ドストエーフスキイ全作品を読む会 読書会通信 No.108  発行:2008.6.3



6月読書会のお知らせ

月 日 : 2008年6月14日(土)
場 所 : 東京芸術劇場小7会議室(池袋西口徒歩3分).03-5391-2111
開 場 : 午後1時30分
開 始 : 午後2時〜4時50分
作 品 : 『悪霊』第3回目テキスト『ドストエーフスキイ全集』
報告者 : 金村 繁氏
会場費 : 1000円(学生500円)

◎ 終了後は、親睦会(二次会)を開きます。

会 場 : 近くの居酒屋 JR池袋駅西口周辺 
時 間 : 夜5時10分 〜 
   

6・14読書会

『悪霊』をよむ 3回目

報告者・金村 繁氏

 報告者の金村氏は、これまで読書会や合宿において多彩な作品論・ドストエフスキー論を報告されています。『悪霊』については、「ドストエーフスキイの会」1998年7月19日開催の例会で「道化スタヴローギンのニヒリズム」を発表しています。その、内容は『ドストエーフスキイ広場 第8号』1998年に「スタヴローギン私考」と題して掲載されています。
 今回の報告概略は、次の通りです。

金村氏提供資料

テキスト → 江川卓訳新潮文庫版上下
(なお1988年『広場』8号「スタヴローギン私考」参照されたし)

T.私と『悪霊』
  1.横光利一「この悪霊にはも早逃げ道が一つもない・・・(他のどの作品よりも)したた
   か頭を打ち砕く」
  2.2001年の9・11事件
U.『悪霊』の成立と構造
  1.原稿15台分(480頁に該当か)の書き換え
  2.手紙と創作ノートの量の多さ
  3.テキストと参考書
  4.この作品の六重構造
   (1)ある地方都市の年代記(クロニーケル)
   (2)主人公の母子関係、母の視線
   (3)ドン・キホーテとしてのステパン伝
   (4)ピョートル中心の五人組
   (5)ニコライをめぐる理論家たち
   (6)告白の内容とチーホンとの対話(対決)
V.『告白』
  1.その文体
  2.傲慢から人神論へ ソフォクレス「僣王オイディプス」→「悪霊」「カラマゾフの兄弟」
  3.スタヴローギンの罪 スヴィドリガイロフ
             哲学者ヤスパースによる罪の分類と審判者
             (1)刑事法上の罪  裁判所
             (2)政治上の罪 戦勝国の権力と意志
             (3)道徳上の罪 自己の良心
             (4)形而上的な罪 神のみ
W.三つの疑問
  1.作者にとってニコライは何だつたのか
  2.主人公は、謎の人物か。見抜いた人はいるのか
  3.彼の自殺経緯乃至理由
    「見るべき程のことは見つ」(平家物語の平知盛)

X.9・11事件に関連して
  シャートフ殺し直後のヴィルギンスキー「これはちがう・・・まるでちがう」
 亀山郁夫氏の反応・・・無力感
 特攻隊世代(私自身) ケネディの暗殺事件  技術的な疑問
 日本のある小学生の煩悶
 連想されるもの ロシア革命とスターリン粛清  天安門事件等など



年譜にみる『悪霊』

 ドストエフスキーが『悪霊』を書いていた頃は、どこでどんな生活をしていたのか。また、この時代はどんな出来事があったのか時代背景と年譜を追ってみた。(前号に追加)

■1869年(48歳)
 7月下旬、フローレンス出立、ボローニャ1日、ベニス4日滞在。サン・マルコ寺院見物。
 8月初頭、ウィーンを経てプラハ(3日逗留)からドレスデンに帰る。
 9月14日(26日)、次女リュボーフィ(エーメ)誕生。前年5月に長女ソフィヤを肺炎で亡
      くしている。
 11月21日、ネチャーエフ事件起きる。「ロシア通報」11月27日付けに掲載。
 12月、旧友ドゥロフ、ポルトヴァのパリム宅で死去。『偉大なる罪人の生涯』を構想(『無神論
    者』の発展)、別に『悪霊』のノートをとりはじめる。
■1870年(49歳)
 1月〜2月、『永遠の夫』を『黎明』に発表。『悪霊』起稿。
  7月、仏独戦争。ナポレオン三世プロイセンに降伏。アルザス、ロレーヌを割譲。パリ市民
     敗戦に怒って暴動、フランス再び共和制に。
 10月『ロシア報知』編集部に『悪霊』の冒頭部分を送付。
■1871年(50歳) いよいよ『悪霊』をロシア報知に連載開始
    1月『悪霊』をロシア報知に連載開始
    3月〜5月パリ・コミューン
    4月ルーレット熱、突然さめる。
    7月1日ネチャーエフ事件の審理開始。審理経過は『政府通報』にて公表。
    8月16日 長男フョードル誕生
   11月 『悪霊』第二編完結 以後約1年間にわたり発表中止。
   12月末〜 モスクワ滞在、ペトロフスコ・ラズームフスコエへおもむき、イヴァーノフ
        (シャートフ)殺害現場を実地検証。
■1872年(51歳)スターラヤ・ルッサに旅行。以後、夏をこの地で送る。
    9月初旬 イズマイロフスキイ連隊第二中隊の兵営敷地内の二階建の傍屋に移り住む。
       以後の作品はすべてここで執筆。
   11月 『悪霊』第三篇前半を『ロシア報知』11月号に発表。
   12月 週刊新聞『市民』の編集長を受諾。同新聞に『作家の日記』を執筆。
      『悪霊』第三編を『ロシア報知12月号』に発表。物語は完結。
■1873年(52歳)ミハイローフスキイ『祖国の記録』誌で『作家の日記』、『悪霊』を批判。
      『悪霊』をかなりの部分にわたって改訂、単行本とする。
      ペテルブルグ刑務所の青少年犯罪者収容所を訪れ、浮浪児の精神状態についての資
      料を蒐集。



『悪霊』とは、どんな物語か


 ドストエフスキーの面白さ、凄さは、読む人一人ひとりによって、その感想が異なるといったところにある。例えば神についても、「有る」「無し」の両極が生じたりもする。一般読者さえそうであるから、研究者においては、なお更といえる。故に、ドストエフスキー論は、集団にも組織にもならない。かといって対峙するのでもない。その一つ一つの論や考察は独立した苗である。そのねばっこい芽は、この惑星の知の上に自由に成長し生い茂るだけである。
 これまでに出版物などで公にされている『悪霊』について、専門分野の人たちは、どのように読み、見ているのか、いくつかとりあげてみた。
 
 はじめに新しいところで先般、2月18日NHKの教育テレビ「悲劇のロシア」で話されていた亀山郁夫氏の感想を紹介する。亀山氏には、一昨年4月読書会で講演していただいた。

亀山郁夫氏が読む『悪霊』の「あらすじ」 (NHK知るを楽しむ この人この世界「悲劇のロシア」より)

「神のまなざし」を奪う者
 
 ワルワーラ夫人のひとり息子ニコライ・スタヴローギンは、大学を出て軍務に服してから放蕩にふけり、二度の決闘事件を起こした。4年前、彼は故郷に姿を現し、仮面のように美しい顔で人々を驚かせたが、公衆の面前で町の有力者の鼻を引っぱりまわすなどの異様な振舞いが目立ったために捕縛され、釈放後はイタリアに旅立っていた。
 ある日、日曜日の礼拝堂でマリアという足の悪い女がワルワーラ夫人の前に跪いた。ペテルブルグでの息子の放蕩を噂に聞いていた夫人は不幸の予感にかられ、彼女を自宅に連れ帰る。この日は、養女ダーシャと、革命家ピョートル・ヴェルホヴェンスキーの父でスタヴローギンの教育者でも有るステパン氏の婚約発表の日にあたっていたが、そこに申し合わせたようにピョートルとスタヴローギンが帰郷し、一同を混乱に陥れる。ピョートルのたくらみは、五人組からなる革命結社を組織し、それをてこに全ロシアに革命を起こし、頂点にスタヴローギンを戴くというものだった。ところが、結社メンバーのひとりであるシャートフが、キリスト教の神なしでは人々の救済はないとして転向を表明したため、ピョートルは仲間にシャートフが密告すると吹聴し、その処遇をめぐって密談を始める。母ワルワーラ夫人の前で、スタヴローギンがマリアを一同に紹介し、しかし結婚の事実については暗に否定すると、それを傍らで見ていたシャートフは、彼に平手打ちを食らわせた。妻も妹ダーシャもスタヴローギンに奪われた過去のあるシャートフは、マリアとの関係までも否定した彼の狭量さが許せなかったのだ。
 数日後、町の有力者ガガーノフの息子が四年前の父の汚名をそそぐべくスタヴローギンに決闘を申し込む。妻マリアと義兄レビャートキン大尉を訪れたスタヴローギンは、相手の不穏な動きを察知したマリアからののしられ、その帰り道、ピョートルの差し金で現れた脱獄囚フェージカにマリアの殺害をそそのかす。そして決闘の日、ガガーノフの息子は失敗を繰り返し、スタヴローギンが空に向って発砲しつづけたことで、スタヴローギンの評判は一挙に好転する。
 一方のピョートルは、町で新知事夫人に取り入り、労働者たちを扇動して騒乱を起こそうと暗躍していた。舞踏会が催された夜、ワルワーラ夫人の幼友達の娘リーザが、ピョートルの差し金でスタヴローギンの許に送られた。婚約中だった彼女もスタヴローギンの魅力に屈して一夜を共にするが、スタヴローギンはすでに人間らしい感情をことごとく焼き尽くしていた。同じ夜、何者かによる放火が起こり、翌朝、川向こうの一軒家からマリアとレビャートキンの焼死体が見つかる。また、家事の現場に駆けつけたリーザは群集によつて撲殺される。
 翌日、シャートフはピョートルら五人組によって公園の隅で殺され、近くの池に投げこまれる。死の恐怖を乗り越えたものが神になるという独自の思想にとりつかれていた、スタヴローギンの精神的な弟子でもあるキリーロフは、ピョートルの罪を引き受けるという約束を守って自殺をとげ、放浪の旅に出ていたステパン氏も旅の途中で病死する。スタヴローギンは、自ら
の精神的再生を期してスイスに向う旨の手紙をダーシャに送るが、それを果たすことなく、別荘の屋根裏部屋で首をつる。その自殺に使った絹の紐にはべっとりと石鹸が塗ってあった。屋根裏部屋と石鹸が意味するもの――それは、彼の死が突発的な錯乱によるものではなく、すべて覚悟のうえで行われたことを物語るものだった。(『知るを楽しむ』NHKから)

★アンリ・トロワイヤが読む『悪霊』 (『ドストエフスキー伝』より)

悪霊は悪魔

 『罪と罰』は、個人のモラルの規約を踏み越えて、自由を渇望し、解き放され殺人を犯してしまうというストーリーだ。この『悪霊』(というより『悪魔』のほうが正しいと思うが)は、社会のモラルを無視した人間が、自分を救済しょうとするうちに、知らぬ間に泥沼の深みにはまりこみ、破滅していく、といった筋書きだ。
 殺人は個人の行為であり、革命は集団のなす行為だ。ラスコーリニコフは、自分がただのいやしい害虫でないということを、社会から誹謗される行為によって証明し、完全に自由になる権利を掌握しようとした。いわば自分を神格化しようとしたのだ。一方、『悪霊』では、いまにも革命を起こそうとしている急進的な活動家たちは、人間を超えた崇高な威厳を与えると民衆に約束し、そのためには大量殺戮も辞せず、神を信じるかわりに、彼らに民衆信仰をあてがおうとする。ところがあにはからんや、彼らもまた背教者ラスコーリニコフの二の舞を踏む羽目になるのだ。つまりは自由を手にしたその翌日から、自分たちの思想に自縄自縛されてしまい、一方、ようやく立ち上がった民衆のいきつく先というのは、汚辱にまみれた隷属、荒廃の吹きだまりでしかないのだ。
 たしかドストエフスキーは、このなかで「人間がお山の大将になりたい」という永遠の誘惑は、個人的な場合と集団の場合とがある、といっている。究極的にみると、その二つの過程は、同一時点に帰着する。どちらもくねくねした曲がり角があり、両者ともいきつく先は挫折なのだ。つまるところ、神の存在しない自由というものがありえないからだ。所詮、人間は神の手を逃れて自由を渇望しようとすると、ついには自己を否定するという罪を背負わされる羽目になる。となると社会主義は、宗教問題なしには考えられない。
 社会主義というより正確には〈ロシア社会主義〉は、労働者階級の暮らし向きを向上させようという気負いもないし、現実の人間生活を改善しようとしているわけでもない。感覚的にてっとりばやく得られる至福を模倣しようとしているのだ。社会主義は、人間の歴史におけるひとつの段階ではない。それはひとつの宗教でさえあるのだ。過程ではなく、ひとつの目的なのだ。キリスト教と平行に存在するのではなく、それとすりかわるのだ。彼らは勝手に神を斥け、魂の不滅を否定し、罪のあがないを拒み、物質的で、確実につかむことができるもの、だれもがやすやすと手に入れられる降伏だけが人間のよろこびだときめこんで澄ましている。

★清水正氏が読む『悪霊』 (『悪霊論 ドストエフスキーの作品世界』より)

アントン君の作品
 
 『悪霊』を書いたのはドストエフスキーである。それでは〈ドストエフスキー〉とはいったい何か?これは単純な問題ではない。今、わたしはその問題について深く踏み込むことは差し控えよう。単純な所から出発しよう。『悪霊』を書いたのはアントン・ラヴレンチェヴィチ・rである。わたしが今までアントン君と表記してきたこの人物が『悪霊』を書いたのである。もちろん、そのように設定したのはドストエフスキーであるが、ドストエフスキーがそのように設定した以上、わたしたち読者は『悪霊』をアントン君の〈作品〉として読むことにしょう。
『悪霊』は調査報告書?!
 … つまりアントン君は国家から隠密に派遣されたスパイであったということだ。もしそうだとすれば、『悪霊』は物語の形式を採った膨大な調査報告書(スクヴァレーシニキにおける革命運動の顛末記)ということになる。

★中村健之介氏が読む『悪霊』 (『ドストエフスキー人物事典』より)

『悪鬼ども(悪霊)』

 『悪鬼ども』は、1869年にモスクワで起きた過激派青年グループ内の同志殺害事件、いわゆる「ネチャーエフ事件を素材としている。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
… この種の事件には、日本のいわゆる「連合赤軍事件」もそうであったが、共鳴者(シンパ)風なまぬるい同情のこもった解説をはねのけてしまう、単純で異様な勢いがある。平常は「みずみずしい感情」の青年たちであっても、閉ざされた集団においては別人になるかもしれない。革命という大きな目標と、それをめざす人間の幼稚さ、恐怖、緊張、が相乗作用をおこして、空想と想像力だけが現実の状況を超えて独立性を持ち、青年たちはいわばキン斗雲に乗った孫悟空になる。そして、そういうかれらを止めてくれる者がいない。




前号『悪霊』クイズの答え

出題者・下原康子


Q謎の人物スタヴローギン、登場人物たちは彼を何と呼んだのでしょう。


ステパン       ハリー王子
ワルワーラ      ハムレット
ピョートル      イワン皇子、ぼくらのアメリカ、変態貴族
シャートフ       ただ一人の人、坊ちゃん
マリヤ         公爵、鷹、みみずく、僭称者
マリー         悪党
カルガーノフ     色魔
チホン         無為になずんだ大いなる力
世間          仮面



悪霊の正体 

ドストエフスキーとギャンブル 
(『ギャンブル(別冊國文学No.61,2006)』に著者が加筆したものです)

下原 敏彦

  十九世紀のロシアの小説家ドストエフスキーは、『貧しき人々』、『罪と罰』、『悪霊』、『白痴』、『未成年』、『カラマーゾフの兄弟』の作者として知られている。そして、その人生は、国家反逆罪の廉で死刑判決の後、シベリヤ流刑を体験したことや癲癇症という先天性持病に苦しんだ患者ということでもひろく紹介されている。
 しかし、この大文豪が一時期ギャンブル狂いしていたことは、あまり知られていない。シベリアから戻ってから約十年間。正確には一八六三年八月から一八七一年四月まで。年齢的には四十歳代の中年真っ盛りの時期、外国で放浪暮らしをしながらルーレット賭博に明け暮れていたのである。だが、この事実を年譜や略歴に入れている書物は少ない。あっても「賭博好きな性格」といった程度である。しかし、私の見解では、文豪とギャンブルの関係は、その後の文豪の人生を左右する重大事であり、且つドストエフスキー文学を理解する上で最重要事項と思うところである。故にこのたびの特集を機会にその関係を検証してみた。
 作家がギャンブルに熱中する。洋の東西を問わず、それ自体は珍しいことではない。自らのギャンブラーぶりを自慢する人さえいる。が、私はドストエフスキーの賭博熱は、そうした人たちのギャンブルとは、まったく違う性質のものだった、とみている。加えて、その賭博熱の突然の消え去り。そこには、あの『ダ・ヴィンチ・コード』をはるかに凌ぐ謎、全人類救済にとって必要不可欠な謎が秘められている、とみるのである。
 まず、はじめに文豪ドストエフスキーの賭博熱とは、いったいどんなものだったのか。確かな証言として妻アンナ夫人の観察記録がある。夫人は、文豪がギャンブルに熱中している最中、一時期ではあるがその様子を克明に日記につけていた。そこには、文豪のギャンブル三昧の日々があますところなく記されている。その個所について『アンナの日記』(河出書房新社)の訳者木下豊房氏は、あとがきでこう述べている。
「賭博者ドストエーフスキイ」のテーマはそれ自体独立した興味を成すものであるが、バーデン・バーデンでルーレットに明け暮れるドストエーフスキイのすざまじい姿は、日々傍らにあって生活を共にした夫人の『日記』(一八六七年六月二十三日〜八月十一日)を読まなければほんとうにはつかめないだろう。
 まことにそう思うところである。文豪のギャンブル狂いを真に知りたければ、是非、読んでもらいたい。ここに書かれてあるのは、ほとんどルーレットに持っていくお金の話である。勝ってくるといって出かけていっては、すぐにすってしまったと戻ってくる。こんどこそ、といってお金をねだる。夫人がわたすと、また出かけていく。そして、すぐにすって子どものようにしょんぼりかえってくる。毎日が、このくりかえしである。
 この日記から推察できることは何か。文豪のギャンブル狂いは、単に賭博熱が高じたのものではなく、もっと他の・・・たとえば嗜癖という魔力に駆り立てられての行為だったのではないか。つまりギャンブル依存症だったのではないか、という疑いである。
 依存症と賭博熱は、傍目には同一行為に見える。が、似て非なるものである。アンナ夫人が、文豪のルーレット狂いをどのように見、どのように理解していたのか。夫人の貴重な記述があるので紹介する。
 はじめのうち、あれほどさまざまの苦しみ(要塞での監禁、処刑台、流刑、愛する兄や妻の死など)を男らしくのりこえてきたフョードル・ミハイロヴィチ(ドストエフスキー)ほどの人が、自制心をもって、負けてもある程度でやめ、最後の一ターレルまで賭けたりしない意志の力をどうして持ちあわせないのか不思議でならなかった。このことは、彼のような高い性格をもったものにふさわしからぬある種の屈辱とさえ思われ、愛する夫にこの弱点のあることが残念で腹だたしかった。けれどもまもなく、これは単なる「意志の弱さ」などではなく、人間を全的にとらえる情熱、どれほどつよい性格の人間でもあらがうことのできない何か自然発生的なものだということがわかってきた。そう考えて耐え忍び、賭博への熱中
を手のほどこしようのない病気とみなすほかはなかった。(『回想のドストエフスキー』)
 夫人は文豪の賭博熱を「手のほどこしようのない病気」、つまりギャンブル依存症とみたのである。この洞察力に驚嘆する。ちなみにギャンブル依存症とは何か。検索すれば多々あるが、あるホームページでは、このように説明していた。(四国新聞社 シリーズ追跡「増えるギャンブル依存症」)
 ギャンブルで身を崩すのは、本人の意志が弱いせいだ―。こう考えるのが一般的だろう。
 しかし、「ギャンブル依存症」の著書がある北海道立精神保健福祉センター部長の田辺等氏は「自分をコントロールできないほどギャンブルにふけるのは、意志の問題ではなく病気」と強調する。
 ギャンブル依存症は、借金を重ねて仕事や家庭に大きな支障が出ても、なおギャンブルから抜け出せない症状。世界保健機関(WHO)も病気として認定している。
 田辺氏は「アルコール依存症や摂食障害も心理と行動との病的な障害という点では同じ」と説明する。だが、社会の認知度は違う。「体に害があれば認められやすいが、ギャンブルの場合は病気として受け入れてもらうのが難しい」
 (田辺 等著『ギャンブル依存症』NHK出版 2002) 
 今日においても「受け入れてもらうのが難しい」病気。だが、アンナ夫人は、すでに百三十余年も前に見抜いていたわけである。夫人が、いかに観察力の鋭い、また深い教養の持ち主であったかを改めて思い知る。その意味ではドストエフスキーは幸運であったといえる。また世界文学にとっても幸運であった。依存症は、囚われたら最後、自力では抜け出すことのできない病魔である。周囲の理解なしでは治すことはできない病なのだ。もし夫人が、気づくことがなかったら。また夫人の賢明な接し方がなかったら、私たちは『悪霊』以降の大作を読むことができなかったかも知れないのだ。
 依存症という魔力は、ギャンブルに限らず、アルコール、摂食障害、薬物、最近ではネット、引きこもりなどあらゆる行為や考えを嗜癖化する恐ろしい病魔である。九年前神戸で「人を殺したくて仕方がない」そんな嗜癖にとりつかれ四人もの子どもを次々に殺傷した十四歳の少年がいた。彼は、自分にとりついた魔力について、このように表現していた。
・・・時にはそれが、自分の中に住んでいることもある・・・「魔物」である。・・・魔物は、俺の心の中から、外部からの攻撃を訴え、危機感をあおり、あたかも熟練された人形師が、音楽に合わせて人形に踊りをさせているかのように俺を操る。・・・。とうてい、反論こそすれ抵抗などできょうはずもない・・・。
 ドストエフスキーの凄さは、この魔物を作中人物として生み出し作品の中を闊歩させたことにある。文豪の作品には、あきらかに依存症と思われる人が大勢登場している。というより物語は、ほとんどそうした病魔に蝕まれた人たちの話である。なかでも夫人が速記した『賭博者』は、実際に賭博に溺れている者でしか描けない臨場感がある。ロシアからやってきた金持ちの祖母さんが、「一旦この道へ落ち込んだものは、あたかも手橇に乗って雪の山を辷るように、だんだん早く落ちて行く(『賭博者』)」様は鬼気迫るものがある。一度でもパチンコやスロットマシーンなどにはまったことのある人なら、身にしみる場面である。まさに依存症の只中にある体験者の手記ともいえる。他に処女作『貧しき人々』のマカール・ジェーヴシキン。彼は、若い女性にせっせと手紙を書き続ける中年男だが、その純情行為は、ストカー的と言えなくもない。毎夜、マットレスの中に隠した金貨銀貨をこっそり数える『プロハルチン氏』も吝嗇依存の極みである。大作『罪と罰』には、様々な依存にとらわれた人物が登場する。非凡人思想に憑かれた主人公ラスコーリニコフ、アル中の見本人間マルメラードフなどである。『悪霊』では水晶宮という魔力にとり憑かれた若者たちを描いている。
 このようにドストエフスキーの作品は、賭博、アル中、吝嗇、思想などあらゆる依存にとりつかれた人間を見ることができる。また、文豪は現実の社会のなかにも依存にとりつかれ多くの人々を見つけた。たとえば社会主義という崇高な理念のなかに人々を粛清し奴隷化したいという嗜癖が潜んでいることを見抜いた。ソビエト時代の収容所国家をみれば頷ける。また、犯
罪者のなかにも依存という魔力に取り込まれた不幸な人を見つけ、彼らを救いだすために手を尽くした。『作家の日記』にみる、「単純な、しかも厄介な事件」の継母エカチュリーナ・コロニーロヴァという二十歳の農婦もその一人である。
 ドストエフスキーは、なぜこのように作品や社会に依存的人間を書けたり見つけたりすることができたのか。これこそ、文豪が単なる賭博者ではなく依存症患者であったという証である。同類だからこそ、書くことができ、見つけ出すことができた。早々だが、このように検証すれば、ドストエフスキーにとってギャンブル依存症は、大きな意味を持つ病歴といえる。文豪を語る上で絶対に欠かすことの出来ない履歴である。
 もっとも文豪の子孫にとっては、あまり認めたくない、できることなら伏せておきたい経歴のようである。余談だが・・・二○○四年十一月、文豪ドストエフスキーの曾孫ドミトリー氏が初来日した。日本のドストエーフスキイの会から招聘され実現したのである。曾孫氏は、各地で講演した。その折、曽祖父とギャンブルについても触れられた。が、その内容は、文豪の賭博熱をなんとか普通の道楽範囲に収めようするものだった。例えば、「ツルゲーネフなんかの方が、よほど夢中だった」とか。その賭博場は、あの「地球は青かった」のガカーリンも「お忍びで、遊んだ」ところ。曽祖父ドストエフスキーのギャンブル熱も、その程度だったのですよ、と強調されていた。加えて癲癇についても、そうした病歴はなかったと否定された。ソビエト時代、ドストエフスキーは反革命作家として冷遇されてきた。その評価は崩壊後も、根強く残っているようである。それだけに子孫としては、敢えて負の経歴を、という思いもあるのだろう。なにしろ輝かしい文学的功績と不撓不屈な人生である・・・。
今日、パチンコ、アルコール、薬物、摂食障害、ネットなどいろいろな依存が明らかになってきた。対策として様々な自助グループが増えている。だが、依存という底なし沼からの脱出は容易ではない。たとえば拒食や過食に陥った少女たちが書いた出版物を読んだりアルコール依存症夫婦を描いた映画、「酒とバラの日々」(ブレイク・エドワーズ監督・ジャック・レモン、リー・レミック主演)を観れば、いかに依存からの脱出が難しいかがわかる。文豪のルーレット賭博も、いつ終わるとも知れぬものだったにちがいない。
では、なぜ、そんなかくも手ごわい病魔がある日、突然に消滅したのか。ドストエフスキー最大の謎とも言える。が、依存症に苦しむ世界の多くの患者にとって是非に知りたいところである。奇跡が起った記念すべき日のことを文豪はアンナ夫人へこう書いている。
 「信じてほしい!じつは私の身に重大なことが起きたのだ。過去十年間にわたってわたしを苦しみつづけてきた、あのいまいましい賭博熱が、いまここにいたって消え果てたのだ。(一八七一年四月二十八日 書簡)」。
 だが夫人は、すぐには信じなかった。
「もちろんわたしは、夫のルーレット遊びの熱がさめるというような大きな幸福を、すぐに信じるわけにはいかなかった。どれほど彼は、もうけっして遊ばないと約束したことだろう。それでもその言葉が守れたためしはなかったのだ。(『回想のドストエフスキー』)」
と冷ややかだった。しかし、この約束は真実だった。夫人はつづけてこう証言している。
 その後夫は、何度も外国に出かけたが、もはやけっして賭博の町に足を踏みいれようとはしなかった。・・・行こうにも遠すぎたのかもしれないが、それよりも、もう遊びに魅力を感じなくなったのだ。ルーレットで勝とうという夫のこの「幻想」は、魔力か病気のようなものだったが、突然、そして永久に治ってしまった。
 突然に雲散霧消した文豪のギャンブル熱。依存という魔力からの脱出。この奇跡こそ、ドストエフスキーが全人類救済の旗手たらん所以である。文豪は、なぜギャンブル依存のアリ地獄から抜け出ることができたのか。このことについて、文豪は、何も語っていない。当時の書簡からも、妻アンナの日記にも、友人たちが残している記述にも、何ひとつその謎を解く手がかりは残されていない。『ドストエフスキー伝』の著者アンリ・トロワイヤは、この謎を、この夜、文豪がロシア教会とユダヤ教会を間違えたことからと推理している。
 これはわたし個人の見解だが、・・・ドストエフスキーのような病的なまでに神経質な、迷信深い人間にとって、それはどんな迷いからも一気に目をさまさせるに足りるものだったにちがいない。(『ドストエフスキー』村上香佳子訳)
 不可解なこと、謎解けぬことを、最後にキリスト教に結びつけてしまうところには、抵抗がある。この論理でいくと依存症の治療は、患者の信心深さの度合いによって治癒することができる、ということになってしまう。この謎について私は、アンナ夫人のこんな述懐が気になっている。
 ほんとうのことだが、わたしは、夫が負けてきたことを決してとがめなかったし、このことについて夫と言い争ったりもしなかった。(『回想のドストエフスキー』)

 連日の賭博場通い。にもかかわらずこの夫婦には修羅場がなかった。夫人は、止めてくれることを願いながらもひたすら暖かく観察しつづけた。そればかりか

 ルーレット遊びの経験から、夫はきっと、新しく激しい経験をして、冒険と賭博への情熱を満足させると、平静になってもどっとくるにちがいない・・・
と励まし期待もしてもいる。ここから想像できるのは、こんな結論である。文豪を常に自己嫌悪に貶め苦しめていたギャンブル依存。この怪物を葬り去ったのは、医学でも説得でも祈祷でもない。ただアンナ夫人の春の陽ざしのような見守りと根気ある観察にあった。魔物は、それに弱かった。突飛だが、私には、そう思えてならない。
 この拙稿を書いている最中にも、母親からパチンコ遊びを注意され、かなづちで殴り殺した大学生、父親に反抗して家族を焼死させた高校生など、依存という魔力が引き起こしたような事件が相次いで報じられた。もし容疑者たちにアンナ夫人のような愛情ある見守りと観察があったなら事件は起きなかった。私はそう固く信じてやまない。昨今続発する親殺しや、今年上半期を騒がせた秋田の連続幼児殺人事件にも同じ思いが重なるのである。
 最後になるが、ドストエフスキーは、なぜ奇跡について何も語らないのか。これも大きな謎である。本当にそうだろうか。『作家の日記』という社会評論を続けた文豪が、こんな重大事についてまったく何も語らない。いったいそんなことがあり得るだろうか。
 私個人の見解では、大いに語っていると思う。文豪は、奇跡を自分のライフワークのモチーフとして、密かに温めた。そうして、晩年、人類救済の最終章の作品として書き残した。世界文学史上に燦然と輝く『カラマーゾフの兄弟』。この作品こそが、ギャンブル依存症脱出の謎について語った全人類へのメッセージなのだ。併せてこれはこの存在宇宙を脅かす悪霊からの脱出物語でもある。私はそう信じている。
 あまりに荒唐無稽だろうか。人間を救うのは、神でも思想でも主義でもない。「かわいそうだと思う心」、これさえあればよい。アンナ夫人の愛情ある観察眼は、最後の作品の主人公アリョーシャ・カラマーゾフの共感あふれる心に具現化されたのである。
 思えば、現代ほど、依存という魔力が横行している時代はない。家庭で、社会で依存の嵐が吹き荒れている。そうして新世紀の世界もまた民族、宗教、差別という依存にとりつかれて混沌としている。全人類救済への道標はどこにあるのか。ドストエフスキーとギャンブルを考えること。そこに、一歩を見つけることができるかもしれない。 




4・12読書会報告 

春爛漫の読書会を、東京新聞社が取材
 
 4月読書会は、桜吹雪の中、22名と多数の参加者がありました。アメリカで読書会が人気とのこと。「読書会」特集を組んだ東京新聞社の吉岡記者が取材に。二次会にも出席。花見の季節にふさわしい読書会でした。ちなみに、東京新聞の記事は5月1日朝刊に掲載されました。
 3次会は、喫茶店「コジマ」で。


本を語るひととき 読書会人気じわり2008.5.1東京新聞
【記事中から読書会に触れた個所を抜粋】

・・・・日本にも読書会はある。米国のようにカジュアルではない。例えば、三十九年も続いている「ドストエーフスキイ全作品を読む会」。二ヶ月に一度、池袋にある東京芸術劇場の会議室で開かれる。会員制ではないが、大学生から老人まで、登録(実際は、返送されないので読者と仮定している)した約百二十人には会報が送られている。
 内容は極めてまじめで、「トリビアリズムで読む『悪霊』」「『白痴』の謎」などのテーマが並ぶ。時には、研究的になることもあるが、基本は一般読者が自由に語れる場だ。世話人の下原康子さんは、長く続く理由を「宗教、科学、社会、哲学、心理学などを総動員して書かれているドストエフスキーの深さでしょう」とみる。
※ 記者の見た目は、「まじめな読書会」でした。(先入観は、アバンチュール的合コン。開けてびっくり玉手箱でした)



ドストエーフスキイ情報
 【ド翁文庫・佐藤徹夫】さん提供

■新潮社の「考える人」最新号:No.24(2008年春号)は、特集海外の長篇小説ベスト
 100です。当然何件かのドスト関連の記事が含まれています。

■同じ新潮社ですが、5月にレオニード・ツィプキン、沼野恭子訳『バーデン・バーデンの夏』
 が<新潮クレスト・ブックス>として刊行されるようです。これは、沼野さんが、「ユリイ
 カ」の特集:ドストエフスキーの論稿の中で紹介していた作品です。「翻訳中」という報告
 であったと思います。

図 書
・『『カラマーゾフ兄弟』の翻訳をめぐって』 大島一矩著 光陽出版社
    2008年2月1日 ¥2000+  E+351p 21.6cm
    *100箇所にわたり翻訳を比較提示
・『小林秀雄 近代日本の発見』 佐藤正英著 講談社 2008年
    3月25日 ¥1300+ 230p 18.8cm <再発見 日本の哲学>
    *第二章 ドストエフスキイ 生きる悲しみ(p47−96)
・『名作はこのように始まる I』 千葉一幹・芳川泰久編著 ミネルヴァ書房
    2008年3月30日 ¥2500+ F+206p 19.5cm
    <ミネルヴァ評論叢書<文学の在り所> 別巻 1>
    *19 ドストエフスキー『罪と罰』/山城むつみ(p184−192)
・『世界の名作へ、ようこそ 読者の感動と認識を高める文学ガイド』
    岡田量一著 彩流社 2008年4月25日 ¥2000+ 252p 19.5cm
    *第五章 民衆の父母誕生す ドストエーフスキイ『罪と罰』(p83−98)
    *第六章 新たなる黙示録 ドストエーフスキイ『悪霊』(p99−127)
・『風呂場で詠むドストエフスキー』 長屋恵一著 響文社 2008年5月1日
    ¥1600+ 349p 18.8cm
    *『罪と罰』に関する論考 と 馬場さん(江川卓)の想い出
・『バーデン・バーデンの夏』 レオニード・ツィプキン著 沼野恭子訳 新潮社
    2008年5月25日 ¥1900+ 255p 19.2cm
    <新潮クレスト・ブックス>
    *「賭博熱、情欲、嫉妬...ドストエフスキー夫妻の身を焦がすような
      新婚旅行と、冬のロシアを行く私の気車旅。二つの旅が渾然と
      溶け合う、二つの愛の物語。...」(カバーから)
    *巻末:「ドストエフスキーを愛するということ」/スーザン・ソンタグ

逐次刊行物
・<書評> 再発見の体験に満ちる 本格的聖書学理解の上にたちながら
    精緻に文学作品を読む  芦川進一著 『罪と罰』における復活/
    井桁貞義
    「週刊読書人」 2737(2008.5.9) p5
・<書評> 大島一矩著『「カラマーゾフ兄弟」の翻訳をめぐって』(光陽出版社
    08年2月、2100円)/横山文夫
    「日本とユーラシア」 1372(2008.5.15) p6
・<贖罪 ワイド特集> B新訳「カラマーゾフの兄弟」に「誤訳騒動」勃発
    「週刊新潮」 53(19)=2645(2008.5.22) p45−46



<連載>

日本近代文学の<終焉>とドストエフスキー
「ドストエフスキー体験」をめぐる群像 第16回 
  

福井勝也                                       
    
芦川氏の書簡への応答から江川卓氏へ
                                  
 前回は、芦川進一氏の例会発表と近著「『罪と罰』における復活」についてコメントさせていただいた。その後少し経って、何とご本人から丁重なお手紙を頂戴した。その文中で、芦川氏のドストエフスキー論の<現代性>とは、ドストエフスキー文学に流れ込んだ「聖書」が根本的に孕む過剰さ(ラディカリズム)に忠実に反応されている結果ではないかとの私見に、大きく頷いてくださった。さらに、氏のドストエフスキー研究の出発点が68年前後の大学紛争にあり、その時期に人間と社会が持つ闇(と光)に向き合うことが「ドストエフスキー体験」となり、それをずっと深めてこられた道筋について率直に触れられていた。その結果、ドストエフスキーと聖書テキストを「世」を支配するバアルに対する「精神的抵抗と否定」の根拠として証し続けることが氏の辿り着いた「研究」としてあって、その過剰さ(ラディカリズム)の根拠もそこにあるのだと改めて了解した。芦川氏が語る「ドストエフスキー体験」とは、けっしてある時代の終焉とともに<昔語り>になるものではなく、精神的営為として今なお<過激に>生成しているものだと理解した。芦川氏は、この連載のタイトルに掲げた「ドストエフスキー体験」をめぐる群像の紛れもないお一人である。
 ということから、もう少し芦川氏の「研究」の<過剰さ(ラディカリズム)>にこだわってみたい。氏は、新著の「後書き」で「本著はこの(バアルの支配するー筆者注)アメリカにおける9.11事件に対する一つの注解書という角度から読んでいただいてもよいのではないかと思う。ドストエフスキイの思索とは人間一人一人の<世界が粉々に打ち砕かれてしまった>ところから初めて開始される復活への希求と探求である点、この9.11事件はそのままドストエフスキー的世界に起こった事件と言っても間違いはないであろう」とはっきり語られている。また、その箇所の前段では、あのテレビジョンに写し出された衝撃的な光景を見て、「その時直感的に私の脳裏に浮かんだのは『罪と罰』のあの光景、ラスコーリニコフの斧が金貸しの老婆アリョーナの脳天を叩き割る光景だった。そして思った。恐らくドストエフスキイは「世」に対する神の裁きの鉄拳制裁としてこの事件を読み解くであろう」とも述べている。
 実はこの箇所に触れてすぐに思い出したのは、同じニューヨークのツインタワー崩落の映像を注視する側に、『悪霊』のスタヴローギンが少女マトリョーシャを<し>にする視線を重ね、<神様を殺してしまって><自らが神になった>、その<まなざし>の現代性(=「原罪性」)を問題にした亀山郁夫氏の文章であった(「『悪霊』神になりたかった男」−05年)。この二人のドストエフスキー研究者が、同じ映像からドストエフスキー的世界の21世紀的甦りを直感した偶然は何を意味するのだろう。と同時に、両者が表現しようとした内容に微妙な差異があるのも明らかであって、その違いは何を物語っているのか。そこでもう少し両者の偏差にこだわれば、芦川氏があのツインタワーの崩落にバアルの支配に対する神の裁きを見ていて、そこでは「神意」を実現する旧約的な?裁きの「神」の存在が前提になっている。同時にその「裁き」は、ラスコーリニコフの禍々しい殺人行為(=老婆殺し)の光景とだぶっている。他方、亀山氏においては、「著書」のタイトルのとおり、「神」はスタヴローギンによって僭称されるべき存在であり、不可避的なかたちでの「神殺し」が前提としてある。そこでは、21世紀を生きる我々ひとりひとりがスタヴローギンに(あるいは、少女マトリョーシャにも)擬せられている。そもそも亀山氏が問題としたのは、ニューヨークで起きたテロの実行行為そのものでなく、その現場から全世界に発信された情報映像を享受した無為な人間の立ち位置とそのまなざしが孕む「原罪性」であった。両者の差異は、前回問題とした『罪と罰』におけるラスコーリニコフの改悛・復活の議論の行方とも関係していよう。ここから先、ドストエフスキーが語ったラスコーリニコフとスタヴローギンをどう考えるのか、その二人の末路のパースペクティブをどう見通すべきかが、21世紀を生きる我々のドストエフスキー的課題としてよみがえってきている。芦川氏は、そこにラスコーリニコフの聖書的磁場における救済と復活劇を提示しようとしている。片や、亀山氏は、神を僭称するまでに驕り高ぶった人間の「傲慢さ」の悲劇を直視しその結果の<カタルシス>に人間的希望を見出そうとしている。もちろんその差異は差異として、「両著」が21世紀にドストエフスキーの文学を切実に甦らせている点でその評価を惜しんではならないだろう。結局両者は、ほぼ同年齢の「大学紛争世代」を代表する現代のドストエフスキー研究家であるが、今まで見てきたように両者のドストエフスキーを注視する顔の方向は微妙に違っている。ここに、前回も触れた同世代の清水正氏を加えると双頭の鷲ならぬ三頭の鷲による、奇怪な相貌をした現代のドストエフスキー研究家像が浮上してこないか。そのような空想は、一方に、われわれを取り囲む現代世界が一挙にグローバル化を遂げていよいよ終末期的深刻さが迫り上がって来ていて、他方に、そのことがドストエフスキーの<ラディカリズム>を21世紀に呼び出す新たなドストエフスキー研究・批評を必要としつつあるのだと判断したい。もしかしたら、ここ数年で今までほぼ百年かけて達成してきたかに見えた日本のドストエフスキー研究・批評は、一挙に変貌を遂げるかもしれない。その兆候を捉えるとともに、そのことが如何に準備されてきたかを考えてみたいと思うのだ。
 ここで、前回芦川氏を論じた時にやや不用意な発言をして気になっていたことに触れる。実は、今回の手紙で芦川氏はその言葉にずばり応答されていて、そのうえさらに貴重なアトバイスを頂戴した。その当方の不用意な発言とは、芦川氏にとって「江川卓」というロシア文学者が紛れもない「師」でありながら、結局は「反面教師」として作用したのではなかったかという勝手な推測の言葉であった。確かに、この言葉は、芦川氏個人の現在の「研究」姿勢から憶測した「放言」であったわけだが、実は当方では前回一緒に引き合いに出させていただいた研究者諸氏(=亀山郁夫氏、清水正氏)についてもおそらく各人が何時からか「江川卓」という存在を「反面教師」として成長してきたのだろうとの推測とも絡んでいた。これは、江川氏の存在感が徐々に大きな影響を与えてきた証左でもあろうが、ある時点から一世を風靡した(今直風靡しているとも言える)「謎解き」という研究スタイルへのある種の反発?も囁かれてきたのではなかったか。その辺りの背景も気になるところではある。但し、ここでお名前をあげた三氏に関して言えば、そのことの微妙な温度差がその差異のメルクマ−ルとしてあって、その偏差こそ大切なのだろうと思える。いずれにしても、私信でもある芦川氏のこの部分についての応答文をここで紹介するわけにはいかないが、氏が私の言葉を予想以上に真剣に受け止められて率直に応答してくださったことに対してここで改めて感謝しておきたい。そのうえで、私が氏の文面から感じさせられたことは、「江川卓」というロシア文学者との遭遇なくして今日のドストエフスキー研究者としての芦川氏もなかったろうという実感と、氏にはもう一人の聖書学者として有名な「荒井献」という<師>との遭遇があったという<運命>の重さであった。すでに氏のプライバシーの問題に、それこそ不用意に入り込んでいなければ良いと思うわけだが、ここから前回も書いた現代日本のドストエフスキー研究に大きく影響を与えた「江川卓」(1927-2001、本名馬場宏)というロシア文学者・翻訳家について自分なりに考えてゆきたいと思う。
 まず思い出してみれば、私自身が江川先生に最初にお目にかかったのは自分が「ドストエーフスキイの会」に入会(1978.1)する前年の早大小野講堂での文学講演会(77.5.21)であった。その講演内容には、後から思うと、その後の氏の名著の「ドストエフスキー」(1984.12.岩波新書)、「謎解き『罪と罰』」(1986.2.新潮選書)等に結実してゆくその萌芽が散りばめられていた。はっきり憶えているのは、「カラマーゾフの兄弟」の「カラ・マーゾフ」が、「チェルノ・マーゾフ」で「黒く・塗る」という言葉・語源から来ているという件であった。すでに語源やロシア・フォークロアにこだわっての「謎解き」のネタをこの時期すでにかなり持たれていたのかもしれない。その後も「会」の例会を通じて数回お目にかかる機会があった。おもしろい話としては、氏が女性?会員の手相を見ることがあったということを聞いた憶えがある。
 そう言えば、岩波新書「ドストエフスキー」の前書きは、「死と不死のミステリア」という題で、ドストエフスキーの臨終に際しての「聖書占い」の謎を当時のロシア語訳聖書を検証しながら見事に説明するものであった。ここに以後の「謎解き」の真骨頂がすでに予言されていたと思える。現在、江川氏のことを考える材料としてその都度購入した何冊かの本が自分の廻りに並んでいる。前述した岩波新書(84)と「謎解き」シリ−ズの三冊の新潮選書(「罪と罰」86、「カラマーゾフの兄弟」91、「白痴」94)はすぐ手元にあるが、「現代ソビエト文学の世界」(1968.晶文社)は古本で購入した覚えがあるが蔵書に紛れてしまっている。確か非運の死を遂げたロシア文学者の父上についてこの本で触れられていたと記憶している。それに一時定期購読していた「ロシア手帖」のかたまりも狭い家のどこかにあるはずだがやはり見つけ出せない。その他資料として貴重だと思うものは、前回も触れた小沼文彦・江川卓・清水正氏三者の「鼎談ドストエフスキーの現在」(1986.11)(『ドストエフスキー曼荼羅』別冊で清水正氏が復刻、08.1)、と共編著としての「ドストエフスキーの現在」(1985.6、江川卓・亀山郁夫編.JCA出版)である。後著の最後の、亀山郁夫氏の聞き書き(=率直な、江川氏の語りおろし)は、前資料(鼎談)の酒席での中身の濃い放談?とともに、「謎解き」シリーズ刊行前後脂が乗りきった時期、縦横無尽な「江川・ドストエフスキー」が語られていて興味が尽きない内容と言える。しかし中身のその豊富さに比べて、資料的には意外に残された単著が少ないと思える。この点では、江川氏のロシア文学者としての業績は、研究もさることながら70年前後に集中しその後も改訳が続けられた翻訳作品(『罪と罰』66-67その後99-00、『地下室の手記』68、『悪霊』71、『カラマーゾフの兄弟』79、)にその充実した果実をみるべきなのかもしれない。このことは、弟子筋の亀山郁夫氏にも受け継がれていると考えられることだが、結局江川氏の「謎解き」という一見誤解を生みそうな研究スタンスとは、徹底的にロシア語に拘るところから出発していて、実は研究の成果と翻訳の成果とは両者が常に往還しながらの「果実」であったと思えるのだ。先述の名著の岩波新書「ドストエフスキー」で徹底的に語られていることは、ドストエフスキーが小説で使用する<言葉の二重性・多義性>ということだと理解した。「翻訳」という作業、それも「ドストエフスキー」という特別な作家の「翻訳」という作業は、この「謎」を「解く」ことと同義であると江川氏はいつか気がついたのかもしれない。単純に語学的な知識だけからする正確な?「翻訳」では、作家・ドストエフスキの謎は解けないことを思い着いたと言い換えても良いだろう。たぶん「江川卓」というロシア文学者の偉さは、深い次元でそのことを発見したことにあるのだと思う。おそらく芦川、亀山、清水の三氏はもとより、「団塊の世代」以降ドストエフスキー文学を受容したこの時期の読者は、それ以前の先行的翻訳を横にしながら、当時新進気鋭の翻訳者である江川卓氏の「言葉」に導かれて作品を読み直すことが可能になったのだろう。次回ももう少し、江川卓氏にこだわってみたいと思う。    (2008.5.31)





広 場


<受 賞>

日本キリスト教文学会賞
『「罪と罰」における復活』―ドストエフスキイと聖書―
芦川進一著  河合文化教育研究所・河合出版  2007.12.5 定価4500+税

<新刊>

『ドストエフスキー論全集 2:停止した分裂者の覚書』
清水 正著 2008年5月30日 D文学研究会 定価3500円
執筆時19歳、清水正処女評論集を収録

『「カラマーゾフ兄弟」の翻訳をめぐって』
大島一矩著 2008年2月1日 光陽出版社 定価2000+税
以下の翻訳を比較している。
・米川正夫(1891-1965)・中山省三郎(1904-1947)・原久一郎(1890-1971)
・小沼文彦(1916-1998)・江川 卓(1927-2002) ・池田健太郎(1929-1979)
・北垣信行(1918-1981)・箕浦達二(1931-)   ・原 卓也(1930-2004)
・亀山郁夫(1949-)

『日本近代文学の<終焉>とドストエフスキー』
福井勝也著   のべる出版企画 2008.1.10  定価1400



掲 示 板

○報告予定

 目下、亀山新訳もあって『カラマーゾフの兄弟』が多くの若いひとたちに読まれています。これほどにドストエフスキーが注目され、読まれたことは、明治以来なかったと思います。鉄は熱いうちに、ということで、また今年は米川訳80周年に当たることから記念として少し早いですが来年早々『カラマーゾフ』作品に入ります。ブームを反映してか報告者は、現在目白押しです。□長野 正さんが『カラマーゾフの兄弟』第一回を希望しています 2008年2月です。つづいては江原あき子さん、菅原純子さんが希望されています。ということで2009年は、1928年岩波出版から80年を記念してじっくり『カラマーゾフ』に取り組みます。
 なお『未成年』を『カラマーゾフの兄弟』前哨として10月読書会で行いたいと思います。報告を希望される方はお申し出ください。
※2009年は陪審員制度開始の年、作品・『作家の日記』の裁判にも注目してみましょう。
         

○ドストエーフスキイの会発行「ドストエーフスキイ広場No.17」が発売中です。ご希望の方は「読書会通信」編集室まで
 定価1000円 バックナンバーもあります。
○清水 正著『ドストエフスキー鼎談』『ドストエフスキー曼荼羅』は無料です。
○ 付録「2006〜2007年ドストエフスキー書誌一覧」ご希望の方は、お申し出ください。
○ ドストエーフスキイ作品の感想、評論、自著の宣伝、映画、演劇評、自身のドストエフスキー体験など、かまいません原稿をお送りください。下のメールアドレスか〒住所へ。
 「読書会通信」編集室:〒274-0825 船橋市前原西6-1-12-816 下原方

○ 年6回発行の「読書会通信」は、皆様のご支援でつづいております。ご協力くださる方は下記の振込み先によろしくお願いします。(一口千円です)
郵便口座名・「読書会通信」    口座番号・00160-0-48024 
  
2008年4月12日〜6月3日までにカンパくださいました皆様には、この場をかりまして厚くお礼申し上げます。