多くあります。いろんな訳者の本を読んで、これの方がぴったりするというものがあれば、それがあなたのドストエフスキーです」と答えている。訳者の心配や不安は、間違った訳だと、読者が間違った解釈をしてしまう。そんな老婆心らしい。ドストエフスキーの読者に限っては、まさに杞憂である。なぜなら、ドスト読者は、訳だけではなく、読者自らの想像と創造で物語を読むからである。これまでの読書会での感想や意見をみればわかるというもの。ピンからきりのごった煮。否定も肯定も全て飲み込んでいる。それがドスト作品。(読書会)



『ドストエーフスキイ広場・No18』は、近く刊行されます。
 
 論文は、芦川進一氏、萩原俊治氏、木下豊房氏の3本の他、書評、エッセイともに力作ぞろいです。

祝40周年。
「ドストエーフスキイの会」は、1969年2月12日に新宿にある厚生年金会館で発足の会を開いた。ことしは、40周年記念となる。ちなみに第一回例会は4月9日開催。
 2・12発足の会で発起人を代表しての挨拶(新谷敬三郎氏)は、このようでした。抜粋
「・・・さしあたって、気軽に声をかけられる範囲の人に呼びかけ、地味な活動から出発したいと考えて、今日みなさんにお集まりいただきました。とはいえ、会はつねに内にも外にも開かれたものであるべきで、誰でも自由に参加し、自発的に活動できる集団であり、活動それ自体が会である、との考えに立って会長とか役員とかは一切おかず、活動の運営に必要な最小限度の事務担当者をおくにとどめたい・・・・」
 参加した人たちの声(近田氏、水野氏ら)
「誰でも自由に参加でき、発言できる開かれた会」になったら。 (川崎氏)
「専門家の地味で細かい研究と並んで、若手文学者の『私のドストエーフスキイ』も聞きたい、など。 (『場』1969-1973から)



連 載

「ドストエフスキー体験」をめぐる群像 
第21回:山城むつみ氏のドストエフスキー論

(1) ―「心に染み透る言葉」について―

福井勝也
 
 前回までの脈絡を失念したつもりもないが、ここでどうしても標題の山城むつみ氏のドストエフスキー論を取りあげてみたい気持ちに駆られた。ご存知のとおり、山城氏は現在文藝誌の二誌でドストエフスキーに関する評論を不定期に連続掲載している。すなわち、ひとつは『文學界』で2004年2月号から開始されたもので07年4月号まで計5回が掲載された。ちなみに、目次頁の副題を書き連ねてみれば、第一回は「不出世の作家の衝撃力の正体を探る決定的論考第一幕」、第二回(04年7月号)は「作家の分裂した視力とは何か。『悪霊』を中心に鋭く考察する」、第三回が(05年12月号)「ソーニャは不気味で恐ろしい女である。―『罪と罰』にあてる新しい光」となっている。四回目(07年3月号)と五回目(07年4月号)は連続した内容で連載では合わせて四回目とされている。この二回分には副題はなく、作品としては『白痴』から『地下室の手記』に少し触れて五回目は『おとなしい女』を中心に論じ、最後に再び『罪と罰』を取り上げている。ちなみに、山城氏は、ロシアで広く読まれているこの作品(=『おとなしい女』)は、日本ではなぜか死角に隠れがちだが、ドストエフスキーを読む上で『地下室の手記』に匹敵し、それと一対をなす重要な作品だと注意すべき指摘をしている。実は、この計五回の『文學界』の連載はしばらく途切れたままになっていて、それが昨夏別の文藝誌『群像』(2008年8月号)に突如引き継がれた恰好となっている。その異例な連続(?)の経緯はよく分からないが、その『群像』での「連載」第一回目が『白痴』論で、二回目が最近号(09年4月号)の「ドストエフスキー『未成年』の切り返し」という標題の『未成年』論である。『未成年』論の後半にはまたもや『おとなしい女』が言及されているところが興味深い。特徴的なのは、両論が技術論として、19世紀的な「写真論」が『白痴』と20世紀的な「映像・映画論」が『未成年』と切り結ぶかたちで各々論じられている点にある。しかしながら、それらがよくありがちな奇を衒った批評的材料に堕することなく、物語の本質を理解する視点そのものを提供している。この点はとにかく見事だと感じた。冒頭には、「『未成年』には愛着がある。いや・・・近しいという感じだろうか」と論及を開始し、「もしドストエフスキ−が現代小説を書かねばならなかったとしたら、きっと『未成年』のように書いていただろう。『罪と罰』や『白痴』のように書いていなかっただろう。『未成年』には、つねに現在の中を流動し続ける何かがある。「近しい」とはそういう手触りだ」と『未成年』という作品への氏の特別な思い入れが告白されている。小林秀雄のドストエフスキ−論が「『未成年』の獨創性について」(昭和8年)という『未成年』論から開始されていることも指摘しておこう。『文學界』連載の終了宣言は現時点ではないが、内容的には両者は確かに連続したものになっていて果たして今後も並行的連載がありうるのかは不明だが、とにかく目が離せない。
 今回あえて山城氏の論に言及したくなったのは、ここまで書き継がれてきた氏のドストエフスキー論が『群像』掲載の『白痴』・『未成年』論に至って、その内容がいよいよ画期的なものになりつつあると感じたからである。それは、これまでのドストエフスキー論の<停滞>を越え出る内実を備えていて、諸論の批判的検討から新たなドストエフスキー論をめざす段階に到達したとの実感を伴っている。ここ数年の「ドストエフスキーブ−ム」からの影響関係は別にしても、山城氏が現時点で新たなドストエフスキー論の地平を切り開く最有力な批評家であることは間違いなさそうだ。そこで未だ纏まった形にはなっていない段階だが、少し先取り的に論じておきたいと思った。あえて今回、当連載で採りあげてみた由縁である。
 山城氏の批評には、触れるべき特徴的な要素がいくつかあるが、元々大阪外国語大学でロシア語・ロシア文学を専攻されていて並の「研究者」(?)以上にロシア語が堪能であることがまず前提として指摘できる。今までの批評文においても、語学力に裏付けられた意味深奥なキーワードがその論述の核心を支えている。今回はその言葉の一、二に焦点をあててみたい。しかし語学力だけで言えば、氏以上の「専門家」はいくらでもいるはずで、山城氏が<批評家>である以上そのことは必ずしも本質的でないことも明かだろう。むしろ問題なのは、専門家と称される人々の語呂合わせ的な<言葉遊び>の弊害?の影響の方がずっと大きかった(あるいは大きい)ということかもしれない。しかしロシア語を解せぬ者のやや脱線した議論は止めて、山城氏の「キーワード」に戻るべきだろう。例えば、それは「対話における心に染み透る言葉」(pronik-novennoe slovo・<プロニクノヴェンノエ・スローヴォ>)や「声が多様に複数あること、異和、矛盾、不協和」(<ラズノグラーシエ>)等の言葉であって、バフチンの『ドストエフスキーの詩学の諸問題』の通俗的理解の批判的継承を促す厳密な語彙としてその意味が明らかにされる。山城氏はこれらの語彙についてこんな説明をしてくれている。
 「バフチンの定義に従えば、心に染み透る言葉とは、<他者の内的対話の中に積極的に、入り込み、その他者が自分本来の言葉を自覚するのを手伝ってやることのできる言葉>である。―中略―イワンはイワン自身では<殺ったのは俺じゃない>という自分の言葉を支えることができない。彼がその言葉を支えることができるのは、他者の口から発せられた同じ言葉、自己の外から来たその言葉に同意するときである。アリョーシャはそのことを直覚しているからこそ、イワンの内的対話のなかに積極的に、自信を持って入り込み、イワンが自分本来の言葉<殺ったのは俺ではない>を支えるように<殺ったのはあなたじゃない>という言葉を差し入れるのである。」(『文學界』連載、第1回)
 さらには、「ナスターシャが内部で繰り返していた<おまえはそんな女じゃない>という言葉と、ムイシュキンが他者として外部からこの<夢想家>の内面に差し入れた<あなたはそんな女じゃない>という言葉とは全く同じ言葉だが、この全く同じものを全く違ったものにしてしまう不可視のものが二人の間にはあってそれがその関係の内部を盛んに駆け巡っているからだ。ナスターシャの内部に存在するのではなく、ムイシュキンの内部に存在するのでもなく、両者の関係をめまぐるしく循環しているそれこそが無意識なのだ。ドストエフスキーの言葉は、<心に染み透る言葉>があらわにするこの動的かつ関係的な無意識を捉えようと走っているがゆえにその軌跡がポリフォニー小説となるのだ。バフチンが言いたいのはそういうことだ。作中に夥しい数の人物が登場してそれぞれが独自の声で賑やかに言葉を交わしていたら、それだけでポリフォニーだ、カーニバルだ、ドストエフスキ−の笑いだと自動的に口走る批評は、バフチン/森有正の水準から著しく後退してしまっているのである。」(『群像』連載、第1回)
 引用した文章が、それぞれどの「作品」のどの部分のやり取りかはお分かりと思うが、いずれもキーワードとしての<心に染み透る言葉>が言い交わされている重要な箇所に違いない。文中バフチンと並列して森有正の名前が引用されていることも要注意だが、ここにはとにかく、ここ数十年のドストエフスキ−論を呪縛してきたドグマ化され一人歩きしてきた「バフチン用語」(ex.ポリフォニ-、カ-ニバル)から自由になるべき道筋が明らかにされている。それは、実は森有正がとっくに解き明かしていたドストエフスキ−作品世界の人間同士の関係性に着目することであり、それは同時にバフチンの言葉の原初的意味を徹底して再定義することでもある。批評家としての山城氏はそのことを実践し我々にその道筋を示してくれている。この点でその意義は同様だと思うが、もう一、二の文章をあげてみよう。実は後者は特に、自分なりの思い入れと重なる文章でもある。
 「一般に、言葉は、意味内容と形式が同一であっても価値においてはαとβとに分裂している。この閾は生きた言葉の常態だ。だが、神秘はこういう日常普通の中にこそ隠れている。
 たとえば、ドゥシャー/プシュケー(魂、心、心理)と異なるドゥーフ/プネウマ(霊、神)の位相とは、いわゆる霊界とか霊体と言った超常的なものではなく、言語行為が日常、不断にこの分裂的な疎隔によって言葉において作り出す空隙(αとβとの落差)のことなのだろう(太初に言有り、言は神と共に在り、言は即神なり)。ドゥーフ/プネウマは、どこか霊界にあるのではない。言葉に生じるこの疎隔、差異の隙間(ラズノグラーシエ)がそれなのだ。ドストエフスキーはファントムのように言葉のその空隙に侵入する。言葉(スローヴォ)が<心に染み透る>(プロニクノヴェンノエ)とは、言葉における空隙に浸透することだ。だが、作者が浸透させるのではない。おそらく作家をもつらぬく何かがそこに差し入るのだ。何か、が。」
 「この機会をとらえて整理して置こう。ヴャチェスラフ・イワーノフがドストエフスキーのリアリズムに見出した他我への洞察(プロニクノヴェーニエ・ヴ・チュジョエ・ヤー-他者の心に浸透しそれを見抜くこと)とはこのドゥーフ/プネウマからの洞察に他ならない。また、ドストエフスキーは心理学者(psychologist)ではない、聖霊論者(pneumatologist)だと断定したとき、ベルジャーエフもまた、この作家を、ドゥシャー/プシュケーではなく、ドゥーフ/プネウマの人ととらえていたのである。だが、ドゥーフ/プネウマを単に霊的な力と解せば、イワーノフやベルジャーエフがそうであったように、神秘主義者的、神話的思考へ流れてしまう。前回(『文學界』連載、第1回−筆者)見たように、バフチンはこれを徹底して言葉の諸問題としてとらえ、ドストエフスキーの作品において心に染み透る言葉(プロニクノヴェンノエ・スローヴォ ― 他者のドゥシャー/プシュケーをその外部から刺しつらぬく言葉)として摘出し、この言葉が小説の構成にとって持つ決定的な位置を解明したのである。」(『文學界』連載、第2回)
 実は、これらの、主に後者の文章を読んだ時すぐに思い出したのは、小林秀雄のドストエフスキー論の一節であった。実は自分にとって、およそ30年以上前に触れた文章であって、偶々書かせて頂いた第一論文「無意識的なるもの ― ドストエフスキーとユング」1984.2、(『ドストエフスキとーポストモダン』所収、2001)でも引用した文章である。拙論は、ドストエフスキーの作品世界の「無意識的なるもの」のあり方をユングの深層心理学との関連から論じたものであったが、その際小林秀雄の関連文章が大変意味深いものに感じられた。今回も、山城氏の文章に触れてその思いが甦り、その一部を再読する機会を得た。今回、お陰様でその当時は意味が掴めなかった小林の文章の意図を改めて考え直すことができた。また山城氏の文章は、小林秀雄の言葉とバフチンの言葉が氏の内部で交錯している反映でもあるのだと了解した。実は山城氏のドストエフスキー論は小林秀雄のそれを熟読玩味したことから開始されているもので、言うならばその「直系」にあるのだと思う。同時にバフチンとの関係でも同様のことが言えるのだろう。「直系」とは勿論「血統」の問題ではなく、比喩的な意味で「直伝」とでも表現すべき内容か。小林にしてもバフチンにしても、偉大な批評家・思想家でその著作を頭で理解している人は大勢いるが、その思考の道筋を血肉化して口伝的に語り直せる(=「祖述」)人は極めて稀だ。山城氏はその意味で、両者のまさに「直系」なのだと思う。これは山城氏のドストエフスキー論を考えるうえでのクリティカルポイントではないか。この辺はもう少し次回に触れることにして、長すぎた前置きはともかく、思い出した小林の文章の一節を引用して今回分を終わる。(なお最後に、今号から標題の頭にあった「日本近代文学の<終焉>とドストエフスキー」という文言を省いたことをお断りしておく。少しでも内容に即したつもりだが・・。)
 「人間心理の世界のすさまじさが、彼の慧眼の下に明るみに出る一方、この様な心理を人間が負わされているという本来の意味合いは一体何であるのか、という彼の所謂<呪われた問題>が彼を苦しめる。という事は、心理分析がそのまま彼の瞑想であったという意味であって、このそのままというところが大事である。どちらが目的でも手段でもない。だから、彼の作品における心理的手法は、勿論心理学者のものではないが、又所謂心理主義小説家のものでもない。ドストエフスキイはpsychologistではない、pneumatologistだと確かベルジアエフが言っていたと記憶するが、決して奇矯な言ではない。鈴木大拙氏が何かの本で、碧厳録や臨済録の表現を、形而上学的心理の文学という言葉で形容していたのを読んだが、ドストエフスキイの文学にも当てはまると思われる。ドストエフスキイ自身は、この事をよく知っていた。そして自信に満ちて言ったのである、自分はリアリストである、と。」(「感想―― ドストエフスキイのこと」/ 1946.11)    (2009.4.3)

近刊紹介   
『日本近代文学の〈終焉〉とドストエフスキー』福井勝也著(2008・2 のべる出版)定価1400
ご希望の方は、書店か著者、または「本通信」編集室まで連絡ください。



ドストエーフスキイ情報


最近ドスト情報(09・03)   提供・【ド翁文庫】佐藤徹夫さん

<作品翻訳>
・「罪と罰 2」 ドストエフスキー 亀山郁夫訳 光文社 2009.2.20 ¥800
    465+1p 15.3cm <光文社古典新訳文庫・? Aト 1−8>
    *巻末:読書ガイド;ドストエフスキーの生涯における『罪と罰』

<研究書>
・『文化の透視法 20世紀ロシア文学・芸術論集』 伊東一郎、宮澤淳一編
    南雲堂フェニックス 2008.3.31 ¥4000 434p 21.7cm
    *本会創設期のメンバーの一人、早稲田大学水野忠夫氏の退官記念
     出版となっている。論文は既に発表されていたものを編集している。
     出版情報の把握がおそくなってしまった。 
    ・Ю・トゥイニャーノフにおけるパロディ研究の意義/八木君人
    ・暴力不確定性、現在時 バフチン『ドストエフスキイの詩学の諸問題』
        におけるポリフォニー小説論/網谷益典
    ・ザミャーチン『洪水』のペテルブルグ もうひとつの『罪と罰』の誕生/草野
        慶子
・『ドストエフスキー曼荼羅 2号』 清水正編 日本大学芸術学部文芸学科
     2008.11.20 401p 21cm
    ・「文芸入門講座」のレポートより p9−103
    ・「ドストエフスキー研究者の寄稿」 p105−233
    ・「マンガ論」のレポートより p235−309
    ・「文芸批評論」のレポートより p311−344
    ・「日本文学特論II」のレポートより p345−361
    ・「雑誌研究」のレポートより p363−401

<逐次刊行物>
・<オーサー・ビジット> 亀山郁夫さん @関西学院中学部(兵庫) 想像し
     心育む 14歳人生変えた『罪と罰』/朝山実
    「朝日新聞」 2009.2.16 p15

・<座談会> 言葉の力/井出孫六、亀山郁夫、木坂涼、アーサー・ビナード
     「婦人之友」 103(3)=1270(2009.3.1) p15−27
・内部なき人間の殺人 秋葉原通り魔事件にみる<動機>の変容/伊藤氏貴
     「文學界」 63(3)(2009.3.1) p193−223
・ドストエフスキー『未成年』の切り返し/山城むつみ
     「群像」 64(4)(2009.4.1) p110−156
・<教育特集:苦しい今こそ、米百俵> ドストエフスキーが予見した近代の桎梏
     個性殺しの「平等教育」を断て/勝田吉太郎、(聞き手)三浦小太郎
     「諸君」 41(4)(2009.4.1) p136−151
・特集 現代作家と宗教 キリスト教編
   ・津島佑子 カトリックとの葛藤/加藤憲子 p109−115
   ・椎名麟三 <光>のイメージの変遷/長濱拓麿 p124−131
     「国文学 解釈と鑑賞」 74(4)=935(2009.4.1)
*連載 「ドストエフスキーとの旅」 7〜12/亀山郁夫
     「日本経済新聞」 日曜版
   ・7 腐った血を飲んだ夢 2.15 p25; 8 蘇った「血の感触」 2.22 p23;
    9 恐怖を抱えた少年時代 3.1 p23; 10 シェークスピア狂い 3.8
    p23; 11 「地下室の手記」の思い出 3.15 p25; 12 「白痴」あまりに刺激的な 3.22 p23



広 場

日本経済新聞 SUNDAY NIKKEI  (提供:土屋正敏さん)

ドストエフスキーとの旅 @ 〜  亀山郁夫
新訳ベストセラーで評判の亀山郁夫さんが、新聞にロシアの旅を連載中です。以下、連載された新聞の日付。 

 @2009・1・4  A1・11  B1・18  C1・25  D2・1  E2・8
 F2・15  G2・22  H3・1 I3・8  J〜


清水正著『ドストエフスキー全集 

第1巻:萩原朔太郎とドストエフスキー体験
第2巻:停止した分裂者の覚書 ドストエフスキー体験
第3巻:ドストエフスキー『罪と罰』の世界
第4巻:手塚治虫版『罪と罰』を読む(新刊)

白夜に紡ぐ 志村ふくみ著 人文書院 2009・2・5 (情報提供・船山博之さん)
 染織家の志村ふくみさん(1924年生)が、先ごろロシア等を巡った旅の本をだされた。そのなかに長年親しんできたドストエフスキーについて書かれている。(P69〜P153)



掲示板

芸術劇場改装で6月読書会は7月に延期
  6月は、芸術劇場が改装工事の為に閉鎖になります。このため6月読書会を7月に延期します。閉鎖お知らせの貼紙を見逃していました。遅くなったこと、お詫び申し上げます。


編集室

○ 年6回発行の「読書会通信」は、皆様のご支援でつづいております。ご協力くださる方は下記の振込み先によろしくお願いします。(一口千円です)
郵便口座名・「読書会通信」    口座番号・00160-0-48024 
2009年2月9日〜4月1日までにカンパくださいました皆様には、この場をかりまして厚くお礼申し上げます。

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