ドストエーフスキイ全作品を読む会 読書会通信 No.103  発行:2007.8.2


第222回8月読書会のお知らせ

8月読書会は、下記の要領で開きます。大勢の皆様のご参加をお待ちしています。


月 日 : 2007年8月11日(土)
場 所 : 東京芸術劇場小7会議室(池袋西口徒歩3分).03-5391-2111
開 場 : 午後1時30分
開 始 : 午後2時00分 〜 4時50分
作 品 : 『白痴』3回目(最終回)
報告者 : 『白痴』祭り・(フリートーク)
会 費 : 1000円(学生500円)

◎ 終了後は、懇親会(二次会)を開きます。
会 場 : 近くの居酒屋 JR池袋駅西口周辺 
時 間 : 夕5時10分 〜 
   
◎懇親会の後、暑気払いカラオケ大会を開催予定です。ご希望の方は是非!


 今回で『白痴』は、3回目で最終回となります。初回(長谷川研さん)と、二回目(村野和子さん)は、緻密な資料と独自の作品考察による丁寧な報告がなされました。作品には、まだ新しい読み、様々な謎が埋もれていることがわかりました。が、後の作品も控えている、ということで、残念ですが今回3回目を『白痴』の閉めとします。ご了承ください。
 今回は、『白痴』祭りとして「フリートーク」の形で行います。暑気払いにふさわしく賑やかに開催したいと思います。大勢の皆様のご参加をお待ちしています。なお、小レポーター歓迎です。





『白痴』のなかにある謎
   (編集室)
 
 『白痴』を読んでいると、いろいろな謎を感じたり、疑問をもったりします。ここがわからない。いまさら聞けない。そんな謎や疑問を提示して論議しましょう!
 ちなみに読書会通信」編集室では、初歩的ですが前回、村野さんが報告されました点。『白痴』のなかで特に気になる言葉「世界は美によって救われる」あるいは「美は世界を救う?」に今一度焦点をあててみました。

1.「美」とはなにか。ドストエフスキーの作品に登場するものは常に複数意味があります「美」
 については、いくつあるでしょう。
 例えば、直接的な美については、作品で、このように述べているところがあります。
・・・「すばらしい美人ですね!」・・・写真には事実おどろくばかり美しい女の姿が写し出されていた。・・・(米川訳)
・・・「すばらしい美人ですね!」・・・並々ならぬ美貌の婦人の姿が写しだされていた。・・・(木村訳)
・・・三人の中で争う余地のない美人は・・・(米川訳)
・・・三人のなかで争う余地のない美貌は、・・・(木村訳)
・・・一家のなかで文句なしの絶世の美人は・・・(中村訳)
など、「美」を連発している。何ゆえ作者は、こんなにも直接的な「美」を連呼しているのか。

2.「救う」あるいは「救われる」とは、何か。何から救われるのか。何を救うのか。

3.「世界」とは、何か。どこの世界か。

4.作者は、この作品で何がいいたかったか。訴えたかったのか。
 例えば、中村健之介氏は、この作品の全体像をこのように読み解いている。(『ドストエフスキー人物辞典』「白痴」から)
 ・・・美しい獲物が自分の手から逃げ去るのを恐れたロゴージンは、こらえきれなくなって、ナスターシャをナイフで刺し殺し、死体を自分の屋敷の奥に隠す。ムイシュキンは、不幸な女を救うという夢がこわされた衝撃で精神障害が再発し、白痴に戻ってしまう。
 この小説の中心にあるドラマは、美しいものへのあこがれにとりつかれた四人の青年男女の奇妙な恋愛である。そこには、明らかに作者ドストエフスキー自身の内面世界あるいは幻想が反映している。同時にこの小説には、当時のロシア社会が反映している。ドストエフスキーがニコライ・ストラーホフ宛の手紙で「私のファンタスチックな『白痴』は現実ではないでしょうか。わが国の、大地から引き抜かれてしまった社会層には、まさに現在、あのような人物たちが存在するはずなのです」といっているのは、この点を指しているのだろう。この幻想と現実の重なりが、『白痴』という小説の混乱を引き起こしているのであり、・・・。




『白痴』etc・・・


『白痴』のプラン

書簡・回想・覚え書き・『作家の日記』から(ネチャーエワ『写真と記録』中村健之介訳)

1868年2月24日 妹ヴェーラ・イワーノフ宛
 今度の長編は、これまでのどの小説とも比べものにならぬほど私を苦しめている。私は、この小説に、あまりにも大きな期待をかけている。・・・

1877年『作家の日記』
 現代では、高貴な人間をやっつけるろくでなしのほうが、常に力が強い。というのは、ろくでなしは、良識なるものに根ざした威厳ある格好をしているのに対し、高貴な人間はイデアリストの場合によく似ていて、道化の姿をしているからである。

『白痴』のための覚書き
 小説の主要な思想:どれほど多くの力が、どれほど多くの情熱が今の世代に潜んでいるか。しかも彼らは何一つ信じていない・・・

『回想』アンナ
 フョードル・ミハイロヴィチは小説のアイディアに有頂天になってしまうことがよくあった。彼は小説のアイディアを時分の頭の中で長いこと温めているのが好きだった。しかし、それが実際に時分の作品となって現れると、極くまれな例外はあったが、満足がいかないのだった。今も覚えているが、1867年の冬、フョードル・ミハイロヴィチは、当時世間を騒がしたウメーツカヤ裁判の詳報に興味を抱いていた。彼はこの事件にすっかり惹きつけられて、裁判の主役オリガ・ウメーツカヤを時分の新しい長編のヒロインに(最初のプランでは)しようと考えた。それで、小説のヒロインの名は、『創作ノート』では、この苗字になっている。
※ウメーツカヤ裁判 = 両親に虐待された14歳の少女オリガ・ウメーツカヤが自宅に火を放った事件。裁判でオリガは無罪となった。

『白痴』の評判
 この作品は、当時、どのように評されていたのか。手紙などから作品感想を紹介します。

サルティコフ・シチュドリーン(1826−1889)諷刺作家 『現代人」編集者
 構想の深さにおいても、掘り起こして来る精神世界の問題の広さにおいても、この作家はわが国の作家たちの中でまったく群を抜いている。彼は、現代社会を湧き立たせているさまざまな問題にはそれなりの理由があるということを認めている。しかし、そこで留まってはいない。彼はさらに進んで、人類の、目前の目的ではなく、遥か未来の目的であるところのものを予見し予感するという分野にまで踏み入っている。たとえば、この作家が、完全な平等の精神と魂を有する人間のタイプを描き出そうとする試みを見るがよい。その試みが彼の小説『白痴』にある・・・。

1868年3月14日 A・N・マイコフからドストエフスキー宛の手紙
 『白痴』の第一編の後半を読みました・・・印象はこうです、力はものすごくあり、天才的な稲光も所々にある(たとえば白痴が平手打ちをくらうところ、彼の言うこと、その他いろいろ)しかし、全体としては、真実よりありうべき可能性と真実まがいの方が多い。
  どれがと尋ねられるならば、最もリアルな人物は、白痴です(こう言うと奇妙にお思いになるでしょうか?)他の人物たちはみな、いわばファンタスチックな世界に生きています。

 どの人物にも、強烈だがファンタスチックな、なにやら異例な輝きといったものがあります。読んでいるときはすっかり引き込まれてしまいますが、同時に、どうも信じられない、という感じがします・・・しかし、それにしても大変な力です!素晴らしい個所もたくさんあります!白痴は実にいい!

1868年2月26日 A・N・マイコフからドストエフスキー宛の手紙
 大変嬉しいニュースをお知らせ致しましょう。好評です。読者の好奇心をかきたてています。作者自身が体験したさまざまな恐るべき体験の面白さもあります。主人公に与えられている課題の独創性もあります・・・将軍夫人もいい、ナスターシャ・フィリーボヴナは何か力強いものを予感させます。その他諸々のことが、私の話し合った人たちすべての関心を惹きつけています。

1868年3月 N・N・ストラーホフからドストエフスキー宛
 あなたの『白痴』は私個人にとってこれまであなたのお書きになったものすべてよりも、興味深いもののように思われます。まことに素晴らしい思想です!幼な子の心には一目瞭然なのに、賢しらな知恵者たちには分からない知恵、―― あなたの立てた問題を私はそう理解しました。

『植字工の回想するドストエフスキー』M・A・アレクサンドロフ
 ・・・フョードル・ミハイロヴィチはご自分の数ある作品の中で、『白痴』に栄誉ある地位を与えておられたようです。私の手にこの作品をお渡しになりながら、気持をこめて、「読んでみたまえ!これはいい作品だよ・・・ここには何もかもある!」とおっしゃいました。その後、・・・私が『オブローモフ』を大変誉めたときのことですが、フョードル・ミハイロヴィチは『オブローモフ』が優れた作品であることには賛成なさいましたが、私にこう言われました。「ところでね、私の『白痴』も同じくオブローモフなのだよ・・・ただ、私の白痴はゴンチャローフの白痴よりも優れているということだ・・・ゴンチャローフの白痴は、けちくさい。あの人物には町人くさいところがたくさんある。私の白痴は、品格があり、高貴だ」

ドストエフスキーの『白痴』に対する見解

1869年2月26日 N・N・ストラーホフ宛の手紙から(中村訳)
 私は現実(芸術における)というものについて私独自の見解を持っています。大多数の人が、ほとんどファンタジーに近い、異例だと呼ぶものが、私にとっては、時として、現実的なるもののまさに本質をなしていることがあります。さまざまな現象のありふれた面、それらの現象に対する決まりきった見方、それは、私に言わせれば、まだ、リアリズムではないのです。いやむしろ、その反対でさえあるのです。―― 毎日の新聞を見れば、まったく現実的な、そしてまったく奇怪な事実の報道に接します。わが国の作家たちにとって、そうした事実はファンタスチックなのです。そして彼らはそのような事実に取り組もうとしません。しかし、それらは現実なのです。なぜなら事実なのですから。一体誰がそうした事実に注目しそれを解明し、書き留めてくれるのでしょうか?それらは絶え間なく、毎日、起こっているのであって、異例ではないのです。・・・
 果たして、私の『白痴』は現実ではないでしょうか。しかも極めてありふれた現実ではないでしょうか!わが国の、大地から引き抜かれてしまった社会層、それは実際にファンタジーのようなものになりつつありますが、その社会層には、まさに現在、あのような人物たちが存在せねばならぬはずです。しかし、何もくどくどしゃべることは要らないのです。あの小説は、大あわてで書いた所や、だらだらと間延びした所やらがたくさんあって、失敗だったのです。しかし、成功したところも少しはあります。出来上がった小説のことではなく、私の着想を擁護してこう申しているのです。




6・16読書会報告


 6月16日(土)の読書会は、村野和子氏が『白痴』第二回目の報告をしました。参加者は17名でした。二次会は「養老の瀧」13名の出席があり『白痴』談議に夜不忘。

 報告者・村野和子さんは、「世界は美によって救われる」かのテーマでもって「しんじつ美しい人」の解明に迫りました。質疑応答では、「美しい人とは美人か」から「ムイシュキンはキリストか」「女性たちはヒステリー状態なのでは」「カトリック批判では」「「ロシア正教にたいしての美の基準は」「日本人だから違和感がある」「結局宗教を理解できないと・・・」などなど多岐にわたり、熱い論議がありました。
 報告者・村野和子さんは以下の資料を配布、「美」について緻密な発表をされた。紙面の都合で出だし部分を紹介します。ご希望の方は、「読書会通信」編集室まで。


「世界は美によって救われる」か  
村野和子

 『白痴』に込められたドストエフスキーのテーマは、長年胸の中に温められていた「しんじつ美しい人」を描くということであった。そのことは友人マイコフ、姪のソーニャ宛の書簡により周知のこととなっている。その書簡の中で、
 この世にしんじつ美しい人がただ一人あります、キリストです。(1868・1・1)
と明言されている。またこのしんじつ美しい人を描くという試みはセルバンテス、ディッケンズ、ユーゴーなどによってもなされているが、思想の点で完全な成功には至っていない。ここで自分は先人とは違う思想で取り組もうとしているが、決定的な失敗に終わりはしないかと、ひどく恐れているとも語られている。しかしおよそ一年後『白痴』の連載が終わり、作品について期待したほどの公表がえられなかったものの、ストラーホフ宛の書簡には「小生はあの長編そのものでなく、小生の思想を弁護するのです」(1869・2・26)とあり、思想についての自信は変わらぬものとなっていたことが伺える。
 ではどのような思想をもって「しんじつ美しい人」が書かれようとしたのか、「しんじつ美しい人」だけを取り上げて解釈を試みてみた。解釈とはひとつの物語であるということを承知しながら。「しんじつ」については、新潮文庫・木村悟訳のあとがきに「完全に」、「無条件に」の意味にあたるとの説明がある。
1.「しんじつ美しい人」とは
 「しんじつ美しい人」として登場するムイシュキン公爵の語る言葉や行動は、「しんじつ美しい人」についての作者の具体的で直接的な説明である。その行動と語る内容は登場するさまざまな人に強い印象をあたえつつ、徐々にムイシュキン公爵についての理解を深めさせることになる。そして第4篇に至ると「しんじつ美しい人」の真の意味が語られるようになるのである。印象の主なものとして
・アデライーダ「いい人ね。でも、あんまり単純すぎるみたいね」
・アレクサンドラ「度がすぎているはね、少しばかり滑稽なくらい」
・ナスターシャ「あたしが生まれてはじめて信用することのできたたったひとりのかたですもの。あのかたはただ一目見ただけで、あたしを信じて下さったのです。ですから、あたしもあのかたを信じているんですもの。   
・コーリヤ「この世であなたほど賢い人にはまだ出会ったことがない」
・イッポリート「あの人はじつに善良な人です」
・アグラーヤ「高潔の純粋さと、他人に対する無限の信頼という点で、あのかたに匹敵するような人を、生まれてからまだ一度も見たことがありません。・・・どんな人でもその気にさえなれば、難なくあのかたをだますことができますし、あのかたはその相手が誰であろうと、あとでみんなを許しておしまいになるのです。
・エヴゲーニ「・・・あなたはそんな名前をつけられるには、あまりに賢明すぎます。しかし、あなたは普通のひととは言えないほど一風変わっています。・・・こうした事件全体の基礎は・・・生まれつきの世間知らずと・・・並外れて純粋な性質と・・適度という観念の欠如などから成りたっているのです。
・ケレル「・・・しかし、いまは公爵が自分たちみんなを(束にした)より、少なくとも二十倍も高尚な考えを持っておられることがわかりました!なぜなら、あなたは光彩も、富も、名誉すらも必要としないで、ただ一真実だけを求めておられるからです!
 エヴゲーニが語った「並外れて」や「適度という観念の欠如」とは、アグラーヤの印象「無限」にちかい意味があり、他の登場人物の印象も、結局はアグラーヤとケルレルの印象に帰着するのである。ドストエフスキーは「しんじつ美しい人」を、全てがわかったうえで無限の信頼と赦しのできる人と考えていたのではないだろうか。無限の信頼のみで生きるなら、それはただの滑稽な人ドンキ・ホーテにまたは「白痴」になってしまうだろう。しかし裏切りや嫉妬といったものまでをも含む世界の真理を理解したうえで、無限の信頼に寄せられるひととなれば、たった一人キリストその人しかありえない。これがドストエフスキーの「しんじつ美しい人」についての深い理解ではなかったかと思われる。




連載

日本近代文学の<終焉>とドストエフスキー −「ドストエフスキー体験」をめぐる群像−第11回 「三島由紀夫」という問題(1)
                                         福井勝也

 このところ集中的に「三島由紀夫」に関する著作を読んでみている。机の廻りにはかれこれ小説を含めて50冊以上の本が積み上がっている。読書は引き続いていて、少し前まで興味が持てなかった「作家」が不思議と新鮮に甦ってきている。きっかけは昨秋の例会発表「団塊世代とドストエフスキー」で下原敏彦氏が触れた「三島事件」(70.11/25)の内容が気になったからであった。下原氏は発表後の「広場」(16号)でも比較的詳しく「事件」に言及している。この時期のドストエーフスキイの会「会報」(70.12.19)の以下のコメントについても引用している。
 「三島ショックともいうべき混沌たる精神状況の中で1970年も過ぎていきます。ドストエーフスキイ文学を手がかりに問いつめようとしている私達の問題意識の中で、あのようなロマン主義的な政治行動についての評価はどのような形をとってくるのでしょうか」
 この「三島事件」がその後「会」でどのように話題になったか定かではないが、その2年後の「浅間山荘事件」(1972.2)がきっかけとなって全貌が明らかになる「連合赤軍事件」の方が会員の関心もより高かったと記憶している。この間「三島由紀夫」の問題は、真に論ぜられることなく不幸なかたちで忌避され続けてきた。「事件」から今年で37年目、自分の中で今一度考えてしかるべき問題のように思えてきた。そんななかで、下原氏はつい最近までこの事件を語り続ける<私的な>因果を孕み続けて来たことになる。
 今回の発表内容の基礎となった著書『ドストエフスキーを読みながら』(2006.3/鳥影社)の中でも下原氏は何か所かで「三島事件」について言及している。この著作の語り口と同様、「団塊世代とドストエフスキー」における氏の表現については、例会後の傍聴記ですでに自分なりに感想を述べさせていただいた。すなわち、それが単なる世代論を含んだ単なるリポーター的語りとしてではなく、下原氏の「ドストエフスキー体験」と重なるものとして極めて私的でありながらも、あの時代を歴史的に彷彿させる語り口(=文体)によって独特な表現たりえていることについて。そしてその<語り>の特徴的な一例が「三島事件」を語る件であって、それは<殉死>した(いや、下原氏から言えば三島に殺された?)、森田必勝氏への鎮魂の気持ち無くして語りえぬ中身として興味深く語られていた。まず今回は、自分に「三島事件」を振り返えらせるきっかけとなったこの下原氏の言葉を振り返ってみたい。それは、本連載のサブタイトル「ドストエフスキー体験」をめぐる群像の一人として下原敏彦氏を考えることでもある。そしてその後、できれば引き続いて「三島文学」についてドストエフスキーとの関係を含めてもう少し先まで語ってゆきたいと思う。
 「これまであの事件は三島由紀夫ただ一人の事件ように喧伝されてきた。三島由紀夫が有名人ということで、最初から三島事件となっているが、本来なら<市ヶ谷心中、無理心中事件>とでも呼ばれるべきか。−中略−思うに三島事件を不可解なものにしているのは主犯格のみに偏重し過ぎたせいでなかろうか。共犯者の若者にも目を向けるべきだ。本来なら三島・森田事件とよばれてもいいのだ。が、なぜか森田は、捨ておかれてきた。−中略−後年、三島について語る人は多い。書かれた出版物も数しれない。だがしかし、一緒に死んだ若者については皆無に近い。誰がこれまで彼のために一文の論を一言の手向けを呈しただろうか。誰か三島のことを思ったほどに彼の心を思ったものがいたろうか。−中略−なれば鎮魂の思いをこめて、もう一人の死者に光をあててみたい。」
 実は、このもう一人の死者である三島の切腹の介錯を務めた楯の会の学生長、森田必勝こそ筆者下原氏の大学生時代の友人であった。上記引用文のすぐ後に、団塊世代としての「青春」を一緒に過ごした男同士の慎ましやかな友情が静かに語られる。それは、あの喧噪の時代に囲まれていたことが嘘のように感じられるデリケートな文章として綴られている。そして、その後待ちかまえていたのは二人のどちらが辿ってもおかしくない「運命」であった。そこで一人は<特別な死>に遭遇してゆくことになる。そのことを後に知ったもう一人は、到底他人事として語れない言葉でもって、事件を再構成し<物語>として語ってゆくことになる。それは聞きようによっては、到底受け入れられぬ死を語る肉親、例えば兄弟の言葉のようにも聞こえてこないか。(森田氏は幼くして両親と死別していて、年齢の離れた姉兄に育てられた。ちなみに、下原氏は森田氏より学年で一つ下)
 「森田君はなぜ死んだのか。その後の報道によればあのとき森田君は無策な自衛官たちとのこぜりあいで短刀を奪われたとか、三島の介錯を三太刀でなしえず、代役してもらったとか、突き刺した腹に切っ先が浅かったとか。もしそれらが事実ならその躊躇はいったいなんであったろう。もしかして森田君は、死にたくなかったのだ。そんなふうに思えてならない。そう思うと悔しく悲しくなってくる。そうして、あのときの森田君のことをこんなふうに思えるのだ。そうだ、君は二二が四ほどに信じちゃいなかったのだ。たとえ、計画はどうあれ、目的を達することなど到底、不可能ということを。本物の軍隊のただ中で玩具の兵士が刀を振り回す美学の滑稽さ。最後の最後の瞬間まで、そう信じていた。
−中略−君は、刀を振り下ろしながら悟ったに違いない。ああこの人も死ぬ気ではなかったのだ。ただ失敗を機に生まれ変わりたかっただけなのだと。顔面蒼白になって、座している中年の小男。この人の奇異なパフォーマンスは、すべてが助けを求めての信号だったのだ。しかし、今日までその信号に気づく一人の友も、ひとりの家族もいなかったのだ。それを思うと、急にこの小男がかわいそうになった。君は背後に、介錯人の気配を感じながら覚悟した。そうして思った。<まあいいや、三島さん。許してやろう>と。あれから幾歳月、今私はこの文を書きながら突然に思った。ああ、森田君!君こそアリョーシャだ、アリョーシャは君だったと。」(「もう一つの三島事件」/1991.5)
 やや長目に下原氏の表現を引用させていただいた。実はこの文章を最初に読んだ時、不思議な感動を覚えた。それは最後の森田君のことをアリョーシャだと断定する下原氏の直感の言葉に打たれたからだった。そして次ぎに、ここには、紛れもなく下原氏の<ドストエフスキー体験>が顕現しているのだと感じさせられた。実は下原氏の告白によれば、70年の「三島事件」の時点では未だドストエフスキーの作品に巡り合っていなかったという。氏がはじめてドストエフスキーを読むきっかけは、椎名麟三の『重き流れの中に』のあとがきに紹介された処女作『貧しき人びと』に纏わる作家のエピソ−ドであった。その直後に『貧しき人びと』を読むことになる。それは別のところで25歳の時と書いているので、1947年の早生まれの下原氏の年齢から三島事件の2年程後の1972年のはずだ。実は、先程引用の文章の「森田君はなぜ死んだのか。」という言葉で始まるフレーズの直前の言葉が「そのとき私は忘れかけていた森田君のことを再び思い出した。」となっていて、まさに「そのとき」が事件から2年が経過した「ある日、私はドストエフスキーを読んだ。」その日であったことになるのだ。「武蔵野にたそがれが迫っていた。だが私は何もかも忘れて読んだ。そしてふと顔をあげたとき私は一瞬、錯覚したものだ。この本の中が現実で、目の前の風景は夢に過ぎないのだと。そのとき私の中にあったすべてのものが虚像となって崩れ去っていった。」「そのとき私は忘れかけていた森田君のことを再び思い出した。」と文章は繋がっていたのだった。勿論、引用の文章は、その書かれた日付からしてさらに20年以上が経過した後の文章ということになる。この間、下原氏はドストエフスキーを読み続けてきた。その結果として「ああ、森田君!君こそアリョーシャだ、アリョーシャは君だったと。」直感するに到ったことになる。ここでは、下原氏の<ドストエフスキー体験>が「三島事件」、いやそれよりも、三島由紀夫と生死(=「運命」)を伴にした森田君の<記憶>を甦らせたことになっている。正確には、森田君を思い出すことと、ドストエフスキーの作品(=ここでは、処女作『貧しき人びと』)を夢中になって読むこととが同時に下原氏のなかで生起した。最近、新訳が出て話題になった『カラマーゾフの兄弟』(亀山郁夫訳)のエピローグを読み直す機会があった。死んだ少年イリューシャの葬儀の後、アリョーシャは少年たちを前にして「死んだあの子を永遠に憶えておきましょう!」と何度も呼びかける場面がある。少年たちはそれに応えて「永遠に憶えておきましょう!」と声を合わせ「カラマーゾフ万歳!」と叫ぶ。「今私はこの文を書きながら突然に思った。ああ、森田君!君こそアリョーシャだ、アリョーシャは君だったと。」この直感を導いたのは、死んだ少年イリューシャの姿とその彼を記憶し、そして思い出すことの大切さを説いたアリョーシャの言葉ではなかったか。その連想の果てに、下原氏の<ドストエフスキー体験>が凝縮して顕現しているように自分には思えた。
 それでは、下原氏の<ドストエフスキー体験>は、作家三島由紀夫についてはどうイメージさせることになったのか。著書の別のところで、下原氏はこんな風に書いている。
「もしドストエフスキーを読まなかったら、三島由紀夫という作家のことなど永久に考えることもなかったに違いない。私にとってドスト体験以前の三島は時代錯誤な思想を持った、それでいて倒錯した性を感じる何やらグロテスクな薄気味の悪い有名人に他ならなかった。むろんあの事件はその見方を広げただけである。ところが、ドストエフスキー体験で一変した。それまでの作り上げた肉体美を誇らし気に見せるピエロではなかった。そこには絶望の淵に佇む孤独な芸術家がいた。良質の種を持ちながら撒くべき土壌を持てなかった貧しき農夫がいた。瞠若してこのように三島像を感じたとき、やはり三島もドストエフスキーに向かっていたのだ、と想像した。」
しかしながら、下原氏の三島評価は途中で転調し結果的には破調してゆくことになる。しかしその経緯は奇妙なねじれを孕みつつ最期を迎えることになる。
 「ドストエフスキー文学は、あくまでも魂の自由の尊厳にある。にもかかわらず、三島の文学は、太宰同様、人間を追いつめる不自由な文学になってしまったのだ。もはや、ドストエフスキーに通じる道はない。暗たんたる絶望のなかで三島が思いついたことはもう一度人生を元に戻すことだった。金ピカの衣裳を脱ぎ捨てて初心に帰る。三島の好んだ行動学とやらはここから生まれたものかも。そうすれば世間をア然とさせた彼の奇異な生活のすべてが理解できる。三島はドストエフスキーへの旅を目指していたのだ。虚飾を重ねることは彼の言う行動のためのぜんまいを巻くことだった。−中略−そしてあの日、三島はついに巻ききったぜんまいを解き放した。行動ははじまったら止まらない。むろんゆるみきった最終地は計画通り死である。が最終地はもう一点あった。生である。生はドストの門であり、死は文字通り死である。当然彼の選択は生であったはず、それがあの計画のすべてであったのだ。荒唐無稽の発想かもしれないが彼は掣肘されることを信じていた。もしかして銃口から生還したドストのあの茶番を再現する余裕すらあったかも。たとえ、これほどに空想の羽をのばせないにしても切先を脇腹に突き刺す間まで生への望みを捨てなかったと誰が否定できよう。−中略−だがしかしつぎの瞬間、三島の首は落ちた。彼は死を乗り越えて人生をやり直すことはできなかった。」(「三島とドストエフスキー」1987)
 ぜんまいの比喩が大変おもしろいと思った。しかし三島の「ぜんまい」は、実は平岡公威として生まれ落ちたときから<巻き>が開始されていたように考えられる。それがこれ以上巻き切れなくなった日が「決行」の<時>だったのだろう。言えば、それは<逆螺旋の人生>でいつか貯まったエネルギーは「行動」(=死)として発散される「運命」にあったとしか思えない。そこには、下原氏が語る「生」への可能性は残念ながら始めから閉ざされていた。ここでその見方について議論をするつもりはない。むしろ興味深いのは、ここに下原氏の<ドストエフスキー体験>が顔を出していることだ。下原氏にとって、「三島事件」とは、ドストエフスキーの文学と出会ったことによって炙り出される「団塊世代の青春劇」であって、その痛切さが「物語」としての<真実>を担保している。 (2007.7.20)



メディアのドストエフスキー情報
 他 

新聞・朝日新聞「読書 著者に会いたい」欄 2007・7・15 中村文則(26) 

・・・高校生の時に太宰治と出会い、大学でドストエフスキーを知った。
「圧倒された。世の中にこんなものがあるのか、と思いました。あの驚きは大切にしたい」
(新作『最後の命』を書き終えて)
新聞・読売新聞 露宣教師の日記刊行(ニコライ堂建設)2007・7・14
                
 東京・神田駿河台にある「ニコライ堂」を建てたロシア人宣教師ニコライ(1836−1912)の日記約40年分が日本語に全訳された。『宣教師ニコライの全日記』(全9巻)として今月下旬、教文館から刊行される。外国人の視点から明治期の日本をとらえた内容で、日露戦争時の葛藤も赤裸々につづっており、日本の近代史を多面的に研究するための貴重な資料として注目されそうだ。日記は1870年から1911年まで残っており、関東大震災で消失したとされていたが、大妻女子大の中村健之介教授が1979年、ロシアのサンクトペテルブルグの古文書館で発見。日本語への翻訳も進めていた。ニコライは筆まめで、田植えや養蚕、道路事情など当時の風俗を詳しく記した。仏教の花祭りで農民が浴びる甘茶と、ロシア正教の聖水が似ていると感じたり、民家の仏壇にイコンを納められてないかと考えるなど、柔軟に布教に努めたこともうかがえる。1904年に勃発した日露戦争に際しては、〈あなた方の天皇、その勝利のために真心を込めて祈りなさい。祖国を愛するのは当然だ〉(1904年1月25日)と信者に語りかける一方、〈戦争はロシア側の目もあてられない惨敗の連続、おかげで気分は最低〉(6月29日)とも記した。翻訳作業は中村教授が監修を務め、19人の研究者が分担。ロシア語のキリル文字で書かれた人名や地名の漢字表記を特定する作業は、特に苦労したという。中村教授は「布教の実態と、当時の庶民生活を伝える点も貴重」と話している。

明治29年、昇夢は、このニコライ正教神学校に入学した。

ロシア文学者 昇 曙夢(1878-1958)提供者:印鑑工房『愛幸堂」(豊島高士氏)
 ロシア文学研究の先駆者・昇 曙夢の年譜や資料等が親族の方からお借りできましたのでスペースに合わせながら年譜等を順次、紹介します。
(『ロシア文学者昇曙夢&芥川龍之介』和泉書院)
 当時のわが国の文学界の状況を見ると日露戦争を境にしてロシア文学が加速度的な勢いで翻訳、紹介されている。しかし、それらの作品のほとんどは英・独・仏語からの重訳であった。わずかにロシア原文からの直訳は二葉亭の他は瀬沼夏葉等、二、三にすぎない。二葉亭没後、一躍文壇の寵児になった曙夢はそのような時代に答えるかのように寝食を忘れて研鑽する。

明治11年7月17日鹿児島県大島郡実久村芝に生まれる。直隆と命名。
明治28年 夏上京。が、この年ニコライ正教神学校は新入生募集なし。
明治29年9月 正教神学校(7年制)へ入学。
明治35年9月 神学校在学中ドイツ語専修学校に入学、以後2年間ドイツ語およびドイ
        ツ文学を研修。
明治36年7月 正教神学校卒。同時に同校講師に就任。心理学、論理学、倫理学を担当。
        日本新聞社嘱託。      
 明治37年2月、日露戦争始まる。二葉亭四迷をしばしば訪問。
      6月、『露国文豪ゴーゴリ』を処女出版。
 明治38年3月、大阪朝日新聞社の嘱託となり、ロシア事情担当執筆。27歳 

○「曙夢」の呼び方。地元、奄美の人たちは親しさをこめて「しょうむ」と呼んでいましたが、先ごろ「やはり一般呼びにしょう」ということで、「しょむ」に統一したそうです。



2006年のドストエフスキー書誌


提供:【ド翁文庫・佐藤】佐藤徹夫氏から(前号分に追加)

<翻訳>
・『罪と罰』(上) ワイド版 江川卓訳 岩波書店 2007年6月15日 ¥1400
  
<図書>
・『世界あらすじ大事典 4 ふん〜われ』 横山茂雄・石堂藍監修 国書刊行会 2007 ¥18000
   *貧しき人々(盛岡温子) p163-166
・『買い被られた名作 『嵐が丘』『白痴』『復活』『トニオ・クレエゲル』『狭き門』 岡田量一著 彩流社 2007 ¥2200
   *第二章 世にも不幸な男ムイシュキン公爵 ドストエーフスキイ『白痴』
   
・『ロシア文学への扉 作品からロシア世界へ』 金田一真澄編著 慶應義塾大学出版会 2007 ¥2200
   *第2章 19世紀のロシア文学 『罪と罰』(草野慶子) p68-71
・『21世紀 ドストエフスキーがやってくる』 大江健三郎ほか著 集英社 2007.6.10 ¥2500
・『ロシア四季暦』 小宮豊編著 東京書籍 2007.6.11 ¥1600
   *第三章 ロシア文学散歩・「引越し魔」ドストエフスキー p116-119

<逐次刊行物>
・ドストエフスキー・ノート(4) 一八七三年の「作家の日記」(中村健之介)
    「大妻比較文化=大妻女子大学比較文化学部紀要」8(2007.3.1=Spring 2007) p158-138
・対談:私のドストエフスキー(粟津則雄、秋山駿)
    「三田文學」 86(89)=89(2007.5.1=2007 Spring)p118-134


◎桁はずれの大作としては、なんといっても佐藤徹夫編『日本におけるドストエフスキー書誌』を挙げておかねばならない」
(『21世紀ドストエフスキーがやって来る』「さまざまな声のカーニバル」沼野充義から)




土壌雑記  「今週のニュース」から


 7月19日の朝刊一面と各面を見て、一瞬「おっ」と瞠若した人は、おそらく70歳、80歳台の人、「たしか、こんな人がいた」と思うのは60歳前後の人、多分、それ以下の人たちにとっては「この人、だれ?」が大半ではないかと思う。「宮本顕示治元議長死去 98歳戦後の共産党築く」「共産党変身に道筋」(朝日)、「宮本顕治元議長死去 98歳共産党を39年間指導」『闘士ひっそり終幕」(読売)。見出しは仰々しいが、今日を生きる人々の認識としては、やはり「!」「?」その域をでないだろう。戦前戦後の日本共産党の歴史において、華々しい活躍をした人物。一時期、共産党において絶大なカリスマを発揮した人間。だが、時代の流れの中では、やはり「兵どもの夢のあと」の感は拭えない。新聞は社説においても「宮本時代を超えるには」(朝日)、「共産党を支えたカリスマの死」(読売)と取り上げてはいるが、いずれも過去の栄光と褪せた存在感のみ。この先、この人物の名が残るとすれば共産党史と作家宮本百合子の夫ということか。宮本百合子(1899−1951)は、ドストエフスキーの『貧しき人々』に感動して『貧しき人々の群れ』を書いた。1916年、17歳のときだった。天才少女と呼ばれた。が、その後、彼女はプロレタリア文学の道を歩んでいく。ドストエフスキーを読みながら、一つの色に染まる。ドストエフスキー読者としては、大いなる謎である。が、染まることで、この作家は成長した。だが、この作家の名が思い出されるのは、作品ではない。ドストエフスキーを読んだ作家としてだろう。そうして、宮本顕治もまた、彼女以上にドストエフスキーを彷彿する人物になって行くかも。宮本は1933年に逮捕され、45年10月網走刑務所から釈放された。非転向を貫いた、といわれるが、なぜか、そこにシベリアの監獄生活を生き抜いたドストエフスキーを感じる。彼は87年の大韓航空機爆破を北朝鮮の仕業と認め、89年からのソ連・東欧諸国の体制崩壊を「当然のことだ」と表明した。『カラマーゾフ』まで読んでいたら、この夫婦は脱色できたかも知れない。(「土壌通信」75から)




コラム

非凡人とテロ
 
 今、日本には英雄願望が蔓延している。マスメディアに顕現している。連日のように報じられるスポーツ選手や人気知事への異常な熱狂ぶり。時代の寵児といえばそれまでだが、この現象が、もし政治的に利用されたらと思うと心配である。(もっとも、恐怖政治のどさくさで英雄になったナポレオンほどの人間は日本にはいない。が、小英雄がこの国をヒロシマ、ナガサキまで押してきたのも事実だ。そう思うと安心はできない・・・)。
 先般、朝日新聞は、長崎市長射殺事件に衝撃を受けて「テロの正体」を連載していた。戦後60年、民主主義国家として成長してきた日本のなかに、まだ時代錯誤の考えを持った人間が大勢いて、いまも堂々と活動している。長崎市長の銃撃もその一端だという。取材記事に戦慄した。考え方が違う、信じるものが違う。ただそれだけの理由で、他者を傷つけ抹殺しようとする憎むべき犯罪行為。それなのに止むことがない。平和な日本でも、熱心な宗教国でも。なぜテロはつづくのか。この謎を解くには「テロの正体」を見極める必要がある。
 「テロの正体」とは何か、それは私たちの心の中にある英雄願望ではないか。人間は群れ社会の生き物である。常に指導者を求め必要とする。歴史を振り返れば、多くの偉大な指導者、すなわち英雄たちが各時代にその名を連ねているのがわかる。彼らは、いつの時代にも人民の救世主のようにもてはやされて登場する。しかし、彼ら英雄は10人が10人真に立派な人間であったのか、といえば否である。彼らの大半はテロリストであり、大量殺戮者であった。あるときは陰謀で政敵を葬り、あるときは理不尽に戦争を引き起こし、またあるときは人間を家畜のように虐殺した。人間を一人殺せば殺人者だが、100人殺せば英雄になれる。ロシアの文豪ドストエフスキーは名作『罪と罰』において、この問題に悩む若者を描いた。なぜ英雄になりたいのか。誰もが幸福に暮らせる世の中をつくりたい。英雄がよく口にする換言だ。彼にもそんな大義名分があった。彼は英雄になるための手始めとして、くだらない人間、役に立ちそうにない人間を殺してみる計画をたて実行した。はたしてそれは罪だろうか。主人公ラスコーリニコフの躓きは、最初の殺人行為を反問したことにある。しかし、実際の英雄たちは、疑問も自責の念もない。躊躇なく玉座に着き、そうして神のごとくふるまいはじめる。
 この英雄主義は、非凡人、凡人に限らず、誰の心にもある。10年前、神戸で起きた児童連続殺傷事件。犯人が14歳の中学生と報道されたとき、警察署前に集った若者たちが歓声をあげた。少年たちの心の隅に潜んでいた英雄主義が顔をのぞかせた恐ろしい瞬間だった。この英雄主義を助長し、密かに賞賛するのは、残念ながらマスメディアである。たとえば先日亡くなった前大阪府知事死去のメディアの扱いも一種英雄主義が表れたものだった。「漫才・政治、絶頂と転落 寂しい晩年」新聞は、こぞって見出しをつけた。が、記事内容はおおむね芸能界や政治の世界での活躍を讃えるものだった。長時間ワイセツ行為を受けつづけた女子大生の無念は、英雄主義によって吹き飛ばされていた。また、オウム事件や三島事件をみても、メディアや一部識者は、殊更、犯罪の正当化と犯罪者の偉大性を浮き彫りにしょうとしている。国法を犯した者が、優れた人間なら、社会はそれをよしとする立派な行為とする風潮がある。
 靖国神社合祀がその英雄主義の冴えたる表れである。明治、大正、昭和を観察しつづけた志賀直哉は、英雄主義に異を唱えた小説家である。ナポレオンもヒットラーも同じ犯罪者に過ぎない。靖国のA級戦犯もまた同じであると。終戦翌年、小説家は警鐘を鳴らした。200年の後、「どんな歴史家が異をたてて」A級戦犯を「不世出の英雄に祭り上げないとはかぎらぬ」と。が、彼らは半世紀もたたぬうちに合祀された。
 テロの正体である英雄主義。これを根絶すること。それが世界の真の平和への手段である。政府は、愛国心教育をすすめが、それはテロを助長するに他ならない。中東の自爆テロや歴史を振り返れば明らかである。暗澹たる思いだか、希望はある。ドストエフスキーは、『白痴』や最後の作品『カラマーゾフの兄弟』にその思いを託した。世界を救うのは、英雄ではない。非凡人でもない。アリョーシャと少年たちの物語。そこに人類救済の道がある。 (「土壌館通信」72から)




追 悼

惜別 池田晶子氏   後藤基明

 文筆家の池田晶子が去る二月急逝した。まだ四十六歳の若さだった。昨夏の癌手術以来、体調がすぐれず、正月に再入院したという。ご自身の病気については、おくびにも出さなかったので、具合が悪いなどとは全く知らなかった。かくも早く追悼メモリアルを記すとは、夢にも思わなかった。人生は儚く、美人薄命ということか。
 最後の対談集は、「君自身に帰れ」(これは、彼女のいない三月十日発行のもので、最新版は六月三十日発行の「暮らしの哲学」。週刊誌に連載したものだが、各テーマの文章もけっこう長く、これも読み応え充分だ)その対談の115ページでは「私、死ぬのは怖いと思ったことはない。むしろ、つまらない生をいきるほうが怖い(笑い)などと語っていたが。また、「生きるか死ぬかのクライシスになったときに求めるのは、お金でもモノでもなくて、ほんとうの言葉でしょう。言葉がなければ人は生きられない」とも。しかしこうしたことは、彼女の死に方、また生き方などを問う種類のものではない。52ページでは、「このわからない宇宙に、わからない自分が生きて死ぬとはどういうことなのか。このわからなさ、絶対不可解」とも強調している。ここにある21冊の著書から窺われることは、まさにデンケン(思索する)という一語に尽きるといってもいいだろう。例えば、「考えることは、悩むことではない。わからないことを悩むことはできない。それは考えられるべきである」また、「考えるということは、答えを求めるということではない。答えがないことを知って、人がそのものに化すということ。どうしてそうなるか。謎が存在するからだ。謎が謎として存在するから、人は考える、考えつづけることになる。なぜなら謎に答えがあったら、それは謎ではないからだ」そして、「わからないことをわかろうとするためには、なによりもまずそれをわからないという動機が、絶対に不可欠なのだ。さらに「宇宙が存在するのはなぜか。これは全くとんでもない問いじゃないか。人間にはまったくどうしょうもない。全然そんなふうには思いません、という君、なぜ存在しているか分からない宇宙に、君が存在しているなんてことが、なぜとんでもないことじやあないんだ!」と執拗に述べている。彼女の真骨頂は、あくまでもデンケンであることを改めて思い知るところだ。「考える人 オラクル西洋哲学史」(1994年)の表紙の腰巻の書評では、「学術用語によらない日本語で永遠に発生状態にある哲学の姿を損なうことなく語ろうと志した哲学の巫女による大胆な試み」とか、「鋭い直感力と豊かな表現力を兼ね備えた女流哲学者の出現には驚かされる。半ページも読めば眠気が襲ってくる凡百の哲学史の教科書とは、およそ趣きを異にしている」などと記されてある。
 ようするに、哲学とは、大学の教壇でのものではもないし、哲学者の著作を単に学ぶことでもない。前掲書「君自身に帰れ」とは、先ずはなにはともあれ、自分でフィロゾフィーレンしてみたらどうですか、ということだろう。
 最近といっても十五年以上前から、あのハイデッカー研究てせ有名な木田元先生(それまで、有象無象なんとわけのわからないハイデッカー哲学についての解説者たちがいたことか。一方、「最新版21世紀ドストエフスキーがやってきた」のP318先生の文章も参照されたい)から哲学の何たるかを改めて認識を深めていたところ、次いで現れたのが、池田晶子だった。次々と著作を貪るように読み耽ったものだ。
 わかる、分かってもらえる哲学者だと思ったとたんに夭折してしまうとは、返す返すも残念でたまらない。



熊谷元一写真賞コンクール10周年記念企画展

月 日 : 平成19年9月11日(火)〜17日(月)
時 間 : 午前10時〜午後7時(月曜は午後4時まで)
会 場 : 新宿エルタワー28階・ニコンサロンbis  (ニコンプラザ新宿内)
新宿西口・地下道出口A17

 現在、東京都下の清瀬市に住む熊谷元一は、アマチュアながら日本の写真家40人(岩波書店)に列挙される写真家でもある。この7月で98歳になった。が、いまも現役である。熊谷が写真家として認められた一番の業績は、信州の一山村を実に70年にも及ぶ長きにわたり撮り続けたことにある。この間、撮影した写真は約5万点がCDに収録されている。出版された写真集も、多数ある。それらはいまや貴重な記録、時代の証言物となっている。なかでも戦前1938年に朝日新聞社から刊行された『会地村−一農村の写真記録』と戦後1955年に岩波写真文庫から出された『一年生』は、日本写真界の金字塔といっても過言ではない。
 『会地村』は、当時、「アサヒカメラ」に一ページ大の広告が掲載された。それによって「『会地村』は、たんなる一農村の記録にとどまらない評価を次第に得ていく」(矢野敬一著『写真家・熊谷元一とメディアの時代』)熊谷の撮り続けるという手法は、写真技術の進んだドイツでもみられなかったようだ。「この当時、『会地村』は地方翼賛文化運動の高揚に伴ってさまざまな機会に取り上げられていく。熊谷の撮影意図とは別に、ともすれば『会地村』は、「愛郷心」の延長線上にあるとされた「愛国心」と結び付けられて」(上記同著書)いた。一農村写真が愛国教育の手本となる。驚きだが、これだけみても熊谷の写真の奥深さ、幅広さを窺い知ることができる。昨年暮れ教育基本法が改正された。法律によって愛国心教育がすすめられることになる。が、熊谷の写真は、押し付けることなく、義務づけることなく郷土愛を伝えていたのだ。
 熊谷の名がひろく世に知られたのは1955年に毎日新聞社が写真文化の向上を目標に新しく制定した第一回毎日写真賞だった。教え子たちを撮った『一年生 ある小学教師の記録』が第一回毎日賞に輝いたのである。写真批評家飯沢耕太郎は、『日本の写真家17』(岩波書店)において、その快挙をこのように紹介している。「土門拳、木村伊兵衛、林忠彦らの名だたる候補作家を押しのけての受賞は、『一年生』がいかに大きく共感の輪を広げ、読者に新鮮な驚きをもって迎えられたかを示している」。作品は、多くの写真関係者から絶賛された。メディアにおいても「書評はいくつものカメラ雑誌だけではなく、「週刊朝日」「朝日新聞」他のメディアにも掲載された(上記同著書)」とある。写真家としての輝かしい功績。確かに熊谷は写真において、すばらしい仕事をした。貴重な記録を残した。が、熊谷が真に伝えんとしたことは他にある。熊谷のエッセイ集に『三足のわらじ』というのがある。写真家、童画家、そして小学校教師としての自分を顧みた書である。本書で強く印象づけられるのは、熊谷が写真家、童画家である前に教師である、教育者であろう、という思いである。
 熊谷の教師生活は、昭和5年、郷里信州の山村で小学校代用教員としてスタートした。元々画家志望であったというから、一途に教師を目指したわけではない。戦時下、「教員赤化事件」に連座して教職を離れたが、戦後、再び郷里の小学校教員として復帰した。そして写真家、童画家として大成しながらも、定年まで生涯一教師を貫いた。まさに、そこに熊谷が真の教育者だったという証がある。私は、1953年、小学校に入学した。そのときの担任が熊谷だった。
 あれから半世紀が過ぎた。熊谷は、今なお私の担任である。今日、混迷する日本の教育だが、教室で校庭で、通学路において子どもたちをひたすら観察しつづけた熊谷の写真。そこに教育救済への道があるような気がする。いまこそ『一年生』を見てほしい。この9月、岩波書店は再版に踏み切るという。 (土壌館・下原)





掲示板

★報告者歓迎
 2007年もひきつづき大作をとりあげます。レポーターを希望される方は、お申し出ください。10月13日(土)の読書会で報告希望の方は編集室までご連絡ください。

これまでに申し込まれている方は以下の通りです。
○菅原純子さんが『悪霊』
○長野 正さんが『カラマーゾフの兄弟』
 これら作品は2〜4回の報告を計画しています。奮ってご希望のお申し込みください。

★『広場』販売
○ドストエーフスキイの会の最新会誌「ドストエーフスキイ広場No.16」が刊行されました。ご希望の方は「読書会通信」編集室まで 定価1200円 バックナンバーもあります。



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2007年6月16日〜8月10日までにカンパくださいました皆様には、この場をかりまして厚くお礼申し上げます。

ドストエーフスキイ作品の感想、評論、自著の宣伝、映画、演劇評、自身のドストエフスキー体験など、かまいません原稿をお送りください。

「読書会通信」編集室:〒274-0825 船橋市前原西6-1-12-816 下原方